第9話 恋歌

 1


「おもしろいことになっておりますぞ」


 それがバルドを迎えたバリ・トードの第一声であった。

 王都の空気が明るいのには気付いていた。

 ジュールラントの戦勝に沸いているのだ。

 ジュールラントが敵の策を見抜いて裏をかいたといううわさが流れている。

 ファーゴ、エジテ両都市は屈服し、反乱以前よりさらに王家に有利な条件で契約がなされた。

 それは王都に富が流れ込んでくるということなのだから、王都の民が大いにこの武人王太子をたたえるのも当然である。

 ジュールラントは、まだ王都に帰り着いていない。

 大きな都市二つを制圧したのだから、その後始末に時間がかかるのは無理もない。


「それはそうなのですがな。

 戦勝には違いないのですが、こちらの損害も大きく、将軍を二人も失っております。

 今王都に明るい空気を呼び込んでくださっているのは、ドリアテッサ殿なのですよ」


 ドリアテッサは、二週間前にパルザムの王都に到着した。

 シェルネリアへの結婚申し込みに合わせてドリアテッサの派遣を依頼する特使が帰着した二日後だというから、その早さたるや尋常ではない。


 しかも随行がすごかった。

 マノウスト伯爵ファルケンバーン・ファファーレン外務卿。

 ゴリオラ皇国の外交を担当する閣僚の中で席次二位の人物である。

 外交の生き字引といわれ、その威名はあまり交流のないパルザムの宮廷にもとどろいている。

 ドリアテッサの父侯爵の実弟である。


 騎士一人を派遣する随行としては異常である。

 だが、マノウスト伯は単に随行として来たのではない。

 これからはパルザムとの国交を重んじるという皇王の意思表示なのである。

 また、正式の返事はあとになるが、今回の婚姻に事実上の応諾を与えたもの、と受け止めることができる。


 中原の二大強国が手を携える。

 王太子が妃を迎える。

 なるほど、王都の空気が明るいのも無理はない。


「ドリアテッサ殿がおいでになってからの騒ぎといったら」


 王が病床にあり王太子が遠征中であるから、できる応対は限られている。

 この特別な客をもてなすべくパルザムは舞踏会を開いた。

 夜会の席は何よりの交流の場である。

 有力貴族たちは、マノウスト伯の知己を得、少しでも情報を引き出そうと動いた。

 無論あちらも少なからぬ情報を得ていくだろう。

 また、ゴリオラ皇国でも有数の名家の美姫の来訪である。

 しかもドリアテッサ姫は自身子爵領を有する資産家でもある。

 王都中の若い独身貴族がいろめきたったといってよい。


 それだけに、夜会の席に現れたドリアテッサを見たときの衝撃は、言葉にしがたいほどのものがあった。

 男装だったのである。

 いや、男を装ったというより、それが正式の服装なのである。

 つまり、ゴリオラ皇国では女性武官の正式の装いは鎧姿であるし、夜会に出るときには身分職責に応じた武官の式服を着る。

 男性用の式服を女性用に調整した服なのだから、当然、男装になる。

 しかもドリアテッサは、武官にして騎士、侯爵家令嬢にして子爵なのであるから、式服の格式は最上位のものである。

 深い紺色の服地に金銀の飾り紐をあしらい、袖の折り返しは気品に満ちた輝きを放ち、ブーツの立てる音さえ小粋であったという。


 このゴリオラ皇国の慣例については、パルザムの王宮でも知ってはいた。

 知ってはいたが、あまりになじみない風習であるため、この場合にも適用されるとは考えなかった。

 高貴の姫が男装して夜会に現れるかもしれないなどということを、誰も思いつかなかったのである。

 ダンス申し込みの順番をめぐって牽制けんせいし合っていた青年貴族たちは、ただ呆然ぼうぜんとした。


 ドリアテッサがマノウスト伯を従えて入場したあと、主催者である第一側妃が入場した。

 アイドラの死を知ったウェンデルラント王は、以後一年間はその喪に服し妃は迎えないと宣言した。

 一年が過ぎた昨年十月、有力貴族家から三人の側妃を迎えることになった。

 この中の一人から正妃を選ぶことになるだろうといわれている。


 第一側妃の短いあいさつのあと、ドリアテッサは誘導に従い、まず主催者に、そして高位の貴族たちにあいさつしていった。

 本来ドリアテッサは女性武官の指導役に過ぎないのだからこの扱いは丁寧すぎるのだが、実質皇王の名代であるマノウスト伯がドリアテッサの随行という立場を崩さない以上、こうするしかないのである。


 そして、ダンスの時間となった。


 ドリアテッサはこの舞踏会の主賓であるから、最初に踊らなくてはならない。

 マノウスト伯が如才なさを発揮し、あたりさわりのない相手を選んで、こちらの姫に踊りを申し込んではどうか、とドリアテッサに勧めた。

 ドリアテッサは完璧な作法でダンスを申し込んだ。

 相手の姫はとまどいながらも承諾のしるしに右手を差し出した。

 その手にくちづけを与え、ドリアテッサは姫を中央にいざなった。

 ドリアテッサは女性としては身長が高い。

 一度切り詰めた髪は、少しは伸びたものの長く垂らすことも結い上げることもできず、どちらかというと男性の髪型にみえる。

 武人の式服をまとってすくっと立つその麗容は、どんな貴公子にもまさる美しさと力強さがあった。


 楽人たちが仕事を始め、ホールが音楽の調べに満たされると、ゆっくりと滑り出すように、ドリアテッサは姫をリードして踊った。

 もともと武の道に精進を重ねた人なのだから、ドリアテッサは身のこなしもリズム感も悪くない。

 その踊り方は、技巧を凝らした派手なものではなく、誠実で素直な人柄そのままの丁寧なものだ。

 それでいて、何ともいえない華がある。

 遠慮なくステップをリードしながらも、相手の姫をじゅうぶんに気遣う踊りぶりである。

 踊りが終わったときに周囲から起きた拍手は、心からのものだったろう。


 ファーストダンスが終わったのであるから、皆は自由に踊ればよい。

 ところが誰も踊ろうとしなかった。

 ドリアテッサが次に誰と踊るかが気になったからである。

 少なからぬ時間が過ぎたあと、一人の姫がドリアテッサの前に進み出て名を名乗り、腰を軽く落としてみせた。

 わたしくにダンスを申し込んでくださいませんか、という意思表示である。

 この国では、女性のほうからモーションを起こすのは、ややはしたないこととされる。

 まして夜会は始まったばかりで、相手はホール中の注目を集める男装の女性なのである。

 この姫はバリ・トードも以前から知っているが、どちらかといえば内気な気性だと思っていた。

 なけなしの勇気を総動員したのだろう。

 何が彼女にそこまでさせたかは分からない。

 ドリアテッサは、少し困ったような表情をしたが、姫にダンスを申し込んだ。


 この瞬間から大騒ぎが始まった。

 周りで見ていた姫たちが次々とドリアテッサの所にやってきて、アピールを始めたのである。

 ドリアテッサは美姫たちにすっかり取り囲まれてしまった。

 マノウスト伯は安全な場所に避難して、にこやかに愛しい姪を見守っていたという。


 この夜、ドリアテッサはパルザムの姫たちの心をかっさらっていった。


 2


「ドリアテッサ殿には、各貴族家から夜会のお誘いが引きも切らないとのことです。

 マノウスト伯はといえば、外交活動に精を出すかと思いきや、連日王都の観光名所をめぐり歩いておられます」


 新設される女性武官の指南役がゴリオラ皇国から派遣されるらしいことは取りざたされていた。

 その指南役は辺境競武会で総合優勝した女騎士だというから、さぞかし怪物的な女性なのだろうとうわさする者もあった。

 いずれにしても両大国の王家同士の婚姻の、いわば添え物であると認識されていた。

 華やかな王都での武闘大会や有力都市でのそれと違い、辺境競武会への注目度は低い。


 ただ今回の辺境競武会は、あのシャンティリオンが負けた、という事実により注目されていた。

 なにしろ、弱冠十八歳で騎士叙任を受けて以来、七つの武闘大会の細剣部門で優勝し、天才の名をほしいままにする貴公子である。

 もっとも本当にシャンティリオンが負けたと思っている人はいない。

 負けた相手が女性騎士と聞いて、それではシャンティリオンが相手を打つことができなかったのはもっともだ、と誰もが思ったのである。


「ああ、申し遅れました。

 クーリ助祭とシマー助祭から、くれぐれもよろしくお伝えくださいとのことです。

 頂いたお金で、古くなった備品をだいぶ新しい物に交換できたとか。

 子どもたちの文具もたくさん買えました」


 クーリ助祭とシマー助祭は、バリ・トードが預かる〈下街ユーエ〉の神殿に勤める神官である。

 ともに、神殿が営む孤児院の面倒もみている。

 バルドは王都に来て以来、この孤児院にはたびたび足を運んでいる。

 子どもたちとも仲良くなった。

 そのたびに何かと寄付などをしているのだが、今回は支度金として王宮から下賜された金子のほとんどを寄贈してから遠征に出た。

 バルドには養う家族も維持する屋敷もないのだから、特に大金は必要ないのである。


 バリ・トードと話しているところにシャンティリオンが訪ねてきた。

 一昨日王都に到着すると、関係部署への報告はシャンティリオンに任せて、バルドはトード家で旅のあかを落としたのである。

 ジュールラントのいない王宮に用はなかった。

 笑顔でシャンティリオンを迎えたバリ・トードは、とびっきりの菓子と茶を用意させた。


 トード家はバリ・トードの預かりとなっている。

 ゼンブルジ伯爵の取り調べは一応終わり、あとはジュールラントの裁定待ちである。

 処遇がはっきりするまではこの屋敷の主立った者は軟禁状態である。

 母屋は閉鎖されており、伯爵の家族は付属舎で静かに生活している。

 使用人の中でも上のほうの者は、なかば容疑者の扱いであり、館から出ることを禁じられている。

 下級の使用人は、ずいぶん数を減らした。

 家の存続が許されたとしても、領地財産のおおかたは国に没収されるだろう。

 今は余分な出費はできないのである。


 ただし客棟は別である。

 バルドは国王の賓客であり、その滞在費は国庫から支払われるからだ。

 使用人たちとしては、バルドにどんどん客を呼んでほしいだろう。

 そうすれば仕事も増え、活気も出るし、賄いに回る食材も豊かになるからである。


 バリ・トードとシャンティリオンは、二年前ともに辺境に旅した仲であり、ごくくつろいで話し合える関係である。

 三人での歓談ははずんだ。


 ややあって、茶と菓子が出てきた。

 この家の茶は、実に種類豊富である。

 通常の茶葉だけでも、南方から仕入れた何種類もの味がある。

 穀物の実や木の実をってれる茶もまた変化に富んでいる。

 今日の茶は黒い。

 真っ黒である。

 非常に芳醇な香りが立ち上る。

 癖は強いが一度慣れたらやめられない味なのだ。

 あつあつの茶をちびりと飲めば、まるで長年熟成された蒸留酒のようなこくが口に広がる。


 さて、菓子はどうか。

 おお!

 カムラーめ。

 奮発しおったな。


 菓子は、柔らかなケーキ地に三層のスポンジを重ね、そのあいだに生クリームと砕いた木の実を詰めたものであり、美しく飾り立てられた最上部には、豊富な果物が色味も美しく盛りつけられている。

 あんないかめしい顔で、どうしてこんなにかわいらしい盛りつけを思いつくのか、実に不思議である。

 しかし菓子に罪はない。

 バルドは存分にその味を楽しんだ。


 バルドはシャンティリオンにわざわざ訪ねてくれた礼を言った。

 忙しいはずであり、自分にかまっている暇は、本当はないはずなのだ。

 バルドはといえば、ジュールラントが帰国すればすぐに将軍の座を降りて、この国も去る。

 病気で弱ったウェンデルラント王になど会う気はなかった。

 取りあえずは屋台めぐりでもして日々を過ごすつもりだった。

 ところが、そう告げてもシャンティリオンは帰ろうとしない。

 王都に友人もいないバルドのことを気遣ってくれているようだ。

 こんなじじいに付き合う必要はないのに、まったく義理堅い男である。

 バリ・トードは王宮に用があるとかで、二人にわびを言いながら屋敷を出た。


 出がけに、カムラーの奉公先について訊いてみた。

 難しいようだ。

 使用人たちはたぶん罪に問われない。

 しかし、王太子暗殺未遂犯の屋敷で上級使用人だった者を雇えば、謀反人の仲間扱いされかねない。

 好んでカムラーを迎える貴族はないだろう。

 しかもここに雇われるまで、いくつもの屋敷でカムラーは雇い主を怒らせている。

 かといってカムラーの知識と技術は、貴族の家でなければ生かせない。


 他の上級使用人のように悠々自適の隠退生活に入れればよいのだが、それができない。

 なぜならカムラーは、給料はすべて食材の研究につぎ込んできたからだ。

 馬鹿だ。

 大馬鹿者だ。

 シャンティリオンに頼んでみようかと、ふと思い、少し考えてやめた。

 アーゴライド本家に移ったばかりで立場は微妙であるはずだ。

 無理をさせるわけにはいかない。

 シャンティリオンといえば、先ほどから妙にそわそわしている。

 用事があるならいつでも帰ってくれればいいのだが、水を向けてもいっこうに帰ろうとはしない。


 そうしていたところ、来客があった。

 ドリアテッサだった。


 2


「バルド・ローエン様。

 パルザム国王軍大将軍にご就任とのこと。

 まことにおめでとうございます」


 バルドとシャンティリオンにあいさつしたあと、ドリアテッサが口にしたのは将軍就任の祝いだった。

 すぐにも将軍を辞める予定なのだが、発令されていない人事を口にするわけにもいかず、バルドは曖昧に答えた。

 ドリアテッサが妙に改まった言葉遣いをするので、前の通りでよいと言うと、王軍の責任者に登られたかたに対してそうは参りません、と怒られてしまった。

 剣をはずして椅子に座ったドリアテッサは、カーズとジュルチャガは不在かと訊いてきた。

 今は王太子の供をして遠征に同行している、と言うと、


「えっ?

 それでは、カーズ殿とジュルチャガは、パルザム王国に仕官なさったのですか?」


 とひどく驚いた様子をみせた。

 特に仕官したわけではなく、臨時に側仕えをしているだけで、遠征から帰ったらわしの所に戻ってくる、とバルドは答え、ドリアテッサの仕事はどんな具合かを尋ねた。


「どんなもこんなも、まだ何も始まっておりませぬ。

 私が指導する者は三人なのだそうです。

 五人の候補がいるそうですが、王太子殿下がご帰国なさって人選を行われるまで、私には何もすることがないのです」


 夜会への招待が多いらしいから忙しいのではないか、と訊くと、美しい眉をしかめて困った表情をした。


「お耳に入りましたか。

 わが国でも貴族というのは夜会好きですが、この国のかたがたはそれ以上ですね」


 王宮での舞踏会では、一人と踊ればそれで済むと思っていた。

 ところが予想外にも大勢の姫からダンスの申し込みを求められ、誰を断っていいか分からなかったため、結局すべての姫と踊り続けたのだという。

 おかげで見知らぬ貴族たちと言葉を交わす苦労は免れたものの、腹は減るし、体は疲れるしで、さんざんであったらしい。

 もともと夜会は嫌いなので、申し出はすべて断っているという。

 王太子が戻られきちんと着任するまで勝手なことはできないという理由をつけて。


「ところで、シャンティリオン殿がおられるので、少々驚きました。

 いつのまに仲良くなられたのですか」


 と、いかにもドリアテッサらしい直截ちよくさいな質問を発したので、辺境競武会の前から顔見知りであったこと、二人で任務を受け、三か月ほど旅をしてきたことを説明した。

 どの程度中身を話してよいものか悪いものか判断がつかなかったので、曖昧な言い方をしたのだが、舌足らずの部分をシャンティリオンが補った。


「これはご内聞に願いたいのですが、北のほうの砦が多数の魔獣に襲われたのです。

 私は中軍正将たるバルド殿のお供をして、ともに大いに魔獣を討ち果たしました。

 それから南部のいくつもの村を回り、民情を調査し、悪人を懲らしめる旅をしてきたのです」


 ドリアテッサは大いに興味を引かれ、詳しい内容をあれこれ質問した。

 シャンティリオンは、具体的な地名や人名は伏せながら、おおむね出来事が分かるように説明していった。


「ああ、何ということだ。

 バルド様の周りにはいつでも冒険がある。

 正義があり、気高い志がある。

 シャンティリオン殿。

 かく申す私も、バルド様に出逢って救われ導かれたことを生涯の幸運と感謝する者なのです」


「存じ上げておりますとも、ドリアテッサ殿。

 ジュルチャガなる者が語った冒険談を、わが家門に縁のある者が詳しく教えてくれたのです」


 それから二人は旅と冒険の話でひどく盛り上がった。

 シャンティリオンのもとにバルドの冒険の記録があると知ると、ドリアテッサはその写本を欲しがったが、バルドは咳払せきばらいと目線でその話題を封じた。

 また、お互いの帯剣が魔剣であると知ると、〈夜の乙女〉と〈青ざめた貴婦人〉を見せ合って、相手の剣の美しさに感嘆していた。

 バルドが、〈夜の乙女〉は家に返さなかったのか、と訊くと、


「一度返したのですが、このたびのパルザム出向が決まると、兄上が再び渡してくださったのです。

 ふらち者がいたらこれで斬れ、とおっしゃって」


 という答えが返ってきた。

 なぜかシャンティリオンが少しひきつった顔をして、口ごもりながら、ドレスをプレゼントしたいのだがお受けくださいますか、とドリアテッサに申し出た。

 一瞬きょとんとした顔をしたドリアテッサは、この国にいるあいだドレスで夜会に出るつもりはないので、せっかくですが無駄になるでしょう、と言って断った。

 それを聞いてシャンティリオンがしゅんとしている様子が気に掛かった。


 そして考えた。

 そういえば、前にドリアテッサの話をしたとき、シャンティリオンの反応はよすぎるほどよかった。

 ひょっとして、あれは好敵手に出逢えた喜びではなく、心ときめく女性によしように出逢えた喜びだったのだろうか。

 今日もわざわざ訪ねてきて、妙にぐずぐずすると思ったが、さてはドリアテッサがここに来るだろうと見当をつけてのことだったのか。


 だが、バルドは自分のこの考えに、そう確信は持てなかった。

 男女間の機微についてバルドのにぶさには定評がある。

 若いころには恋の橋渡しを頼まれたこともあったが、バルドがあいだに入ると、なぜかうまくいかない。

 そのうち〈恋を壊す男〉なるあだ名を付けられてしまい、大いに憤慨したのだが、実際取り持とうとする努力はことごとく失敗した。

 しまいには、自分自身でも色恋に関する感度の低さを認めざるを得なくなったのである。


 3


 すっかり話に花が咲いたので、二人に夕食を食べていくように勧めた。

 まるで準備していたかのようにすぐに晩餐ばんさんの準備がなされた。

 主菜は魚料理だった。

 客がいるからか、わざわざ給仕が、


「デーケズの牛乳油ブイユ焼きでございます」


 と断って皿を並べていった。

 料理をあらかじめ皿に盛ってくるやり方はこの家独特である。

 というよりカムラー式だ。

 普通は料理は大皿か鍋のまま食卓に運ばれ、主賓にはあるじみずからが取り分けるものだ。

 ここでは料理は皿に盛られ、適度なソースと付け合わせを添えて美しく飾り立てられて晩餐室に運ばれる。

 皿を持って疾走する給仕の邪魔にならないよう、晩餐時間は用のない者は廊下に出ることを禁じられる。

 給仕役の使用人は、料理を崩さずに走る訓練までさせられるという。

 なぜかというと、カムラーは、「温かい料理は温かいうちに、冷たい料理は冷たいうちに召し上がっていただく」ことを信条にしているからだ。

 ここで給仕が務まれば従軍などは楽なものだと使用人たちは言い合っているという。


 それにしても、デーケズのブイユ焼きとは、失礼な話ではないか。

 デーケズは大味な白身魚だ。

 大切な客に出すような食材ではない。

 しかもこの家では平鍋で焼くときは必ずブイユを使うのだから、今夜は手抜きですと宣言しているようなものだ。

 少し腹を立てながらバルドはその料理を口に運んだ。


 何だ、これは。


 口の中で香辛料がはじけ回った。

 何とも派手な香りと刺激の大競演である。

 料理の上にかかったソースをナイフですくい取って、デーケズがどういう状態になっているのかを見た。

 デーケズの切り身の表面をびっしりと香辛料が覆い尽くしている。

 カムラーが実に多種多様な香辛料を仕入れて使いこなしているのは前から知っていた。

 香辛料というのはこんなに種類があるものかと、ずいぶんバルドは驚かされたのである。

 この魚の表面には恐ろしい種類の香辛料がびっしりとすり込まれている。

 そしてその上から小麦粉を掛けて焼いてあるのだ。

 しかも切り身の下側だけでなく、上側もこんがり焼けている。

 以前別の料理でこの焼き方をしてあったのが不思議で、カムラーに訊いた。

 するとあの男はすかした顔で、


「焼けたブイユをすくって上から何度も何度も掛けているだけのことでございます」


 とぬかしおったのだ。

 ああ、切り身が。

 デーケズの切り身が。

 なぜかぷりぷりだ。

 うまみもたっぷりではないか。

 どうしてこんな味になるのだろう。

 中原のデーケズは辺境のそれとは違うのだろうか。

 しかもこの白いソースがよい。

 牛乳から油気を抜いたものに魚の煮汁を混ぜて軽く焼いた小麦粉を合わせたソースだったろうか。

 ソースをからめた状態と素の状態を交互に食べると、また一段とうまさが引き立つのだ。

 さらにその合間には、パンを一口ちぎってソースにつけて食べる。

 これがまた!

 今夜のワインは白だ。

 アリアンフィッセの早摘みで、極辛口だ。

 ほどよく冷やしてある。

 かつーんと喉の奥を直撃する爽快感がたまらない。

 シャンティリオンとドリアテッサも、盛んに驚きの声を上げながら、大いに晩餐ばんさんを楽しんでいる。

 カムラーめ。

 自分のことで大変だろうに、あの男はいつも料理のことしか考えていない。

 カムラーめ。

 くそっ。

 料理にも騎士道というのはあるのだろうか。


 4


 若い二人の話題はバルドの豪傑ぶりに移っていた。

 心からくつろいでいるのだが、それでいて二人の振る舞いは上品である。

 見目も麗しいし、話す様子を見ているだけでも楽しい。


「カーズ殿の技の奥深さは、私では計ることもできません。

 ましてバルド殿の強さは、ただただ仰ぎ見るばかりです」


 と、とんでもないことをシャンティリオンが言い出した。

 いや、おぬしはこの三か月わしの手の内を見てきたのじゃから、よく分かるじゃろうに。

 技ははるかにおぬしが上じゃ。

 とバルドは言ってみたが、シャンティリオンは、見たからこそますますそう思うのです、と返してきた。

 ドリアテッサまでが、


「私も同じ思いです。

 カーズ殿も、おやじ殿のあの強さはめったにない種類のものだ、とおっしゃっていました」


 などと言い出した。

 バルドは苦笑いしながら、カーズの攻撃をわしがしのげるのは百回に一回だと、やつ自身が言っておったではないか、と言った。


「私もあの言葉は聞いていたので、辺境競武会でのバルド様の圧倒的な強さを目にして、疑問に思いました。

 それで皇都への道々聞いてみたのです。

 すると、カーズ殿はこう言われました。

 そのときはそうだった。

 だが、今のおやじ殿は違う。

 もともとおやじ殿は希代の名剣士に基礎をたたき込まれた。

 だがその後、力で戦う騎士の戦法を訓練した。

 剣を持つ者は、力で戦うか技で戦うかを選ばなくてはならない。

 この二つは訓練方法も戦場でのありようもまるで違うため、両立は難しいのだ。

 だからおやじ殿の中で技の教えは眠ったままだった。

 だが、老いて力が衰えるとともに、きっかけを得て技が目を覚ましたのだ。

 といっても、本格的に長年技の修練を積んだわけではないから、一時的なものかもしれない。

 また、体力のほうも年とともに衰えて、やがて戦えなくなるだろう。

 だが、今のおやじ殿は、なぜか体力も反応の鋭さも若返っている。

 それに最高度の技までを知っているのだから、手のつけられん戦士だ。

 このカーズ殿の言葉を聞いて、なるほどと思ったのです」


 ドリアテッサがこう言うのを聞いて、バルドは驚きながらもふに落ちる点もあった。

 シャンティリオンまでが、こんなことを言い出した。


「そうですとも。

 辺境競武会でバルド殿が剣と盾を持って立ったあのお姿。

 ただ立っているだけのお姿に、私は身震いするほどの武威を感じました。

 みながそう思ったはずです。

 初めてナパラ・フジモ将軍のお姿を拝見したときの、いえそれ以上の感銘を受けました。

 それに、あのエネス・カロン殿を打ち据えた技。

 何とも不思議な美しい技でした」


 エネス・カロンという名はどこかで聞いたような気がするが、どこでだったか。

 シャンティリオンに尋ねると、第四部門の優勝者だという。

 そう言われて思い出した。

 バルドは模範試合でそのエネス・カロンという騎士と対決し、二本を連取したあと、かぶとの頭頂部に軽く落とした剣が相手の意識を刈り取って勝利を収めた。

 打とうと思って放った一撃ではなく、体が勝手に動いた一撃だった。

 だが、鎧の上から打撃を加えて中の人間に痛手を与える攻撃は、シャンティリオンこそ得意とするものだ。

 バルドがそう言ってシャンティリオンの技を褒めると、ひどく居心地の悪い様子をした。


「お褒めいただいても恥ずかしく思うばかりです。

 あれは、お気付きのように鎧の中の骨や筋肉の動きを推測して打つ技で、打つ場所の見当とタイミングが非常に難しいのです。

 辺境競武会ではうまくいきましたが、相手がもう少し腕がよいかあるいは馬に乗っていたりすると、とたんに成功率が下がります。

 現に、剣匠ゼンダッタ殿の所で会ったならず者には、この技が失敗しました」


 そうだ。

 なぜ失敗したのか疑問に思っていたのだった。

 そういうことだったのか、とバルドは得心した。

 すると、ドリアテッサが口を挟んだ。


「シャンティリオン殿。

 私もあのバルド様の技は不思議でした。

 それでカーズ殿にお訊きしました。

 するとこう教えてくれました。

 お前はおやじ殿が滝のほとりでカチュアの枝を落とすのを見ただろう。

 あれができればできる技だ、と」


 それは何のことですか、とシャンティリオンが訊き、ドリアテッサが説明を始めた。

 それを聞きながら、バルドも思い出した。

 今からちょうど一年前のこと。

 ドリアテッサの修行を行うため、カーズとバルドとゴドンとジュルチャガは、辺境の山奥の滝のほとりでしばらく過ごした。

 ある日、ドリアテッサの技が一段進み、カーズは見事な技でカチュアの花を枝ごと斬り落として祝儀とした。

 その場合の祝儀とは、花ではなくそれを斬った技のほうなのであるが。

 それを見たバルドは、過去に師から見せられた技を思い出した。

 そして自分でも思わずカチュアの枝を斬った。

 無骨な古代剣は無造作に振られ、しばらくして思い出したように枝ははらりと落ちて水に舞った。

 自分自身でもどうやって繰り出したか分からない、不思議な技だった。


 そうだ、あれは師の、カントルエッダの見せてくれた技だった。

 カントルエッダの思い出が、バルドにあの技をふるわせてくれた。

 なるほど。

 これからカントルエッダの記憶が薄れていくにしたがい、バルドの技も色あせていくだろう。

 また、技を知っているからといって、バルドはカントルエッダやカーズのように素早く動くことはできない。

 そのような訓練は積んできていないからだ。

 しかし今は。

 これからしばらくのあいだは。

 魔剣スタボロスが体力と気力を与えてくれ、カントルエッダの教えが技を与えてくれる。

 自分は何と恵まれていることか、とバルドはあらためて思った。


 しばらく話をしてドリアテッサは帰って行った。

 シャンティリオンは送って行きたそうな様子を見せたが、なにぶん、


「シャンティリオン殿は私を女扱いせず、ちゃんと騎士として接してくださる。

 何よりありがたいことです」


 と言われたばかりだったので、切り出しにくかったようだ。

 ドリアテッサを見送ったあと、バルドはシャンティリオンに、おぬしはドリアテッサ殿に会いにここに来たのか、と訊いた。

 シャンティリオンは顔を真っ赤にしてうろたえながら、


「いやっ。

 そ、その。

 いえ。

 バルド殿にお会いするために来たのです。

 来たのですが、ひょっとしたらドリアテッサ殿が来られるかもしれないとは。

 予測というか、期待しておりました」


 と、真っ正直な答えを返してきた。

 話題がそのことに及んだのに勢いを得て、シャンティリオンは、どうしたらドリアテッサ殿の気持ちをこちらに向けていただけるでしょうかと相談してきた。

 バルドはその手のことにうとい、という自覚がある。

 今まで助言してろくな結果になったことがない。

 だからあまり踏み込んだことも言えず、おぬしのおやじ殿はおふくろ殿をどうやって口説いたのだ、と訊いてみた。


「確か窓の下で恋歌を歌ったとか。

 そうか、歌か!

 バルド殿っ。

 よいことを教えていただきました」


 と勢い込んで帰って行った。

 館の外に出て見送りながら、街中であんなに速く馬を走らせたらいかんのではないか、とバルドは思った。

 そしてぽつりとつぶやいた。

 恋歌か、と。


 5


 夜遅くバリ・トードが帰って来た。

 ひどく疲れているようだ。

 難しい会議だったのかと訊くと、それもそうだったがそのあと事件が起こったのだという。

 なんと、後宮に侵入者があったのだという。

 くせ者は、近衛の騎士たちにまったく気付かれず女官たちの居住区に忍び入り、大胆不敵にも庭で歌を歌ったのだ。

 しかも甘い甘い恋の歌を。

 庭で男が歌っていると報告を受けた騎士隊は仰天し、何人かの騎士が後宮の中に入った。

 騒ぎを大きくしないため少人数で向かったのがあだになった。

 くせ者は、宵闇の暗がりの中、茂みを利用して近衛騎士の手をかわし剣をかわしながら歌い続けた。

 あげくに騎士二人を打ち据えて気絶させた。

 そして歌い終えると、ゆうゆうと王宮内部の庭深くに姿を消してしまったのだという。

 シャンティリオンが近衛隊長を引いてから三か月がたつが、後任の選定は遅れている。

 王宮の維持管理運営の責任者には、パウクルス侯爵が今夜就任したばかりである。

 パウクルス侯爵はアーゴライド公爵の長男であり、アーゴライド本家に籍を移したシャンティリオンにとっては義父にあたる。


「シャンティリオンが近衛隊長のままでおれば、こんなくせ者は侵入できなかったであろうに」


 と言って憤慨していたそうだ。

 女官居住区は王宮と庭でつながっており、柵の門が開いていれば通れてしまうため、ときどき迷った使用人やいたずら好きの公子が入り込んで来ることがある。

 今回も、何かと取り込んでいる時期だったから大事おおごとになったが、たぶん誰も責任を取らずに済むことになりそうだ、とバリ・トードは言った。

 隠しておくわけにもいかず、バルドはシャンティリオンとの会話について説明した。

 バリ・トードは長い沈黙のあと、このことは二人の秘密にしておきましょう、と言った。

 そんなことより、とバリ・トードが声を潜めてバルドに言った。


「王太子殿下がすぐ近くまで帰って来ておられます。

 明日は王都に触れが出され、明後日凱旋パレードを行って王宮に帰還なさいます。

 バルド大将軍には、明日朝のうちに王宮にお入りいただきたい、とのことです。

 明日の夜か明後日の朝、王太子殿下が将軍にお会いになります」


 6


 翌日朝、バルドは言われた通りに王宮に入った。

 すでに王都は戦勝を祝うパレードの空気に満ちていた。

 〈特区イザネル〉の大通りも準備をする人でごった返している。

 もう少し遅く出ていたら、王宮にたどりつくのも大変だったろう。

 馬に乗ったまま王宮の正門をくぐれるのは、現役の将軍ならではの特権である。

 これはなかなか爽快で、将軍をやめたらこれができないのがちょっとさびしい。

 帰りにこの門をくぐるときは、もう将軍ではないのだ。


 用意された控室でおとなしくしていたが、相当に退屈だった。

 だがどこを歩いてもよいか悪いか分からないし、そもそも案内なしではこの複雑極まる王宮を歩き回れるものでもない。

 ちびりちびりと酒を飲んで過ごした。

 夜にはなかなか贅沢な食事が届けられた。


 翌日は小姓に案内させて庭を散策した。

 アイドラが見たらさぞ喜んだだろう。

 素晴らしい庭だ。

 途中何人かの貴族と行き会った。

 バルドの服装はあまり立派とはいえないが、王宮の中心部近くを鎧姿で帯剣のまま歩いているのだから、相当の地位の軍人だとは見当がついたようである。

 しかもバルドの先導をする小姓が道を譲らない。

 バルドのほうが身分が上だと示しているのだ。

 実のところ、中軍正将は上級侯爵家に匹敵する席次を与えられるから、めったな相手に道を譲ることはない。

 彼らはいぶかしげに道を譲り、バルドに礼をしてすれ違った。

 昼には茶と菓子が出された。

 美味だったがカムラーのものには及ばないと感じた。


 ジュールラントは夕刻に王宮に入ったようだ。

 バルドに呼び出しがかかったのは、翌朝まだ日が昇ったばかりの時間だった。


 7


 案内されたのは、大広間でも正式の引見室でもなく、庭のあずまやだった。

 すぐにジュールラントがやって来て、護衛の騎士たちに席を外すよう命じた。

 護衛たちは離れていった。

 といっても、数十歩の距離に引いて話を聞かないふりをしているだけなのだが。

 ジュールラントは天史官にも、記録をやめよ、と命じた。

 つまりこれから行われる会話は、公務ではなく私的なものだということである。

 ただし彼らは驚異的な記憶力を持っており、会話はすべて脳裏に刻まれる。

 そしておそらく一族がこっそり保管する日記に、あとで記される。

 だからこそ彼らは、前王が誰それに恩賞について約束なさったことがあるかなどと訊かれたとき、何月何日どこそこにおいてこのように仰せでした、と答えることができるのだ。


「よし。

 これで気楽に話せる。

 カーズもジュルチャガも任を解く。

 これまでご苦労だったな。

 ここでは身内として話をしてくれ。

 じい。

 この二人はすごいな。

 この二人がいなければ、この遠征はとんでもないことになっていた。

 俺も生きては帰れなかったろう」


 と、いきなりジュールラントが言った。

 いったい何があったのですかな、とバルドは訊いた。


「今回反乱を起こしたファーゴとエジテは、いずれも旧カリザウ国の有力都市だった。

 カリザウの王家が断絶してからは、実質この二都市が国の支配者だったのだがな。

 わが国を最後まで苦しめたのもこの二都市だった。

 それを現王陛下が降してわがパルザムの版図に組み入れ、カリザウ国は消滅したわけだ。

 だが二都市は気位も高く、何かと高飛車な要求をしてきていた。

 今回の反乱は、戦争の日時と場所をはっきり指定した古風なものであり、要求を通すために武威を誇示したいのだと思われた。

 あちらは騎馬の数さえ通告してきたのだ。

 こちらも同じ騎馬の数に合わせざるを得ん。

 ということは、わが王軍得意の戦い方もできんということだ。

 ただし、近頃シンカイ国が妙な動きをしているという情報もあったので、念のため近隣の有力諸侯に動員をかけておいた。

 直轄軍も動かせる将兵はみな連れていったしな。

 わが王軍は戦争日時にじゅうぶんな余裕をもってカッセの街に入った。

 そこから先遣隊を派遣して戦場となる平野の様子をみさせ、おかしな動きがないことを確認してから本隊を移動させる予定だった。

 ところがその矢先、ジュルチャガが妙なことを言い出したのだ。

 疲れた。

 ここからはジュルチャガが話せ」


 とジュールラントは水を飲みながら言った。


「ほい。

 いや、たいしたこっちゃないんだけどね。

 おいら、カッセの街に入ってから、市場や目抜き通りを、まぬけの振りをして歩いたのさ。

 慣れない小金を持ったまぬけのね。

 すると案の定、悪たれどもが食いついてきた。

 スリとかかっぱらいとかね。

 王太子様に腕利きの従騎士さんを付けてもらってたからさ、そいつらをふん縛ってもらって。

 で、金を払って情報をもらったのさ。

 するとおもっしろいことが分かった。

 グリスモへ運ぶ食料品の量が、この二年ですごく増えてるんだ」


 ここでジュールラントの補足が入った。


「グリスモは小さいが堅固な城を持つ街でな。

 もともとは、ファーゴやエジテと同じくカリザウ国に属していた。

 だが、グリスモ子爵は非常に早い時期にわが国に帰順した。

 先王陛下はこれを喜んで、グリスモ子爵の爵位を伯爵に進めてその功をたたえなされた。

 以来グリスモ伯爵はわが国に忠誠を尽くしてきたのだ。

 そう聞いていたから俺はグリスモの反乱など心配していなかった。

 かりに反旗をひるがえしたとしても、グリスモの兵力など物の数ではないしな。

 だからジュルチャガがグリスモを調べに行くと言ったとき、あきれたのだ。

 この忙しいときに無駄なことをと」


「まあそれでも許してくれたんで、おいらグリスモに行った。

 ゆっくり調べてる時間はないから、拾い屋の親方を捜したんだ」


 王都にはすさまじい数の人と馬がいる。

 排泄物の量も相当なものである。

 〈上街フラーエ〉や〈下街ユーエ〉では道やその脇に汚物がまき散らされるが、それを拾って利用することは下層平民にだけ許された特権である。

 また、〈特区イザネル〉では道で馬に排泄させ放置することは禁じられており、馬糞の処理には下層平民を利用する。

 屋敷に呼び、あるいは道で呼び止め金を払って馬糞を処理させるのである。

 得られた馬糞は下層平民たちが燃料として利用する。

 一生懸命馬糞を拾う薄汚れた子どもたちを最初に見たときは、大いに驚いたものだった。


 それ以上に驚いたのは、小便の扱いである。

 辺境では服を洗うのは水で洗うと決まっている。

 落ちにくい汚れはウドの実などをこすりつけたり、灰に浸して取る。

 だが水がずっと貴重である中原では、とんでもない方法で洗濯する。

 小便に漬けて足で踏み、汚れを落としてから水ですすぐのだ。

 王宮や裕福な貴族は遠方から運ばせた特殊な土やある種の木を燃やした灰を使うらしいが、一般には洗濯は小便で行う。

 だから洗濯屋は最下層の人々の職業なのだ。

 革鎧を洗うときなどは、小便を溜め置いて腐らせたものを使う。

 それがびっくりするほど効果があるのだ。


 そのほか、王都の近くにある山の下草を刈る権利は、裕福でない平民にだけ与えられている。

 こうした貧民救済の制度は大昔からあったが、モルドス山系から大量の緑炎石が得られるようになってから、ようやく安定して運用できるようになったのだという。

 これはパルザム独自の制度というわけでもなく、燃料に乏しい中原の諸都市では昔から〈拾い屋〉が馬糞その他を処理してきた。

 糞を拾い、また買い付けて売りさばくのは相当に身分が低く若い平民だ。

 彼らは二、三人から多くても六、七人で、それぞれ縄張りを持って糞を集める。

 だが実は彼らの上には元締めともいうべき存在があるのだとは、バルドも以前ジュルチャガから教えられた知識だ。

 統括する者がいないと引き取り料金が値崩れしたり、縄張りを取られて生活できない者が出てくるからだという。


「グリスモの拾い屋の親方はベンって人でね。

 おいらが王都の〈赤鼻のマークス〉の舎弟だと知って驚いてさ。

 いろいろ教えてくれたんだ」


 そのマークスというのは誰だとか、いつ舎弟とやらになったのかとか、訊いてみたい気もしたが、それはあとにすることにして、話の続きを促した。

 ジュルチャガは、まあまあと手を振ると、腰に提げた水筒の中身をぐいとあおった。


「ふー。

 んまい。

 生き返るね。

 ああ、それでね。

 はしょって話すと、二年間で城から出る馬の糞の量が五倍に増えたことが分かったんだよね、これが。

 いろんな拾い屋に分散して引き取らせてたみたいだけど、親方には丸わかりだもんね」


 そこからあとの説明は、ジュールラントが引き取った。


「こやつから、今グリスモには五十騎でなく二百五十騎の騎士がいると思われます、という報告が来たのは、まさに本隊が出発しようとしたときだった。

 ジュルチャガは馬より速く駆けてこの情報をもたらしてくれたのだ。

 じい。

 そのときの俺の気持ちが分かるか。

 戦場に向かうにはグリスモの近くを通らなくてはならん。

 横腹から襲われたら、本隊は壊滅しただろう」


 馬に乗る騎士もしくは騎士に準じる戦力を持つ者に対し、通常二人から四人の従者すなわち歩兵が従う。

 つまり二百五十騎の戦力とは、兵員数に換算すれば、七百五十から千二百五十にあたる。

 この場合高速機動を主眼においた騎馬中心の編成であろうとは想像できるが、要するに千人の軍と戦える戦力なのである。


「俺はカッセに残す予定だった部隊に、じゅうぶんな距離を置いて後を追え、と命じて出発した。

 グリスモを通り過ぎたとたん、城門が開かれ二百騎以上の騎馬隊が突撃してきた。

 俺たちはただちに西の方角に逃げた。

 やがて後発の部隊が到着しやつらを挟み撃ちにする形で攻め立てた。

 あらかた敵を制圧したところで、先遣隊からの急使が来た。

 ファーゴとエジテの両軍は、約束の数の数倍の規模で襲い掛かってきたと。

 やつら初めから日にちも場所も人数も守る気などなかったのだ。

 その兵力は合わせて四百騎を超える。

 単純な数比べなら互角に近いが、なにしろこちらは疲労しており、態勢もよくない。

 カッセまで戻るのは無理と判断して、俺はグリスモに駆け込むように指示を出した。

 先遣隊に出していた下軍正軍が、中軍正軍とともに敵を押さえているうちに、城門を確保させた。

 城門が確保できてから俺はグリスモに駆け込もうとしたのだが、この時点では敵にすっかり深く入り込まれており、何度も俺の直前まで敵の騎士が迫ってきた。

 そのとき活躍してくれたのがカーズだ。

 カーズは三度にわたり、突撃してきた敵の騎士を鎧ごと斬り裂いて倒した。

 敵も味方も目をむいて驚いていたな。

 俺は何とか城に逃げ込み、やがて諸侯の軍が到着して敵に痛撃を与えた。

 わが直轄軍の受けた痛手は小さくない。

 何より痛かったのが、将軍を二人失ったことだ。

 だが結果として敵軍をおびき出してたたいたのと同じことになった。

 ファーゴとエジテは卑怯ひきような振る舞いをした報いを受けた。

 結局王家側にとって以前よりずっと有利な協定を結び直した。

 また、誰も見抜けなかった敵の奇襲を見事見抜いて逆撃を与えたことで、俺の立場は大いに強くなった」


 二つの都市で四百騎以上という戦力を聞いてバルドは驚倒きようとうした。

 一つの都市で二百騎もの騎士が養えるというのはバルドの想像を超えていたからだ。

 だがあとで気付いたが、これにはバルドの勘違いもあった。

 旧カリザウ国を始め中原の多くの国では、騎馬戦力のうち半数ほどは、平時には農耕牧畜に従事する郷士層なのだ。


「カーズとジュルチャガがいなかったらどうなっていたかと思うと、ぞっとする。

 そういうわけだから、じい、カーズとジュルチャガをくれ」


 くれ、というのは譲ってくれということであり、正式に王臣として召し抱えるということだ。

 普通なら大栄達であり、驚喜して応諾するところだ。

 だが、二人はバルドの臣下でも所有物でもない。

 二人の意志次第だ。

 ジュルチャガを見た。

 首を横に振っている。

 カーズを見た。

 首を横に振っている。

 バルドはジュールラントのほうを向き、首を横に振った。


「くそっ。

 ずるいぞ、じい!」


 突然ジュールラントが怒鳴り声を上げた。

 いったい何がずるいというのか。


「カーズとジュルチャガを独り占めするなんて、ずるいと思わないのか。

 二人のうち一人だけでも、どこの君主でも喉から手が出るほどの人材だ。

 俺が今どれだけ人材不足に悩んでいると思うんだ。

 これほどの二人をじいは独り占めして、ただ放浪の供にするだけとは!

 そんなぜいたくをすると、天罰が下るぞっ」


 もはや支離滅裂である。

 ジュールラントも疲れているのだろう。

 バルドに甘えているのだ。

 ならばぴしりと背中をたたいてやらねばならない。

 バルドは息を吸い込み、


  ジュール!

  甘えるのもいいかげんにせよっ。


 と大喝だいかつした。

 付近にいる王家の家臣たちがびくりと震えた。

 ジュールラントは少し目を見開いて、それからゆっくり息を吸って吐き、


「いや。

 じいがうらやましいというのは本当だ。

 どうやったらこんな人間が集まってくるのか。

 秘訣があるなら教えてほしいぐらいだ。

 まあ、久々にじいにどやしつけられて元気が出た。

 礼を言う」


 そう言ってから水を飲み干して立ち上がり、


「これから重要な会議がいくつかあってな。

 それが済んだらまたじいと話をすることになると思う。

 今日は一度帰宅し、ゆっくり休め。

 明日か明後日呼び出すことになる」


 と言って立ち去りかけた。

 しかし足を止め、振り返ってこう言った。


「東のほうでずいぶん手柄を立ててくれたようだな。

 これでは罷免どころか恩賞を与えねばならん。

 だが、じいに爵位を与える気はないからな」


 それはつまりパルザム王国の臣としては扱わないということであり、言い換えればバルドを縛らないということである。


「いっそ領地を持ってくれる気になるなら、それもいいがな。

 だが、もうじいは領地は持たないと決めているのだろう?」


 それから、何を思いだしたのか、しばらく目を閉じてから言った。


「ハイドラ殿からザリザ銀鉱山を領地にという話があったとき、じいは受ける気だったのだろう?

 ヴォーラ殿は、死ぬまであのときのことを後悔していた。

 自分の愚かな振る舞いが、じいと母上の人生を狂わせてしまったと」


 言い終えて立ち去るジュールラントの後ろ姿を、バルドは言葉もなく見送った。


 8


 衝撃的な言葉だった。

 だが、そう言われてみれば、そうであるに違いない、とも思われた。


 あのとき。

 バルドが二十九歳であった、あの春。

 テルシア家の当主であるハイドラから、ザリザ銀鉱山を領地として受け取ってくれ、と言われた。

 ザリザ銀鉱山はテルシア家にとって生命線といってよい収入源だ。

 それを他の者に渡すなどあり得ないことである。

 あり得ないほどにテルシア家はバルドを信頼しているということであり、バルドとその子孫に預ければ安心だと考えていてくれるのである。


 そしてこの申し出には、もう一つの意味がある。

 アイドラは十五歳になり、輝き渡るような美貌は近隣の評判となりつつあった。

 もはや結婚に早すぎる年齢でもない。

 ザリザ銀鉱山を下賜すればバルドはアイドラに必ず結婚を申し込むと、策謀たくみなこの当主はにらんだのだ。

 バルドは三か月のあいだ砦での任務を果たし、心を決めてパクラに帰った。

 そこで聞いたのは、アイドラがカルドス・コエンデラの元に嫁ぐことが決まった、という知らせだった。


 事情を聞いたバルドは怒り狂った。

 申し込みの使者が来たとき、珍しいことに当主のハイドラは留守にしていた。

 代わりに使者に応対したのが、ハイドラの長男でありアイドラの兄であるヴォーラだった。

 ヴォーラは使者に対し、浅はかにも、では本人に決めさせましょう、と言い、アイドラを呼んだ。

 話を聞いたアイドラは、コエンデラに嫁ぎます、とその場で答えてしまったのだ。


 ヴォーラは、アイドラはバルドを愛しているのだから、けがらわしいコエンデラからの縁談など言下に断る、と思い込んでいたのだ。

 なんという、なんという愚かな。

 どうして。

 どうして本人に選択などさせたのか。

 兄であるヴォーラは、アイドラの気質をまったく分かっていなかった。

 アイドラが、コエンデラ家の嫌がらせにテルシアの騎士たちが苦しむ様子に、どれほど心を痛めてきたか分かっていなかった。

 そんな選択を迫ったら、結婚を受ける以外の答えなどあり得ないという、誰がみても分かるようなことを、兄のヴォーラだけが分かっていなかった。


 バルドは怒り、憎み、嘆いた。

 だがその荒ぶる心を表に出すことはしなかった。

 それは大恩あるエルゼラ・テルシアを裏切ることになる。

 エルゼラの息子でありバルドに実の子にもまさる愛情を注いでくれたハイドラを裏切ることになる。

 だから、じっと耐え、おのれの絶望を押し隠し、忠義の騎士としてテルシア家に仕えてきたのだ。

 ヴォーラへの恨みを消し去り、敬愛しようと努めてきた。

 それはうまくいってきたと思っていた。

 その後、ハイドラからも、ヴォーラが領主になってからも、領地下賜の話はあったが、すべて断った。

 もう領地を持つ必要などないのだから。

 そしてテルシア家に尽くし抜き、ヴォーラが死んで二年の月日が過ぎてから、致仕を申し出て放浪の旅に出たのだ。

 自分の騎士としての生涯に一点の曇りもない、とバルドは思ってきた。


 けれど。

 けれど、ああ。

 そんな自分の態度こそが、ヴォーラを苦しめたのではないか。

 自分の怒りに、絶望に、あの鋭敏なヴォーラが気付かないということがあるだろうか。

 忠義の家臣として身を捧げれば捧げるほど、その行いはヴォーラの心臓を鋭く斬り裂いたのではないのか。


 バルドは自分が犯してきた罪の重さに震えた。


 9


 カーズとジュルチャガを連れてトード家に帰った。

 夕食は素晴らしいものだったが、味けなく感じた。

 やがてバリ・トードが帰宅した。

 バルドは、お疲れのところ申し訳ないが、〈教導スパーサ〉を受けたい、お願いできるだろうか、と尋ねた。

 バリ・トードは快く引き受け、椅子一脚を横向きに置き、その向こう側に置いた椅子に座った。


 バルドは両手の拳を握り合わせて額につけると、手前に置かれた椅子に突っ伏した。

 両方の膝を床に付けて。

 そして自分の犯した罪を述べ立てた。

 話はテルシア家に拾われた十歳の時に始まり、引退して旅に出た五十八歳の時に及んだ。

 長い長い告白を、上級司祭は黙って聞いた。

 そして最後にバルドは、どうしたら自分の罪を償うことができるかを尋ねた。

 上級司祭は、しばし神への祈りを捧げたあと、バルドに告げた。


「その考えは間違っています。

 あなたは自分の罪を償う前にすることがあります」


 バルドは、それは何か、と問うた。


「ヴォーラ殿を許すことです」


 という上級司祭の言葉に、バルドは驚いて、こう言った。


  許すも許さぬもない。

  そもそもわしにはヴォーラ様を責める資格などないのじゃ。


「それは自分の都合で考えるからです。

 いいですか。

 あなたが自分の罪を償いたいと思うのは、許されたいからであり、楽になりたいからであり、結局自分のための行動なのです。

 自分のことを考えるのはやめなさい。

 まず相手のことを考えるのです。

 あなたが本当に相手のために考え、動くことができたら、あなた自身のことは神々がよいようにしてくださいます。

 ではヴォーラ殿が何を望んでいるかといえば、あなたとアイドラ姫から許されることです。

 許され、解き放たれることです。

 あなたにその資格があろうがなかろうが関係ありません。

 さあ、許しなさい!

 全身全霊をもってヴォーラ・テルシアを許すと、神々に宣言するのです!」


 その言葉を呑み込むのには、しばらくの時間がかかった。

 やがてバルドは、わしはヴォーラ・テルシアを許す、と言おうとした。

 だが、できなかった。

 無理やりに言おうとした。

 すると、心の中からこんな声がした。


 なぜ許さねばならんのか。

 ヴォーラ・テルシアの過ちを、なぜわしが許さねばならんのか。


 心の抵抗は強く、バルドは、口では自分にはヴォーラ様を責める資格などないと言いながら、心の奥底ではずっと責め続けていたことを思い知った。

 なぜ許してはならんのか、とバルドは自分自身に問い掛けた。

 すると答えがあった。


 許してしまったら、アイドラ様の三十年は、どうなる。

 日陰者として生きねばならなかった三十年は、どうなる。

 わしの三十年の苦しみは、どうなる。

 それでは。

 それでは。

 アイドラ様が、わしが、あまりにかわいそうではないか。


 その答えにたどり着いたとき、バルドは、なるほどわしはヴォーラ様を許さねばならぬ、と得心した。

 そして、自分自身の心をなだめ、いたわり、諭していった。

 長い長い時間がかかった。

 やがてバルドは、小さな声でしぼりだすように、わしはヴォーラ・テルシアを許す、と口にした。

 さらに大きな声で、同じ言葉を繰り返した。

 三度目に顔を上げ、響き渡る大声で、わしはヴォーラ・テルシアを許す、心の底から許す、と叫んだ。

 上級司祭は優しくバルドの頭を包み込み、祝福の言葉を告げた。


「神の愛し子、バルド・ローエン。

 あなたの誓約は神々がお聞き届けになりました。

 よくぞ許しました。

 よくぞ愛しました。

 あなたの上に祝福を」


 翌朝バルドが目覚めたとき、目に飛び込んだ朝の光は限りなく美しく、鼻から吸い込む大気は甘くかぐわしく清浄そのものだった。

 かつてないすがすがしい目覚めに、バルドは自分がすでに許されたことを知った。


 それから昨日のことを振り返り、一つのことに気付いた。

 あの言い方だと、たぶんジュールラントは、バルドとアイドラのあいだの最後の秘密を知らない。

 教えるべきだろうか。

 しばらく考えて、そうするべきではない、という結論に達した。

 あのことを知る者は、神々のほかにはただアイドラとバルドしかなく、アイドラは何も告げずにこの世を去った。

 ならば自分も同じようにしよう。

 ジュールラントに教えたからといって、苦しめる以外の結果にはならないだろう。

 それに、である。

 一緒には生きられなかった二人であるが、ただ一つの秘密をともにするぐらいは許されてよい、と考えたのである。


 それからまた、あの年の砦からの帰り道のことを思い出した。

 どうやって自分の心を伝えればよいかと考えてもよい思案が浮かばず、窓の下で恋歌でも歌おうかと考えていたのだった。

 自分のへたくそな恋歌を聴いてアイドラがどんな顔をしたか。

 それが見られなんだのは少し心残りじゃのう、とバルドは思った。

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