第4話 工学識士オーロ

 1


 頭が重い。

 関節が、どこもかしこもひどく痛む。

 喉が痛い。

 珍しいことに、かぜをひいたようだ。

 しかもかなりきつい。


 ノックの音がした。

 そろそろ朝食の時間だ。

 朝食は部屋で一人で食べるようにしている。

 いつも決まった時間に従者が持ってくるのだ。


「おはようございます。

 バルド・ローエン様」


 驚いたことに、ワゴンを押して料理を持って来たのは、カムラーだった。

 いつもならバルドはこの時間には散歩を済ませている。

 そのバルドがまだベッドの中にいることについて、カムラーは何も言わない。

 何も言わず当たり前のような顔をして、サイドテーブルをベッドの脇に寄せた。

 料理を置いて、ふたを取る。

 とたんに熱せられた牛乳の甘い香りが立ち上った。


 シチュー?

 いや、スープか?


「少し熱めになっておりますので、ゆっくりとお召し上がりください。

 この壺には、湯冷ましの水に果物の絞り汁と少しの塩を入れたものが入っております。

 お休みになりながら、少しずつ少しずつ、お召し上がりください」


 うむ、と返事をしながら、バルドは不思議でしかたがなかった。

 この料理は明らかにバルドの体調に合わせたものだ。

 疑問は、どうやってカムラーがそれを知ったかだ。

 かぜであることは、誰も知らない。

 バルド本人も今朝になって気付いたのだ。

 それから誰にも会っていない。

 いったい誰が。

 その謎はすぐに解けた。

 部屋を出るとき、カムラーが、


「ジュルチャガは夜まで帰らないそうです」


 と言ったのだ。

 やつか、と思ったそのあと、次の疑問が浮かんだ。

 ジュルチャガはどうやってバルドのかぜを知ったのか。

 相変わらず油断のならない男だ。

 ガウンを羽織ってベッドに座り、料理をひとさじすくって口に入れた。


 これは!


 なんとそれは、かゆであった。

 麦がゆではない。

 プランを牛乳で炊いたかゆだった。

 食欲はなかったのだが、体はこのかゆを受け入れた。

 喉を過ぎたかゆが臓腑に収まる様子が、はっきりと分かる。

 かぜとの戦いに疲れ切っていた五臓六腑が、この思わぬ援軍の到着に喜んでいるのが分かる。

 かゆの温かさが、体のすみずみに染みていく。


 ああ。


 うまい、ということは体が喜ぶということなのだ、とバルドは思った。

 プランはほどよく煮つぶれていて、ちょうどよかった。

 それなのに牛乳は煮詰まっておらず、さらさらしている。

 ゆっくりゆっくり食べたつもりが、ほどなく料理はなくなった。

 再びベッドに戻って一眠りした。

 体がぽかぽかと温まった。

 しばらくすると目が覚めた。

 汗をかき、喉が渇いたので、果汁入りの塩水とやらを飲んだ。

 美味だった。


  くそっ。

  くそっ。

  カムラーめ。


 バルドは不思議だった。

 どうしてあんな、人を人とも思わないような傲慢無礼な男に、こんな心遣いができるのか。

 バルドの考えとしては、性格の悪い人間には本当においしい料理は作れないはずなのだ。

 もしかしたら逆かもしれない、という考えがふと浮かんだ。

 つまり、あんな男なのによい料理が作れるのではなく、これだけよい料理が作れるのだから、実はやつはいいやつなのではないか、という考えである。

 すぐにそれを打ち消した。

 カムラーはカムラーだ。

 いいやつなどではあり得ない。


 時々目を覚ましては水を飲んだ。

 夜にはすっかり体調が戻った。


 2


 翌日、バリ・トード上級司祭に連れられて、下街ユーエにある工房を訪れた。

 会わせたい男がいるという。


 工学識士オーロ。


 というのがその男の名前だ。

 識士というのは、各専門分野で優れた知識を持っていると認定された者に与えられる称号だという。

 識士の上には大識、その上には博識、という称号があるらしい。

 博識というのは一つの分野に二、三人しかいない、いわばその道の権威なのだという。


「こ、こんにちは」


 とあいさつしてきたのは、三十は少し過ぎた年齢だろうか、色白で痩せてぼさぼさの髪をした小男だ。

 なぜこんなにおどおどしているのだろうか。


「こらっ。

 オーロ。

 それが騎士様に対する口の聞き方か!

 いつもいっておるではないか。

 お前はそんなことだから、実力を認めてもらえんのだ。

 バルド殿。

 お許しくだされ。

 この男に悪気はないのです。

 知識の広さと発想の豊かさでは並の工学大識にまさるのですがなあ。

 ウェンデルラント陛下が目を掛けて、研究を支援してくださっているのです」


「あ、あの。

 すいません。

 で、その、こちらのクロスボウなんですが」


「こらっ。

 お前はまた、そうやって自分のことばかり。

 バルド殿のご用事をお聞きするのが先であろうがっ」


 まあまあ上級司祭殿、まずはそのオーロとやらの話を聞いてみましょう、とバルドは言った。

 バリ・トードの怒る様子から、この男のことを心配しているのが伝わり、悪い気はしなかった。

 また、こういうタイプの人間は、本人の興味あることから斬り込んだほうが話がしやすい。


 それにクロスボウと聞いて興味がわいた。

 パクラにもクロスボウはあったし、バルドも使ったことはある。

 しかしクロスボウというのは射程や威力では大弓に劣るし、重くて取り回しは悪く、連射速度ときてはお話にもならない。

 唯一の取りえといえば練度の低い兵にも使えることぐらいだ。

 この大国パルザムでは、クロスボウの新しい使い道があるのか。


「じ、実際に様子をみていただいたほうが、い、いいと思うんで。

 これ、撃ってみてもらえませんか」


 工房の中庭に平板の的がしつらえてある。

 バルドはクロスボウを持ち上げた。


  重い!

  なんじゃ、この重さは。


 驚いてよく見ると、非常に多くの部分が金属で作られていた。

 台座の部分など、まるまる金属だ。

 留め金も、引き金も、さらには弓の中央部分までが金属だ。


  金属と木をつないで弓を作ったのか。

  しかしこれではつなぎ目の部分が折れやすいのではないか。


「だ、だいじょうぶ、です。

 木の部分のずっと中のほうにまで、粘りの強い金属が仕込んであるんで」


 とにかく撃ってみることにした。

 巻き上げ式である。

 つるを留め金に掛け、台座の両側にハンドルをはめ込んで、きりきりと弦を巻き上げた。

 そして矢をつけた。

 ずいぶん太い矢だ。

 重量のあるクロスボウなので、腰撓こしだめで安定させ、引き金を引いた。

 予想をはるかに超える勢いで矢は飛び出し、分厚い木の板を貫通して石壁に当たって砕け散った。

 そのあまりの威力に、バルドは呆然とした。


「す、すごいっ。

 バルドさん、すごい」


 とオーロがほめてくれたが、すごいのはこのクロスボウのほうだ、とバルドは思った。

 このクロスボウなら、誰が撃ってもこの威力が出るはずである。

 しかしバルドがそう言うと、オーロは、


「そ、そうじゃないんです。

 そんなに思いきって、ひ、引き絞れないです。

 引き絞りすぎると、弦は切れるし弓は折れるし。

 あ、危ないんです」


 それを先に言えっ。

 と思ったが心を静め、気になったことを訊いた。

 どうしてこんなに金属を使うのか、と。


「こ、この国は、良質の木が少ないです。

 金属なら、いろいろの種類が、た、たくさんあるし。

 最近は、いろんな工房で研究が進んで、粘りけがあって、も、元に戻る力の優れた金属も出てきたし」


 というオーロは答えた。

 すると、バリ・トードが、


「しかしこんなに重くては、実戦で使えないのではないか」


 と、指摘した。


「ゆ、弓と同じように考えるから、そう思うんです。

 発想を、か、変えるんです。

 何なら、台座を持って移動し、だ、台座に乗っけて撃ってもいいし。

 もっともっと重くして、もっともっと威力を高めても、い、いいじゃないですか。

 いっそ矢も鋼にして、聖硬銀のやじりをつけて。

 そ、そしたら、五十歩先のフルプレートアーマーを、一発で貫通する兵器になります。

 も、もちろん盾ごとぶち抜ける」


 バルドは愕然がくぜんとした。

 確かにそんな可能性を、このクロスボウは持っている。

 そんなクロスボウが百丁あったら。

 戦争がまるで変わる。


 だがそれは残虐すぎる武器だ。

 殺さずに人質に取って身代金を得るという騎士の戦争のやり方と合わないだろう。

 それとも中原の戦争は、辺境で知っているのとは全然ちがうものになってきているのだろうか。


「ばかものっ。

 使い捨てにひとしいやじりを聖硬銀などで作ってみよ!

 どんなに裕福な騎士でも、一戦で破産するわっ」


「いてっ。

 司祭様。

 な、なぐらないでくださいよう。

 た、たとえばの話じゃないですか。

 それで、ど、どうでしょう、バルドさん。

 じゃなかった。

 バルド様。

 仕組みのほうは、だ、だいたい出来てきたんですけど。

 弓の強度が、あ、安定しないんです。

 それと、弦が。

 いろいろやって、しゃ、チャトラ蜘蛛の糸に落ち着いたんですけど。

 ほ、ほつれやすくて。

 そ、それから、もう少し弾力があれば、って。

 ば、バルド様は弓の名手だから、何か教えていただけないかなって、お、思いまして」


 自分が弓の名手だなどと言ったのは誰か。

 むろん、ジュールラントである。

 よけいな仕事を増やしおってと思ったが、口に出すわけにもいかない。


 それからしばらく話をして、金属の弓は将来性があるが、現状では木の単一素材をいろいろ試したほうがよいのではないか、と助言し、こう言った。


  育って百年たった木で作った弓は百年もつ、千年の木なら千年もつ、という。

  それも木の外側のほうでなく、中心部分を使ったほうがよい。

  ある程度の年齢を持った木で、しかも伐採してからじゅうぶん寝かせた木がよいのじゃ。

  水気も抜いておらん若木に無理をさせるから品質も安定しないし折れやすい。


 しかし、弓の素材として優れた木のほとんどがここでは手に入りにくいようだ。

 話しているうちに、あることを思いついた。

 辺境には、弓にぴったりの木を大量に抱えている家がある。

 コエンデラ家だ。

 あそこの領地の木材は最高だ。

 コエンデラ家はかつて横領した金を毎年パルザム王国に返済しているはずだ。

 その返済金の一部を木材でといえば、喜んで飛びつくのではないか。

 大きさを指定して優良な木の芯の部分だけを切り出させ、リンツ伯を通してここまで運ばせるのだ。

 あちらの経費で。

 その思いつきをバリ・トードに話すと、手を打って喜んだ。


「いやいや。

 なんと、なんと。

 最高ですな、それは!

 じつは今年の返済分も捻出できないと、猶予を願う手紙が着いたのですよ。

 私はその件について相談役のような立場でしてな。

 ふ、ふ、ふ、ふ。

 その素敵なアイデアを財務官に話したら、それはもう感謝されること請け合いです。

 むろん、材木はすべて王宮に収められますが、その一部をこの工房に回すのは問題ありませんな」


 それにしても、とバリ・トードはオーロのほうに向き直った。


「いつも言っているであろう。

 頭の中からだけ物を生み出そうとするのでなく、自然に学べと。

 バルド殿の教えで目が覚めたか。

 金属に妙にこだわるのはやめなさい。

 自然の木材の優れた特質をしっかり学び、活用しなさい」


「は、はい、司祭様。

 自然は素晴らしいです。

 木材はすごいです。

 でも司祭様。

 こちらの思う通りの木材を作り出すことはできません。

 けれども金属は、今は無理でも、いつかはこちらの思う通りのものを生み出していけます。

 そんな気がするんです。

 いつかはきっと、水に浮くほど軽くて聖硬銀より硬い金属もできるでしょう。

 糸よりほそくしなやかで、魔剣でも切れない金属もできるでしょう。

 それも自然です。

 この世にあるものは、すべて自然なんです」


 こいつ興奮すると普通にしゃべれるのだな、と思いながらバルドはオーロの熱弁に耳を傾けた。


 3


「オーロ、何か用か」


 と言いながら部屋に入ってきたのは、五十を少し越えたかと思われる真っ黒な肌の男だ。

 目はぎょろっとしていて、髪はちりちりに丸まっている。

 あまりに肌の色が黒いために、唇が白っぽくみえる。


「あ、ニテイさん。

 い、いらっしゃい。

 バルド様。

 こちら、か、革防具職人のニテイさんです。

 ち、ちょっと変わった人ですけど、腕はすごく、い、いいんです。

 革鎧の修復の、ご、ご依頼があるって聞いたので」


 バルドは袋から革鎧を出した。

 相当荒っぽい使い方もしたから、傷も付いているし、ほつれかかっている所もある。

 きわめて頑丈な鎧ではあるが、損傷が小さいうちに修復したほうがよいと思ったのだ。

 それを先日バリ・トードに相談したら、今日ここに連れてこられたのである。

 革鎧を手に取ったとたん、ニテイの顔色が変わった。


「こ、これは!

 ま、間違いない。

 川熊の魔獣の革鎧だ。

 なんて大胆な型取りだ。

 げっ。

 まさか。

 ここに魔獣の骨を使ってるのか。

 うおおお!

 なんという絶妙の組み合わせだ。

 すごい。

 なんてものすごい。

 しかもこの縫い目の美しいこと」


 ニテイは、うなり声を上げながら、革鎧のあちこちを調べた。

 やがて、こう言った。


「旦那。

 これは毛皮自体もとんでもなくいいもんだが、とにかく職人の腕がすごい。

 技と工夫の塊だ。

 これだけのものを作れる職人は、今のこの国にはいない。

 悔しいが、俺より数段上だ。

 この仕事をやったやつの名前を教えてもらえないか」


 バルドは、これはクラースクという街のポルポという職人がやった仕事だ、と説明した。

 そして、懐から糸束を取り出して、これは補修用にともらった糸だ、と言った。


「ほう。

 そうだろうと思ったけど、チャトラ蜘蛛の糸か。

 きれいにより合わせてあるなあ。

 どうして全然ほつれがないんだ?

 それにこの色、この匂いは」


「チャトラ糸だって!?

 ほつれがないだって!」


 大声を上げたのはオーロだ。

 走り寄ってくると、ニテイの手から糸束を奪い去り、食い入るようにみつめた。


「ほんとだ。

 全然、ほつれなんかない。

 おお!

 引っ張っても、乱れない。

 鋼のナイフじゃ切れない。

 これだけより合わせてるのに、すごくよく曲がる。

 どうやって加工してるんだ?」


 やはり興奮するとつかえずにしゃべれるようだ。

 バルドは、この川熊の魔獣の毛皮を薬液につけ込んで毛を処理したあと、その薬液に四十八本より合わせたチャトラ蜘蛛の糸を漬け込んだと聞いたのう、魔獣の毛皮のエキスがどうとかいう話じゃった、と教えた。

 オーロは、目を見開き、全身を耳にして聞いている。

 バルドはさらに、何日か漬け込んだあと乾かして、蝋を塗ると言っておったがのう、と付け加えた。


「ま、魔獣の毛皮のエキス。

 そうか。

 そんな手が、あ、あったのか。

 じ、実験してみたい。

 けど、魔獣の毛皮の、え、エキスなんて、どうやって手に入れたら」


「あるぞ」


 と答えたのはニテイだ。


「言ってなかったかな。

 この前、さる所から魔獣の毛皮を鎧に仕立てる仕事があったんだ。

 なんと耳長狼の魔獣の取れたての完全な毛皮が、しかも二匹分、持ち込まれた。

 それで一人分の鎧を作れってんだから、豪儀な話だよ。

 しかもできるだけ素早い動きができるよう、ごてごてしない作りにしろってことだった。

 さすがの俺も、新品の魔獣の毛皮を処理するのは初めてだったよ。

 じいさんのノートを引っ張り出して薬液を調合して漬け込んでね。

 寸法書きの通り仕立てて送ったよ。

 手間賃もたっぷりもらったし、ぐえっ」


 言葉を聞き終えず、オーロがニテイに駆け寄って、首を絞めた。


「どうして!

 どうして僕を呼ばないんだっ。

 どうしてだああああああああ!」


「おまっ。

 くる。

 しい。

 死ぬ。

 だすけ」


 あまりに手加減なしに絞めているので心配になり、バルドはオーロを引きはがした。

 しばらく呼吸を整えてから、ニテイは言葉を続けた。


「残った革や骨やなんかは、全部送り返した。

 手入れ用の端切れや糸と注意書きを添えてね。

 そういう契約だったんだ。

 でも、そのエキスたっぷりの薬液は残ってる。

 抜いた毛はもらってもいいと思ったし、エキスもいろいろ試したかったんでね。

 しかし、チャトラ糸をねえ。

 その発想は、なかった」


 どうやら、オーロの二つ目の問題も、取りあえずは解決したようだ。

 バルドがニテイに、その注文主はリンツ伯爵サイモン・エピバレス殿じゃろうと言うと、ニテイは目を白黒させて驚いた。

 その毛皮をサイモン殿に渡して仕立てをたのんだのがほかならぬバルドなのである。

 息子カーズ・ローエンのために。

 そう言うと、ニテイはますます目を見開いた。


 バルドはニテイに革鎧を預けた。

 ニテイは、丁寧に補修したいので三日預からせてくれ、と言った。

 バルドは、一日で頼む、と言った。

 騎士がいざというとき戦えないのでは話にならないからだ。

 けっして、目をらんらんと輝かせて革鎧に見入っているオーロに不安を覚えたからではない。


 4


 謁見えつけんがいつになるのかという連絡は、まだ来ない。

 なるほど王というものは忙しいものだろうが、バルドに会うための時間はごく短いものですむはずだ。

 バルドは少しいぶかしく思い始めていた。

 かりにも王の賓客と呼んだ人間を王宮内に招かず、臣下に預けるというのも、よく考えてみると妙といえば妙だ。

 おかげでバルドは堅苦しい思いもせず、自由に街を歩き回ることもできるし、食事も最高ではあるが。

 何か王宮に人を入れたくない事情でもあるのだろうか。

 そのわけは、はたしてこの夜、明らかになった。


 この日の晩餐も、非常に素晴らしいものだった。

 滞在して十日間、トバクニ山の温泉に行ったときの弁当を別とすれば、晩餐に同じ品目が出たことはない。

 肉も野菜も美味だった。

 だがやはりバルドの記憶に一番残ったのは、締めの甘味かんみだ。

 どうもこの家では、いやこの国の貴族はかもしれないが、食事の最後に甘味を食べる慣例のようだ。


 今日は久しぶりに、当主と同席だった。

 客用の館ではなく、本館のほうの晩餐室で食事をした。

 奥方やお子たち、主立った騎士たちも同席している。

 バリ・トードもカーズも一緒だ。

 ジュルチャガは街を歩き回って何か食べ物を買って帰ったようだ。

 今ごろ別館の使用人部屋で食事をしているだろう。

 あとで味見をさせてもらわねばならない。


 食事が終わって、さあ今日の甘味は何かなと思っていると、助手にワゴンを押させてカムラーが入って来た。

 ワゴンの上に乗っている物を見て、驚いた。


  緑炎石じゃのう。

  じゅうぶんに火が入っておるようじゃ。

  食後の甘味を出すのに、なぜ火が必要なのじゃ。


 そのあとから平鍋を持った助手が入って来て、燃える緑炎石の上に平鍋を置いた。

 カムラーが指で合図をすると、助手は平鍋のふたを取った。

 とたんに。

 何とも甘くて上品な香りがただよってきた。

 いや、甘いだけの香りではない。

 酸味を帯びたひどく濃厚な香りだ。

 平鍋の中の物を大型のスプーンでつついて調えながら、カムラーが説明を始めた。


「鍋の中には、小麦粉を卵と牛の乳で引き延ばした生地を、薄く焼いて折りたたんだものが入っております。

 ソースは、七種類の果物の絞り汁に、エイボの蒸留酒を加えたものです。

 エイボの蒸留酒は、それ自体はうまみに乏しい酒ですが、暖めると上品な甘みがでます。

 そして」


 カムラーは、小さな火ばさみで燃える緑炎石をつかむと、それを平鍋にかざした。

 すると、平鍋のソースがふわっと燃え上がり、紫の炎を発した。

 おおっ、という声が上がった。

 薄暗い部屋の中で燃え上がった炎は神秘的な美しさで、料理人の、そして卓に座る人々の顔を照らした。


「このように燃やしてやりますと、非常によい香りが出るのです。

 さあ。

 貴婦人を飾るブーケのように、料理を香りで飾り立てるといたしましょう」


 そう言いながらカムラーは、大きなスプーンでソースをすくっては料理に掛けた。

 すぐに炎は収まったが、一同の視線は料理にくぎ付けである。

 助手が皿を差し出すと、カムラーは平鍋の中の物を皿に取り分けた。

 カムラーの横に立った助手が、壺から何かをすくってその上に乗せた。

 助手はすーっと歩いてその料理を当主の席に運ぶ。

 当主はそれを一瞥いちべつして、了承のしるしにうなずく。

 そしていよいよ料理の皿は、主賓たるバルドのもとに運ばれた。


「お待ちにならず、すぐにお召し上がりくだされ」


 と当主に言われ、バルドは料理を口に運んだ。

 ああ。

 至福の香りだ。

 甘くて、すっぱくて、ふくよかだ。

 今夜の魚も肉も素晴らしい香りだったが、こうしてみると、鼻の奥のほうにまだ刺激されきっていない部分があったのだと分かる。

 この甘味の香りは、その足りなかった部分を満たして、何ともいえない幸福感を与えてくれる。

 生地はすっきり焼かれていて歯ごたえがよい。

 それでいて、たっぷりとソースを吸って柔らかい。

 それはバルドが経験したことのない食感であり、うまさだった。


  だが、これは何じゃ。

  ちょこんと生地の上に乗せられた、これは。

  まさか。


 バルドはその半球型の物をスプーンでそぎ取って口に入れた。

 やはりそうだった。

 バルドは驚愕した。

 それは氷菓だったのだ。

 もう一さじ、口に運んだ。


 間違いない。

 これはエイボの実から作った氷菓だ。

 エイボの蒸留酒で仕上げた温かい甘味の上に、エイボから作った氷菓を乗せてあるのだ。

 バルドは生地と氷菓を一緒に口に運んだ。


 温かい。

 温かいのに冷たい。

 冷たいのに温かい。

 何ともいえない不思議な美味だ。


  くそっ。

  くそっ。

  カムラーめ。

  何というぜいたくな。


「ごちそうというものは、舌で楽しんでいただくことはもちろんですが、音で、色で、香りでも楽しんでいただくものなのです。

 どうか当家の食後甘味を、心ゆくまでお楽しみください」


 とカムラーが説明を締めくくった。

 今日もカムラーの完勝である。


 5


 食事が終わると、バリ・トードはバルドたちを促して、客棟に移動した。

 そして人払いをした。

 今、部屋にいるのは、バリ・トード、バルド、カーズ、ジュルチャガの四人だけである。


「バルド殿。

 この件については、くれぐれもご内密にお願いします。

 実はウェンデルラント王陛下は、ご病気なのです。

 ここひと月ほどは体調の悪化も著しく、もはや起き上がって政務を執ることも難しい状態なのです。

 明日、急きょジュールラント殿下の立太子式を行います。

 特に身分の高い貴族と重臣だけが集まる、ごく内々の式典となります。

 諸都市、諸国にはただちに立太子を通達いたし、民にも布告しますが、正式の立太子式は行いません。

 ほかにも今、いくつか問題が起きているのですが、私の口から申し上げられるのはこれだけです。

 それと、もう一つ。

 明日夜、ジュールラント殿下がこの屋敷にお見えになります。

 午後は外出しないようにしていただきたい」


 それから四人は酒を飲んだ。

 貴族家が客を招いて晩餐するときは、夕方に始まって深夜もしくは明け方まで続くものだから、まだ遅い時刻とはいえないのだ。

 つまみは、ジュルチャガが屋台で仕入れてきた食べ物である。


「この串焼きは何かの」


「牛の舌だね」


「そういえばそうか。

 しかし、牛の舌は私もよく食べるが、これはちょっと変わった味だ」


「熟成させてるんだって」


「なるほど。

 確かに臭い。

 臭いがまたそれがいい」


「あ、ちょ。

 それは残しといてよー。

 司祭様、食べ過ぎ。

 またしびれ薬入れちゃうからな」


 なぜかバリ・トード上級司祭とジュルチャガが仲良くなっている。

 歓談の中で司祭は、ふと、こんなときにゼノスがいたらなあ、とつぶやいた。

 バルドは、それは誰かと訊いた。


「ああ。

 古い友なのです。

 平民なのに医学博識まで上りつめた男でしてな。

 王宮に上がるようになっても、下級平民の治療のほうに時間をさいておりました。

 あの男がいれば、王陛下の病気も治せるかもしれません」


 その人物は死んだのかと思ったら、そうではなかった。

 罪を犯して追放されたのだ。

 この国では死体を傷つけることは重罪である。

 その禁を犯したというのである。

 それほど憎い相手だったのかと訊いたら、そうではなかった。


「あの男の妻と娘ですよ。

 はやり病で死んだのです。

 あの男は常々、人間の体の中がもっとはっきり分かれば、治療はうんと進むのにと言っておりました。

 鳥や獣はそうとう切り開いておったようですが、人間はまたちがいますからな。

 それで二人は、自分たちが死んだら、ぜひ体を切って中を見てほしい、と言い残したのです。

 あの男は、その遺言を守りました。

 そして助手に密告されたのです」


 本来なら死刑になるところだったが、ゼノスという男の功績は大きかった。

 また、平民からも貴族からも助命を望む声が強く起こった。

 それで国外に追放されたのである。

 その後、先王の崩御にともない特赦令が発せられた。

 つまりもう追放は取り消されているのだ。


「ゼノスピネンは、医学にすべてをささげた朴念仁でしたがね。

 悪いやつではなかった。

 ああ、一つだけ妙な趣味がありました。

 料理ですよ。

 しかも、ノゥレのうまい食べ方なんぞを研究しておりましたな。

 何度もひどい物を喰わされました。

 いやいや。

 ノゥレなんぞはどう料理したところでノゥレに過ぎませんからなあ」


 ゼノスピネン。

 ノゥレ料理。


 バルドはある老人を思い出した。

 あれは去年の五月ごろだったか。

 ゴドン・ザルコスとともに、エグゼラ大領主領の東の端の村のそのまた奥の集落に行った。

 そこでピネンという老人の作ったノゥレ料理を食べたのだ。

 人になじまぬ亜人たちがその老人のことを賢者オーラと呼んでいた。

 老いてはいたが、かくしゃくとしていた。


 バルドはそのことを司祭に話した。

 枢密顧問という国家の要職にあるこの聖職者は、バルドに抱きついて喜び、すぐに迎えの使者を立てると言った。

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