第3話 カントルエッダ


 1


 身を横たえて目をとじながらも、バルドは眠れなかった。

 頭の中に、先ほど聞いた言葉が繰り返し浮かんでくる。


 〈ヴァン・フルール〉


 それはおとぎ話に出て来る魔剣の名前だ。

 貴族も平民も、男であるなら子ども時代に夢中になるおとぎ話の一つなのだ。


 だが。

 だが。


 今夜、気付いた。

 この言葉を。

 ヴァン・フルールという、誰もが知っている魔剣の名を。

 古風なやり方で発音すれば、どうなる。


 〈ヴェン・ウリル〉


 となるではないか。

 偶然などではない。

 たまたまなどではあり得ない。


 むろん、ヴェン・ウリルの名を聞いたからといって、〈ヴァン・フルール〉と似ているなどと考える者はいない。

 似ていると気付いたところで、それに何か意味を感じたりはしない。


 だが。

 だが。


 そのためなら国も滅ぼすほどの執念をもって〈ヴァン・フルール〉を探している者がいるとしたら、どうか。

 その者は、ヴェン・ウリルの名を聞いたとき、何も感じないだろうか。


 いや。

 いや。


 必ず感じるはずだ。

 それは自分を呼ぶ声だと。

 やって来い、俺はここにいるぞと誘う声だと。


 とすれば、ヴェン・ウリルという名乗りは物欲将軍を誘う罠なのか。

 誘い出して、どうしようというのか。

 復讐のために殺すのか。

 殺したいのならこちらから行けばよいのではないのか。


 分からない。

 だが、これはこのまま放置してよいと、なぜか思えない。


 カーズの過去にふれる気はなかった。

 あちらから話したいことがあるなら聞くが、こちらから聞く気はなかった。

 それでは、名を捨てさせ、古き誓約からあの男を解き放ったことと矛盾する。


 だが、しかし。

 このことは、今聞いておかねばならないような気がする。

 聞いておかねば、これから起きる出来事に対処できないような気がする。


 そしてまた。

 長年心に掛けてきた師のことが、今日分かった。

 おそらく、間違いない。

 そのことを確かめられる相手は、カーズ・ローエンだけだ。

 カーズもこちらが聞くのを待っているような気がする。


 さまざまに思いをめぐらせながら、やがてバルドは眠りに落ちた。


 2


 トード家に帰ったバルドに、王の引見が延期になったという知らせが届いた。

 ジュールラント王子が帰還したらしい。

 バルドたちは途中長雨で立ち往生したから、ジュールラントの帰還とのあいだにそれほど時間差がないのも不思議ではない。

 王宮では取り急ぎ報告や協議が行われ、個人的な引見は後回しになるのだろう。


 バルドはこの日外出せず、ユエイタンの世話も使用人任せにして、部屋で考え事をして過ごした。

 さまざまな思いが胸をよぎり、整理がつかなかった。

 どうしてこんなに胸がざわめくのか、自分でも分からなかった。

 運命というものは、何かの形をとってやって来るという。

 今まさに、自分のもとに運命が訪れようとしているのではないか。

 それはこの老いぼれた騎士の生き死になどというちっぽけな話ではない。

 もっともっと巨大で遠大な何かが、これからどう転がるかが決まるような、そんな出来事についての予感だ。


 ノックの音がした。


 3


 バルドの返事を待って入室した侍従は、ご子息様がご到着です、と告げた。

 通すように言ってしばらくして、カーズ・ローエンが案内されてきた。

 ゴリオラ皇国での用事を済ませて帰ったとすれば、相当に早い到着だ。

 だが、まあ、何をさせても素早いのが、この男の身性みじようではある。

 バルドは、侍従に、しばらくこの部屋に誰も近づかないように、と言った。


 侍従が下がったあと、バルドはカーズをソファーに座らせ、水と酒とどちらがよいかいた。

 カーズが、ワイン、と答えたので、壺からゴブレットに赤いワインをついで渡した。

 水で割って飲みやすくしたワインだ。

 もう一つゴブレットを取って自分のためにワインをそそぐと、それを持ってもう一つのソファーに座った。


 カーズはあっという間にワインを飲み干し、立ち上がるとワインの壺を取りに行った。

 そしてなみなみとゴブレットにワインをそそぐと、ゴブレットを置いたサイドテーブルにワインの壺も置いた。

 二杯目もすぐに飲み干し、これで一息ついたようだ。

 三杯目は、ゆっくりと飲み始めた。


 バルドは、ファファーレン侯爵はお元気じゃったか、と聞いた。


「うむ。

 路銀を返そうとしたが、受け取ってもらえなかった」


 と、カーズが言った。

 それでは招待を断ったことにならんではないか、とバルドがもらすと、


「いや。

 そのことは、けりを付けた」


 という返事だった。

 そうか、と安心しかけると、ひっくり返りそうな言葉が続いた。


「うむ。

 私を倒すほどの剣客ならわが父に会う資格があると言ったところ、アーフラバーンが挑んできた。

 なかなかよい剣士だったが、念のため徹底的にたたきのめしておいた。

 ファファーレン侯爵は、卿には勝てぬ、ローエン卿のご招待は諦めると言った」


 この男はいったいゴリオラ皇国で何をしてきたのか。

 いやな予感を覚えながら、ファファーレン家以外は訪ねたのか、と訊いた。


「いくつも招きがあったが、断った。

 すると侯爵が、皇宮にだけは行ってほしいと頼んできた。

 それで参内した。

 結局六日間参内することになったが、むろん一度も負けなかった」


 六日間参内したが一度も負けなかったという不思議な報告は、明らかに大事な部分が抜けている。

 抜けているが、これ以上聞かないほうがよいような気がしたので、そうかご苦労だったと言って、この件の会話を終えた。

 どのみち、バルド自身は一生行くことのない国なのだ。

 人を殺したり、こちらが殺されるほど恨まれでもしていなければ、もうどうでもよい。

 そんなことより、今日は話すべきことがあった。


 バルドは訊いた。

 カントルエッダ殿は、お前の何にあたるのだ、と。


 カーズは答えた。

 大叔父だ、と。


 やはりそうだった。

 そうでないわけはないのだ。

 どうしてこれまで気付かなかったのだろう。

 カーズの顔立ち。

 髪や目や肌の色。

 背中に長く伸びるたてがみのような体毛。

 立ち振る舞い。

 存在の気配。

 何より剣技。


 バルドに剣を教えてくれた流浪の騎士に、よく似ているではないか。

 もっともバルドは師の素振りは見たが、闘う姿を見たことはない。

 また師は両手で剣を操ったが、カーズは片手で剣を使っている。

 それでも、気付いてみれば、同じ流派としか思えないほど似通ったものがある。


 それにあの辺境競武会の宴の夜に。

 こやつは静かに杯を傾けながら。

「カーズ殿もあの歌はご存じだったのですな」

 と聞いてきた騎士に、うなずいていたではないか。

 わしはこいつに教えておらん。

 では、この男はどこで〈巡礼の騎士〉を知ったのか。


 カーズは明らかに師の血縁者であり、師の弟子もしくは同門だ。


 この偏屈な男のことが気になるのも当然だ。

 知らず知らずのうちに、バルドはこの男に師の匂いを嗅いでいたのだ。

 この男もバルドに懐かしい匂いを嗅いだのかもしれない。

 とすれば、バルドとカーズが出会ったのは、師の導きであったのかもしれない。


 バルドはカーズの顔を見た。

 なぜそんなことを訊くのか、という顔ではない。

 むしろ、やっと訊く気になったか、という顔にみえる。


 カーズはぽつりぽつりと、自分の生い立ちと歩みを語り始めた。

 時々話が飛んで分かりにくくなると、バルドは質問をはさんだ。


 4


 バルドはこの時まで、師の名はカントルで、家名がエッダだと思っていた。

 しかしそうではなく、カントルエッダが名だと分かった。

 複音節の名は高貴な血筋に由来することが多い。

 〈王の剣〉には家名はないのだという。

 もっともカントルエッダ自身は、ふだんカントルと名乗り、そう呼ばれるのを好んだという。

 幼いバルドには、正式の名前を名乗ったわけである。


 ザルバン大公家には時々先祖に近い、つまり狼人に近い者が生まれる。

 といっても、狼人などという亜人が本当にいたかどうか、カーズも知らない。

 ただ目、髪、肌の色、体毛の生え方などに特徴のある者が時々生まれるのは確かだ。

 その者たちは、非常に優れた身体能力と回復力と反射神経を持ち、ひどく長寿なのだ。

 その特質が狼人王に似ているため、先祖返りと呼ばれる。


 先祖返りの者は突然に何の脈絡もなく現れる。

 ザルバンの古いならわしにより、先祖返りの者は、表舞台に立たない。

 卑しまれるわけではない。

 逆に狼人王の生まれ変わりとして尊ばれ敬われる。

 狼人王は死ぬとき、生まれ変わり王の剣となりて国を守る、と言い残した。

 だから先祖返りの者は、〈王の剣〉と呼ばれ、存在を秘され、自由な立場で働きを現すのだ。

 過去に、ザルバン国の独立と安寧がおびやかされたとき、いつも先祖返りの者が力をふるい、外敵を退けてきた。


 狼人王の国の長い歴史のなかで、先祖返りの者が二人同時に現れたことはない。

 だが、カントルが存命のうちにカーズが生まれた。


 カーズは、エニシリトルグと同じ母から同時に生まれた。

 二人には、同じ場所に同じ形のあざがあった。

 すなわち、〈分けられた子〉である。


 邪悪な妖魔が暗黒神パタラポザから盗み出したとされる呪いの笛。

 妖魔はこの笛を妊婦の夢枕で鳴らす。

 すると、その呪いにより子は二つに分かたれる。

 これが、〈分けられた子〉である。

 〈分けられた子〉は普通の双子とは違う。

 普通の双子は二つの命が同時に宿ったものだが、〈分けられた子〉はもともと一つだった命を無理やり分けるのだ。

 一つの命を二つに分けるのであるから、生まれてくる子は半分の生命力しか持たない。

 神々の恩寵も半分しか受けられない。

 しかもその身には呪いがまとわりついているのである。

 呪いを解くには片方を殺すしかない。


 庶民の次男三男ならともかく、尊貴な家の長子が〈分けられた子〉であることは、絶対に許されない。

 片方を直ちに殺し、〈分けられた子〉が生まれた事実はなかったことにされる。

 ところがカーズを殺すわけにはいかなかった。

 明らかに先祖返りの者だったからである。

 狼人王の生まれ変わりを殺すわけにはいかない。


 かといってエニシリトルグを殺すこともできない。

 先祖返りの者は表に立てないのだから、エニシリトルグが大公位を継がなければならないのだ。

 生まれてくるかどうか分からない次子をあてにしてエニシリトルグを殺せば、大公家が滅亡するかもしれない。


 カーズが生まれてほどなく、カントルは放浪の旅に出た。

 それからすぐに東部辺境に来てバルドに会ったとすると、カーズが一歳のときバルドが九歳だったことになる。

 つまり現在カーズは五十歳を少し過ぎている計算になる。

 どう見ても三十歳より上にはみえないのだが。

 先祖返りの者は人の倍以上を生きるというから、今は二十歳か二十五歳だというほうがあたっているのかもしれない。

 一年間バルドに剣と騎士としてのあれこれを教えたのち、カントルは旅に戻った。

 どこで何をしたかは分からない。

 カーズが十五歳のときカントルは帰郷して、カーズに剣を教えた。


 諸国軍の侵攻を受けたとき、カーズは三十歳を少し過ぎていたことになる。

 シンカイは西から、メルカノ神殿騎士団とテューラは北から、セイオンとガイネリアは東から攻め込んできた。

 ザルバンの諸将がこれを迎え撃ち、カントルとカーズは遊撃隊として敵の有力な騎士を討った。

 カーズはシンカイの四将を倒した。

 カントルはメルカノ、テューラ、セイオン、ガイネリアそれぞれの主将と有力武将を倒すという八面六臂の活躍をみせた。


 先祖返りの者たちは、戦場では黒い鎧に全身を包み、ただ〈王の剣〉とだけ名乗る。

 敵は王の剣が空でも飛んで戦場をめぐっているかのように思ったことだろう。

 王の剣はまたも外敵を退けたかにみえた。


 だが、物欲将軍が前線に出てから、すべてが変わった。

 まずはカーズが敗れ、瀕死の重傷を負った。

 次にカントルが敗れた。

 ザルバンの騎士たちは次々に物欲将軍に殺され、各国の侵略者たちは勢いづいた。

 そしてついにシンカイの軍はザルバンの都を落とし、略奪と暴虐の限りを尽くした。

 大公もその一族も次々に討たれ、もはや滅亡はまぬがれないと思われた。

 カーズは傷を押して出陣し、大公の屋敷に侵入して陵辱と殺戮を行うシンカイ兵を蹴散らしたものの、そのまま力尽きて倒れた。


 カーズが目覚めたとき、セイオンの騎士アンドン・シブルニの陣中だった。

 カントルの命を受けた従者たちに運ばれたのだ。

 アンドンはカントルが放浪時代に知り合った騎士で、国にも秘密でカーズをかくまってくれた。


 アンドンはカントルからの預かり物だといって、二つの物を渡してくれた。

 一つは魔剣ヴァン・フルールである。

 もう一つは手紙である。

 手紙にはこう書いてあった。



 復讐は捨てよ。

 すべては終わった。

 敵を殺したとて、人も国も戻らない。

 憎むなといってもむずかしかろうが、できるだけ忘れよ。

 怨み続けても、おのれの心を苦しめ、新たな争いを招くだけだ。

 剣を磨け。

 いつかその剣を必要とする者にめぐりあえよう。

 めぐりあえねば静かに土となれ。

 お前に会えて、わしは幸せであった。

 神々の園で再び剣を交えようぞ。

 そのときまでに、わしを越える剣を身につけておけ。

 楽しみにしている。



 カーズは傷が癒えてから中原の諸国を回った。

 心の中はからっぽだったが、剣を磨けとの言葉を唯一の頼りに生きた。

 腕の立つ騎士の噂を聞けば決闘を挑んだ。

 ずいぶん無茶なこともやった。


 そうしているころ、ザルバンの遺民が中原のあちこちにいるのを知った。

 みな苦しんでいた。

 奴隷に落ちている者もいた。

 カーズはアンドン・シブルニの用意してくれた名前を捨て、ヴェン・ウリルと名乗って彼らに援助を与え、クラースクに向かわせた。

 クラースク領主に頼まれた者だといつわって。

 とにかく金が必要だったから、刺客のような仕事も請け負った。


 十数年かけてザルバンの遺民たちを探し尽くしたころ、ライド伯の長男の結婚話を知った。

 相手の姫はどこの誰だか分からないという。

 だが、ライド伯といえば、ひそかにトリエンタ妃を保護してくれた騎士だと、カーズは知っていた。

 その正体の知れぬ姫はザルバンに関わりのある者かもしれない。

 カーズはライド伯の屋敷に忍び込み、ザルバン王家に恩のある者と名乗り、姫と話をした。

 果たして姫はカーズの姪であることが分かった。

 彼女がライド伯の長子を愛し助力したがっていること、そのためには大金が必要なことを知った。

 相手の若者は商売などしたこともなく、百万ゲイルを一年で得られる見込みはないという。

 カーズは大金の得られる仕事をする決意をした。

 しかし中原で大金を得るような仕事をすれば目立ってしまう。

 そのことと姫が急に大金を得たことを結び付ける者がいるかもしれない。

 だから辺境で仕事を受けた。

 そしてバルドと出会ったのである。


 5


 なるほどのう、とバルドは思った。

 カーズの話を聞いて、これまで不思議に思っていたことがいくつも得心されたのだ。


 まず、今回あれほど嫌がっていたゴリオラ皇国行きを自ら望んだこと。

 カーズは、セイオン国には行きたくなかったのだ。

 セイオン国にはカーズの顔を知っている者もいよう。

 万一にもカーズがザルバン滅亡のときアンドン・シブルニにかくまわれた男だと知れたら、恩人たるアンドン・シブルニは破滅する。

 同様に、ライド伯爵の領地にも行きたくなかった。

 少なくとも二度、カーズはその地を訪れている。

 忍び込んだとき顔を見られるようなへまをしたとは思わないが、宿屋や店や道行く人に顔を見られずにはすまない。

 カーズの正体や行いが知れれば、姪に迷惑が及ぶのはもちろんのこと、ライド伯にも不利益を与えかねない。


 次に、クラースクに行きたがらなかったこと。

 バルドがクラースクにいると知ったとき、そこには行きたくない様子だったとリンツ伯が言っていた。

 また、ゴドン・ザルコスが領地に戻り反乱を鎮めたあと、バルドはクラースクにコルコルドゥルを買い付けに行ったミドル・ザルコスに同行したが、カーズは自ら申し出てメイジア領に残った。

 それはそうだろう。

 なにしろ、カーズが助けてクラースクに送った人々は、当然カーズの顔を覚えている。

 大変な手間をかけ大金を使ってザルバンの遺民を助け続けた男のことは、クラースクでは話題になっているかもしれない。

 そして、クラースクの初代領主ハドル・ゾルアルスは〈王の剣〉の顔をはっきり知っている数少ない人間の一人なのだ。

 カーズがクラースクに行けば、騒ぎになる。

 カーズの正体が広く知られでもしたら、クラースクは戦乱に巻き込まれかねない。


 だが、分からないこともあった。

 その一つが、物欲将軍の強さである。

 物欲将軍とやらがどれほど腕が立つにせよ、カントルとカーズがまったく歯が立たないなど考えられない。

 そのことを訊くと、カーズはこう言った。


「あれは剣の技というのとは違う。

 かわしようがないのだ。

 接近できればよいのだが、それができない。

 異常なほど勘の良い男で、敵が近づくのを許さないのだ」


 カーズが言うからにはそうなのだろう。

 だがそれはいったいどんな技なのか。

 謎は深まるばかりだ。


 もう一つは、なぜ物欲将軍が、〈ヴェン・ウリル〉と名乗る男を放置したかである。

 拍子抜けしたことに、カーズは物欲将軍が魔剣ヴァン・フルールに執着していたことは知らなかった。

 そして、物欲将軍に復讐しようともしていなかった。

 カーズは大叔父の遺言にしたがって市井にまぎれて生きようとしたのだった。


 なぜ故国の建国の伝説ともいうべき魔剣の名を、自分の名として名乗ったのか。

 おそらく、カーズ自身にもそれは分からないことなのだろう。

 人は矛盾を抱えて生きるものだ。

 忘れようとしても忘れられず、断ち切ろうとしても断ち切れない何かが、カーズにその名を名乗らせた。

 そうとでも思うほかない。


 それにしても。

 ああ、それにしても。

 この男は何たるすさまじい人生を生きてきたことか。


 平和で誇り高かった祖国が。

 何の罪科つみとがもなく踏みにじられ滅ぼされたのだ。

 愛する家族や民人は犯され、奪われ、殺し尽くされた。

 この男の目の前で。

 この男はたぐいまれな強さを持ち、〈王の剣〉として故国を守る使命を持ちながら、その役割を果たすことなく敗れさった。

 その無念さ、その絶望は、いかほどのものであったのか。

 バルドは呪いなどは信じない。

 だがこの男が、自分のような呪われた人間が生まれさえしなければ祖国は滅びなかったのではないか、という思いを持っただろうことは理解できた。


 しかも復讐は禁じられた。

 それはこの男の幸せを願っての命令であったけれども。

 封じ込めるほどに憎しみは腹の中で煮えたぎり煮詰まっていくものなのだ。


 それでも、わずかばかりの使命が見つかった。

 遺民たちを探し助けることと、姪のために大金を稼ぐことである。

 その二つが終わったとき、この男は虚無に抵抗する気力を失ったのだ。

 あのとき、この男をバルドに引き合わせたのはまさに天のこころだった。

 バルドはそう思った。


 だが。

 だが。


 分からない。

 なぜ物欲将軍は魔剣〈ヴァン・フルール〉にそれほど執着したのか。

 それほど執着していたのに、なぜその魔剣の名を名乗るカーズを放置したのか。

 ヴェン・ウリルの名を名乗り始めたのはザルバン滅亡後五年ほどしてだという。

 物欲将軍は、きっと中原の情報を集めていたはずだ。

 血眼で探していた〈ヴァン・フルール〉の名を名乗る男が中原を騒がせていたのだ。

 気付かないはずがない。


 死ぬか病に倒れたのだろうか。

 そうであっても不思議はない。

 ヤンガに攻め入ってケルデバジュ王を殺したのが八十年前だという。

 そのとき二十歳だとしても、ザルバン公国を滅ぼしたときには八十歳ぐらいのはずだ。

 突然心身が衰えたということは、じゅうぶんにあり得る。

 いずれにしても、今はもう死んでいるだろう。

 生きていても百歳の老人を怖れる必要もない。


 ないはずなのだが。

 胸を駆けめぐるこの不気味な予感は何か。

 心の臓に早鐘を打たせ、脂汗を流させる、この不安はどこから来るのか。


 まだだ。

 まだ事は終わっていない。

 これからだ。

 これから何かが起こるのだ。

 バルドの胸に、確信に近い予感がふくれあがっていった。

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