辺境の老騎士

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序章 旅立ち

第1話 ガンツの娘

 1


 バルドは、両開きの扉を押し開けて、宿屋ガンツに入った。

 主人らしき男が、カウンターの向こうで食材を刻んでいる。

 ちらりとバルドのほうを見たが、そのまま作業を続けた。


 騎士を、つまり貴族を迎えるにしては、ずいぶん不作法だ。

 もっとも、剣を腰に吊ってはいるし、革の鎧も着けてはいるが、いずれも古びた品であり、汚れてみすぼらしい。

 身分のある人間にみえなくても無理はない。

 バルドのほうでも、気を遣われたいと思っているわけではない。


 この街はパクラ領からそう遠くないが、一度も来たことがなかった。

 遠くに行く前に、どんな街か一度見ておきたかったのだ。

 パクラからまっすぐ来れば五日もかからない距離だが、ほかにもいろいろ見ておきたい景色があったので、一か月もかかった。

 大障壁の切れ目にこんなに近いのに、この村は不思議なほど平穏だ。


 バルドは、二羽のコルルロースを男に見せ、交渉を始めた。

 男はやはり、この宿の主人だった。


 コルルロースは山鳥には珍しく臭みがなく、とてもうまい。

 もともと数が少ない上に臆病な鳥だから、なかなか獲れない。

 美しい羽毛は、都会では服飾品の素材として珍重されると聞く。


 丸々と肥えたコルルロースが二羽。

 傷は少ない。

 しっかりと血抜きもしてある。

 しばらく交渉して、二日の宿泊と食事と酒、体を洗うためのたっぷりの湯、馬の餌と水、干し肉と乾燥パンと引き換えに、二羽のコルルロースを主人に渡した。


 ここは、ガンツと呼ばれる共同食堂兼宿屋である。

 ガンツは、鉱山や農場の持ち主などが作る。

 街の有力者が金を出し合って作ることもある。

 労働者はそこで、日に決まった回数の食事ができる。

 旅人は、しかるべき料金を払って泊まったり食事をすることができる。


 「旦那。

 部屋に上がる前に、汚れを落としてくんな」


 と主人に言われ、バルドは外に出た。

 十三、四歳の女の子が後を追って出て来て、服をはたき始めた。

 この一か月、山と荒野を旅してきたから、大量の砂ぼこりが服に付いている。

 靴もどろどろに汚れている。

 少女の手伝いを受けて、部屋に入れる程度に汚れを落とした。


 客室は二階にあった。

 荷物を持って階段を上り、指定された部屋に入った。

 荷物を床に置き、マントと革鎧を外す。

 ベッドに腰掛け、ブーツを脱ぐ。

 ゆっくりと脚をもみほぐしていった。

 血が通うにしたがって、痛みと疲れがじわじわとしみてくる。


 馬を連れての旅なのだが、馬に乗ることはほとんどない。

 荷物を背負わせた馬をいて歩いてきた。

 バルド以上に馬は老いている。

 何年も前に現役を引退していた馬なのだ。

 置いていけば、食肉用につぶされただろう。

 だから、旅の道連れに、この馬を選んだ。


 2


 大陸東部辺境の一角で、コエンデラ家とノーラ家は、大領主の座を長いあいだ争ってきた。

 最近、コエンデラ家がノーラ家に勝利して、ジグエンツァ大領主を名乗るようになった。

 バルドが仕えていたテルシア家も、これを認めないわけにいかなかった。


 コエンデラ家は、領主会議を開き、以後十年間、ザリザ銀鉱山の収益を戦で荒れた地域の復興に使うことを無理矢理決定した。

 むちゃくちゃな話である。

 ザリザ銀鉱山とリポジア銅鉱山は、古くからテルシア家が権益を有してきた。

 それは、テルシア家が治めるパクラ領が、〈大障壁〉ジャン・デッサ・ローの切れ目に位置し、魔獣の侵入を阻む役目を務めてきたからである。

 その役目はテルシア家に負わせたまま、財源を奪うというのは、筋の通る話ではない。

 しかも戦で地域を荒らしたのはコエンデラ家なのだから、その復興のためというのはお笑いぐさである。


 だが、コエンデラ家の無理押しを、今は黙って受け入れるしかない。 


 バルドは、四代のテルシア家当主に仕え、その志の高さを深く敬愛した。

 歴代当主もバルドの武勇と忠誠に、手厚く報いた。

 何度も領地を分け与えるといわれたが、それは断った。

 家族は、もういない。

 結婚したことはない。


 領主会議の結果を聞くと、バルドは引退を願い出る手紙をしたため、居館と財産を返上する旨を書き添えて、領主に届けた。

 返事が来るのを待たず、使用人たちにはそれぞれ慰労金を与えて身の振り方の面倒をみて、旅に出た。

 バルドが残した財で、テルシア家は一息つけるはずである。


 この旅に目的地はない。

 旅の空で死ぬための道行きなのだ。


 3


 お湯が沸いたよー、と少女が呼びにきたので、荷物を持って一階に下り、ガンツの裏側に回った。

 井戸のそばに砂利を敷き詰めた洗い場があり、その奥に、たっぷりと湯の入った大樽がある。

 なんと、湯船で体を洗えるようだ。

 これは、ありがたい。


 脇の小さな塀に剣を立てかけ、服を脱いだ。

 すると、少女が、これを使ってね、と手桶を差し出した。

 大樽の湯を手桶ですくい、頭からざっぷりとかぶる。

 髪を、ひげを、体を、湯が流れていく感触が、なんとも心地よい。

 もう一度湯をすくい、体をこすりながら掛けていく。


 それから、湯に体を沈めた。

 体が大きいので、たくさんの湯があふれ出る。

 うわわ、おじいさん、体おっきいね−、と少女が目を丸くしている。

 足が、腰が、背骨が、肩が、ぴしぴしと音を立てながらほぐれていく。

 痛みや苦しさに耐えることは、騎士の最も基本的な資質といってよいが、さすがにこの年で一か月も徒歩で野営の旅をすれば、体にこたえる。

 押さえつけ、無視し、忘れていた痛みが、体中でよみがえる。

 だが、これが生きているということだ。

 バルドは、湯船で疲れを癒す幸せを満喫しながら、押し寄せる痛みに、顔をしかめた。


 しみるの、と少女が聞いてきた。

 バルドの体には、たくさんの傷がある。

 その傷に湯がしみるのか、と心配してくれているのである。

 バルドは柔らかくほほえんで、


  傷はどれも古くてのう、今さら痛くはない。

  お湯があまりに気持ちようて、体がびっくりしとるのじゃ。


 と、少女に答えた。

 ポルポスの実を干した垢こすりが置いてあったので、湯船の中で全身をこすった。

 湯はどんどん汚れていく。

 あとで掃除が大変だろうのう、と少女に申し訳なく思った。

 少女は、砂利の上で、ブーツや下着を洗ってくれている。

 ごしごしとブーツをこすりながら、少女は馬の名前を聞いてきた。


  スタボロスという名じゃよ。


 と答えると、それはどんな意味なの、と少女が聞いた。


  知り合いの人が付けてくれた名でのう。

  意味は聞かなんだ。


 と答えた。

 スタボロスには餌とお水をあげたよ、あとで洗っておいてあげるね、つのが短いけど大丈夫だよねと少女は言った。

 馬に限らず家畜の多くは額に角を持つ。

 角は老いるにしたがって小さくなっていくが、見えないほど小さくなると凶暴化することがある。


  大丈夫じゃよ。


 とバルドは答えた。

 湯船の底にだいぶ泥と垢がたまったころ、一度栓を開けて湯を半分ほど抜き、新しい湯を注ぎ足してくれた。

 腕まくりをして、うんしょうんしょと、ガンツの裏口から湯桶を運んで往復する姿は、見ていて心安らぐものがある。


  いやあ、いい湯だのう。

  はっはっはっはっ。


 バルドが楽しそうにしているのを見て、少女もうれしそうだった。

 風呂から上がり、部屋に戻り、ベッドに横たわると、すぐに眠りに落ちた。


 4


 一階は、大勢の客でにぎわっていた。

 バルドは、剣を持って階段を下り、空いた席に座った。

 ほどなく、主人が、シチューとパンと酒壺さけつぼわんを持ってきた。

 丸々一壺とは気前がいいなと驚きながら、酒を椀についで、ぐいとあおる。

 蒸留酒が喉を焼き、体の中を落ちていく。

 ほどなく、ぽかぽかとした熱が腹の底に生じ、ぞうがぐにぐにと動き始める。


 シチューは、肉や採れたての野菜が入ったもので、食欲をそそる匂いを放っている。

 木のスプーンですくって口に運び、じっくりかみしめた。


  うまい。


 コルルロースの肉だ。

 とても柔らかく煮上がっている。

 そのくせ、かめばかむほどうまみが染み出してくる。

 野菜も、よく味が染み込んでいるが、ほどよい歯ごたえがある。

 絶品だ。


 バルドの向かいに座っていた男が、主人に向かって、


 「俺にもあれをくれ」


 と言った。

 主人は、特別料理だから別料金になると言い、値段を告げた。


 「おい、高いぞっ」


 と男が言う。

 バルドは、もう一度シチューを口に運び、今度はその味が消えないうちに酒をあおる。

 シチューのうまさが酒の味を引き立てる。

 何ともいえない幸福感を感じながら、


  ふうーっ。


 と息を吐く。

 その様子を見た男が、ごくりと喉を鳴らし、


 「くそっ、とっととあのシチューを持ってこい!」


 と怒鳴った。

 それにつられるように、あちこちのテーブルからシチューを注文する声が上がった。

 少女が忙しく走り回ってシチューを配り、金を受け取る。

 シチューは売り切れだと主人が告げるまで、さほどの時間はかからなかった。


 バルドがシチューとパンを食べ終えるころ、主人が小皿を持ってきた。

 カリカリに焼けたコルルロースの皮だ。

 向かいに座る男の凝視を受けながら、バルドは皮を一切れ食べた。

 ざっくり塩を振った味の加減が絶妙であり、振り掛けた柑橘系の果物が油臭さを消して、後味もよい。

 蒸留酒と抜群の相性である。

 向かいの男が値段を聞き、主人は先ほどのシチューより高い値段を告げた。

 上質の炭をたっぷり使ったからだそうだ。

 シチューよりも短い時間で、皮焼きは売り切れた。

 酒もよく売れていた。


 最後に主人は、小さな鉢に盛った煮込み料理を持ってきた。

 何の料理か分からなかったので、これは何だと聞くと、コルルロースの臓物ぞうもつの煮込みだという。

 そんな物が食べられるのかと思ったが、主人の料理の腕はすでに見たところであるし、器の料理はおいしそうに見える。

 一切れを食べた。


  これは!


 臭みもえぐみも、まったくない。

 薄味のだしがよく染みて、酒好きにはたまらない逸品に仕上がっている。

 思わず、もう一切れを食べた。


  うむむ!


 先ほど食べた肉片と、味が違う。

 全然違う。

 歯ごたえが違い、口の中に広がる肉汁の質が違う。

 しかも、何と言えばよいのだろうか。

 臓腑の隅々にしみる味なのである。

 バルドの体の中の、シチューや、パンや、皮焼きを味わったのとはまた違った部分が、この料理を味わっているような気がする。

 驚くバルドに、主人が説明する。


 「旦那がよく血抜きをしといてくれたからね。

 こりゃいけると思ったんだよ。

 何度も水を替えながら、とにかくあく抜きをするのさ。

 もちろん、内臓だからいろんな物が詰まってるが、それをきれいに掃除するのがミソだな。

 そして、この街特産の岩塩が味の決め手だ。

 いやあ、この料理は素材次第では生臭くなっちまうからね。

 これほどの煮込みが出来るのは、何年かにいっぺんだ。

 臓の腑ってのは、部位によって味が違うからねえ。

 このちっぽけな器の中に、ありとあらゆるうまみが詰まってるのさ」


 向かいに座った男が、臓物の煮込みを注文した。

 主人が値段を答える。

 皮焼きより、さらに高い。

 めったに食べられない珍味で、しかも最高の状態だからだという。

 男は構わず煮込みを持って来させる。

 一口食べて、うめえ!と男が叫ぶや、あちこちから注文が殺到する。

 少女が元気に走り回り、あっという間に売り切れた。


 今夜、主人は、なかなかよい商売をしたことになる。

 バルドも満足した。

 そろそろ食事を終えようかと思ったころ、にぎやかだった店が、突然、静まりかえった。


 皆、入り口のほうを見ている。

 三人の男が、開き戸から入ってきたところである。

 荒くれ者、というのがふさわしい人相と態度をしている。


 先頭に立つのは、大柄ででっぷりと太った男である。

 左耳がつぶれ、左の頬に大きな傷痕がある。

 いやらしい目つきで、店の中をぐるりと見渡すと、


「おうおう。

 どちらさんも、ご機嫌なようで、俺もうれしいぜ!」


 と、どら声を上げた。

 そして、右手に持ったバトルアックスを床に打ち付けると、


「もちろん、お楽しみのあとだからって、明日仕事に遅れるようなやつはいねえよなあ?

 おお、そうだ。

 こんなに元気なんだったら、明日の休憩時間は半分でいいだろう!」


 と、憎々しげに顔をゆがめて言い放った。

 店にいた客は、一人また一人と席を立って店を出ていく。

 バトルアックスの男が、帰ろうとした客の一人にあごをしゃくった。

 荒くれ男の一人が、その客を店の隅に連れて行って、何かを話している。

 借金がどうとか、妹を今夜どうとか、何かろくでもない話をしているようだ。

 一人席に座っているバルドの横に、バトルアックスの男がやって来た。


 バルドの顔と、横に立てかけてある剣をにらみつける。

 バルドは、椅子に浅く腰掛け、左手を遊ばせて、いつでも剣を取れる態勢を保っている。

 バトルアックスの男は、次にバルドの手元を見た。


 ナイフとフォーク。


 客のほとんどは手づかみか、手製の木べらや串で食事をしていた。

 それが普通である。

 バルドの持ち込んだものは、ずいぶんしゃれている。

 両方とも金属製である。

 特にナイフは、複雑で美しい文様が彫り込まれた品で、銀色の上品な光を放っている。

 こんな田舎のガンツには不似合いなこと甚だしい。 


 バトルアックスの男が放つ殺気に頓着せず、バルドは、煮込みの最後の一切れを静かに口に運び、残った蒸留酒をぐいと飲み干して、ふうっと息を吐いた。

 気勢をそがれたように殺気を消し、男は仲間を連れて店を出た。


 5


 新しい酒壺と椀を持って主人が来た。

 バルドのコップに酒をなみなみとついだ。

 もうけさせてもらった礼なのか、不愉快な思いをさせたわびなのか。

 主人は、どかっと椅子に座ると、自分の椀にも酒を注ぎ、ぐっとあおった。


 ぽつりぽつりと、主人は話し始めた。


 この街は、岩塩の切り出しで成り立っている。

 人望のあった町長が死んだあと、ブランドーという男がやって来て、仕事を仕切るようになった。

 ブランドー自身は、なかなかのやり手で度量もあるが、現場を監督するブランドーの五人の息子たちは、暴力で作業員たちを支配し、街の人たちを借金で縛り付け、横暴な振る舞いをするのだという。

 ブランドー一家には腕利きの男が十人少々いるが、息子たちに劣らないならず者らしい。


 こんな街には将来はないと見切りをつけ、養い子の少女をパルザム王国のミスラの街に住む従兄弟いとこに預けることにした。

 ミスラには、学校がある。

 主人は、貯金をはたいて学費を支払い、入学許可書を得た。

 少女は、死んだ妹の娘であるという。

 明日の昼に出る乗合馬車で、少女は川沿いの街リンツに行く。

 御者が古くからの知り合いだという。

 リンツ領主の交易船でオーヴァ川を渡り、交易馬車隊にミスラまで連れて行ってもらう。

 リンツ領に知り合いの役人がいて、しっかりと頼み込んである。

 このガンツでの契約期間が終わったら、主人もミスラに行って食堂をやりたいのだという。

 旦那のコルルロースのおかげで小遣いを持たせてやれるよ、と言いながら、主人はバルドに酒をつぎ足した。

 その様子に、かわいいめいを送り出す寂しさを感じたバルドは、主人の椀に酒をそそいだ。


 6


 部屋に戻ったバルドは、さやから剣を抜いて刀身をあらためた。

 灯芯に点火して、剣を照らす。

 何か所かに、わずかな曇りがある。

 布で丁寧に曇りを拭く。

 どれほど疲れていても、一日の終わりには必ずこれをする習慣である。


 手入れの終わった剣を、右手で振ってみる。

 大きく右上に振りかざすと、肘と肩が痛む。

 古傷が、またぞろうずきだしたようだ。

 上から下にたたき付ける攻撃は、うまくない。


 次に、左下から右上に向かって剣を振り上げてみる。

 このやり方なら、右肘を伸ばしすぎないかぎり、ほとんど痛みがないようだ。

 剣を使う必要があるときは、このやり方がよい。

 いざとなれば痛みは無視できるが、わざわざ体を痛めつけることもない。


 剣を鞘に収め、眠りについた。

 明日は昼まで寝て、馬の手入れと荷物の点検をしながら、ゆっくりと過ごす。

 足りない物があれば、買っておく。

 明日も泊まって疲れを取り、三日目の朝早く出発するのだ。


 7


 一階が騒がしい。

 バルドはベッドから降り、少しだけ部屋のドアを開けた。

 階下のやりとりが聞こえてくる。


「そんなこと言うなよ、店長。

 看板娘を、俺たちに断りもなく都会にやるなんて、ひでえじゃねえか。

 この店のオーナーは、うちのおやじだぜ?

 あいさつってもんがあるだろう」


 主人は、もう馬車の出発の時間だからと、怒りを含んだ声で言うが、相手にそれを聞く気がないのは明らかである。

 ならず者たちにばれないように、街の人々にも出発は内緒にしてあったはずだが、どうも乗合馬車の御者が、うっかりもらしてしまったようである。

 バルドは、身支度を始めた。

 その動きは素早い。

 目には強い光がともっている。

 長年の習慣で、いざというときには瞬時に戦闘態勢に入るのだ。

 もはや、疲れも痛みも感じていない。


「半年でいいやな。

 娘を、うちのおやじの所に奉公に寄越しな。

 それで、今までのあんたの不義理には、目をつぶってやらあ。

 娘にゃ給料だって払ってやる。

 それだけじゃねえ。

 いろいろと教え込んでやるぜえ。

 いろいろとな。

 ええ?

 どうだい。

 悪い話じゃねえだろう」


 仲間が相づちを打ち、下卑た笑いを響かせる。

 階下のやりとりを聞きながら、バルドはブーツを履き、革鎧をまとい、剣を腰につり、マントを掛け、手袋をはめ、帽子をかぶる。

 少女が、放してっ、やめてっ、触んないでっ、と気丈に叫ぶ声が聞こえる。

 バルドは、手際よく、しかし落ち着き払って装備を調え終わり、音を立ててドアを開けた。


 階下にいる者全員が、バルドを見上げた。

 張り詰めた空気の中、バルドは、ブーツの音をさせて、ゆっくりと歩く。

 カウンターの近くに、バトルアックスの男がいる。

 ブランドー兄弟の長兄マキアスであろう。

 ぐっと奥まった位置のテーブルに尻を乗せているのが、三男のジェロニムスと思われる。

 投げナイフが得意であるという。

 入り口で少女を捕まえているのが、五男のケイネンに違いない。

 左手に弓を持ち、背中に矢筒を背負っている。


 ぎしっ、ぎしっと階段をきしらせながら、バルドは一階に下りてゆく。

 ならず者たちの様子を観察しながら。

 どうやら、この男たちは、バルドが出てくることを予想していたようだ。

 バルドがこのまま下りてゆけば、三方から敵に挟まれることになる。

 だが、歩みをゆるめることなく、バルドは一階に降り立った。


 左側の三男に視線を送る。

 右手を左の懐に差し込んでいる。

 吊りベルトに投げナイフを差し込んでいるのが、ちらりと見える。

 投擲とうてき用にしては大きなナイフだ。


 右側のカウンター近くでは、長男がバトルアックスを手元に引き寄せている。

 正面の入り口に立つ五男が、少女から手を放して、矢筒から矢を取る。

 自由になった少女は、カウンターの前にいる主人の元に走り寄って抱きつく。

 三人のならず者の注意は、ただただバルドに向けられている。


 このとき、バルドの胸に遊び心が湧いた。

 どうせなら、思いっきり派手なやり方でこの場をさばいて、ならず者たちから戦意を奪ってみせようか、と。

 失敗すれば命に関わるけがをすることになるが、惜しい命ではない。

 そもそも死に場所を探して旅をしているのだから、罪なき民を助けて死ねるとなれば、まさに望むところではないか。

 大けがをしたなら、命が尽きるまでにこの三人を斬り殺すまでのことである。

 だが、できれば。

 しこりの少ないやり方でこいつらを追い払うのが上策に違いない。


 左を向き、目に力を込めて三男をにらんだ。

 三男は、ごくりと喉を鳴らして、ナイフを強くにぎった。


 バルドは、ふいと目線をそらし、入り口方向に三歩進んだ。

 五男が、ぎくりとした様子で、弓に矢をつがえる。

 その五男からも視線を外し、長男のほうに向き直って、立ち止まった。


 今、長男とバルドと三男は、直線上に並んでいる。

 三男は、バルドの隙を探しているだろう。

 バルドは、ばさっと音を立てて、マントを跳ね上げた。

 マントの左裾ひだりすそが左肩に掛けられたため、左腰に吊った剣があらわになる。

 剣を抜きやすくするためにマントを跳ね上げたと、誰もが思う。

 そして、その結果、左脇が無防備にさらされていると。

 さらにバルドは、マントの左側の留め紐を外した。

 これで真後ろからでも左脇腹が見える。

 

 投げナイフで狙う場所は限られている。

 基本的には腹か胸か背中のいずれかであり、距離が近く条件も調っていれば、顔や首を狙うこともある。

 今、バルドの左脇腹以外は、帽子やマントや鎧やブーツに覆われている。

 三男の視線は、さらされた脇腹に注がれているはずである。

 沈黙の重さに耐えかねたのか、長男が口を開いた。


「老いぼれ、何のつもりだ?」


 相変わらずの憎々しげな物言いだが、正体の知れない相手を少しは不気味に感じているのか、挙動に手強さを予感しているのか、声が少しかすれている。

 バルドは、沈黙を保ったまま、一歩前に踏み出した。

 後ろで三男が動く気配がする。

 ナイフを振り上げて構えているのだろう。


「まさか、俺たちとやる気か?

 たった一人で」


 バルドは、さらに一歩踏み込んだ。

 急ぎすぎてはいけない。

 動作を起こすタイミングは、敵が教えてくれる。


「おもしれえじゃねえか。

 そんなら」


 長男がちらりと三男に目で合図を送る。

 今だ!


「抜けっ!」


 と叫びながら長男が横に飛んだとき、バルドはすでに動作を開始していた。

 下半身をぐるりと右回転させると、ブーツを履いた右足で、だんっ、と力強く床を踏む。

 その爪先は、三男のほうに向いている。

 三男はすでに投擲動作を始めている。

 ナイフが指を離れる瞬間、バルドが振り返ったことに驚きの表情を浮かべる。

 バルドは、腰の回転力をじゅうぶんに利用して右手で剣を抜きつつ、ナイフの軌道を見極める。

 こちらの注文通りのコースにナイフは飛んで来るのであるから、あとは打ち合わせるタイミングさえ計ればよい。


 ガイン!!


 鉄のかたまり同士が衝突するけたたましい音がした直後、打ち落とされたナイフは、床に深々と突き立った。

 バルドは、流れるような動作でさらに半回転しつつ、剣を鞘に収める。

 風をはらんでめくれ上がったマントが、ばさり、とバルドを包んだ。


 時間が凍りついた。


 長男は、両手でバトルアックスを持ったまま、バルドを見ている。

 その目が大きく見開かれていく。

 口がぽかんと開く。

 荒くれ者の脳みそが、起きた出来事を徐々に理解しているのだろう。

 五男が、弓につがえていた矢をぽとりと取り落とすのが、目の端に見えた。

 やがて長男の顔に、恐怖あるいは畏怖に近い表情が現れた。

 おそらく、背後にいる三男も同じような顔をしているだろう。


 無理もない。

 バルドがしてみせたのは、後ろから飛んで来るナイフを振り向きざまにたたき落とすという離れ業である。

 しかも、荒くれ者たちには、ナイフを投げ始めてからそれを察知して振り向いたように見えたはずだ。

 物語ならともかく、現実にこんなことができる人間がいるとは、おのれの目で見てもなお信じがたいだろう。


 武器を持っていた三男に、バルドは平気で背を見せた。

 ナイフをさばいたあと、長男と五男が武器を構えているのに、剣をすぐに鞘に戻した。

 それは、どんな方向から不意打ちされようと、どうとでも対処できるという自信の表れにほかならない。

 こんな格好をしているが、この老人は名のある騎士ではないのか。

 騎士ガルデガースとは貴族パンザムであり、家臣と領地を持っているものである。

 何らかの理由で、お忍びで一人旅をしているのではないか。

 この騎士には、三人ではとうてい太刀打ちできない。

 まして、その郎党を相手にするとなれば、一家は皆殺しの目に遭いかねない。


 などと、ならず者たちは考えをめぐらせているだろう。

 一方のバルドはといえば、平然としたふうを装いながら、心の中では冷や汗をかいていた。

 飛んできたナイフが、予想していたよりずっと大きく、重かったのだ。

 音から察するに、素材も上質である。

 対するバルドの得物は、長旅の護身にほどよい、軽くて短い剣に過ぎない。

 業物わざものといえるほどの武具は、すべて館に残してきた。

 この剣をまともにナイフと打ち合わせていたら、おそらく折れていた。

 危ないところだったのである。


 しばらく静かな目で長男を見つめたあと、バルドは主人のほうに向き、顔の動作で入り口のほうを示した。

 主人は、はっとしてうなずき、少女を連れて、入り口に向かった。

 主人が入り口近くに置かれていた荷物を取ろうとすると、五男がぴくりと動きをみせたが、バルドは目線で五男を縫い止めた。

 主人と少女がガンツの外に出た。


 バルドが一歩を踏み出す。

 三人のならず者が、びくっと緊張する。

 バルドは、ゆっくりと、入り口に向かって歩を進めた。

 五男が後ずさって道を空ける。


 開き戸を押し開けて外に出れば、昼の日差しが目にまぶしい。

 中央広場に止まっている乗合馬車に、主人と少女が駆け寄っている。

 目を細めて見つめれば、時々主人の顔を振り返る少女の顔が、喜びに輝いている。

 何人かの住人は、ガンツの外で様子をうかがっていたのであろう。

 少女を取り囲むように移動しながら、よかったね、よかったねと、少女を祝福している。

 やがて客を乗せ終えた馬車が出発すると、見送りの人々は手を振り、声を上げて別れを惜しむ。

 主人も、大声で少女の名を呼んでいる。

 それだけでは足りず、走る馬車を追って主人も走りだした。

 元気で暮らせ、水に気を付けろと叫ぶ声は、もはや泣き声に近い。


  存分に見送ればよい。

  おぬしは、あのむすめをよう育てた。


 バルドは心の中でそうつぶやいて、左手で帽子を脱いで高く掲げ、砂塵の向こうに消える乗合馬車を見送った。

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