第8話 印形のありか
1
バルドは、馬をリンツ伯から借り、ジュルチャガを連れて東に進んだ。
もう一頭をジュルチャガのために借りようとしたのだが、当のジュルチャガは、
「うーん。
旦那の気持ちは、すっごくありがたいんだけどね。
職業的な矜持っつうか、意地っつうかね。
俺っちの商売、馬をあてにするようになったら、もうおしまいなんだよね」
などと訳の分からないことを言って、馬に乗ろうとしなかった。
そのくせ、バルドが走らせる馬に、まったく遅れずについて走ったのであるから、その脚力は人間離れしている。
むろん、何日も続けて走らせるのだから、馬に負担がかかりすぎない程度の速度ではあったが。
五日目の夜、小さな村に着いた。
この村は、テルシア家が守護契約を結んでいる。
守護契約というのは、納税や
内容は、場合によってさまざまである。
ここはテルシア本城からは遠いし、めったに巡察には来られない。
それでも、害をなせばテルシア家に報復されるという事実が、この村の平安に一役買ってきたことは間違いない。
この夜は村長の家に泊めてもらった。
翌朝、ジュルチャガに馬の世話を任せると、バルドは一軒の家に足を運んだ。
田舎の村にしては立派な家である。
その家のあるじは、老女だった。
「まあまあ、なんてことでしょう。
バルド・ローエン様。
あなたさまをわが家にお迎えできるなんて。
末代までの光栄ですわ」
この老女は、かつてアイドラの侍女だった。
コエンデラへの入嫁にもついていった。
その後、母親の看病のためにこの村に戻ったのだ。
バルドは、今までしたことのないことをした。
コエンデラの別邸で過ごした一年半のあいだに何があったかを尋ねたのである。
それは、長い話になった。
話が終わったとき、バルドは、今回の出来事の真相を知った。
相手の青年の正体を老女は知らなかったが、推測はできる。
ただし、印形というのがどこにあるのかは、まだ分からない。
また、カルドス・コエンデラの狙いも、およそ見当はついたものの、正確には分からない。
はっきりしたのは、やはり早急に勅使と会わねばならない、ということである。
予備知識のないままカルドスと会えば、勅使一行はどんな目に遭うことか。
もしも勅使一行が惨殺されるようなことになれば、この地域全体を巻き込んだ戦乱となりかねない。
バルドは、村長の家に戻った。
茶を飲んでいると、ジュルチャガの耳が何かを聞きつけた。
ジュルチャガは窓を開け、森の向こうの何かを聞いている。
やがてバルドの耳にも、それは聞こえた。
何頭もの馬が村に近づいてくる。
はやがけさせている音である。
バルドとジュルチャガは、自分たちのことを黙っているよう家人に伝えると、家の外に出た。
ジュルチャガは、二頭の馬を森に隠す。
バルドは、村長の家の裏側で、様子を見守った。
村にやって来たのは、五人の騎士である。
先頭の騎士は、黒い革鎧と黒いマントを着けている。
手袋もブーツも黒い。
随行の騎士四人は頭にも防具をつけているが、先頭の騎士は長く艶やかな黒髪を風にさらしている。
黒い口ひげとあごひげは、粗暴さと上品さを感じさせる。
目はどこか夢見るような光をたたえている。
長身の堂々たる体格である。
〈
カルドス・コエンデラの庶子で、分家を継いだ男だ。
ジュールランより二歳ほど年下だったはずだから、今年二十六歳である。
コエンデラの血に流れる精強さを一身に引き受けたような男である。
五人は、村人に村長の家を聞き、案内も乞わず入り込んだ。
ジョグは、部下が引いた椅子に座り、
黒い手袋のまま剣を扱うその指の動きは、繊細で美しい。
かと思えば、野蛮なしぐさで椅子にどっかりと座った。
長い足を前に突き出すようにして組み、左の肘をテーブルに突いたまま、左手の親指と人差し指であごをなでる。
その視線は壁の一点に向けられているが、何を見ているのかは誰にも分からない。
村長夫妻が引き立てられ、ジョグの前に立たされた。
「この村は、年にいくらの税をテルシアに納めている?」
と随行の騎士が
村長がそれに答えた。
ジョグは、左手の親指をあごに当てたまま、薬指で鼻の横をなでた。
しばらくなでてから、物憂げに右手を上げ、五本の指を全部開いた。
その右手にも左手にも、黒い革手袋がはめられたままだ。
視線は相変わらず、壁の一点に向けられている。
随行の騎士は、ジョグの右手を見てうなずき、村長に告げた。
「では、その五倍を、今年からコエンデラ家に納めよ。
テルシアへの納税は必要ない」
あまりの横暴に、村長が抗議の声を上げた。
随行の騎士が剣を抜いて振り上げ、村長に振り下ろそうとした。
いきなり立ち上がったジョグが、随行の騎士を蹴り飛ばした。
蹴り飛ばされた騎士は壁に突き当たり、壁を突き破って外に転がり出た。
ジョグの長く美しい黒髪が風にあおられて広がり、すぐに収まった。
「まぬけ。
村長を殺したら、税を納めさせるのも、命令を伝えるのも、段取りが悪くなるだろうが。
男と若い女は殺すな」
何事もなかったかのように椅子に戻って、ジョグはそれだけ言うと、テーブルに肘を突いた左手であごひげをなぶり始めた。
視線は壁の一点に向けられている。
随行の騎士たちは、村長を威圧し、一方的な要求を承諾させようとする。
村長は、がたがた震える声で、それでも要求を拒否した。
随行の騎士の一人が、村長から妻を引きはがした。
もう一人の随行が剣を抜いた。
見せしめに妻を殺すつもりだ。
今度はジョグも止めようとしない。
そのとき、バルドが表口から姿を現した。
随行の騎士たちが、動きを止めてバルドを凝視する。
ジョグは、ゆっくりと首を回し、そこにバルドの姿を見つけると、眉を持ち上げた。
大きく開かれた両の目には、狂おしい光が宿っている。
そして、右手で左胸をかきむしるようにつかむと、目をゆがませて言った。
「バルド・ローエン」
ジョグの口が、
2
今まで戦場で二度ジョグとまみえたことがある。
一度目は、バルドが四十八歳で、ジョグが十六歳だった。
覇気のある若者だとは思ったが、気迫に体力が追いついていない。
剣は荒く、相手の動きが見えておらず、まるで相手にならなかった。
殺すのもかわいそうだと思ったので、馬から蹴り落として見逃した。
二度目は、バルドが五十四歳で、ジョグが二十二歳だった。
ジョグは見違えるほどの成長ぶりを見せた。
馬上で大剣を振り回して、テルシアの騎士を続けざまに戦闘不能に追い込んだ。
バルドは左手の盾で大剣を受け止め、ジョグの左胸を切り裂いた。
ジョグは、信じられない、という顔をしていた。
仲間にかばわれ、退却するジョグを見送りながら、もう数年したらこやつの剣を防ぎきることは誰にもできなくなる、とバルドは思った。
今やバルドは五十八歳で、ジョグは二十六歳。
あふれんばかりの覇気を発するジョグに、まともな剣も防具もない状態で、とても太刀打ちできるものではない。
さらに随行の騎士が四人もいる。
また、コエンデラ家の本拠からそう遠くないこの場所に今自分がいることを知られるのは、都合よくなかった。
しかしながら、あのまま村長の妻を切り殺させるわけにはいかなかった。
バルドは、
まあ、なんとかなるじゃろう。
ならねば一太刀浴びせて死ぬだけのこと。
と気持ちを切り替えて、姿を現したのだった。
相手に姿を見せつけてから、バルドは何も言わず家の外に出た。
ジョグと四人の騎士が後を追って出てきた。
ジョグはマントをはずすと随行の一人に渡した。
大剣を鞘から抜き取り、その鞘を別の一人に渡した。
四人の顔をぐるっと見回してから、
「ここで待て。
手は出すな」
と命じた。
バルドは、二十歩ほど離れた位置で振り返った。
右手はだらりと下げ、左手は剣の鞘口を押さえている。
ジョグが近づいて来る。
一歩、二歩、三歩。
その視線はバルドの剣に向けられている。
からみつくような視線だ。
ジョグは、歩きながら両手に持った剣を大きく回転させた。
右下から前方に。
前方から左に。
ぐるっと頭の上に腕を回して後方に。
後方から右に。
一回転、二回転、三回転。
敵を間合いに捉えたとき、その大剣は恐るべき速度と破壊力をもって襲い掛かってくるだろう。
ジョグの視線は、バルドの剣に据えられたままだ。
バルドの剣は、ジョグの大剣と打ち合わせれば、たちまち砕け散ってしまうだろう。
そもそも、老いて衰えた今の体力では、ジョグを正面から打ち破ることは不可能だ。
バルドは、右足を半歩前に出し、重心を前方に移した。
呼吸を計って突進し、相手の右側を駆け抜けるつもりだ。
そして駆け抜けざまに、敵の左脇腹を斬り裂く。
そこに、ただ一つの勝機がある。
バルドは、右手で剣の柄を握ろうとして、
動かん!
右手が、ぴくりとも動かない。
バルドが必死に意志を込めても、右手は何の反応も返さない。
若いときから酷使してきた右手である。
近頃は、右肩がひどく凝り固まり、手をまっすぐ上に上げることができない。
腕の使い方によっては激痛が走るときもある。
無理もないことであり、やがては剣を持つことさえできない日が来ることは、覚悟していた。
だが、よりによってこの時に。
ジョグは容赦なく歩み寄ってくる。
今だ!
そのタイミングが訪れたとき、バルドは全力で飛びだした。
依然右手は動かない。
鞘口を押さえた左手で柄をつかみ、とにもかくにも剣を抜こうとする。
ジョグのほうでも、バルドの狙いには気付いていたようだ。
視線をバルドの剣から外さなかったのも、そのためだろう。
手や足を見ていれば、動きにまどわされることがある。
だから武器だけを見る。
バルドが武器を抜き、攻撃する瞬間こそ、バルドを殺す時である。
バルドは、ようやく左手で剣を抜いた。
剣が短く手が長かったので、抜くことができた。
まだ右手は動かない。
敵の脇腹を斬り裂くには、もはや遅い。
バルドは、体を後ろに倒すことによって、タイミングを修正した。
それが幸いした。
ジョグは、バルドの右手が剣を抜く瞬間に意識を集中させていたため、大剣を繰り出す呼吸がわずかに遅れた。
足から滑り込むバルドの頭上を、暴風をまとった大剣が通り過ぎる。
獲物を捉え損ねたことを知ったジョグは、大剣の回転を止めるべく、左足に力を込めた。
その左足に、バルドの剣がえぐり込まれた。
バルドは、左手で抜いた剣をそのまま腕に乗せるようにして、滑り込む勢いのまま、相手の足に
苦し紛れの攻撃ではあったが、バルドの体重と滑り込む勢いと、ジョグがその足に全体重を預けた瞬間に斬りつけたことが、威力を高めた。
ジョグの横をすり抜けたバルドは、体を右に半回転させた。
左膝を地に着け、右膝を立てた態勢で、ざざざっと音をさせて加速を殺す。
土ぼこりが上がった。
体の滑りが止まると同時に、バルドは立ち上がった。
左手は逆手に剣を握っている。
そこは、ジョグから三歩半。
ジョグが一歩踏み込めば、大剣の間合いである。
ジョグは、バルドがおのれの左下を通り過ぎるのを目で追いながら体を回転させた。
そして、右足を軸足にして、左足を大きく強く踏み込みつつ、大剣を大きく振りかぶった。
バルドの剣に傷つけられた左足は、その踏み込みに耐えることができなかった。
態勢が崩れ、大剣は振り上げられたまま、ふらりと宙をさまよう。
この絶好の機会を、バルドは見逃さなかった。
素早く駆け寄って、逆手に持った剣で、ジョグに斬りつけようとした。
だが、若くしなやかなジョグの動きは、バルドの予測を超えていた。
両膝を曲げ、体を沈めると、右足の蹴り出しで無理矢理態勢を整え、大剣をバルドの胸板にたたきつけたのである。
左肘をかすめながら、大剣が胸に食い込んだとき、バルドは自分の敗北と死を知った。
来るはずの死は、来なかった。
ジョグは、バルドの左胸にたたきつけた大剣を、それ以上は振り切らず、そのまま止めていた。
バルドの剣は空を切り、虚空に遊んでいる。
ジョグの目は、だらんと垂れ下がったままのバルドの右手を見ている。
バルドの目は、まだ闘志を失ってはいない。
恐れもひるみもなく、まっすぐにバルドの目はジョグを見据えている。
ジョグは、なおもバルドの右手を見ている。
動こうとしない右手を。
ジョグの体から、殺気が抜けていった。
何も言わず剣を引くと、バルドに背を向け、そのまま仲間の所に行った。
剣を鞘に収め、自分の馬にまたがり、無言のまま村を出て行った。
随行の騎士たちも、とまどいながらも後を追って出て行った。
3
五人の姿が消えると、ジュルチャガが森から出て来た。
馬を連れて。
馬を馬つなぎに止めると、バルドの近くにやって来て、
「胸、大丈夫?
なんかすごい音がしてたけど」
うむ、痛みは感じないがのう、と言いながら、バルドは村長の家に入っていった。
椅子にどかりと座り、村長に、さわがせたのう、と声を掛ける。
妻の命を救われた村長は、くどくどと礼を言おうとするが、手を振ってそれを遮り、水を一杯くれんか、と言った。
水をうまそうに飲み干したあと、バルドは胸当てを外した。
そうこうしているうちに、右手は再び動くようになった。
ありがたいことじゃ、とバルドは思った。
胸当ての左側が深く切れている。
ジョグが大剣を止めなければ死んでいた。
とはいえ、相当な衝撃を感じたのだが、痛みはそれほどでもない。
バルドを守ったのは、胸の隠しに入れていた食事用ナイフだった。
道理で先ほど金属的な音がしたわい、とバルドは思った。
衝撃を受けて、食事用ナイフは少しゆがんでいる。
「へえ−。
きれいなナイフだねー。
盗人心をくすぐるものがあるよー」
と不穏なことを、ジュルチャガは言った。
「ちょっと見せて」
と言うのでバルドはナイフを渡した。
しばらく、ナイフをいろんな角度で見ていたジュルチャガは、
「これ、分解してみてもいい?」
と妙なことを訊いた。
ナイフが分解できるわけがあるまい、とバルドがいうと、
「いや、ちょっと待って」
自分の小物入れから小道具をいくつか取り出すと、ジュルチャガはあれこれナイフをいじった。
やがて、ナイフの握りの部分がぱかりと二つに分かれた。
その中に、四角い小さな金属がある。
それを取り出してしばらく見ていたジュルチャガは、
「これ、
小さいけれど、何かの家紋のようなものが彫りつけてある。
これなんじゃないの、
と、意外なことを言った。
バルドは、それを受け取って、しげしげと見た。
確かに印形である。
そういえば、このナイフは、アイドラがパクラ領に帰ったときに、バルドにくれたものだった。
あまりに昔のことだったので、今回の騒ぎと結びつけて考える発想がなかったのと、すっかり自分の持ち物としてなじんでいたので、アイドラから預かったものなどといわれても、このナイフのことを思い出したりしなかったのだ。
姫は、なぜこのナイフをわしに下されたのじゃろうか。
バルドが想いにふける横で、ジュルチャガがいたずらっぽい目つきで聖銀の印形を見つめていた。
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