第2話 シェルネリア

 1


 バルドの心は、テーブルの上の三つの物に引き寄せられている。

 テーブルの向こう側には、本来なら同席できるなどあり得ない姫君が座っているというのにである。


 バルドを魅了してやまない一つ目の物は、茶である。

 よく熟成させた茶葉をしっかり煮込んでこくを出した茶なのだが、それだけではない。

 牛の乳を入れて煮込んであるのだ。

 山羊クイークの乳を入れた茶は飲んだことがあるが、これはまったく比較にならない。

 上品で、味わい深く、どこまでもうまい。

 茶葉の持つ渋みや苦みを極限まで引き出しきってうまみを出している。

 同時に、そこに柔和極まる、しかし肉臭さの微塵もない牛乳を入れることで、すべてのとげとげしさを抑え込んでいる。


 二つ目の物は、チーズである。

 これも、山羊のチーズなら食べたことがあるが、まったく違う。

 牛の乳から作ったチーズなのだ。

 まずもって匂いが素晴らしい。

 軽く匂いを嗅いだだけなのに、少し酸味を帯びた粘りけのある香りが鼻孔の奥にずっと揺れている。

 獣臭さを感じさせない上品な、しかし確かな存在感を持つ香りだ。

 歯ごたえも喉ごしもよいが、何より口の中でなめらかに広がって味蕾を刺激するその感触は、あまりに印象的だ。

 もう二度と忘れることはできないだろう。


 三つ目の物は、砂糖である。

 いずれも淡い色合いの、赤白緑黄色の四角い砂糖なのだ。

 どうやって練り固めているのか分からないが、外側はつるりとしている。

 もともと茶に入れるために出してくれたのだが、バルドの気持ちを読み取ったかのように、シェルネリア姫は、どうぞそのまま召し上がってみてください、と勧めてくれた。

 その味ときたら!

 舌に乗せた瞬間、芳醇な甘さに、口の中が一気に唾液で満たされた。

 これこそが、甘さ、というものなのだ。

 しばらくその甘みを舌先で楽しんだあと、思いきってかみ砕いた。

 幸福感が口いっぱいに広がり、下あごの両脇がずきりと痛んだ。

 あまりの甘露に、体がどう反応してよいか戸惑っているかのように。

 この四角い色つき砂糖を十粒ほどもらって、一個一個口の中で溶かしていったら、さぞ幸せな時間を過ごせるだろう。


 そんなバルドの様子を、姫はにこにこしながら見ている。

 カーズとジュルチャガは、バルドの後ろに立っている。

 当然のことだ。

 皇女の前で椅子に座るなど考えられない。

 ところがバルドは座っている。

 いくら私的な場とはいえ、いささか破格な、というより型破りな処遇なのではあるまいかと思った。


 2


「シェルネリア・トルデバダ姫よりの使いでございます。

 ご学友ドリアテッサ姫へのお力添えにひと言御礼申し上げたく、お茶を差し上げたいとのことでございます」


 という突然の申し入れに、取りあえず承諾の返事をした。

 カーズとジュルチャガを同道させるようにとわざわざ付け加えられたのが少し不思議だったが、気にするほどのこともない。

 すると、半刻後にあらためてご案内に参りますと告げて使者の女性は帰った。


「あのね、旦那、

 身分の高い貴族様がたってのは、いろんな名字を持ってるんだ。

 今の名乗り方だと、爵位も付いてないし、皇王の娘だとも言ってないし、王位継承権も入ってない。

 それに、今回の競武会の主催者だとも言ってない。

 要するに、思いっきり一個人として私的に友達が世話になったお礼を言いたい、てことだね。

 こういう口上はね、すごく大事なんだ。

 誰がいつどこでどういう立場で何の用で誰と会うか、てことだもんね。

 きちんと記録されるもんらしいよ。

 この部屋の前でじっと黙って立ってる兵士の人、きっちり覚えてるはずさ」


 と、ジュルチャガが説明してくれた。

 なかなかによく勉強してきているようだ。

 聞けば、皇宮にたびたび上がることになったため、ファファーレン侯爵が家庭教師を付けて作法や知識を仕込んでくれたという。


 明日夜には、パルザム王国側の主催で両国代表の晩餐会がある。

 じいも出るか、と誘われた。

 しかし、ひどく形式のうるさい食事会らしい。

 作法手順もうるさいし、誰がいつ何を言うかもほとんど決まっているらしい。

 そんな場はごめんだと断った。

 するとこういう誘いがきた。


  まあ、わしの顔を見ておきたいのじゃろうな。


 というぐらいに思っていた。

 半刻後に来た案内の騎士について、ゴリオラ皇国が使っている別棟に行った。

 行き合ったゴリオラの騎士たちが妙にきらきらした視線を向けてきた。

 おつきの女官たちのまなざしが熱っぽいような気がした。


 3


 シェルネリア姫をひと言でいえば、お花で包んだ砂糖菓子だ。

 ふわりとしていて、およそ警戒感を抱かせない優しげな雰囲気をまとっている。

 皇宮を出たのは生まれて初めてだそうだ。

 ここまでの旅は何もかもが珍しかった、と目をきらきらさせながら語った。

 十八歳のはずだが、十六歳と言われたほうがしっくりくる。

 話題はほとんど食べ物の話なのだが、食べ物の話題からうまくバルドの経歴や人となりにもふれた。

 バルドは、茶とチーズと四角い砂糖がすっかり気に入ったので、至極くつろいでいた。

 もっとも、この姫が見た目通り頭の中までお花畑だとは思っていない。

 というのは、ジュルチャガがこう言ったからだ。


「うーん。

 一回ちょこっと声かけてもらっただけなんだけどね。

 なんでか分からないけど、ケッタばあさんを思い出しちゃった。

 あ、ケッタばあさんてのは、粉ひきのバンゴーじいさんのおかみさんでね。

 バンゴーじいさんは、いつもケッタばあさんを、ぐずだの、どじだの、のろまだのって怒ってるんだ。

 そのくせ、いつの間にかケッタばあさんの言う通りにしてたりするんだ。

 例えば、ケッタばあさんが、午後からは雨が降りますかねえ、って言うんだよね。

 するとバンゴーじいさんは、お前は馬鹿かって怒る。

 で、さんざんやり込めた後でね。

 結局雨降りの準備をして、粉が湿らずに済むって感じ。

 それにケッタばあさんはね。

 ポケットにお菓子とか入れててさ。

 時々おいらたちにくれたんだ。

 おいしかったなあ」


 ジュルチャガの観察眼はなかなかのものだ。

 そのジュルチャガが何かを感じたというのなら、何かがあるのだ。

 と、話はいつの間にか、ドリアテッサのことに戻っていた。


「ほんとにドリアテッサが無事で戻ってくれて、バルド様にはいくら感謝してもしたりませんわ。

 あのが本当に魔獣退治に出掛けたと聞いて、どうしてこんな無茶を許してしまったのか、私自分を何度も責めましたもの。

 でも、バルド様。

 あのは不思議なんですのよ。

 たくさんの色糸が絡まったことがありましたの。

 あの娘がひょいと一本を取ると、きれいにするするとほぐれたのですわ。

 神様が、そっとささやいてくださった言葉を、あの娘は聞き逃さないのです。

 そして神様が示してくださった道を、迷いなく歩いていくのです。

 あとになってそれが正しい道だったと分かるのですわ。

 この競武会出場のことも、出場資格を得るための魔獣退治のこともそう。

 どうしてそんなことをと思ったけれど、結局、冒険は神護により成功し、あの娘は戦が続いて疲れていた人々の心によい風を吹かせてくれました。

 皇王陛下もいたくお喜びでした。

 私の夢も、ちょっぴりかないました。

 私の夢の一つは、女もなかなかやるではないか、と国中の殿方に思っていただくことなのです。

 女には女の役割があることは重々存じておりますが、気付かないうちに殿方は、女は劣ったものと思い込んでおいでなのですわ。

 男の言うことを聞き、古くからのしきたりに従っていればよいし、それ以外のことはしてはいけないと思っておられるのですわ。

 そのことによって、もっと豊かに生きられたかもしれない素晴らしい女性が何方も、世のため人のため何かをなすことなく老いていったのを、わたくし存じ上げております。

 ドリアテッサの活躍に国中のおなごが溜飲を下げたと申し上げたら、不快にお思いですか」


 バルドは突然気が付いた。

 なぜドリアテッサを見ていて胸がざわつくのか。

 甘いうずきを感じるのか。

 アイドラだ。

 ドリアテッサはアイドラなのだ。

 現実にそうであったアイドラではなく、冒険好きなりりしい少女のまま成長したらそうであり得ただろう、もう一人のアイドラ。

 そうだ。

 アイドラこそ、もっと豊かに生きられた女性だった。

 何も剣を取ってでなくても。

 女ももう少し自由に生き道を選べる世の中であったら。

 世に働きを現し、人の幸せと豊かさを生み出せた人だった。

 この姫は、いく人ものアイドラを知っているのだろう。

 女を縛るものは世の人のまなざしだと、この姫は考えている。

 そこにほんの少しだけ風を通したいと願っている。


「ですから、バルド様。

 私はとても楽しみにしているのです。

 この競武会で、あの娘がどんなことをしてくれるのか。

 そこから何が生まれるのか。

 私はそれを邪魔せず、期待を込めて見守りたいのですわ。

 あなたさまも私も、畏れ多いことながら皇王陛下さえも、あの娘のやろうとすることを許したり助けたりしているようで、実はあの娘を導こうとする神様に使われているのかもしれません」


 バルドも楽しみになってきた。

 大いに楽しみになったきた。

 二日後に始まる競武会で、ドリアテッサは、何を見せてくれるのだろうか。


 バルドが部屋に帰ると、シェルネリア姫からの贈り物として、ワインが一樽、焼き酒が二瓶、チーズが二個、そして色つきの四角い砂糖が一箱届いた。

 カーズとジュルチャガにも贈り物が届いた。

 ドリアテッサを助けたことへの礼という意味もあるだろう。

 だがそれだけでもない。

 少しばかりさらしすぎてしまったシェルネリア姫の本性を、「黙っていてくださいましね」とも要求されている。

 そして、さらにそれだけでもない。

 この先何かあればよろしくお願いしますね、ともあの姫はいいたいのだ。

 つまりこの贈り物を受け取るのは、少しばかりの面倒事を覚悟するということになる。

 とはいえ突き返すのは非礼すぎる。

 それに何より、このうまい物を受け取らずにすますことはできない。


 いくさというものは相手と戦って勝ち、いうことをきかせるものだ。

 勝ち方にはいろいろあるが、できるだけこちらが傷つかない勝ち方がよい。

 さらによいのは、相手も傷つけない勝ち方である。

 自分も相手も傷つかず、しかも戦いには勝って相手をしたがわせるのが最上である。

 戦いをしたことさえ相手に気付かせずにしたがわせれば、それはもう達人のいくさである。

 シェルネリア姫は、政治の駆け引きでは達人の風格を持っている、といわねばならない。


  なるほど。

  ケッタばあさんに勝るとも劣らぬ。


 バルドは愉快な気分になった。

 甘やかされて育った末姫かと思っていたが、違った。

 とすると、皇王がひどく甘やかしているという見方も変えなければならない。

 シェルネリア姫が言うことなら是非を問わずかなえようとするのは、可愛さで目がくらんでいるのではなく、姫の判断に信頼を置いているからではないのか。

 嫁に出さず婿を取らせて新たな高位貴族家を作ろうとするのは、愛着から手元に置きたいだけではなく、皇家の有力な味方となる一家を作るだけの器量がこの姫にはある、と思われているからではないのか。


  この競武会でも、シェルネリア姫は何かしでかしてくれるかもしれんのう。


 このときのバルドは傍観者気分だった。

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