第9話 嘘と真実

 1


  仰々ぎようぎようしい造りだのう。


 とバルドは思った。

 ここは、ドルバ領の中心にある、コエンデラ家の本城である。

 どうしてもカルドス・コエンデラと面談したかったので、初めてこの城の中に入った。


 バルドは一人である。

 〈腐肉あさり〉ジュルチャガは、しばらく前に突然姿を消した。

 あいさつぐらいしていってもよさそうなものだが、ジュルチャガらしいといえばジュルチャガらしい。


 意外にも、バルドはすんなりと通された。

 ということは、バルドが来ることを、カルドスは予測していたのだろうか。


「やあ、ローエン卿。

 けいをこの城に迎えるのは、私の夢だったのだ。

 今日は夢がかなっためでたい日だ。

 乾杯に付き合ってもらえるだろうね」


 カルドスは、両手を広げてバルドを歓迎した。

 部屋の中には、カルドスとバルドしかいない。

 たぶん、両側のタペストリーの奥には騎士を隠しているだろうが、いざというときに間に合う距離ではない。

 この部屋は、ずいぶん奥まった所にあり、あいだの通廊には人がいない。


 バルドは手を出さない、あるいは出せないと思っているのか。

 武器を取り上げたから安心しているのか。


 いや、どちらでもないのう、とバルドは思った。

 カルドスは、他人が信用できないのだ。

 重臣であればあるほど、信用できない。

 武や智に優れている人間ほど、信用できない。


 そういう人間に弱みをみせれば。

 重要な秘密をみせれば。


 取って代わられる。

 出し抜かれる。


 そう思うから、この場に重臣たちすら呼べないのだ。

 自分自身が、そうやって人を出し抜き、裏切り、取って代わって現在の地位をつかんだ人間であるのだから、その心配はまったく正しい。


「ずいぶんいろいろ嗅ぎ回っていたようだね」


 蒸留酒を二つの杯につぎながら、カルドスは言った。

 すべてを知っているんだよ、といわんばかりに。

 カルドスは、杯の一つを、バルドに差し出した。

 二人はともに杯を手にし、それぞれの目の高さに掲げた。


剣の下にユエ・ラ・シャンテ


 とカルドスが発声し、バルドは同じ言葉でこれに応じた。

 剣の下に。

 すなわち、これから話し合われることは秘密であり、約束を守れなかったときは剣をもって償う、という意味だ。

 乾杯しながらバルドを見るカルドスの目は、笑っている。


「そして、新年おめでとう」


 と、カルドスは付け加えた。

 三巡ほど前、年が明けた。

 バルドは五十九歳になった。


「まあ、座りたまえ」


 バルドが座ると、カルドスも座った。


「ちょうどよかったよ。

 何が起きたのかを、卿にもちゃんと説明しておきたかったのだ。

 五日後に領主会議が開かれることは知っているかね」


 バルドは、知らぬ、と答えた。


「領主たちには、そのとき伝えるが、卿には今言っておこう。

 わが大領主領及びその周辺地域は、正式にパルザム王国領土たることを宣言する。

 私にはその統括者にふさわしい爵位が与えられるだろう。

 おそらくは辺境伯が」


 バルドの表情は動かない。


「先だって、ジョグが失礼をしたようだね。

 あれは気の早いところがあってね。

 いささか先走ったのだ。

 テルシア家が権利を持つ街や村落を、わがコエンデラ家が勝手に奪うことなどあり得ん。

 そうではなく、これからはみなパルザム王国の領土になるのだ。

 徴税や交易は、コエンデラ家が一括して差配する。

 各領主には相応の待遇を約束するよ」


 乾杯の杯を飲み干したカルドスは、杯に酒をつぎ足した。

 鼻の下で杯をくゆらせ、芳香を、さも気持ちよさそうに吸い込んでいる。


「どうしてそんなことが可能なのか、不思議に思うかね?

 それは、パルザム王国が肩入れしてくれるからだ。

 なぜパルザム王国が私に肩入れするかは、卿に見当がつくかな。

 それはね。

 私がパルザム王の恩人であり、その息子の育ての親であるからだ。

 ……卿はつまらん男だな。

 ここは驚いてみせるところだぞ」


 バルドは無言のままカルドスを見るばかりである。

 カルドスは、ちびりと酒を飲んで、話を続けた。


 2


「すべては、三十年前。

 そうだ。

 今からちょうど三十年前の、あの夏に始まった。

 私は、アイドラ姫を妻にと望んだ。

 だが、直ちにこの城には迎えられない事情ができた。

 自分の娘を私の正妃にしたい親族がいてね。

 その親族は、私が当主になる後押しをしてくれた人物だったので、むげにはできなかった。

 あれこれ調整するあいだ、アイドラ姫には少し離れた場所にある別邸で過ごしてもらった。

 ちょうどそんな時期に、先代のガドゥーシャ辺境侯デュサン・アルケイオスが、一人の若者をよこして、しばらくかくまってほしい、と頼んできた」


 バルドは、目を少し細めて意識を集中した。


「私の母がアルケイオス家の出だということは知っていたかね。

 若者とは、ウェンデルラント王子だった。

 あのとき、十九歳だったのかな。

 王子の母上は、実家の身分は低いが、非常に美しく聡明なかたで、王に寵愛ちようあいされた。

 だから殺された。

 ウェンデルラント王子も、王都にいれば命はなかった。

 いや、パルザム王国のどこに行っても安全ではなかった。

 それで、こんな辺鄙へんぴな所に送られてきたわけだな。

 この城に住まわせるわけにはいかなかった。

 目立たない安全な場所というと、どう考えても、あの湖のほとりの別邸以外にない。

 だが、そこにはすでにアイドラ姫がいた。

 私は、湖の反対側にある離れにアイドラ姫を移した。

 この城に呼び寄せるまでのわずかなあいだだ。

 ウェンデルラント王子には、絶対に離れに近づかないよう頼んだ」


 何かを思い出すように、カルドスは目を閉じた。


「それが間違いだった。

 王子は線の細い学問好きの青年にみえたが、存外冒険心の旺盛なところがあった。

 訪ねてはいけないといわれた離れに忍び込んだのだ。

 そして二人は出逢ってしまった」


 カルドスは、右手の指を伸ばして額をもんだ。


「王子はたちまち熱烈な恋に落ちた。

 アイドラ姫がどうだったのかは、よく分からないが、憎からず思っていたとは思う。

 王子は私に頭を下げた。

 アイドラ姫を頂きたい、と。

 あんなに悩んだことはなかったよ。

 肉親を殺す決意をしたときよりもだ。

 だが、私は結局うなずいた。

 王子なんかどうでもよかった。

 いずれ粛清されるか、人知れず消え去ってしまう立場だ。

 そんな王子や公子は、どこの国にも山ほどいる。

 だが、これは辺境侯に貸しを作れる好機だった。

 実際、正妃に迎えるはずの姫を王子が横取りしたことは、王子自身が辺境侯に伝えてくれてね。

 それからというもの、何かにつけて辺境侯は、わが家との取引で便宜を図ってくれるようになった」


 バルドは、上を見上げた。

 城の奥まった薄暗い部屋ではあるが、明かり取りの窓は開いている。

 その明かり取りから、光の帯が差し込んでいる。


「一年と少し、蜜月は続いた。

 男の子が生まれ、王子はジュールランと命名した。

 そのころ、パルザム王国で政変があった。

 王子は千載一遇の帰国の機会を得た。

 そして、アイドラ姫とおさなごを私に託すと、陰謀渦巻く故国に旅立った」


 光の帯のなかでは、ほこりが舞っている。

 光に照らされなければ、ほこりは見えない。


「アイドラ姫は実家に送り返した。

 人のものになってしまった姫を近くに置いておくのは不愉快だったからね。

 王子は、アイドラ姫のことをまったく忘れたようにみえた。

 二十八年にわたり、ただの一度も手紙さえよこさなかったのだ。

 私がそう思ったのも、無理はなかろう?

 だが、そうではなかった。

 二年前、パルザム王国は宿敵との戦争に勝利した。

 ウェンデルラント王子は英雄となり、最大の敵であった王太子は死んだ。

 王子は、私に手紙をよこした。

 アイドラ姫と息子を迎えたい、とね」


 3


「アイドラ姫にも手紙をよこした。

 そこには熱烈な愛がつづられていた。

 いわく、私はあなたのために、知を、武を、心を磨き、徳を積んだ。

 あなたにふさわしい男になるために。

 いわく、私はあなたのために、味方を増やした。

 あなたを安全に迎えることができるように。

 いわく、私はあなたのために、手柄を立て、地位を築いた。

 あなたが夫を誇れるように。

 いわく、私はあなたのために、部下を、人民を慰撫し、常に彼らの幸せを考えた。

 あなたがそれを望むことを知っていたから」


  なぜその手紙の中身を貴様が知っているのか。


 という詰問が口から出かかったが、押しとどめた。


「手紙をよこさなかったのは、アイドラ姫の安全のためだったのだ。

 ウェンデルラント王子は、いつも見張られていた。

 その欠点や弱点を探ろうとする者たちに。

 手紙を書けば、アイドラ姫の存在が彼らに知れる。

 王家の血を継ぐ子どもの存在もね。

 知られれば、アイドラ姫は人質に取られ、子どもは殺されるだろう。

 だから、思いを必死に押し殺し、手紙は書かず、使者も送らなかったのだそうだ。

 確固たる地位と実力を築き上げ、母子を守り抜けると確信したとき、すぐさま手紙を書いたのだな。

 そして、その手紙の中で、自分がパルザム王国の王子であったと明かした。

 そのとき、私が慌てたとでも思うかね。

 いやいや。

 そんなことはありはしないよ。

 なぜなら、私は、ちゃんと王子の子どもを保護していたからね。

 ゼオンさ。

 アイドラ姫を王子に譲ったあと、私は何人か妻を迎えたが、そのうちの一人がアイドラ姫と同じころ、男の子を産んだ。

 アイドラ姫をテルシア家に帰すとき、私はゼオンとジュールランを取り替えさせた。

 万が一、王子が息子を迎えに来たときに備えてね」


 ゼオンは、カルドスの長子であり、母は正妃である。

 ゼオンは、カルドスと同じく金髪だ。

 ジュールランも輝くような明るい金の髪をしている。

 おそらく、ウェンデルラント王も金髪なのだろう。


「取り替えのことは、アイドラ姫から聞いていたかね?

 いないだろうね。

 剣の下で交わした約束なのだから。

 いかに卿がアイドラ姫のお気に入りでも、これだけは言わなかったはずだ」


 言うわけがない。

 そんな事実はないのだから。

 だが、そんな事実があったことにできるとカルドスが思っている、その根拠が問題だ。


「もっとも、その手紙が来た時点では、ウェンデルラント王子は、英雄で有力な武将ではあっても、それ以上のものではなかった。

 王太子や何人かの有力な王子は戦死したが、大国の王位継承は単純なものではない。

 初代王の血筋を引く七つの公爵家があってね。

 複雑な駆け引きの末に、各家の利害を損なわない人選が行われ、新たな王太子が生まれるはずだった。

 ところが、王が死んでしまった。

 王が死ねば、新たな王太子の指名は行えず、新たな王位継承権の付与もできない。

 その時点で王位継承権を持つ者以外は、後継者レースに参加できないのだ。

 ここで、政治には関心が低いと思われていたウェンデルラント王子が電光石火の動きに出たらしい。

 王子の凱旋がいせんで王都中が、いや国中が沸き返っているときだ。

 王子は見事、次期国王の座を勝ち取った。

 さっそく、アイドラ姫に手紙が来たよ。

 あなたのために王冠をつかみました、とね」


「いや。

 嘘はよそう。

 私は衝撃を受けた。

 まさかあの王子が生き残り、ひとかどの地位を築くとは、思ってもいなかったよ。

 まして、次期王になるとはね。

 王子の子は、私自身の子として大切に保護してはいたが、肝心のアイドラ姫は実家に送り帰したままだ。

 何度か、アイドラ姫とジュールランを引き取りたいと、テルシア家に申し入れたのだがね。

 けんもほろろに断られたよ」


 バルドも、そのことは最近になって耳にしていたので、うなずいた。


「辺境侯から使者が来た。

 追って本国から使者が来る。

 アイドラ様とご子息は息災か、とね。

 私は正直に話したさ。

 アイドラ姫は実家を恋しがったので帰したが、ご子息はわが手元で手厚く養育してきた、と」


 アイドラがコエンデラ家に輿入れしながら、挙式せず、本城にも入れないまま実家に帰されたことは、辺境ではよく知られている。

 その点はごまかしようもなかったろう。


「そのとき、私はご使者にいた。

 アイドラ姫と私自身の息子を交換したことは、ごく一部の者しかしらない秘事。

 近年アイドラ姫は体調が思わしくなく、遠出は不可能。

 わが息子と名乗らせている者が、確かにウェンデルラント陛下のご子息である、と証明することはできませんでしょうな。

 いや、それどころか、テルシア家の者が、偽物を押し立てれば、それが偽物と判別することは難しいでしょう。

 そもそも、ご使者には、アイドラ姫が本物か偽物かも、ご判別が難しいのでは、と。

 ご使者は、わが母の血縁でな。

 こう漏らしてくれたのだよ。

 "いやいや、ご心配には及びません。

 コエンデラ卿から受けた恩を、陛下はお忘れではありません。

 あなたのお言葉を疑われることなど、ありましょうや。

 それに、二重の渦と印形により、ただしくアイドラ様であり御子みこ様であると証明できるのですから"」


 なるほど、とバルドは思った。

 カルドスがアイドラに侍女を差し向けた経緯と魂胆がはっきりした。

 おおむね予想どおりだ。


「渦だよ、渦。

 これは何のことか、さっぱり分からなかった。

 これについては、ご使者はそれ以上教えてくれなかった。

 だが、印形については、何とか聞き出すことができた。

 王子がアイドラ姫に持たせたものなのだよ。

 それは王家の者しか作ることも持つことも許されない印形なのだそうだ。

 特殊な金属で特殊な製法で作られており、偽造は不可能らしい。

 一個一個違う箇所にしるしが付けられていて、台帳に記載されてるという。

 ずいぶん探したよ。

 だが、アイドラ姫の手元にないと分かったとき、私は気付いた。

 誰がそれを預かっているのかをね。

 バルド・ローエン卿。

 卿だ。

 幼い日よりアイドラ姫が誰よりも信頼し、頼りにした卿以外に考えられない。

 わがコエンデラ家に煮え湯を飲ませ続けた卿が、今度もわが家に災いをなしたのだ!」


 突然、バルドの心に、もしやカルドスがアイドラを妃に望んだのは、バルドへの憎しみゆえではないのか、という筋の通らない臆測が浮かんだ。

 バルドの大切なものを奪い取りたいという怨憎おんぞうの眼差しで、この男はアイドラ姫をみたのではないか。


「戴冠なさるや否や、新王は王国の威風を示す勅使を、各地に遣わされた。

 その中で、この地方への使者だけは、特別な任務を持っていた。

 その少し前、アイドラ姫は死んだ。

 私が遣わした侍女に手厚く看取られてね。

 むろん、そのことはウェンデルラント陛下にはお伝えしてあった。

 王は勅使殿に、わが息子を連れ帰れ、とお命じになった。

 アイドラ姫がこの世にない以上、本物のご子息であることを確認する手段は、印形しかない。

 ああ、渦巻きというのが何のことだったのか、結局卿は知らないままだろうな。

 あれはな。

 なのだそうだ。

 湖のほとりで、ウェンデルラント王子がアイドラ姫に贈ったこいうただ。

 二つの渦巻きが一つに溶け合うように、私とあなたはこの美しい水辺で出逢った、とか何とかいう恋の詩なのだそうだ。

 その詩を知る者は、王子と姫のほかない。

 まこと姫が王子のことを慕っているならば、その詩を忘れるわけがない。

 その詩を覚えていることが、正しく王子の妻である証しになる、とこういうことだったのだ。

 そんな詩があるなど、卿は知っていたか?」


 バルドは、首を横に振った。

 そんな詩があったなど、知らない。


「けれどアイドラ姫は死んでしまったからね。

 詩を覚えていたかどうか、聞くこともできない。

 だから、印形だ。

 それが唯一の証しになるのだ。

 不思議な偶然ではないかね。

 ジョグが卿に斬りつけたその一撃が、卿自身も知らなかった印形の在りかを明らかにしたのだ。

 そして、私の部下が雇った間諜が、それを卿から取り返した。

 いやいや。

 高くついたよ。

 あの〈腐肉あさり〉めは、とんでもない金額を吹っ掛けおった。

 だが、あの印形にはそれだけの価値があった。

 五巡前、勅使殿は、この城をおどなわれた。

 そして、わしの話と印形を証左として、ゼオン・コエンデラこそジュールラン・シーガルスであり、古き王家の血を引く者であるとお認めになり、共に王都に帰って行かれた。

 まあ、いくら王の長子といっても、母の出自が辺境の名も知れぬ一族とあっては、王位継承権が与えられることはあるまいし、そう高い位に就くこともできまい。

 おそらくは、都にとどめられることはなく、辺境に帰って来るだろう。

 しかし、愛し続けた女性の息子なのだからね。

 対面して親子の絆を確かめ合えば、これからのち、ゼオンは、いやジュールランは、絶大な庇護を受けることになる。

 パルザム王の実子なのだよ」


 今やカルドスは温厚な仮面を脱ぎ捨て、猛獣のような目でバルドをにらみつけている。


「バルド・ローエン。

 卿がテルシア家を致仕して旅に出たと聞いたときには、やられた、と思ったよ。

 今までさんざんわしの進む道を邪魔してきた卿に、これからはわしの露払いをさせられると思ったのにな。

 その後、渦巻きと印形のことを聞き、卿がリンツのほうに向かっていると知ったときは、慌てたよ。

 印形を持ち、渦巻きの秘密を知った上で、パルザム王国に向かっているのかと思ったのだ。

 だが、そうではなかったのだな。

 卿は、大事なことは何も知らず、肝心のことは何も調べられなかった。

 わしは知るべきことを知り、必要な物を手に入れた。

 ローエン卿。

 わしに従え。

 さもなければテルシア家は、すべての領土を失うぞ。

 領土だけでは済まさん。

 アイドラ姫を苦しめ死に追いやった罪をもって、一族を皆殺しにしてくれる。

 わしに従え、バルド・ローエン!

 返答せよっ」


 4


 大声を発して恫喝するカルドスのほうを見もせず、バルドは相変わらず光の帯に照らされるほこりを見ていた。

 カルドスが大げさな動作を交えて話すものだから、ほこりが元気に踊っている。


  ほこりは、自分では大した大騒ぎをしているつもりなのだろうのう。

  小さくて取るに足りんと思われているとは知りもせずに。


 などとバルドは考えていた。

 部屋をひたす沈黙を、バルドの困惑や葛藤のしるしと、カルドスはみているのだろう。

 攻撃的な表情に、隠しきれない喜色が混じっている。

 バルドは、


  勅使一行は、今どこらあたりかのう。


 とつぶやいた。


「勅使は、十日前に出立なされた。

 すでにオーヴァを渡り、王都に馬車を走らせておられるであろうよ。

 今から何を企んでも、もう遅すぎる」


 それはよかったわい、とつぶやいて、バルドは胸の隠しから一枚の書類を出して、テーブルに置いた。

 カルドスは不審げにその書類を手に取り、開いて読んだ。

 しばらくして、顔面が真っ青になる。


「き、貴様。

 こ、こ、これは」


 それには、数字と年度と合計が書いてある。

 数字は金額である。


 毎年、ガドゥーシャ辺境侯は、カルドスに大金を届けた。

 アイドラの生活の資と、その子の養育費として。

 その金がアイドラの元に届けられたことは一度もない。

 カルドスが一族の中で地位を保つため、そしてコエンデラが辺境で勢力を伸ばすために使われたのだろう。

 自分で白状した通り、カルドスは、王子はアイドラのことなど忘れたと思っていた。

 辺境侯は代が替わっても与えられた指示を馬鹿正直に守って、毎年金を送ってよこしているのであり、流用しても何の問題もない、と考えたのだ。

 そもそも辺境侯に便宜を図ったのはカルドスである。

 当然、見返りを受けるのも自分でなければならない、とカルドスは考えたのかもしれない。


 一族の者には、この金は辺境侯がカルドスの後ろ盾である証拠とされたのかもしれない。

 王子がここに隠れ住んでいたことは、ごく一部の者にしか知らされていないのだ。


 この金のことを、アイドラは知るはずもない。

 なぜバルドが知っているのか、とカルドスは考えているだろう。

 金額が正確に書いてある。

 コエンデラ本城の資料や、臣下を取り調べれば、アイドラへの送金など行われておらず、辺境侯から供与された金はカルドスが自分のために使っていたことは、ごまかしようもない。

 狼狽ろうばいするカルドスのほうを見もせず、あいかわらず光の帯と、その中で遊ぶほこりを見ながら、バルドは独り言のように話し始めた。


  大陸中央の国々では、人の指にあるしわを、指印ゆびいんと呼ぶらしい。

  しわの模様は一人一人違っていて、その人自身を見分ける証拠になる。

  印形の代わりに指に朱墨をひたして押印することもあるとか。

  このしるしを押した紙も、指印と呼ばれるのじゃそうな。

  しかも指印は、生まれてから死ぬまで変わらぬらしい。

  生まれたばかりの小さな赤子の指印を取れば、それは何十年後になっても、その赤子本人であるという証拠になる。

  王家などでは、子どもが生まれると、五十日目に両手のすべての指の指印を取る。

  この指印というものは、血のつながりがあると似るらしい。

  パルザム王国の初代王の指印は、二重の渦巻きの形をしていたということじゃ。

  それは精密な絵に写され続けて残されておる。

  王家の血を引く者には、同じく二重の渦巻きの指印が現れることが多い。

  この指印の形が初代王のそれに近いほど、初代王の血を濃く受け継いでいるしるしとみなされる。

  王位継承権を得る際の有力な根拠になるのじゃな。

  ウェンデルラント王子が、母親の身分の低さにもかかわらず王位継承権を与えられたのは、そういうわけじゃ。

  そして、二十九年前、あの湖のほとりの館で子どもが生まれたとき、王子は王家の風習に倣い、五十日目に指印を取った。

  それは王子とそっくりじゃった。

  つまり初代王とそっくりだったのじゃ。

  王子は喜んだじゃろうのう。

  運命のようなものをお感じになったかもしれん。


 バルドは、そこまで話してから、カルドスのほうを見た。

 カルドスは、まるで石で出来た人形のようだった。

 先ほどまでの覇気は消え失せ、いきなり二十年ほど年老いたように見える。

 バルドは、とどめの言葉を発した。


  指印はの。

  初めからウェンデルラント王子が持っておられたのじゃ。

  今も大切に保管しておられると思うぞ。


 それ以上は説明をしなかった。

 これからゼオンの身がどうなるかは、説明せずとも明らかである。

 王都に着けば、ただちに指印を取られるだろう。

 それは、照合され、王の子をかたったことが発覚する。

 勅使一行に懇切丁寧に経緯を説明したカルドスの嘘と罪もまた、明らかとなる。

 ウェンデルラント王の怒りはすさまじいものになるだろう。


 今カルドスは、混乱と絶望の極みにあるが、冷静な思考力を取り戻せば、奇妙な点に気付くだろう。

 なぜ、勅使は、二重の渦巻きについて嘘をついたのか。

 なぜ、バルドは、これほどウェンデルラント王の側の事情に詳しいのか。

 答えは明らかである。

 勅使は、指印のことを説明すれば、カルドスがおのれの破滅を恐れて凶行に及びかねないことを知っていたのだ。

 ゼオンが偽物であることを承知で連れて行ったことになる。

 とすれば、本物の王子とその所在も知ったに違いない。

 そうでなければウェンデルラント王のもとに帰ることはできないのだから。

 バルドに年金の額を教えたのは、勅使だ。

 バルドと勅使は、情報を交換し合っていたのだ。


 バルドは、コエンデラ家の別邸に滞在していた勅使と密会し、知る限りの事実を説明し、ナイフと印形を見せた。

 勅使は印形を押印して証拠を残すと、それをいったんバルドに返した。

 バルドは、これをジュルチャガに渡し、一稼ぎしてみるか、と持ちかけたのである。

 いたずらっけのあるジュルチャガは、大喜びでこの作戦に参加した。

 二重の渦巻きをどうごまかすかは、勅使に任せた。

 勅使のバリ・トード司祭は、


「何か考えてみますわい。

 できるだけ面白い説明を」


 と言って笑っていた。

 だから、先ほどカルドスの自慢げな説明を聞いたとき、バルドは、司祭のロマンティックな創意に感心したのだった。


 5


「わ、私を……殺すのか?」


 弱々しくかすれた声が、バルドの耳に届いた。

 見れば、目の前に、老人が座っている。

 憎々しいほどに精力の塊だった面影は、どこにもない。

 そこにいるのは、すかすかの老木のような男だ。

 目はしょぼくれ、涙ぐんでいる。

 つまみ上げればぽきぽきと折れてしまいそうな。

 まともな思考の力さえ失ったような。

 無力で、不安におびえる男が、そこにいた。


 なんという醜い年の取り方じゃ、とバルドは思った。


 もともとは、もう少し賢い男だったはずだ。

 いや、事実、強引で乱暴なやり方ではあったが、この男は、領地をうまく切り盛りし、勢力を伸ばしてきた。

 だが、ウェンデルラント王子が英雄となり、妻と息子を迎えたいという手紙をよこしたとき、すべては変わった。

 手紙から、王子の情念の温度の高さと、妻と息子に対する愛情の強さが、まざまざと伝わってきたのだから。


 そのときこの男がしたことは、戦略的には正しい。 

 ため込んだ金のありったけを吐き出してでも、ノーラ家を屈服させ、大領主の座を勝ち取ろうとしたのだ。

 そしてそれは、うまくいった。

 大領主となれば、王子といえども、そう簡単に私的な復讐などできない。

 事は王子の妻と息子を実家に送り帰したというだけのことであるのだから。

 その養育費を着服したという罪は残るが、かつて王子をかくまい、正妃となるはずの姫を惜しみなく譲ったという貸しは消えない。


 だが、王子が王位を継ぐことが決まったとき、再びすべてはひっくり返った。

 王の長子の養育費を着服したとなれば、罪の重さが違う。

 また、王都に呼ばれたアイドラが、ウェンデルラント王にカルドスの振る舞いをどう言うか。

 ジュールランがパルザム王国で一定の権力を持ったならば、テルシア家は強力な庇護を得ることになる。

 コエンデラを待つものは、衰退と破滅だ。


 この男は必死で考えたはずだ。

 自分が、コエンデラが生き延びられる道を。

 そしてウェンデルラント王の息子の偽物を立てる案を思いついた。


 そうだ、おそらく。

 領主会議を開いて、ザリザ銀鉱山の権益をテルシア家から奪い取ったのは、確かめるためだ。

 アイドラ姫は、息子の父親の正体を知っているのか。

 テルシア家の人々は知っているのか。

 みすみす銀鉱山の権益を渡した様子を見て、カルドスは思った。

 テルシア家は、切り札を持っていることに気付いていない、と。

  

 辺境侯の使者とやらが来たのが、領主会議の前であったか後であったかは分からない。

 とにかく、そのとき、王の妻と息子たる証拠として、二重の渦巻きと印形のことを聞いた。


 この男は、ずうずうしくも、アイドラ姫とジュールランをコエンデラに呼びたいと申し出た。

 呼び出しに応じていたらどうなっていたかと考えると、寒気がする。

 断られると、せめてもと侍女を派遣した。

 ところが、探しても探しても印形は見つからず、渦巻きとやらについても分からない。


 そんなとき、姫の信頼厚いバルドが領主会議の直後にパクラ領を出たことが分かった。

 守護神としてテルシア家の領地を離れたことのないバルドが、パクラ領から消えたのである。

 よりによってこんな時期に、それも主家を捨てるというおよそバルドらしくないやり方で。

 まさか、と思っただろう。

 だが、調べると、バルドはリンツに向かっていた。

 

 アイドラ姫はバルドに証拠の品を託した、あるいは託そうとしている、と考えた。

 そう考えれば、テルシア家からバルドに渡された金貨の袋に、ヨティシュが異様な関心を示した理由も分かる。

 ギエンザラの襲撃の意味も分かる。

 そして、襲撃は二度にわたり失敗した。

 赤鴉という最強の手駒を使いこなせず、あまつさえ解雇してしまったために。

 バルドは、カルドスに、ヴェン・ウリルを解雇していなければ、わしを殺せたのにのう、と言った。


 「わ、わしは解雇などしておらん。

 それどころか、バルド・ローエンを殺したら報酬は上乗せすると言ったのだ。

 それを、ギエンザラの阿呆が赤鴉を放逐し、刺客まで差し向けた。

 腕の立つ騎士二人を失うはめになってしまった」


 この男は、本当に追い詰められていたのだ。

 自分自身の過去の行いに。


 もともとウェンデルラント王には大きな貸しがあったのだから、王子の偽物を仕立てるというような愚かなことをせず、勅使に真実を告白していればよかったのだ。

 だが、アイドラ姫への手紙を本人に届けず勝手に開封し、適当に言い繕った事実が、その告白を邪魔した。

 辺境侯から年金を受け取りながらアイドラ姫には知らせもせず着服して、おそらくでたらめな報告をしていたことも、今さら真実を語ることを妨げた。

 結局、嘘で塗り固めた土台の上には、欺瞞と謀略をこねりあわせた城を建てる以外になかったのだ。


 アイドラ姫の死を知ったとき、この男は狂喜したはずだ。

 アイドラ姫さえいなければごまかせる、という希望によって。

 本物のジュールランは、もちろん事故を装って殺さねばならないが、まずは勅使をどうだますかが問題だった。

 嘘をつくにも証拠が要る。

 勅使一行を湖のほとりの別邸に足止めしたまま困り果てていたとき、ジュルチャガが印形を持ってきた。

 この男はそれに飛びついた。

 印形を使って、勅使を見事だましきることができた。

 自分の息子を、パルザム王国の王子に仕立てることができた。

 冥界から天界に舞い上がったような気持ちだったろう。

 そして、たった今、とうの昔に破滅の縁の向こう側に落ちていたのだと知らされたのだ。

 積み重ねてきた嘘も裏切りも、ウェンデルラント王の戴冠という光が当たらなければ、明るみに出ることはなかったろう。

 ジュルチャガに印形を持たせたのはバルドなのだから、最後の一押しをしたのはバルド自身だったといってもよい。


  それにしても、なんという情けない姿じゃ。

  こんなやつに、みなは翻弄されてきたのか。


 とバルドは思った。

 ふつふつと、胸に湧いてくるものがある。

 ぐらぐらと、煮えてくるものがある。

 ずっと、ずっと、奥底にしまい込み、封印していた怒りが、湧き上がってくる。


 魔獣との戦いを続けながら、執拗なコエンデラのいやがらせに戦力を削られ、無念のうちに死んでいった友や部下。

 コエンデラとノーラとの争いに巻き込まれ、無為に命を落とした騎士や兵士。

 追いはぎ同然に税をむしり取られ、娘を売った農民。

 流通路をつぶされ、一生かけて育てた店を泣く泣く人手に渡した商人。


  そして。

  そして。


  アイドラ様!


  あの光り輝く魂を持った女性が。

  優しく気高い心を持ったおかたが。

  正式の婚礼を行うこともなく子をなしたとみなされ、それゆえ日陰の人生を歩まねばならなかった。

  もっともっと豊かな春秋があり得たのではないか。

  もっともっと広い世界に生きられた人ではなかったのか。


 そう思うことを、バルドは自分に禁じてきた。

 カルドスごときに人生を台なしにされるほど、アイドラ姫は安くない。

 姫の命は、あのごみくずのような男の手の届かない高みで、その炎を燃やしきったのだ。

 そう自分に言い聞かせてきた。


  だが。

  だが。


 今、目の前に、この男を置いて。

 おのれの欲望と浅慮ゆえに、暴虐を働いてきた男を目の前にして。

 この男が踏みにじってきた諸々もろもろを思い描いて。

 この男が失わせた人々の幸せを思い描いて。


 腹が煮えた。

 頭の中で暴風が吹き荒れ、視界は真っ赤に染まった。

 バルドは、全身が怒りの業火に包まれるのを抑えられなかった。


 カルドスは、恐怖に目を見開いてバルドを見ている。

 どんな強大で凶暴な魔獣より、今のバルドは恐ろしかった。

 怒りの炎で、その身の回りの空気さえ、ちりちりと焼けているかのようである。


 突然。


 バルドは席を立ち、テーブルを蹴り飛ばしてカルドスに急迫し、その襟首を左手でつかんだ。

 そのまま相手の体を押し込んでいく。

 あっという間にカルドスの体は、後ろの壁に押し付けられた。

 そこには、古いが上等な造りの全身鎧が飾ってある。

 バルドは、左手でカルドスを宙づりに押し付けたまま、右手で鎧の持つ剣を取った。


 酒や杯が床に落ちて騒がしい音を立てたため、両奥のタペストリーをくぐって、二人の兵士が飛び込んできた。

 鎧を着け、槍を手にしている。

 その槍を両側からバルドに突き付けようとして、二人の兵士はバルドの怒気をまともにくらった。

 二人は、雷に打たれたように、びくりと足を止めた。

 金縛りにあったように、動けない。


 バルドは、左手で吊り上げたカルドスを間近に見下ろしながら、


  五日後に領主会議があるのだな。


 と聞いた。

 そして、ほうけたようにうなずくカルドスに、


  テルシアから奪った銀山の権益や街の徴税権をその会議で返却しろ。


 と命じ、さらに、


  他の領主への不当な要求も取り下げよ。


 と言った。

 やはりカルドスは、うなずくだけである。

 このとき、入り口側からコエンデラの家臣たちが何人か、部屋に入ってきた。

 物音を聞き、当主を守るために突入してきたのだろう。

 だが、部屋は狭く、最初に入った数人は、異様な雰囲気に気圧され、立ち止まった。

 当主に剣が突き付けられており、下手に動けない。

 動こうにも、バルドから発する怒気は空気をゆがめ、そこにふれた者は、体が痺れて動かない。


 バルドは、カルドスを放し、一歩後ろに下がって、左手を突き出した。

 きょとんとしているカルドスに、手紙を返せ、とバルドは言った。

 カルドスは、あたふたしながら、胸の隠しから手紙を出して、バルドに渡した。

 アイドラの手紙であることを確認すると、胸の隠しに入れた。

 そしてさらに二歩下がると、怒りを押し殺した声で言った。


  お前に言っておくことがある。

  アイドラ様は、お前の思惑などと関係なく、平穏で幸せな人生を送られた。

  お前なぞに、あのかたをどうこうすることなど、できはせん。

  だから、わしはお前に復讐することなぞ何もない。

  だが、しかし。

  だが、もしも。

  もしもお前が、これから、テルシアによこしまな手を伸ばし、その聖なる義務を妨げることがあれば……


 雷鳴のようにバルドは剣をふるった。

 その速さ、その力、勢いの前に、誰も動くこともできない。

 バルドの握った剣は、カルドスの横の金属鎧の頭部に半分ほども食い込み、後ろの壁に突き立った。

 いかなる剛剣にも耐えられるはずのかぶとが、ぐしゃりとつぶれ、引き裂かれている。

 カルドスは、震えながら、その場に崩れ落ちた。


 バルドは、くるりと振り返った。

 目は血走って真っ赤である。

 全身から怒りの炎が燃え上がっている。

 にらまれた者たちは、吹き寄せる熱に体を焼かれたかと思った。


 そのままバルドは歩き出した。

 コエンデラ家の家臣たちは、右に左に、バルドをさける。

 武器を持っていないにもかかわらず、誰もバルドに斬りかからず、捕らえようともしない。

 狭い通廊に詰め寄せていた兵士たちも、後ろに後ろになだれ崩れて道を開けた。

 歩けば歩くほど、怒りはふくれるばかりだった。

 ひと息ひと息、吸うたびごとに、心の炎は勢いを増した。

 その顔を見た者は、


 鬼人を見た。


 と思ったに違いない。

 二つの部屋を抜け、待合室で自分の剣を回収し、大広間を突っ切って、外に出る通路に入ろうとした。

 誰もがバルドを見て左右に逃げ散っていくなかで、一人だけ逃げない男がいた。


 ジョグ・ウォードである。


 ジョグは大剣を抜いた。

 バルドはかまわず、どしどしと音を立てながら歩いていった。

 ジョグが大剣を振り上げた。

 バルドは突然剣を抜き、走り寄った。


 そして、ジョグが斬りつけるより早く、真正面から剣をたたきつけた。

 

 古ぼけた小さな剣で、ジョグの大剣と競り合うことなど、できるものではない。

 が、このときのバルドには、そのようなことはどうでもよかった。

 激情のままに、まともに剣を打ち合わせた。

 鋼鉄と鋼鉄が激突する音が響いた。


 バルドの剣は、折れなかった。

 万に一つの偶然だったろうか。

 バルドの気迫が剣身を支えたのだろうか。

 折れないどころではない。

 バルドは、そのままぐいぐいとジョグを押し込んでいった。

 もはや老いも、肩や腰の痛みも、力の衰えも、関係なかった。

 この瞬間、バルドの戦闘力は、往年のそれに匹敵したろう。


 身長は同じほどだが、ややジョグのほうが細身といえる。

 体格全体としては、バルドが一回り大きい。

 魔獣とは、技だけでは戦えない。

 体重がなければ打撃に力も乗らないし、筋肉の量がなければ押し負ける。

 魔獣との戦いに勝つべく体を作ってきたバルドの膂力りよりよくは、ジョグをしのいだ。


 ぎりっ。

 ぎりっ。

 ぎりっ。


 徐々にジョグの体は押し込まれ、その体は苦しげに反り返っていく。

 もはや誰の目にもバルドの優勢は明らかである。

 ジョグの圧倒的な強さを知るコエンデラの家臣たちは、言葉もない。

 だが、ジョグ・ウォードは、押し込まれながらも、バルドの気迫にひるむことなく、息の掛かる距離でバルドの目をにらみ返している。

 そのまなこは、強敵と闘える喜びにあふれていた。

 

「よせ!

 ジョグ。

 よすのじゃ。

 退けえっ」


 ようやく正気を取り戻して駆けつけたカルドスが、二人の勝負をやめさせた。

 バルドが勅使と結託しているのは明らかである。

 また、バルドはジュールランの師にして、父代わりともいうべき存在である。

 ここでバルドを害せば、いよいよまずいことになる。


 そのうえ、バルドは、奪ったものを返せとはいったが、大領主と認めない、とは言っていない。

 バルドを殺してしまえば、カルドスに希望はなくなる。


「バルド・ローエン!

 いつか必ず貴様を殺す」


 ジョグ・ウォードの言葉を背中に聞きながら、バルドはコエンデラの城をあとにした。

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