第7話 二重の渦巻き

 1


 リンツ邸での待遇は、とまどうほどよいものだった。

 命の恩人であり、無双の豪傑として名をはせたバルドを、リンツ伯は賓客ひんきやくとしてもてなした。

 家人も、あるじの救い主に、心を込めて仕えた。


 リンツ領の重臣たちは、入れ替わり立ち替わり贈り物を持って訪れた。

 上質の武具や衣装、宝玉などはもとより、大型の家具調度なども贈られ、どこに持って行けというのかと首をひねった。

 防具とマントは、地味な物をありがたく使わせてもらうことにした。

 何本かもらった剣は、立派すぎた。

 年寄りが死ぬための旅の道連れは、今持っている古びた剣がちょうどよい。

 リンツ伯に、持てない品は置いていくので、テルシア家の者に渡してほしいと頼んだ。

 リンツ伯は、これを快く承諾した。


 バルドの体調もすっかり回復したある日、リンツ伯サイモン・エピバレスは、衣服を改め威儀を正してバルドにあいさつを述べた。


「バルド・ローエン卿。

 こたびの貴卿きけいの働きに、心より御礼申し上げる。

 出来のよい男と見込んで養子にしたが、獅子身中の虫であった。

 わしの不明から、貴卿とジュールラン殿を危難に巻き込んだことは、まことに申し訳ないことであった。

 絶体絶命の場面であったが、貴卿の目覚ましい武勇により、かすり傷ひとつ負わず切り抜けることができた。

 これは、わしの長男で跡継ぎのウェルナー。

 横が、その妻のヘレナ。

 二人からも礼を申し上げる。

 エピバレス家は、貴卿への感謝と友誼を忘れぬ。

 いつなりともわが家の門は貴卿に開かれておる。

 わが家が貴卿の役に立てることがあれば、何なりとも申しつけていただきたい。

 これは、差し当たっての心ばかりの感謝のしるしである。

 ご笑納あられたい」


 と息子夫婦とともに頭を下げた横の卓上には、積み上げられた大金貨が上等の布に包まれ、盆に載せられていた。

 大金貨一枚は、金貨十枚に相当する。

 目の前の大金貨は、おおよそ百枚ほどもある。

 バルドは、感謝を受け入れ、自らも友誼を約束したが、金貨は辞退した。

 そもそも、今回の襲撃は、オズワルドがリンツ伯を狙ったものでもあるが、コエンデラ家がバルドとジュールランを狙ったものでもある。

 バルドとジュールランに降り注いだ水のとばしりがリンツ伯に掛かった、ともいえるのである。

 しかし、リンツ伯は、


「いや。

 そうではない。

 残った者を尋問して分かったが、オズワルドは前々からコエンデラ家と結託して家督の横取りを企んでおったのじゃ。

 ローエン卿がおられぬときに襲われていたら、わしらの命はなかった。

 お二人がおられるときに陰謀を行ってくれたおかげで、わしは助かったのだ。

 今命があるのは、やはり貴卿のおかげよ。

 それに、一度差し出した贈り物を下げることはできぬ」


 と言い張ったので、ならばテルシア家に渡してほしいと言った。


「ふむ。

 無欲にして主家思いよの。

 じゃが、ローエン卿。

 この金貨をテルシア家に渡せば、世間ではリンツ伯がテルシア家に大金を贈ったと思うじゃろうの。

 秘密にしても、こういうことはいずれ知られるものじゃ。

 わしは騎士というより商人とみられておる。

 商人は無償で大金を贈ったりせぬ。

 テルシア家は、痛くもない腹を探られかねん。

 ローエン卿。

 テルシア家には、別の形で必ず報いさせていただく。

 どうかこの金子は、貴卿が収められよ」


 ここまで言われては、バルドもうなずくほかなかった。

 ただ、こんな大金は持って歩けないので、十万ゲイルを受け取り、あとは必要に応じて受け取ることにしたい、と述べた。


「おお、それで結構。

 となると、貴卿自身が来られず、代理を寄越されることもあろう。

 貴卿の使いであることを確認する方法を決めておいたほうがよい」


 バルドは、墨壺と紙を求めた。

 差し出された紙は、ひどく上等な皮紙かわかみだった。

 非常に白く、薄く、なめらかだ。

 皮紙に付き物の嫌な臭いがしない。

 バルドには、それが何の獣の皮か分からなかった。


 墨壺が来ると、右手の人差し指を入れて、その人差し指を左手の人差し指とこすり合わせた。

 そして、両手の人差し指を紙に押しつけた。

 指を放すと、そこには二つの指のあとがのこった。

 不思議そうにそれを見るリンツ伯に、


  人の指の模様というのは、一人一人違っておるのです。

  大陸中央の国々では、指を朱墨しゆぼくにひたして印形の代わりに押すことを、指印ゆびいん、と呼ぶとか。

  まったく同じ指印は二つとないので、これはその人を確認するよい手段になるのですな。

  この指印と同じ指印を持つ者が訪ねてまいりましたら、お預かりいただいた物をお渡し願いたい。

  戦いで指を失うこともありましょうが、こうして左右の人差し指の印を残せば、大丈夫でしょう。


 と説明した。

 リンツ伯は、しきりに感心して、自分も指印を押し、家人らにも押させて比べ、


「なるほど。

 一人一人見事に違っておるわ。

 ううむ。

 〈人民の騎士〉殿は、知略もいけるのか」


 と言って笑った。

 この知識は、ひだまりの庭でアイドラから教えられたものであった。

 アイドラは、コエンデラ家に嫁いでいた一年少々のあいだに、なかなか珍しい知識を仕入れていて、バルドもいろいろ驚かされたものである。

 そんなことを思い出していたバルドは、ふと、


  ギエンザラが言い残した、二重の渦巻き、とは指印のことではないか。


 と思い当たった。

 それで、そのことをリンツ伯に伝えると、


「うむっ。

 なるほど。

 とすると、誰か二重の渦巻きのような形の指印をした者がいるのだな。

 その誰かをさがしているのか。

 あるいは指印が押された証書や誓詞のようなものを捜しているのか。

 そんなところであろう」


 バルドは、ギエンザラの言い方からすれば、やつは指印のことは知らなかったようですな、と言った。

 リンツ伯は、


「確かにそうじゃ。

 二重の渦巻きとは何のことか、と言っておったからのう。

 すると、コエンデラの者ではない誰かが、指印を手掛かりに、人か書状を捜しているのだな。

 そして、コエンデラは、それに先んじたいんじゃろう」


 バルドにもそこまでは分かったが、それ以上のことは考えつかなかった。

 細かなことをあれこれ考えるのは、性に合わない。

 狼藉者たちがアイドラの手紙に関心を持っていたことは少し気になるが、どうせ本人は死んでいる。

 それに、バルドはアイドラの物の考え方を、よく知っていた。


  何か重大な事柄をアイドラ姫がご存じであったのなら、わしへの手紙にだけ書くようなことはなさらん。

  それは遠回しだし、時間がかかるし、危険すぎる。

  兄君に、あるいはジュールラン様やシーデルモントに、相談なされたに違いない。

  わしへの手紙には、わしにだけ意味があることが書いてあったはずじゃ。


 と推測がついたので、もう手紙のことは気にしていなかった。

 だいたい、コエンデラから帰ってからは城から出たことのないアイドラが、何をどうやって知るというのか。

 テルシアには、バルドの及びもつかない知恵者が何人もいる。

 自分の出番があるようには思えなかった。


 2


 久々に屋台を見て回った。

 見るだけではない。

 あちらこちらで物珍しい食べ物を買っては食べていた。

 リンツ邸では、夜は珍味がふんだんに供されるし、朝は健康によくて食べやすい料理が出る。

 その供応にまったく不足はないのだが、こうした屋台物というのは、また別なのである。

 せっかくリンツに来たのだから、力の限り食べ歩くつもりだった。


「よっ。

 旦那。

 元気そうだね」


 と後ろから声を掛けた男の気配には覚えがあった。

 〈腐肉あさり〉ジュルチャガである。


「なんか、おごってくれよー」


 と言うので、次の屋台ではさみ焼きなる料理を二人分買って、一つを渡した。

 歩きながらでは食べにくそうだったので、水路のほとりに腰を下ろした。

 ジュルチャガも、その隣に座ってきた。


「あちちちちっ。

 これ、うめえんだよね」


 初めて食べる料理だ。

 小麦粉を水で溶いて薄く丸く焼き、半分に折った料理である。

 その内側には、新鮮な魚介類をさっとあぶり、味噌に砂糖と薬味を加えて塗りつけたものが挟み込まれている。

 味噌が熱せられて発する匂いが、実に食欲をそそる。

 大きな木の葉に乗せて渡してくれた。

 この葉は単なる皿代わりのようだが、葉の柔らかでみずみずしい香りが、なかなかしゃれた風味を足している。


 バルドは、ジュルチャガのまねをして、大胆にかぶりつき、おお、うまいな、と声を上げた。

 自然と笑い顔になる。


「甘酒、買ってきてあげるよ。

 お金、ちょうだい」


 と言い小銭を受け取ったジュルチャガは、挟み焼きの残りを一気に口にほおばりながら、ひょいと土手に飛び乗って、人波に消えた。

 バルドが挟み焼きを食べ終わったころ、わん代わりの切り竹に熱々あつあつの甘酒を入れたものを持って帰って来た。


「はいよ」


 と、その一つをバルドに渡し、懐から別の何かを取り出した。

 くるくるとぼろきれに包んだそれは、何やら湯気とうまそうな匂いを立てている。


「芋とかいろんな野菜をさ。

 でてざっくりつぶして混ぜて。

 それをこんなふうに細長くしてさ。

 さっと焼いて塩振ってるだけなんだけどね。

 うまいんだな、これが」


 と言いながら、バルドと自分のあいだに置いた。

 二人は、それをつまみながら、甘酒をちびりちびり飲んだ。


「まさか、崖のほうに飛び降りるとは思わなかったでしょ?」


 うむ、思わなかった、とバルドは答えた。


「あの崖をぴょんぴょん跳んで降りるなんて、すげえっ、て思ったでしょ?」


 うむ、思った、とバルドは答えた。


「おうおう、俺って天才?

 まいったなあ。

 そんなに賞められたら、困っちゃうなあ。

 でもさ、実はね。

 あれ、思いっきりびびってたんだよね。

 でも、死ぬ気でやった。

 できないかなーっ、無理かなーっ、死ぬかなーっ、て半分思いながら、いや俺にはできるって、自分に言い聞かせてさ。

 なんとかできて、おれすげーって思った」


 そうじゃろうの、騎士の闘いも同じようなものじゃ、とバルドは言った。

 ジュルチャガは、少し驚いたようにバルドのほうを見てから、


「へえー。

 そうなんだ。

 俺のやってるのも、騎士の旦那がたがやってるのも、同じなのかー」


 甘酒には、何か隠し味が入れてあるようで、独特の刺激があり、体がよく温まった。

 水路にはいろいろな舟が行き交っている。

 舟が起こす波は、静まる間もない。

 と、突然、


「きゃあああああっ」


 という悲鳴が響いた。

 見れば対岸の土手を小さな子どもが転がり落ちている。

 悲鳴は、母親らしい女が上げたものだ。

 どぼん、と水音を立てて子どもは水路に落ちた。

 ばしゃばしゃともがきながら沈んでいく。


 バルドは立ち上がって走り出した。

 それより早く、ジュルチャガが飛び出し、素晴らしい加速をつけ、川に飛び込んだ。

 ジュルチャガは、飛び込んだ勢いで水中を進み、すぐに子どもをつかんだ。

 水面に浮かび上がったのは、ほとんど向こう側の岸に近い位置だった。


 その目の前に荷物を積んだ舟が迫る。

 その舟の船頭は、子どもが水に落ちたのを見て、岸寄りに舟の針路を変えた。

 ジュルチャガが子どもを抱いて浮き上がったのが、その変更された針路上だったのである。


 ジュルチャガは、必死で舟をかわそうとする。

 だが、抱えた子どもが暴れるため、かたつむりのようにしか進めない。

 舟のへさきが、ジュルチャガのすぐそばに迫った。

 ジュルチャガは、子どもを抱え込むようにして目を閉じた。


 だが、衝突の衝撃はこなかった。

 バルドが、太い材木を舟の舳先へさきに横から押し当て、強引にその針路を変えさせたからである。

 じゃぶじゃぶという水音に混じって、めきめきという木のきしむ音が聞こえる。

 舟が、むりやり押しのけられて、悲鳴を上げているのだ。


 舟は見る見る岸から針路を変えていく。

 太い材木を舟の舳先から離し、ジュルチャガの前に差し出した。


  つかまれ。


 とバルドは声を掛けた。

 ジュルチャガは子どもを抱えたまま、丸太につかまった。

 ジュルチャガと子どもごと、丸太を岸に引き寄せていく。

 二人は、ぐいと岸に引き上げられた。


 母親らしい女が子どもを抱き取り、泣きながら礼を言っている。

 ジュルチャガは、危機を救ってくれたバルドに、


 「なんで旦那がこっち岸にいるの?」


 と聞いた。

 バルドは、水に飛び込むのは身軽そうなジュルチャガに任せ、三隻の舟の上を飛び移りながら、対岸に渡った。

 岸辺にちょうど頃合いの丸太が差し込んであったので、ぐいと引き抜いて、危ない舟の針路を変えたのである。


 この説明を聞いたジュルチャガは、じっと丸太を見た。

 バルドは、


  おおそうじゃ。

  元の場所に戻しておかねばな。


 と言い、水の中にどぶんと丸太を突き立てた。

 それは、舟のともづなを結ぶ、舟留めの木であった。

 水の勢いに流されないよう舟をつなぎ止めるのであるから、そう簡単に抜けるようにはなっていない。

 

「なんちゅう怪力。

 それにしても、とっさに舟を飛び移って来るなんて、よくできたねー」


 と驚いた。

 バルドは、


  うむ。

  できないかなと半分思いながら、いやわしにはできると自分に言い聞かせてな。

  やってみたら、なんとかできた。

  わしはすごいな、と思った。


 と言った。 

 これを聞いたジュルチャガは、大笑いをした。

 次に、くしゃみをして、鼻水をすすった。

 それから、もう一度笑った。


 親切な商人が、古木を集めてたき火をしてくれた。

 周りの人々が、手に手に薪になりそうなものを集めてくれた。

 ジュルチャガは、悪びれもせず素っ裸になり、服をよく絞って乾かし、火にあたって温もった。


 女はやはり母親だった。

 子どもの服を脱がせて体を拭き、自分の上着を脱いで、くるくるっと子どもを巻いた。

 子どもは頭だけを出して、火のそばで温もった。

 母親に抱きしめられ、くすぐったそうにしていたが、すぐにこくこく居眠りを始めた。

 たき火のそばには、人々が集まり、子どもの無事を喜び、ジュルチャガとバルドの活躍を話題に盛り上がった。

 茶や酒や食べ物を売る商人が近寄ってきて、ちゃっかり商売をした。


 3


 リンツ邸に帰ろうとすると、ジュルチャガがついてきた。

 正門には警備兵がいて、敬礼してきた。

 ジュルチャガは、


「よっ」


 と手を上げてあいさつして、平然と通った。

 迎賓館の侍従に、珍客だ、とジュルチャガを紹介すると、


「確かに珍客だよね」


 とジュルチャガは相づちを打った。

 侍従は心得たもので、それだけで了解し、夕食や泊まる部屋の手配をした。

 この日の陪食者は、リンツ伯一人だけだった。

 みすぼらしい風体の客に驚きもせず、乾杯をする段になってから、


「お客人のお名前をお聞きしてもよろしいかな」


 とリンツ伯が言うので、盗賊のジュルチャガという男です、と紹介した。

 さすがにジュルチャガは、ぎょっとした顔をしたが、リンツ伯は、


「では、ジュルチャガ殿のご来駕らいがを祝って、乾杯」


 と平然と乾杯の音頭を取ってのけた。

 次の乾杯の音頭は、賓客であるバルドの番である。

 バルドは、リンツ領の繁栄とリンツにゆかりある人々すべての健康を祝って乾杯した。

 三度目の乾杯は、ジュルチャガが音頭を取る番である。

 ジュルチャガは、


「この屋敷の安全と平穏を祈って、乾杯」


 と発声して、杯を揺らした。

 乾杯の応答が終わったので、さいが配膳された。

 手ずから珍味を二人の客に取り分けつつ、リンツ伯が、


「ジュルチャガ殿といえば、〈腐肉あさりゴーラ・チェーザラ〉と呼ばれる、名盗賊ですかな」


 と真面目な顔でジュルチャガ本人にいた。

 バルドは、サイモン殿はすでにお会いになっておられますよ、と言った。


「ほう?

 できるだけお会いせずに済むようにしてきたはずだがのう」


 といぶかるリンツ伯に、手紙を盗んで崖に飛び降りた男ですよ、と答えた。

 リンツ伯は、初めて驚いた顔を見せ、


「おおお、あの、ましらのような」


 と言い、さらに、


「うむっ。

 まさに超一流の盗賊じゃ!

 ローエン卿に続き、わが家に当代一流の人物をお迎えできたわけじゃな」


 と大声で言い、高らかに笑った。

 バルドも声を合わせて笑った。

 ジュルチャガは、声は立てずににこにこと笑った。


 4


「あのとき捕まってさあ。

 しばられて引っ張っていかれてた途中でね。

 あのギエンザラとかいうのの一行と行き合っちゃったんだ。

 お供の一人が俺のこと知っててね。

 なんか、脅して、俺を引き取ってくれたわけ。

 まあ、あのまま連れてかれたら縛り首間違いなしだったしね。

 命の代金の分だけ働けっていわれちゃってさ。

 兵士に化けて、手紙と印形いんぎようを奪い取れって。

 相手がバルド・ローエンって聞いたときは、一瞬目の前が真っ暗になっちゃったよ。

 でも、男は挑戦する心を失ったら終わりだからね。

 じっとチャンスを窺ってたってわけ」


「おぬし、がたがた震えていたではないか」


「リンツ伯の旦那、それは言いっこなし。

 あれは相手を油断させるための演技なんだよ。

 ほんとだって。

 いやあ。

 味方が壊滅しかかってたからね、手紙だけ取ってったんだけど。

 結局、印形って、どこにあったの?」


「ははは。

 なんじゃ、それを探りにきたのか?

 面白いやつじゃな。

 印形なる物は、ジュールラン殿もバルド殿も、心当たりがないそうじゃ」


「えっ?

 バルドの旦那、知らないの?」


 バルドは、うむ、知らん、と答えた。


うわっちゃージャン・デッサ・ロー

 はじめっからお宝はなかったわけか。

 これだからだめだよね、素人は。

 下調べが雑すぎる」


「ジュルチャガよ。

 そもそも、なぜあの手紙をコエンデラ家が欲しがる。

 渦巻きとか印形とかいうのは、どこから出た話なのじゃ?」


「ああ。

 ガドゥーシャ辺境侯の使いの人が、そんなこと言ったらしいよ。

 ギエンザラがバークラってのに言ってた。

 ガドゥーシャ侯の使者は、二重の渦巻きと印形により、間違いなく本人が確認できるゆえ、心配ご無用と言ったのだ。

 ってね」


「む?

 ガドゥーシャ辺境侯じゃと?。

 そういえば、コエンデラ家は、ガドゥーシャ辺境侯に顔が利くようじゃな。

 カルドスの母を通じて親戚になるのじゃったか」


 ガドゥーシャ辺境領は、パルザム王国東部地域にあり、交易村パデリアを含む。

 領主のマードス・アルケイオスは、パルザム王国の騎士で、有力武将の一人である。


「それと、バークラじゃと。

 バークラ・メガノンか?

 やつも来ておったのか」


 バークラ・メガノンは、ドルバ領の重臣の一人だ。

 バルドはジュルチャガに、では手紙はバークラに渡したのか、と訊いた。


「うん、そうだよ。

 あ、ごめんね、バルドの旦那。

 あれ、テルシアのお姫さんから旦那に宛てた手紙だったんだよね。

 バークラのおっちゃんさあ。

 手紙を開いて読んでたけどね。

 なんじゃ、これは。

 大事なことは何一つ書いていないではないか。

 って怒ってた。

 知らねーよ、そんなこと。

 盗ってこいっつったのは、おめーだろーが。

 と思ったけど口にはしなかった」


「賢明じゃったの。

 しかし、なぜアイドラ姫の書いた手紙を、やつらは欲しがるのじゃ?

 渦巻きとか印形とかとは、どう関わる?」


「さあ?

 バークラのおっちゃんも、よく知らなかったみたいだね。

 ギエンザラに文句言ってたもん。

 カルドス殿は秘密主義が過ぎる。

 いいかげん今回の騒ぎの詳細を教えてくだされ、ってね。

 ギエンザラは、とにかくすべては印形を手に入れてからのことだ、それはバルドが持っているとしか考えられん、渦巻きのこともやつが知っているに違いない、手紙には手掛かりになることが書いてあるはずだ、って言ってたなあ」


「ふうむ。

 よく分からんことだらけじゃのう。

 そうじゃ、バルド殿。

 ジュールラン殿は、バルド殿によけいな心配をかけぬよう話されなかったようじゃが、ちと妙なことがあったらしい。

 バルド殿がパクラ領を出たあと、コエンデラ家から使者があって、アイドラ殿とジュールラン殿をコエンデラ家に引き取りたいと申し出たそうじゃ。

 三十年近くほったらかしにしておいて今さらな申し出じゃ。

 あわよくばジュールラン殿という優秀な騎士を引き抜き、それがだめでもテルシア家の中にジュールラン殿への不信を振りまこうとする策じゃろうと思われた。

 むろん、テルシア家は、これを突っぱねた。

 するとコエンデラ家では、何度か申し出を繰り返したあと、それならせめてもと、侍女を一人差し向けて寄越した。

 アイドラ殿の身の回りのお世話をさせてくださいとな。

 これも不審な申し出じゃが、断ればテルシア家が非礼をしたことになり、コエンデラにちょっかいの口実を与えかねん。

 承諾して働かせてみたら、案に相違して気立てもよく、仕事もそつない娘でな。

 アイドラ殿も気に入ったとのことじゃった。

 侍女は何度かコエンデラ家に手紙を出したが、出す前には、ジュールラン殿に中身を見せたそうじゃ。

 自分がどう思われておるかは知っておったのじゃな。

 アイドラ殿の健康状態や、部屋の片付けをした内容などが書いてあるばかりで、おかしな点はなかったらしい。

 アイドラ殿の葬儀が終わって、ドルバ領に戻ったという。

 こうしてみると、その侍女は、アイドラ殿の周りの品々を調べておったのじゃろうな」


 長い話をして喉が渇いたのか、リンツ伯は、杯の酒をぐいとあおった。


「ところで、ジュルチャガ。

 印形を探しに戻って来たのなら、さっき言うた通り、ここにはない。

 バルド殿に心当たりはないのじゃ。

 無駄足じゃったの」


「あ、いやいや。

 そーじゃないよ。

 手紙をすり盗った手柄で、借りはちゃらにしてもらったんだ。

 その場でバークラのおっちゃんとは別れたよ。

 一緒にいて楽しい人じゃないしね」


「ではなぜこの街に戻って来た。

 お前は、リンツ伯およびテルシア領の二人の騎士の暗殺未遂犯の一人じゃぞ。

 そうでなくても手配書が回っておるしの。

 見つかれば命はないぞ」


「まあまあ。

 そんな固いこと言わないで。

 だって、せっかくリンツに来たのに、屋台のうまいもの食ってなかったからね。

 そのままよそに行くって手はないよ」


「はは。

 ここの屋台は命懸けの魅力があるか。

 面白いやつじゃ」


「うん!

 あるね。

 ところがお金がなくってさあ。

 どこかで仕事しようかと思ってたら、バルドの旦那を見かけてね」


「ほう。

 見かけて、どうした」


「なんかおごってくれよー、って言った」


「何じゃと?

 大胆なのか、阿呆あほなのか、分からんの。

 そうしたら、バルド殿は、お前をどうした?」


「おごってくれた」


 リンツ伯は、しばらく黙ってバルドを見た。

 バルドは、静かに杯を口に運んでいる。

 ジュルチャガは、そのあと起きた事件の顛末てんまつを、リンツ伯に物語った。

 リンツ伯は、ふむふむ、おう、ほう、などと合いの手を入れながら聞き入った。


「そういえば、バルドの旦那。

 おごってもらったお返しをしないとね。

 何か俺に頼みたいことない?」


 とジュルチャガが言った。

 バルドは、バークラはドルバ領に帰ったのか、と訊いた。


「うんにゃ。

 勅使一行に追いついて、湖のほとりの別邸に案内する、って言ってた」


 バルドは、しばらく考えてから、その別邸のほとりまで行ったとして、屋敷の者に気付かれずに勅使一行に連絡を取ることはできるか、と訊いた。


「もち」


 とジュルチャガは返事をして、片目をつぶってみせた。

 リンツ伯が、手ずからジュルチャガの杯に酒をついだ。

 ふつう、当主が客に酒をつぐのは最初の一杯だけで、あとは給仕にさせる。

 どういうわけか、リンツ伯は、ジュルチャガが相当気に入ったようである。

 おぬしは侠盗じゃな、とか、どの道にせよ技に熟達し誇りを持つ人間はよい、などと妙な誉め方をしている。

 かと思えば、泥棒に入られないための心得なども尋ねている。


 この日、リンツ伯邸迎賓館の食堂は、ずいぶん遅くまでにぎやかだった。

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