第2話
目を開けると、真っ白な世界だった。
見渡す限り白銀の雪野原でも、天国で想像する雲海でもない。
それらしき心地のよい感触が身体を包み込んではいるけれど、目に映るのは無機質な天井に、無機質なベット。その二つの白の境目をなくすかのように、これまた無機質なカーテンが取り囲む。消毒液の独特なニオイが
起き上がろうと、体に力を入れてみる。しかし、思ったように体は動いてくれず、代わりに低い
そもそも、そんな余計なこと考える必要性も
というか、もっと他に考えるべきことがあるだろう。自分が、今どんな状態なのか。怪我をしているのか、体中あちこち痛むし。あ、でも、余計なこと考えてた方が痛みは
はあ……まあ、なんでもいいや。
とにかく死なずに済んだみたいでよかった。そうゆうことにしておこう。
今は考える気力もないから、しばらく無理に動こうとはせずに、ただぼんやりと何もない天井を眺めた。五分と経たずにうとうとし始め、
入って来た心配そうな目が、私を見つけて涙を
「……母さん」
思ったより
「あぁ……美奈……」
母さんがベットに
「よかった、目が覚めたんだな」
「昨日の事故のこと、覚えているかい?」
不思議と久しぶりに声を聞いた気がしたけれど、それよりも、私は質問の方に違和感を覚えた。
「え……昨日?」
「ああ、美奈は昨日、トラックに
そんなはずない ―― と、瞬間的に否定の言葉が脳裏に浮ぶ。事故にあったのは今日の夕方だ。眠っていたのだって、せいぜい一時間程度のはずだろう。日を
「二十時間ぐらいは意識を失ってたから……そりゃ、驚くよな」
穏やかな声が
「私……ほんとに?」
どうしても自分では信じられない。
でも、父さんが嘘を吐く理由もないし、何より窓から差し込むやわらかな陽光が、事実であることを証明していた。事故にあった時には既に日は暮れていたから、時間が巻き戻ってでもいない限り日付が変わったことは明白である。
おそらく絶対にありえないけれど、もし仮に時間が戻っていた場合でも、私は事故にあったから怪我をした訳であって、それでは今病院にいる事実と矛盾してしまう。
どちらにしても奇妙な体験だ。自分の中では一瞬の出来事のようだったのに、知らないうちにそんなにも時間が過ぎていたなんて。意識を失っていたのだから当然だけど、なかなかどうして実感が
それでも、母さんの顔を見ればすぐだった。
赤く泣き
「もしかして、昨日からずっと病院にいたの?」
寝不足そうな目がカッと開く。
「当たり前でしょう。本当に、すごく心配したんだから……」
声は途中で途切れ、散々泣いただろうその
「母さんと二人で、美奈が目を覚ますのを待ってたんだよ。さっきは、先生の話を聞くために外してたけどね。で……その、体調はどうだい?」
最後だけ妙な間で、父さんは泣き崩れた母さんの肩を抱きながら、そう教えてくれた。
「ちょっと体が怠いけど、平気」
「そうか、よかった」
ぎこちない笑顔も、それほど気にはならなかった。
きっと私が事故にあったことに、父さんも少なからず動揺しているんだと思う。母さんのように取り乱したりはしないけれど、「心配だった」と顔に書いてあった。
「ありがと。心配してくれて」
「何言ってるんだ、娘を心配しない親なんかいないよ」
「……そうだね」
それでも私にとっては、心配してくれる人は二人だけだから。
「やっぱり、ありがとう」
私は、もう一度お礼を言った。
両親になら、こんなにも素直になれるのになあ……。
「なら父さんからも。美奈、生きててくれてありがとう」
大きな
「もう、
体中が痛かったけれど、照れ隠しのためのやせ我慢だ。両親を心配させたくなかったから、ほんの軽い冗談のようなものだった。だから、父さんも笑ってくれると思った。
「一週間ぐらいだって」
けど、そう言ったあと、父さんは急に表情を曇らせる。
「……ただ、通院はしないといけないらしい」
二人は何かを隠している ―― 私はそう確信した。
「どうして?」
自然と問い詰めるような強い口調になる。すぐに返事はない。
その沈黙の時間が長ければ長いほど、それだけ言いだしづらく、重要なことだと私は知っている。
「お願い、隠さないでちゃんと話して」
「それは……」
迷いが生じた眸は、それでも私を捉え続けた。変に言い訳をしないのは、いずれ話さないといけないことだからなのだろう。
意思の固さを悟ったのか、意を決したように父さんが息を吸い込む。
「いいかい、美奈。驚かないで父さんの話を聞いてくれ」
低く落ち着いた声。
父さんが真剣な話をするときの声だ。
私にもそれなりの覚悟を求められているようで、思わず
力強く頷いて見せると、父さんはようやく話し始めた。
「美奈、お前はトラックに撥ねられたんだ」
「知ってる」
「でも、運よくトラックが
「うん」
「それに、ほとんどが
確かに、驚くほど軽傷だ。
「ヘタしたら死んでたかもしれない事故だったのに、美奈は本当に運がよかった。トラックに撥ねられたって聞いた時は、それはもう心臓が止まるかと思ったよ。本当に奇跡的と言っていいぐらい ―― 」
「違うでしょ、父さん」
はぐらかそうとするのを冷静に
「そ、そうだな。わかってる……ちゃんと話すよ」
そう言って冷や汗を拭い、乾いた唇を湿らせる。
「さっきも言ったけど、ほとんどの怪我が軽傷で済んで、それに関しては運がよかった。でもな、その……なんていうか……」
「なんていうか?」
たっぷり十秒ほどの間。
「残念だけど……美奈の〈右腕〉だけは、助からなかったんだよ」
父さんは気まずそうに目を逸らした。母さんのすすり泣く声が聞こえた。
目に映る真っ白な世界が、色を無くして静かに崩れ落ちていく。そんな嘘のような幻を見てるみたいに、私は
「……なにそれ?」
全身の震えが
「美奈の〈右腕〉は、もう無いんだ……」
死刑宣告にも似たその言葉を、私は理解できなかった。
意味は誰にだってわかる。私の右腕はもう存在していない ―― 父さんの言葉にそれ以外の意味なんてありはしない。だからこそ、冗談としか思えなかったのだ。どんなに真剣な顔をされたって、いくらなんでも信じられる訳ないよ。だって、布団で隠れてたって、ちゃんと右腕の感覚があるんだもん。
「そんなの嘘だよ!」
感情に任せて上体を跳ね起こす。体の怠さや痛みは、どうでもよかった。ずり落ちた布団から、私の右腕が本来あるべきはずの場所が
そこには……何も、無い。
「っ、なんで……?」
右腕の存在は確かに感じられるのに、私の瞳はそれを映してはくれなかった。
右腕の
私は、二度と絵が描けない。
利き腕を失うということは、つまりそういうことだ。
私にとって右腕は命と同じ。絵を描くことは生きる目的そのもの。二度と絵が描けないなら、生きてたって何の意味もないじゃなか。
他に何を失ったってかまわない。左腕・右足・左足・髪の毛・声・音・匂い、どれを失ったって絵は描けるから。なのに、どうして? なんで、よりにもよって右腕なの?
無意識に
「私の右腕は……どこなの……?」
私は透明な腕越しに、そのシミを
「父さん……私の右腕は?」
「……大丈夫だよ、美奈」
震えた返答に、
「何が大丈夫なの? 私はもう二度と絵が描けないんだよ?」
父さんは何も悪くない。完全な八つ当たりだってこともわかってる。でも、どうしようもない
「大丈夫なわけないじゃん」
「で、でも、絵を描くことだけがすべてじゃないさ」
「私にとっては絵がすべてだったの!」
両親の悲しみを
泣いて、泣いて……そして、いつの間にか私は、深く眠ってしまったらしい。
気がつくと、頭上の窓から眩しい日差しが降り
もうとっくに朝だ。
誰が窓のカーテンを開けたのか、これでは眩しくて二度寝する気にもなれない。寝ぼけ
体を横たえたまま、部屋に差し込んだ光をたどる。頭上の棚には小さなアナログ時計が置かれていて、さすがにこれには見覚えがあった。
私が絵に
十時二十三分。
日頃から時間がずれないようにしてるから、おそらく一分の
私は布団の中へと意識を集中させる。
だけど、やはりはっきりと右腕の存在を感じた。
昨日の出来事は、すべて夢だったのかもしれないと、そんな希望さえ湧いてきそうな気がした。あれだけの交通事故だったのだ。冷静になってみれば一日で意識が戻るとは考えにくい。きっと、私は事故にあってから今まで眠っていて、その間ずっと、
……きっと、そう。
全部、悪い夢だったんだよ。
そんな物語のような悲劇、そう簡単に起こるわけない。
必死で自分に言い聞かせて、
当たり前だ。決して夢なんかじゃないのだから。
もう泣き叫んだりはしなかった。海が
ササァ ――――
いや、そんなわけない。ベットを囲むカーテンが開いた音だ。
入ってきたのは両親ではなく、カーテンと同じ白のナース服を着た看護師さんだった。私は
看護師さんは、そんな私を見て
「おはよう。気持ち、少しは落ち着いた?」
それほど若くはない、三十代半ばといったところだろうか。昨日、私が泣いている時にも来てくれたけれど、あんな状態だったから、無理に会話をしようとはしてこなかった。
返事はせずに、私は
「……そうよね。すぐには受け入れられないわよね」
患者の前だからか、彼女はそれほど暗い顔は見せなかった。
「でも、お腹は
「いえ、あまり食欲ないです」
お腹は空っぽでも、今は何かを口にしたいとはとても思えない。
「そう。だけど、少しは食べないとね」
看護師さんは言うが早いか、ベッドに備え付けてある移動式のテーブルを慣れた手つきで私の前に移動させる。前かがみになった拍子に、胸のネームプレートが揺れた。『
「あの、ほんとに……」
「丸一日、何も食べてないんだから、ね?」
優しい口調とは裏腹な
出された食事はいかにも病院の食事といった見た目で、野菜中心のメニューに、味付けが薄そうな
正直、あまり食欲をそそられない。
やっぱり食べないようにしようかと思ったのだけど、鴨居さんの強い視線を感じるので、私は仕方なく食事に手を伸ばす。しかし、実際には右肘を前に出す格好になっただけだった。右腕を失ったことを、まだ受け入れられていない証拠だ。
ちらっと鴨居さんの様子を
私はばつが悪くて視線を逸らし、何でもないような顔で左手をぎこちなく動かした。よく見ると、用意された食事には利き腕を失った私への
私は、まずは鯖の煮つけにスプーンを
「
「いえ、あんまり」
鴨居さんの問いに対して、私は素直な感想を口にした。
「十代のお口には合わないわよね」
彼女は苦笑いで同意する。でも、嫌な感じではない。
とりあえず他の料理も一口づつ食べてみるが、やはりどれも味が薄くて、二口目を口にするのが
いっそ、残してしまおうか。
だけど、それを許さないとばかりに、鴨居さんが目を光らせている。
「……あの、見られてると食べづらいんですけど」
「あら、ごめんなさい」
鴨居さんはそう言うと、なぜか部屋の隅から
「美奈ちゃんと、少しお話がしたくって」
「ちゃんと仕事しなくていいんですか?」
「これも仕事の内だもの」
嫌味を言っても、さらりと
この人はどうしても、私が食べ終えるのを見届けるつもりらしい。
「そんなに嫌そうな顔しないで」
しかし、そんな彼女は、一変して真剣な看護師の顔へと
「右腕は痛まない?」
おそらく、ここからが彼女の本当の仕事だ。
「平気です」
「じゃあ、右腕があるような感覚は?」
「……ありますけど」
そうしないと私は、また自分を抑えきれなくなってしまうかもしれない。
「そう。それは『
聞いてもいないのに、わざわざ説明しないでよ。
「あ、『幻肢痛』っていうのは、『幻肢』に
そんなの、勝手にすればいいじゃん。
「これから日常生活で、不自由なことがたくさん出てくると思う。でも、私たちと一緒に ―― 」
「それを聞いて……」
もう、うんざりだ。
「いったい、私にどうしろっていうんですか?」
私は、鴨居さんを思い切り睨みつける。
幻肢? 幻肢痛? そんなの治療できても、できなくても、私が絵を描けないという現実は変わらない。なのに、何の意味があるっていうの? どんな治療を受けたって、誰かの手を借りたって、何も解決しないことは決まり切ってるじゃない。
「私の右腕は、もう二度と戻らないんですよ?」
私は
「もう、放っておいてください」
鴨居さんの
「……そうね。もう少し時間をおいてから、ゆっくり考えていきましょうか」
「時間が
私は拒絶を込めて言う。
すると、僅かな沈黙のあと、鴨居さんは初めて厳しい表情を見せた。
「でもね、それでもあなたは、生きていかなきゃならないのよ」
彼女の言葉は、とても重くて、深くて、私は圧し潰されてしまいそうだった。きっと、私みたいな患者なんて星の数ほど見てきたのだろう。もっと
「何か
鴨居さんは、いつの間にか最初の優しい笑顔に戻っていた。
病室を出ていく彼女の背中。そこには、命を背負う強さのようなものを感じた。静まり返った二人部屋の病室には、整えられた空っぽのベットがもう一つ。昨日はそこにいたはずの患者さんは、もしかすると、もう……。
「まさか、そんなわけないよね」
二つの月 小宮 順 @uminomakoto
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。二つの月の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます