第5話 銀狼

 1


 一行は、クラースクを出発し、テッサラ氏族の集落に向かった。

 テッサラ氏族はジャミーンである。

 ジャミーンは猿のような姿をした小柄な亜人だ。

 成人しても、人の十二、三歳ぐらいの身長にしかならない。

 彼らは森に住み、森を知り尽くしている。

 人間は、森ではけっして彼らに勝てない。

 ふつうジャミーンは人から離れて住むが、テッサラ氏族の居留地はエグゼラ大領主領にごく近い。

 クラースクがあるのがエグゼラ大領主領の北端であり、テッサラ氏族の集落があるのがエグゼラ大領主領の真東である。

 樹上の気配に注意をしながら、テッサラ氏族の集落に近づいていった。


 いる。


 バルドは一行の足を止めさせた。

 森の中、バルド、ゴドン、カーズ、タランカ、クインタ、そしてカーラが馬に乗って立ち止まり、樹上を見上げている。


 いる。

 定かには見えないが、気配がある。

 バルドは大声を上げた。


  わしはバルド・ローエン。

  イエミテ殿に会いたい。


 返事はない。

 だが、樹上の気配が増えた。

 一人、また一人と集まって来ているのを感じる。

 バルドはもう一度大声を上げた。


  わしはバルド・ローエン。

  イエミテ殿に会いたい。


 きいきい、きいきいと、甲高い声を交わし合っている。

 縄張りの入り口で立ち止まったままのこの一行をどう扱うかもめているのだろう。

 普通のジャミーンは人間の言葉を理解しない。

 しかし、イエミテという言葉が聞き取れたはずだ。


  イエミテ殿は、おられぬか。

  イエミテ殿は、おられぬか。


 バルドはさらに呼び掛けた。

 そして馬を動かさず、馬から下りることもしないで、ずっと待った。

 どれほど待ったろうか。

 一つの気配がするすると大樹を降りてきて、とん、と地に立った。

 大柄なジャミーンだ。

 ジャミーンの勇者イエミテである。


「青豹の霊獣を倒した人間ではないか。

 勇士よ。

 何の用があって来た」


 バルドは、ユエイタンから降りて、そのまま地にあぐらをかいて座った。

 イエミテがその前に進んできた。

 座ったバルドの頭の高さは、立ったままのイエミテの頭より、わずかに低い。

 バルドは振り返って一行を手で招いた。

 ゴドン始め一同も馬から降り、バルドを中心に弧を描いて座った。

 バルドは言った。


 しばらくじゃのう、イエミテ殿。

 わしはバルド・ローエン。

 七年前にもここに来た。

 イエミテ殿。

 そなたに話して意見を聞きたいことができた。

 五年前のことじゃ。

 オーヴァ川の西に八百匹以上の魔獣が現れ、人間の国々に襲い掛かった。


「何だとっ」


 人間からすれば金切り声に聞こえるような甲高い声で、イエミテは叫んだ。

 そしてバルドたちに対面して座ると、


「話を聞こう」


 と言った。

 その姿は小さいが、威厳と静かな覇気にあふれていた。


 バルドは、コルポス砦が魔獣の群れに襲われた時点から話を起こし、順番に出来事を説明していった。

 そして、マヌーノの女王を訪ねてどんな対話をしたかを述べた。

 次に、ザリアから聞いた話をした。

 そして最後に、霧の谷を訪れて〈大地に根を張る者〉であるモウラと行った対話について語った。


「バルド・ローエン。

 久しく途絶えていた、精霊の真実を知る人間よ。

 お前を迎えることができて、俺はうれしい。

 だがお前の話は驚くべきことで、よく分からん部分も多い。

 順番に話をしよう」


 そしてジャミーンの勇者イエミテは語り始めた。

 声の高さは声変わりしていない子どものように高い。

 だが話しぶりには叡智と年輪が感じられる。

 そんな声で、イエミテは語った。


 2


 俺たちジャミーンは、〈青石イェルゴーグ〉と〈赤石ロロゴーグ〉を持っている。

 これは、偉大な人間の王が特別に与えてくれたものであって、ほかの種族には与えられなかったのだ。

 なぜかといえば、ジャミーンは精霊を信仰していたからだ。

 だから〈大障壁〉が出来て、精霊が遠ざけられることになったのち、俺たちの父祖は偉大なる王に頼んだのだ。

 自分たちの手元に精霊が引き寄せられるようにしてほしい、精霊がもとの清浄な精霊に戻ったとき、いち早くそれを知ることができるように。

 遠い未来で精霊が本来の姿に立ち戻るのを監視する役目を、われらジャミーンが引き受けましょうと。

 偉大なる王はこの請願を聞き入れた。

 俺たちには、〈青石〉と〈赤石〉が与えられた。

 失われることがないよう、それは部族ごとに管理することになった。

 〈赤石〉は、最も失われにくい場所に、つまり各部族の祖先の霊廟に埋められた。

 だからこの場所に引き寄せられて精霊は生まれ、獣に取り憑いて精霊獣となる。

 人間たちのいう〈魔獣〉だ。

 気の荒く力のつよい特別な獣であり、古き精霊の宿る獣だ。

 俺たちはその一頭ずつを〈霊獣〉と呼んで敬い、手元に置いた。

 霊獣に宿る古き精霊が、少しでも早く狂いから目覚めて元の清浄な姿に戻るよう祈りながら。

 霊獣としない精霊獣は、人と争わずにすむように、辺境の奥地に導いた。


 良き清浄な精霊たちがルジュラ=ティアントたちのもとに生き残っていたというのは、実によい知らせだ。

 ただちに他の部族にも知らせることにする。

 マヌーノを操ってたくさんの魔獣を生み出させ、しかも人間を襲わせたというのは、許しがたい話だ。

 だが竜人については、俺たちはあまり知らない。

 知っているとすれば、ゲルカストだろう。


 その昔、竜人たちは、この地のあまたの種族の上に君臨していた。

 やつらは他の種族がまったく抵抗できないほど強力だった。

 やつらは飛竜イェント・ナーダを操る力と、にらみつけただけで敵を身動きできなくさせる不思議な力を持っていたという。

 やつらは他の種族を空の高みから見下ろし、おもしろ半分に命令を下し、そして食らった。

 俺たちは、いつ食われるかとびくびくしながら、空を行くやつらを見上げていたのだ。

 抵抗したり反抗しようものなら、部族のことごとくが八つ裂きにされた。

 そんなやつらと唯一対等に近い付き合いができたのが、ゲルカストだ。

 ゲルカストの強さには、やつらも敬意を払わずにはいられなかったのだな。

 そしてゲルカストには、やつらの不思議な力も通じなかった。

 やつらは今はこの地にいない。

 俺たちに命令したり、俺たちを食べることもない。

 やつらは偉大なる王に追い払われてしまったのだ。

 だが今やつらがどこにいて何をしているか、俺たちの部族には伝わっていない。

 ゲルカストに尋ねなくてはならん。


 バルド・ローエン。

 あの〈見つけたぞ〉という声は、俺たちも聞いた。

 お前も聞いたのだな。

 そして理解した。

 俺も聞いた。

 そして理解した。

 それだけではない。

 部族の者たちで人間の言葉を知らない者たちも、あの言葉を聞き、そして理解したのだ。

 どういうことなのだろうかと、ずっと考えていたのだ。

 あの言葉は人間の言葉で発せられたが、他の種族の言葉でも発せられていたのだ。

 それが重なり合う葉っぱのように一つの言葉となり、みなの頭の中に響いたのだ。

 たぶんこの大陸中のあらゆる種族の者の頭の中に。

 これは尋常なことではない。

 あの言葉を発した者は、とてつもない力を、そして知識を持っている。


 バルド・ローエン。

 お前の旅に俺もついて行きたいところだが、ジャミーンを連れて人間の世界を旅すれば、面倒事も起きるだろう。

 だから俺はここでお前の知らせを待つことにする。

 ジャミーンの者たちすべてにお前の名を教えておく。

 今後、お前とお前の連れて来る人間は、いつでもジャミーンの居住地に入ることができる。


 3


 氏族の祖先の霊廟に〈赤石〉を埋めたという話を聞いて、なるほどとバルドはふに落ちるものがあった。

 ジャミーンは人間を嫌う。

 人間の住む場所の近くに住むことを嫌う。

 こんなに人間の集落と近い場所に集落を作っているのは不思議だったのだ。

 だが、祖先の霊廟に〈赤石〉を埋めたということは、そこを古き精霊のよみがえる聖地とした、ということだ。

 であれば、二重の意味でそこは動かしがたい。

 人間の住む場所が広がって、だんだん自分たちの集落に近づいたときも、移動しようがなかったのだ。


 そこでふとバルドは、あることを思い出した。

 ピネン老人のことだ。

 イエミテは、ピネン老人のことを知っていた。

 自分たちはピネン老人に恩義があると言っていた。

 そしてピネン老人のことを〈賢人オーラ〉ピネンと呼んでいたのだ。


 バルドはイエミテに、ピネン老人がフューザリオンにいることを説明した。

 孫にした青年とともに、医師として人々を助け支え、生き生きと生活していることを説明した。

 イエミテはそれを聞いて大変喜んだが、バルドが水を向けても、なぜ彼を〈賢人オーラ〉と呼ぶのかは話さなかった。

 沈黙の誓いに関わることなのだろうか。

 バルドもそれ以上は訊かなかった。


 イエミテは、バルドにゲルカストに会いにいくよう勧めた。

 オーヴァ川の東側、大陸東部辺境のずっと南のほうにあるゲルカストの集落に行ってはどうかというのだ。

 バルドは、オーヴァの西にあるゾイ氏族の集落に行きたいと言った。

 ゾイ氏族の族長と族長代理とは友人であると言うと、イエミテは驚いた。


「ゾイ氏族は大族だ。

 しかも古い古い氏族だ。

 なるほど、ゾイ氏族から話を聞けるなら一番いい。

 それにしても、バルド・ローエン。

 ゲルカストを友とするとは。

 お前は面白い男だ」


 一行はイエミテに別れを告げ、旅を続けた。

 その夜、食事をしているとき、クインタがカーズに話し掛けた。


「カーズ様。

 あのイエミテというジャミーンの戦士、手練れでしたね。

 草や葉の上を歩いても、体重を感じさせませんでしたし、立ったり座ったりする動きも柔らかな風のようでした」


「矢尻に気付いたか?」


「矢尻?」


 イエミテは、大陸東部辺境のずっと南のほうにあるゲルカストの集落の場所を教えるのに、背中の矢筒から矢を抜いて、地に図を描いて指し示した。

 そのときの矢に付いていた矢尻のことだろう。

 だがクインタは矢尻になど注意していなかったので、カーズが何を言おうとしているのか分からなかった。


「あれは魔獣の骨から削りだしたものだ。

 あの弓も普通の物ではない。

 俺に呼吸を計らせなかった。

 あの男は強いぞ」


 カーズの言葉に、クインタは力強くうなずいた。

 世にはあまたの強者がある。

 クインタの目指す先ははるかかなただ。


 愛馬ユエイタンの背に揺られながら、バルドは考えていた。

 竜人は飛竜を操り、その背に乗って大陸を支配していたという、イエミテの話についてだ。

 パクラにいたころから、時々飛竜はみかけた。

 たいていははるか高空を飛んでいくから、それが飛竜であるという以上のことは分からない。

 だが一度。

 バルドが若いころに一度だけ。

 高い山の頂から飛竜をみかけたことがある。

 相当距離があったからはっきりしないが、その背に何かを乗せていたように思えた。

 それは竜人だったのだろうか。

 もしも。

 もしもあれらの飛竜すべてが、竜人を乗せていたのだとしたら、どうか。

 竜人たちは、バルドが予想したよりはるかに頻繁に人の世界に出入りしていたのかもしれない。

 どこに行って何をしていたのだろうか。


 4


 さて、ではここからどう進むか。

 オーヴァを渡らなければならないのだから、選択肢は二つである。

 北に進んでヒマヤから渡るか、あるいは南に進んでリンツから渡るかである。

 たぶん距離はどちらでもそう変わらない。


 バルドは、リンツを目指すことにした。

 リンツ伯の顔を見たいという理由が一つ。

 そしてもう一つは、月魚の沢に行きたかったからである。


 バルドは、パルザムの王都に滞在していたとき、一つ思っていたことがあった。

 魚の味についてである。

 王都ではカムラーの料理を堪能した。

 それは想像もできないほど素晴らしい料理の数々だった。

 ただ。

 ただ、である。

 魚料理についてだけは、食べ慣れるうちに一つの不満があった。

 非常に料理の味はよいのだが、素材の新鮮さが足りないのである。

 新鮮な魚の、新鮮なうまみ。

 これは王都では得られないものだったのである。

 川は流れているが、膨大な人口を養う用途に使われている。

 あちこちで井戸もあるが、それでも水は不足しがちである。

 うまい魚の獲れる大河はいささか遠いのである。

 その新鮮な魚のうまさの代表として何度も思い出したのが、月魚である。

 食べたそのときは、珍味として大いに楽しんだ。

 だがあとになってみて、あれこそが新鮮な魚のうまさの極致ではないかと、何度も振り返ったのである。

 むろん、フューザリオンでは魚は新鮮でうまい。

 だが、月魚の味は、また格別なのである。

 月魚の沢は、エグゼラ大領主領の南の端にある。

 バルドたちは人里を避けながら月魚の沢のある村に向かった。


 5


 村に着いたバルドたちは、まず酒屋に寄った。

 そこでプラン酒の澄まし酒を買おうとしたのだ。

 酒屋の亭主はバルドとゴドンのことを覚えていた。


「ありゃあ、旦那さん。

 ようこそまあお越しで。

 この前おみえになってから、はあ七、八年にもなりますかなあ。

 お元気そうなことで、何よりじゃ」


 バルドもあいさつを返し、沢の店の女将おかみは元気か、と尋ねた。


「死にましたけん。

 もう五年から前んなります」


「おおう!

 それは残念じゃ。

 女将の気のいい話が聞けるのを、楽しみにしておったのだがのう」


 とゴドンが嘆く。

 バルドも驚いた。

 女将は元気一杯で、まだまだ長生きしそうにみえたのだ。

 だが寿命というのは分からないものだ。

 今ごろは先に死んだ夫のもとに行って、仲よくしているのだろう。

 ところで、女将が死んだとすると、今は月魚は誰が食わせてくれるのか。


「それがもう、おえんのです。

 あの沢はホジャタいう商人が見張り人を置いとりまして。

 わしらが上がっていくと、沢が荒れるゆうて、乱暴なことをしよるんです。

 村長がホジャタに、あの沢の権利を売ったゆうことなんですけえどなあ」


 バルドたちは村長の家を訪ねた。


「これはこれは、騎士様がた。

 よくこそおみえでございます。

 バルド様、ゴドン様には、その折には本当にお世話になりました。

 ささ。

 粗茶でございますが、どうぞお召し上がりください」


「はっはっは。

 村長も息災そうで何よりじゃ。

 おお!

 うまい茶じゃのう。

 ところで村長。

 今、沢はホジャタとかいう商人が仕切っておるらしいのう。

 もう月魚は食えんのか」


「いや、それが、ゴドン様。

 とんだくわせ者の商人でしてな。

 女将を弔ってくれた恩義もありましたから、トーガを採ることを許したのです。

 そのとき、女将やその夫には、この村にトーガを売るよう約定を交わしたということは、確かに説明したのです。

 ところが商人は、採取したトーガをこの村には納めず、たるに詰めて遠くに持って行って売りさばいているのです。

 苦情を言うと、前の人間がそうしていたことは聞いたが、自分もそうするとは約束しなかった、と。

 しかし前と同じようにするのは当たり前のことではないですかな」


 そのホジャタという商人に掛け合えば、月魚は食わせてもらえるだろうか、とバルドは訊いた。


「いえ、無理でしょう。

 沢に人が入ると、水が汚れたり、トーガの根を踏み荒らしたりするというので、誰も近づけようとせんのです。

 ホジャタ自身は二か月か三か月に一度馬車でやって来て、いくつもの樽に一杯トーガを詰め込んでいくのですがな。

 番人を沢に住まわせておりまして、これがどうにも大変な乱暴者なのです。

 近づく者はいきなり突き飛ばして追い返すのでして、話にも何にもなりはしません。

 やれやれ。

 確かによいトーガではありますが、あんなにたくさん持ち出して、いったいどうしていることやら」


 あの沢には女将のほかにも何世帯かの家族が住んでいたが、それはどうなったのか、とバルドは訊いた。


「追い出されました。

 小金を渡されて」


 この山の沢で採れるトーガは、とても鮮烈でよい味をしている。

 前に食べたことがあるから、バルドはよく覚えていた。

 トーガというのは清涼な気候で澄んだ水が豊かな場所にしか生えない。

 辺境ならではの香辛料といってよい。

 そしてトーガは、辺境で食べるぶんには辛くてさっぱりしたよい薬味ではあるが、その価値は野草とさして変わらない。

 ところがこれを大陸中央に運べば、珍奇な香辛料としてその値は千倍にも膨れあがる。

 バルドはパルザムの王都でさまざまな香辛料に出合ったが、聞いてみればそれらは遠い異国から届けられるものがほとんどで、ひどく高価なものなのだ。

 その高価な香辛料を都の貴族は惜しげもなく使う。

 トーガも、大した品質でもないものが、恐ろしい高値で売買されていた。

 バルドは価値観の違いに大いに驚いたものだ。

 この村のトーガをオーヴァの向こうに運んで売りさばいたら、いったいどれほどに値になることか。

 それを話したら、この村長は目を回して倒れるだろう。


「村長ーーー!

 村長はいるかーーーっ。

 魔獣だ。

 魔獣が出たーー!」


 けたたましい騒ぎ声がする。

 何かが起きたようだ。


 6


 なんと、やって来たのは噂の商人ホジャタその人だった。

 ホジャタは許しも得ず、ずかずかと家の中に入り込んで来た。

 うるさく騒ぎながら。

 そしてバルドたちの存在に気が付いた。

 とたんに尊大な目つきを卑屈なそれへと変えた。


「こ、これは、騎士様がた。

 おいでとは存ぜず、無礼をいたしました。

 お許しを。

 へへへ。

 まことに失礼をしますが、村長をしばらくお借りしますです。

 一刻を争う大事でございましてな。

 村長。

 こちらに」


 と言い、村長を連れ出した。

 外にはバルドたちの馬が停めてある。

 入って来たとき、それには気付かなかったようだ。

 商人としては、いささか目端が利かなすぎる。

 また、村長を借りると言いながら、こちらの反応も確かめずに連れ出すのも、あまりうまくないやり方だ。

 尊大な態度から卑屈な態度への切り替えも、小者臭さが充満している。

 要するに、大した商人ではない。

 ごろつき同然の商人だ。

 だが、そういう手合いは厄介である場合もある。


 家の外でホジャタと村長が話をしている。

 大声なので、内容は筒抜けだ。

 商人は、魔獣が出たからすぐに領主様に兵を派遣してもらってくれ、と騒ぐばかりだ。

 事情が分からねばそれはできませんと村長が返し、事情を聞いていった。


 ホジャタは山の上がり口に馬車を置いて、馬を外し、沢に登って行った。

 馬車では山道を通れないからである。

 一行はホジャタと、護衛の剣士が一人と、人足が二人。

 二頭の馬に空樽を積んで行った。

 沢には番人がいて、一行を迎えてくれた。

 いざトーガを収穫しようとすると、巨大な狼の魔獣が出た。

 魔獣はうなり声を上げて襲い掛かってきた。

 護衛が食い止めているあいだにホジャタは馬に飛び乗って逃げてきたというのだ。


「話は聞かせてもらった!」


 戸を開けて大声を出したのはゴドン・ザルコスである。


「魔獣が出たというのが本当なら一大事っ。

 すぐにこの村も襲われるかもしれん。

 領主にはすぐに使いを出したほうがよいが、それだけでは間に合うまい。

 ちょうどこの場に居あわせたのも何かの縁。

 わしらが沢に行ってみよう」


 例によってゴドンの先走りである。

 年を取って落ち着いてきたようにみえるが、やはりこういうところは変わっていない。

 が、これは具合がよい。

 本当に魔獣なら、田舎領主の兵では大被害が出るかもしれない。

 それ以上に、魔獣の正体を知ってしまった今は、殺さずに魔獣を魔獣でなくできるのか、試してみたい。

 この古代剣があれば、それは可能であるらしい。

 まずバルドが現場に行って、その魔獣とやらの正体を見定め、それを試してみなければならない。

 これほど直截なゴドンの申し出を、商人ホジャタも断れないだろう。


「そ、そうしてくださるなら、まことにありがとうございます。

 なんとお優しいお武家様」


 ゴドンを拝み始めたホジャタに、バルドは訊いた。

 それは確かに魔獣じゃったか。

 その目は赤く輝いていたか、と。

 ホジャタは、間違いなく魔獣でございました、目は赤く輝いておりました、恐ろしいほどの大きさの狼で、あれは魔獣以外などではあり得ません、と答えた。


 ゴドンとバルドが商人ホジャタと話しているあいだ、タランカは村長と言葉を交わしていた。

 村長は、馬で領主の館がある街まで走るという。

 バルドたち一行は、馬に乗って沢の登り口に向かった。

 ホジャタがついてきた。

 馬を外した馬車の所まで戻るのだという。

 財産の近くにいないと落ち着かないのだろう。

 一人の下人が馬車の守をしていた。

 ホジャタに見送られて、一行は沢に向かって山道を登って行った。


 7


 バルドは、どきどきするような、わくわくするような、不思議な胸の高鳴りを覚えていた。

 魔獣だ。

 久々に、魔獣と相対する。

 かつてバルドにとって魔獣とは、遭えば必ず殺さねばならないものだった。

 魔獣を殺さないということは、その魔獣に人々が殺されるのを見逃すことだったからである。

 だが、精霊と魔獣の真実を知った今は、できれば魔獣を殺したくない。


 この古代剣こそは。

 この〈神竜の宿る剣シャントラ・メギエリオン〉こそは。

 魔獣を殺さずに魔獣でなくすことのできる秘宝だった。

 ロードヴァン城に迫り来る二百匹の川熊の魔獣を、この剣はたった一度の攻撃で解放した。

 あのとき二百匹の魔獣から精霊が解き放たれ、魔獣は魔獣でなくなったのだ。

 そうではないかと思っていたが、〈大地に根を張る者〉となったモウラは言った。


 あなたがあのとき解き放った精霊たちは、確かにいっとき正気に戻った。

 その喜びの声を、ぼくは確かに聞いたんだ。


 ああ!

 それは何たる希望か。

 魔獣と相争わず、精霊を解放し、しかも正気に戻すことができるとは。

 それを確かめる機会を、バルドはずっと待っていた。

 これはその最初の機会なのだ。

 本当に魔獣から精霊を解放できるのか。

 この剣で。

 いや、できるはずだ。

 それを確かめる最初の機会に、バルドの胸は、どきどきと高鳴っている。


 ただし精霊を解放したとしても、取り憑かれていた狼は殺さねばならない。

 護衛の剣士と二人の人足、そして番人の男は、殺されてしまっただろう。

 しかもたぶん、食われた。

 それでなければホジャタが無事に逃げ切れたわけがない。

 素人が荷物運び用の馬で山道を駆け下りるのだ。

 狼の魔獣にとっては、追いついて殺すことなど雑作もないことだったはずだ。

 だから狼の魔獣が剣士や人足や番人を食っているあいだにホジャタは逃げられた、と考えるほかない。

 精霊を解放したとして、そこに残るのは人食いの味を覚えた狼だ。

 逃がすわけにはいかない。


 8


 上から下りて来る者がいる。

 二人だ。

 人足のような格好をしている。

 ゴドンが、ホジャタの使用人か、と声を掛けると、そうでございます、という返事だった。


「おおっ。

 無事でよかったわい。

 狼の魔獣に襲われたということだったが、みればけがもない様子。

 運がよかったのう」


 護衛の剣士はどうなったかと訊けば、狼に襲われて傷ついたものの、命に別条はない。

 動かせないので沢の小屋で番人と一緒に残っているという。

 狼の魔獣のいる場所に二人を残して来たのかと訊けば、魔獣はホジャタが逃げてしまうとすぐに姿を消したということだった。

 一行は沢に登っていった。


 女将の家があった場所には、見慣れないこぎれいな建物が建っていた。

 たぶんこれは領主が建てたものだ。

 女将の家の下には盗賊団の隠し金が眠っていたということで、バルドが旅立ったすぐあと、床板の下を調べたはずだ。

 結局家を取り壊すことになって、領主がつぐないとしてこれを女将に建ててやったのではないか、とバルドはふんだ。

 バルドたちが近づくと、番人らしき男が出て来た。

 薄汚い格好をして、ひどく毛深い。

 髪やひげはもじゃもじゃともつれ合っている。

 野人か、と思うような男だ。


「おお。

 お前が番人か。

 無事なようで何より。

 けがをした剣士というのは、中か?」


「あ、ああ」


「では、ちと失礼するぞ」


 家の中には剣士がいた。

 ゴドンがあいさつをして名乗ると、あいさつと名乗りを返してきた。

 タルサという名だ。

 バルドは、おや、と思った。

 物腰や目の光が、そこらのごろつきとは違う。

 剣も古びてはいるが立派なものだ。

 もしや騎士ではないのか、と思った。

 しかし相手が家名を名乗らなかったのだから、こちらとしても、それ以上訊くべきではないだろう。

 ゴドンも何か感じるところがあったのか、士分扱いした物の言い方をしている。


 なるほど足をけがしているが、その手当はひどくぞんざいだ。

 さっそくカーラが手当を始めた。


「タルサ殿。

 狼の魔獣に襲われたということじゃったが」


「いや、ザルコス卿。

 あれは魔獣ではないな。

 確かに体はとてつもなく大きく、恐ろしい相手だったが、魔獣ではない」


「相手は一匹だけじゃったのか。

 それと、ゴドンでよい」


「うむ、ゴドン殿。

 一匹だけだった。

 ホジャタが人足どもに命じて、沢のトーガを採ろうとしたら、急に現れたのだ。

 恥ずかしいことだが、それまで全然気配を感じることができなかった。

 驚いた人足どもは腰を抜かしてしまった。

 ホジャタは小屋に逃げ込んだ。

 わしは沢のこちら側で狼と向き合っていたのだが、狼はふいと顔をそらし、立ち去った」


「なに?

 何もせずにかの」


「そうだ。

 それでそのことをホジャタに伝えると、すっかり元気を取り戻し、人足どもをせきたててトーガを採ろうとした。

 するとまたやつが現れたのだ。

 狼が襲って来ないとみると、ホジャタは気が大きくなったのか、人足どもを杖でなぐってせかせた。

 狼が険しい表情をして唸り声を上げたので、またもホジャタは逃げ腰になったが、狼は襲っては来なかった。

 人足たちがトーガを採ろうとしないので、ホジャタは業を煮やし、自分でトーガを採ろうとした。

 そのとき、狼は突然襲い掛かってきた。

 わしはホジャタの前に出て剣で狼の首筋を狙った。

 ところが驚いたことに、狼は首をひねって剣をかわし、わしの右足にかみついたのだ。

 飛び掛かられたわしはあおむけに倒れ込んだ。

 狼のやつは、わしの右手を踏みつけて剣を封じ、ホジャタに向かって吠えた。

 いやいや。

 そのあとのホジャタの逃げっぷりは、見事のひと言だったな。

 馬に乗って逃げるホジャタを見送ったあと、やつはわしの上から下り、そのまま山の奥に消えた」


「はい。

 これでいいわ。

 思ったより傷は深くなかった。

 でも二、三日はあまり歩かないほうがいいわね」


 と、手当をしていたカーラが言った。

 タルサは、


「かたじけない、カーラ殿」


 と礼を言った。


 9


 バルドは気抜けがしていた。

 魔獣ではなかった。

 しかも、結局誰一人殺していないどころか、大けがさえさせていない。

 脅かしただけだ。

 だが、狼の振る舞いはひどく奇妙だ。

 自分の縄張りを守るためにホジャタたちを威嚇した、というのでもないようだ。

 トーガを採ろうとしたらえ掛かった、というのがよく分からない。

 ホジャタがトーガを採り始めたのは五年前だったというから、狼がここを縄張りとしていたというのなら、そのときから襲われなくては話が合わない。

 いや、五年前までは女将がトーガを採っていたのだ。

 結局のところ、この沢が狼の縄張りだったということはなかったはずだ。


 バルドは、一行を引き連れて山を下りることにした。

 沢に着いたころはもう夕方で、話をしているうちに日は落ちていた。

 だが狭い小屋にこの人数で泊まるわけにもいかない。

 またバルドたちが泊まれば、乏しいであろう食料を提供させるはめになる。


 小屋を出たバルドは沢に足を運んだ。

 宵闇の天空に現れた姉の月スーラに照らされ、きらきらとさざめく光の群れが、水面に踊っている。

 月魚だ。

 いっそ自分で獲って食うか。

 とも思ったが、手際が悪ければ月魚の味は損なわれる。

 とてもあの女将のようにはいかない。

 とすれば、うまかった記憶をかき消さないために、今回は食べないほうがよい。


 山を下りかけてしばらくして、妹の月サーリエが空に現れた。

 〈あとから来た者〉という別称にふさわしく、サーリエはスーラを追うように現れることが多い。

 だがたいていは、姉と出会うことができず、せかせかと銀の馬車で銀河を横切って地平に消えてしまう。

 いつぞや月魚を食べた夜は、二つの月が重なり合う〈合〉の日であり、月魚のうまさに格別の風情を加えたものだった。


 二つの月に照らされて、山道は明るい。

 もともとこの山は樹影が濃くない。

 木々の背丈は低く、沢や草むらがうねりながら続いているのだ。

 麓のほうにいくと樹木が密集して生えているのだが。

 月明かりに浮かぶ風景は、ひどく浮世離れしている。


 カーズが馬を止めた。

 おや、と思ってカーズを見ると、剣を抜いている。

 クインタも剣を抜いて、目の前の茂みをにらんでいる。

 その茂みから現れたものがある。


 耳長狼だ。

 だが、何という巨体。

 耳長狼というのは、そう大きな獣ではない。

 人の膝上から腰程度の体高しかなく、体重も軽い。

 だが足は速く跳躍力もすぐれており、集団での狩りが得意だ。

 ところが目の前の耳長狼は、人の胸か、どうかすると顔ぐらいの高さがある。

 四つんばいでその高さなのだから、体の大きさからいえば、人をはるかに上回る。

 おそらく、想像もつかないほど年を経た狼なのだ。


 大きさも驚くべきであるが、さらに驚くべきは、その毛皮の色である。

 ふつうの耳長狼は、茶色がかった黒色をしている。

 だが目の前の耳長狼の体毛は銀色だ。

 姉妹の月に照らされて、美しく輝いている。

 銀狼である。

 耳長狼や砂狼や風狼には、時々毛皮が銀色のものが生まれる。

 その毛皮は強くしなやかで、何よりその美しさからたいへんな高額で取引される。


 狼は、まっすぐバルドを見ている。

 バルドも、まっすぐに狼の目を見つめかえしている。

 狼の目には怒りも憎しみもない。

 静かな目だ。

 銀色に光る目を見ていると、何かしら懐かしい気持ちになってくる。

 いったいどれくらいそうして見つめあっていたか。

 狼はふと体をひるがえし、草むらに消えた。


 10


 バルドたちはそのまま山を下りた。

 下りきったところ、村がざわめいていた。

 村人たちがいる。

 騎士が一人と兵士たちもいる。

 こんな夜だというのに。

 商人ホジャタの馬車の回りで何事か騒いでいる。


「これは、バルド・ローエン卿。

 ゴドン・ザルコス卿。

 お久しゅうござる」


 とあいさつしてきたのは、ドラノーの騎士マルガゲリ・エコラだ。

 以前バルドたちがこの沢に来たとき、女将が死灰病に冒されたという嘘の訴えをもとに、沢を焼き払おうとした騎士だ。

 バルドたちがその嘘を暴いたため、彼は女将を殺さずに済んだ。

 そのことを彼はひどく感謝していた。

 いったいこの騒ぎはどうしたことか、とバルドは騎士マルガゲリに訊いた。


「いや、それが私たちも今着いたところなのです。

 ホジャタとかいう商人が殺されていました」


 騎士マルガゲリから話を聞いたところ、こういうことだった。

 ホジャタは馬のない馬車で休憩しながら兵士の到着を待っていた。

 そこに人足二人が下りてきた。

 二人が無事なことに驚いたホジャタは、いきさつを聞いた。

 いきさつを聞いたホジャタは、人足二人に山に登るぞ、と言った。

 狼が脅威でないというなら、今度こそ遠慮せずトーガを採ることができる、とホジャタは考えたのだ。

 人足たちは嫌がった。

 ホジャタは怒り、人足たちを殴りつけ、言うことを聞かせようとした。


「せっかく出来たトーガが無駄になるではないか!

 あのトーガはわしのものだ。

 採って採って採り尽くして、川の向こうで売りさばくのだっ」


 そのとき突然狼が現れ、ホジャタの喉笛をかみ切って、姿を消した。

 不思議なことに、人足二人も、馬車の番をしていた下人も、狼がどの方角に去ったかを見ていない。

 忽然と姿を消してしまった。


 バルドはあとのことを騎士マルガゲリに託して村長の家に引き揚げた。

 騎士マルガゲリは、夜の明けるのを待って兵を連れて山に入り、狼を探すと言った。

 だがこの広い山で狼一匹を探し出せるはずもない。

 それはマルガゲリもよく心得ており、とにかく一日探してみますと言った。

 バルドはその狼に帰り道で遭った、と話した。

 だが、その時点では人を殺していないと思っていたし、凶暴な様子でもなかったから追わなかったと。

 バルドたちは村長の家に行き、遅い食事を取り、就寝した。


 床に就いてから、バルドは考えた。

 いったいこれは、どういうことなのだろうかと。

 ふと、〈ニコと銀狼〉という昔話を思い出した。


 ニコという名の猟師がいた。

 腕がよい猟師で、無口だったが人は良かった。

 ニコの娘が結婚することになった。

 ニコはお祝いの品を買うため、山に入って獲物を探した。

 二週間、まったく獲物がなかったが、二週間目にすばらしい銀狼に出合った。

 大きく美しい銀狼だ。

 その毛皮は高く売れる。

 ニコは銀狼を追い、山深くに入っていった。

 三日間、ニコと銀狼は戦い、結局ニコは敗れて死んだ。

 死んだニコの魂は銀狼に乗り移った。

 ニコの魂が乗り移った銀狼は、山を駆け下りた。

 山を駆け下り、街まで走った。

 街ではニコの娘の結婚式が行われていた。

 結婚式の場に現れた銀狼に、一同は騒然となった。

 兵士たちが呼ばれ、銀狼は槍で突き殺された。

 銀狼は抵抗もせず、じっと花嫁のほうを見ていた。

 残った毛皮は、新郎新婦のものとされた。

 人々は、ニコが銀狼の毛皮を送り届けたのだ、と噂し合った。


 という話である。

 かりにこの話に当てはめてみるとすれば、ニコに当たるのは誰だろう。

 そしてなぜ銀狼は、護衛の剣士や番人や人足は殺さなかったのか。

 なぜわざわざ山を下りてまで、ホジャタを殺したのか。


 バルドたちが山を下りかけるとき、タランカがおもしろい話を聞かせてくれた。

 タランカは、出かける前に村長からこの話を聞き出したという。

 村長はホジャタが女将を弔ったと言っていたが、それはどういうことなのか、ということである。

 五年前、沢で女将が死んでいたのを発見したのは商人ホジャタなのである。

 ホジャタは葬送の礼拝をして、女将を地に埋めてくれたのだという。

 それからホジャタは村に下りて村長にその報告をして、自分もトーガを採りたいのだがいいだろうか、と持ちかけた。

 村長は、女将やその夫は、この村でトーガを売ることを条件に沢に住み着いてトーガを採ることを許した、と説明した。

 ホジャタはなるほどなるほどとうなずきながら、よろしく頼むと手土産を差し出したのだ。

 ところがそれからトーガが村には来なくなった。

 また、村の酒屋が言うことには、沢に住み着いていた家族がすべて、山を下りて来てどこかに立ち去ったという。

 立ち退きの金はホジャタにもらったというが、何かを恐れているような様子だったという。

 村長に何のあいさつもなく村を出ていったというのが、どうにも妙ではあるが、もともと流れ者だった家族だから、そう不審にも思わなかったのだ。


 つまり、女将がどういう原因で死んだのか、誰も知らない。

 ホジャタは知っているかもしれない。

 いや、それどころか、もしかすると。

 だが、それ以上のことは臆測でしかない。

 賢明にもタランカは、ホジャタが女将を殺したのかもしれない、とは言わなかった。

 それでよい。

 不確実なことを臆測で口にするのは、よくないことだ。

 それは知恵の働きを妨げ、思い込みを育ててしまう行いだからだ。


 あの銀狼は、ずっと前から山にいたのだろう。

 あれだけの狼だ。

 さぞ齢を経ているに違いない。

 女将やその夫は、銀狼のことを知っていたのだろうか。

 知っていて守り神として敬っていたのだろうか。

 それとも恐ろしい怪物として恐れていたのだろうか。


 銀狼のほうは、どうだったのだろう。

 山に住み着いた女将と夫。

 自然の恵みに感謝しながら、すばらしいトーガを採り、月魚に舌鼓を打ち。

 たまに月魚を求めて来る人があれば温かくもてなし。

 沢の暮らしにすっかり満足しながら心豊かに生きて。

 そして静かに死んでいった人たち。

 その女将と夫を、銀狼は、どうみていたのだろう。


 そういえば。

 今年は女将が死んで五年目だ。

 死んで一年、五年、十年にあたる魂には、恩恵が与えられることがあるという。

 現世に心残りがあれば、それを見に地上に降りてくることが許されるのだ。

 人間以外のものの姿を借りて。

 もしや、あの銀狼は。

 そうだ。

 それにだ。

 たしか七年前に女将と会ったとき、夫が死んだのは三年前だと言っていなかったか。

 とすると今年は夫が死んで十年目だ。

 二人に気がかりがあったとすれば、何か。


 あの狼は、剣士にも人足にも番人にも、攻撃は加えなかった。

 それどころか、ホジャタにさえ、いよいよトーガを採ろうとするまでは、攻撃は加えなかった。

 ついにトーガに手を伸ばしたとき襲い懸かり、結果として剣士を傷つけたが、殺しはしなかった。

 その狼がわざわざ村に現れた。

 そしてホジャタがなおもトーガを採ろうとするのを諦めない態度をみせたとき。

 狼はホジャタの命を奪ったのだ。


 ホジャタが生きたままだったら、どうなったか。

 ホジャタは一度にトーガを採りすぎないようにしていたようだ。

 時々やって来ては馬車一杯の樽にトーガを詰め込み、そして川の向こうに売りに行った。

 その手間を補って余りあるもうけを得ていたろう。

 だがある程度金がたまれば、今度はもっと大きな商売をしたくなるだろう。

 そのときトーガは採り尽くされ、沢は荒れ果てたかもしれない。


 狼は、そんな未来が許せなかったのか。

 あるいは。

 それは仇討ちであったのか。

 分からない。

 今となっては、それは分からないことだ。

 だから口に出してこの臆測を述べることはない。

 それでも。

 女将の死を知り、あんな不思議な銀狼に出合った今夜は。

 山の恵みに感謝し、山の安寧を祈り。

 女将の思い出を心に思い浮かべながら。

 静かに眠りに就くことにしよう。


 眠りに落ちる最後の瞬間。

 バルドの心をある考えがよぎった。

 あと二年で、アイドラが死んで十年目だ、ということである。

 十年目の年には、アイドラは何かの姿を取って自分の前に現れるだろうかと。

 そう自分に訊いて、自分で答えた。

 いや。

 それは、ない。

 気になることはあったかもしれないが、アイドラは自分の命を生ききった。

 あとは残された者がどう生きるかを、神々の園で優しく見下ろしているに違いない。

 今こうしている瞬間も。

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