二つの月

小宮 順

第1話

 私には才能がある。


 それは揺るぎない事実で、誰かに言われなくたって、そんなことは自分でもわかっていた。だから、部への勧誘も断った。誰かの指導を仰がなくったって、自分の才能を高められるから。

 真っ白な紙の上で鉛筆が滑る。

 そうでなければ、こんな地元の平凡な高校に入ったりしない。偏差値も部活動も、先生も生徒も、平凡平凡平凡。すべてが平凡すぎる。そのくせ月並みの才能しかない奴らが、気取って優越感に足を浸しているのがますます気に食わない。私を勧誘してきたあの先生だって、自分が指導したのだと、自慢したかっただけに決まってる。


水上みなかみさん。私たちもう帰るから、鍵よろしくね」

 

 スケッチブックから顔を上げる。

 美術部員が三人。

 声をかけてきたのは三年生の部長だ。名前は知らない。


 彼女たちは私の返事など聞く気もなく、さっさと美術室から出て行ってしまった。その内の一人が、廊下の窓越しにちらりと見てくる。それから、他の二人に小声で何かを囁き、勝ち誇ったような笑い声が私の耳にまで届いた。きっと、私の陰口でも言っているのだろう。

 気にせず、再びスケッチブックに視線を落とす。

 かなり不愉快ではあるけれど、あんなのはもう馴れっこだ。


 美術部で指導を受けている彼女たちからすれば、部に入らなかった私の態度が見下しているように感じるのだろう。実際、見下してはいるのだけど、でも別に、私より絵が下手だからとかいう理由じゃない。私が気に食わないのは、彼女たちが自ら敗北を認め、絵で競うことを諦めているからだ。

 彼女たちは、それに気づかないふりをしている。私をおとしめることで、自分はまだましな人間だと思いたいだけ。それこそ哀れだというのに……。

 才能がある人間は、周りの人間から憧れと嫉妬の両方を向けられる。それがこの世界の法則であり、才能ある者の定めなのだ。


 はあ……耳鳴りがうるさい。

 一人になった教室では、鉛筆の音さえも静寂に呑み込まれていく。


 ぱたん、ぱたん、ぱたん、ぱたん。


 そこに二つ分の足音が混じった。スリッパの踵を打ち鳴らして歩く音。廊下の方から、だんだんと近づいてくる。そして、教室の入り口辺りで足音は止んだ。


美奈みなぁー、やっぱりまだ残ってた」


 声の方を横目で窺う。

 すらりとした長身の少女と、人当たりのよさそうな笑顔の少女。璃沙りさ千尋ちひろだ。呼ばれたのは私の名前だけど、返事はしなかった。


「集中してるみたいだから大きな声出しちゃだめだよ、リサっち」

「ああ、悪い千尋」

「終わるまで待ってよう」


 ひそひそ話す声が聞こえたあと、足音は教室の中へと入って来る。

 邪魔だから帰ってほしい ―― 返事をしなかったのはその意思表示のつもりだったのに。二人とも一番後ろの席まで近寄ってきて、私と少し距離をとって座った。


 二人が私に構ってくるようになったのは、二カ月ほど前のこと。

 その日も私は、放課後の美術室で一人絵を描いていた。夜の七時頃、部活帰りでたまたま美術室の前を通りかかった二人は、私を発見してわざわざ話しかけてきたのだ。


 ―― 水上さん、こんな時間まで残ってるんだ。

 璃沙は、身長の高さと物怖じしなさそうなひとみが、最初は怖かった。


 ―― その絵、すっごく上手だね。

 千尋の、するりと懐に入ってくるような笑顔が、私は苦手だった。


 二人とも、二年生になって同じクラスになったばかりだった。その時は、名前までは知らなかったけど、向こうは当然のように私のことを知っていた。


 自分で言うのもなんだけど、私は学校内ではそこそこ有名人だったのだ。一年の時には、全国美術コンクールで最優秀賞を取ったこともある。あまり目立ちたくはなかったのに、全校生徒の前で嫌々表彰され、そのせいで、いい意味でも悪い意味でも私の名前は広まっていった。

 必然的に私は、話しかけてくる人すべてを警戒するようになった。


 ―― 何か私に用? 気が散るからあまり話しかけてほしくないんだけど。

 だから、二人にも強めにあたったつもり。


 ―― そうなんだぁ。また今度にしよっか、リサっち。

 ―― そうだな。じゃあ、また明日な。


 あっさりと帰って行ったから、これでもう私に構ってくることもないだろうと、その時は安心していた。

 それなのに、次の日から二人は、やたらと絡んでくるようになった。昼食も一緒に食べるようになったし、名前もいつの間にか呼び捨てだ。まるで友達みたいに……。さらには、部活帰りに美術室へやって来ては、私が帰るのを待つようにさえなった。


 まったくもって、迷惑極まりない。


 ため息を一つ吐き、私は二人の方をちらりと確認する。千尋は暇そうに机に突っ伏し、璃沙は本を読みながら大きなあくびをしていた。部活終わりで疲れてるだろうに、この二人の行動は理解不能だ。

 机に置いた私物のアナログ置時計は、もうすぐ七時を回ろうとしている。腕時計じゃないのは、絵を描くときに邪魔になるから。私は鉛筆を筆箱へとしまった。片付けを始めた途端、千尋がお腹をすかせた猫のように素早く駆け寄って来る。


「これ、何の花?」


 スケッチブックを指差しながら、千尋は首を傾げた。


「マリーゴールド」

「好きなんだ?」

「別に」


 私のそっけない返事にも、千尋は笑顔だ。その背後から璃沙も顔を覗かせる。


「やっぱり美奈の絵はすごいなぁ」


 胸の奥がうずく。


 聞き飽きたその言葉は、璃沙の本心なのか。

 たとえ本心だったとしても、人の心なんて簡単に変わってしまう。しかも百八十度、真逆に……。そんな経験を過去に散々して来たから、二カ月たった今でも、私は二人への警戒を解いてはいなかった。


「これは、ただの練習」


 さっさとスケッチブックを閉じ、リュックへと放り込む。片付けを終え、リュックと学校用の鞄を手に席を立った。璃沙と千尋も立ち上がる。私は教室の電気を消し、二人が外に出るのを待ってから、美術部が置いていった鍵で入り口のドアを施錠した。


「鍵、返してくるから」


 そう言って立ち去ろうとして、私は思い出したように足を止めた。振り返ると、笑顔の二人が手を振っている。

 先に帰ってていいよ ―― そう伝えるつもりだった。なのに、


「じゃあ昇降口で待ってる」

「ミナっち、急がなくてもいいからね」


 と、二人とも、当たり前のように待つつもりらしい。

 まあ、帰る方向は同じなんだし、一緒に帰らない方が不自然なのだけど。それに、最初からそのつもりだったのだろうから、いまさら断るのも、何だか気が引ける。


 そうこう考えているうちに、二人は昇降口の方へ歩いて行ってしまった。諦めて、私も反対方向の職員室へと向かう。他の教室に人影はなかった。廊下の突き当りの階段で二階に上がると、唯一明かりの漏れる職員室へとたどり着く。

 ドアをノックして中に入ると、まだ二人ほど先生が残っていた。


「美術室の鍵を返しに来ました」


 そう声をかけてから、奥の方まで歩いて行く。窓際の壁に、いくつもの鍵が綺麗に並べてあり、一か所だけ抜け落ちたような隙間に、私は美術室の鍵を戻した。

 用件を済ませて踵を返そうとした時、横から声が掛かる。


「こんな時間まで絵の練習か?」


 副担任の安倉やすくらだ。副担任といっても、ほとんどしゃべったことはない。


「……まあ、そんな感じです」

「相変わらず努力家だな。他の生徒にも見習ってほしいものだが」

「……はあ」


 馴れ馴れしい。


「水上は絶対に有名な画家になれるぞ。先生が保証する」


 頼んでもないのに、ぺちゃくちゃと。

 私が努力家? あんたは私の何を知っているっていうんだ。私が絵を描いてるのを見たことすらないくせに、結果だけを見て私を評価して、いったい何様のつもりなのか。私の周りによって来る奴らは、みんなそうだ。

 璃沙と千尋だって、きっと……。


「あの、友達を待たせてあるんで、私はこれで」


 思ってもないくせに、都合よく〝友達〟なんて口走ってしまった。


「おっ、そうか、引き留めて悪かったな」

「いえ、失礼します」


 ばつの悪そうなひきつった笑みを背に、私は職員室をあとにする。

 廊下に出た瞬間にため息が漏れた。窓の外は柑子こうじ色の夕空。あの二人はまだ、私のことを待っているだろうか……。


 階段は一段飛ばしで降りた。

 昇降口へと続く一階の廊下を真っ直ぐに進む。

 昇降口の入り口に璃沙と千尋の姿を捉え、私は少しだけ歩みを緩めた。こっちに気づいた二人は手を振っている。


「ミナっち、早かったね」


 靴を履き替えて出てきた私に、千尋が寄り掛かってくる。

 重い……。


「あ、今重いって思ったでしょー」

「別に」

「嘘だ、顔に出てたもん」


 皺の寄った私の眉間を、小さな人差し指が突っついてくる。


「ネタはすでに上がっているのだよ。正直に ―― 」

「ちゃんと重かったよ」


 私は適当に受け流しながら、さっさと歩き出す。

 六月のいまだ明るい空は、夏がすぐそこまで迫っているのを感じさせた。あと一月で夏休みだ。騒がしい学校から離れ、より集中して自分の絵と向き合うことができるだろう。だけど、見上げた空にぽつんと浮かぶ月、今にも消えてしまいそうなそれが、寂しそうに思えてくるのは……なぜなんだろう。


 千尋が私の横を通り越して行く。

 目の前に回り込み、なぜか仁王立ち。


「ちゃんとって、なにさ」


 拗ねた子供のような膨れっ面で、私の背後に向けてビシッと指を差す。


「言っておくけど、リサっちの方が私より、断っ然重いからね」

「 ―― なっ」


 思わぬ飛び火に、璃沙が咳き込む。


「あ、あたしの体重は関係ないだろ。てか、千尋と違って筋肉だし」


 いつの間にか璃沙も追いついて、三人並ぶ形になっていた。


「私だって筋肉あるもん、ほら」


 ムキになる千尋が、力こぶを作ってみせる。ただし、盛り上がりの無いただの平地だ。


「あー、またミナっち馬鹿にしたでしょ」

「してないよ」


 馬鹿になどしていない。ただ、何がしたいのかわからなかっただけだ。


「千尋の筋肉のなさに呆れたんだろ」

「え、そうなの?」


 潤んだ大きな双眸が向けられる。


「……そうかも」


 黒目が揺らいだ。


「……リサっち、私泣きそうかも」

「仕方ないよ、千尋は筋肉全然ないから」

「ひどいー、なんで慰めてくれないのよー」

「悪かったよ。じゃあ、筋トレでも手伝おうか? 部活だけじゃ足りないだろ」

「キツイのはいーやー!」


 ヒステリックな悲鳴が響き渡る。近くを歩いていた人の視線が集まる。電線に泊まっていたカラスまでもが何事かと、散り散りに飛び去っていく。なのに、当の本人はまったく気にした様子もなく、会話を続けていた。

 千尋が騒がしくしゃべり、璃沙が適当にちゃちゃを入れる。間に挟まれた私は、当然、ほとんど口を開くことはない。三人で帰るときはいつもこんな感じだ。

 「痩せたい」とか、「モテたい」とか、「世界から争いをなくすには、どうしたらいいんだろう」とか、話題はその時の気分次第。切り出すのはいつも千尋だけど、中でも彼女たちがよく話すのは、バスケットボールについての話題だ。璃沙も千尋も同じバスケ部らしい。ルールはよく知らない。


 ……不思議だった。


 なぜ二人は、私と一緒に帰ろうとするのか。

 楽しそうな二人の会話に入っていくわけでもない。話を振られなければ相槌さえ打たないし、返事をしてもつまらない返しになってしまう。愛想のない私に、ほとんどの人は愛想を尽かして近寄ってこなくなるはずなのに。


 ……なのに、どうして?


「『どうして』って、何が?」


 絶え間なくしゃべっていた千尋が、私を見る。璃沙も同じく。そこでようやく、自分が声に出してしまっていたのだと気がついた。


「あ、えっと……どうして二人はバスケ部に入ったの?」


 咄嗟に口をいたのは、まったく興味のない質問だった。

 二人の顔はきょとんとしている。何の脈絡のない質問だったから、変に思われたかもしれない。


「珍しいな、美奈がそんなこと聞いてくるなんて」

「いや、何となく」


 璃沙は「そうか」と、それほど気にしていない様子だ。―― が、問題はもう一人。千尋は不気味な笑みを浮かべ、不気味な声を漏らす。


「ふへへ……、ついにミナっちも、私のミステリアスな魅力に触れてみたくなったようね」


 なぜか、右手を顔の前で広げている。


「……いや、別に」

「わかってる。みなま ―― いや、っち、まで言うな」


 なぜか、ドヤ顔で言い直す千尋。どう反応したらいいのかわからなくて、私は助けを求めるように隣を見た。


 璃沙、呆れたように一言。

「放っておいていいよ」


 私、

「わかった」

「なんで? 今の良かったでしょ?」


 と、必死の形相で詰め寄る千尋を、璃沙は「知らん」と冷たくあしらう。なおも千尋は抗議を続けているけれど、璃沙は無視して私に向き直る。


「で、バスケ部に入った理由だっけ?」

「うん」


 聞いたのは私だから、とりあえず頷いておいた。


「あたしは、単純にバスケが好きだからだよ」

「はいはーい、私もー」


 二人は迷わずそう答える。


 本当に興味がなかった。二人の答えがではなく、念押しの意味で。

 それなのに、二人の答えを聞いた途端、さらに質問せずにはいられなくなった。私にとっては納得のいかない回答だったからだ。


「部活じゃないとだめだったの?」


 二人は同時に首を傾げる。


 ……沈黙。


 そうなるのも頷ける。

 私の質問は、二人からすれば意味のわからないものだろうから。


「やっぱりいいや」


 そう訂正しようと思った。

 しかし、千尋は何かを理解したらしく、真相を突き止めた名探偵のように、両腕を組みながら「うんうん」と大げさに頷いて見せる。


「なるほどね。―― ミナっち、バスケットボールっていうのはね、選手が五人以上いないとできないんだよ」


 それは知らなかった。


 けれど、ズバリ言い当てて満足そうな千尋には悪いが、私が聞きたかったのはそういうことじゃない。何が「なるほどね」だ。


「そうじゃなくて……」


 そのあとの言葉は、胸につっかえて出てこなかった。

 こういう時、どう伝えたらいいのかわからない。私は今まで、他人ひとと関わることを避けてきたから。―― いや、今も避けている。この二人が私に構ってくるだけで、私から関わろうとしたことは一度もない。だから、いまさら部活に入って、他人と関わりたいなんて思うはずもなかった。


「あたしは、個人競技だったとしても、部活に入るよ」


 璃沙だ。


「何のために?」

「何のって……ほら、仲間がいた方が楽しいじゃん」


 私には到底理解できない感覚。

 彼女たちにとってはそれが普通で、ズレているのはきっと私の方なんだと思う。それを再認識したところで、何も変わらないけれど。でも、私はこのままでもいいと思ってる。それが私の選んだ道だから。

 しばらくの間、三人の足音だけが響いた。


「そういえばさ」


 思い出したように千尋が口を開く。

 話題を変えるつもりだろう。その場の雰囲気とか、話の流れに関係なく、唐突に話題を変えるのが千尋の癖なのだ。璃沙は呆れながらも、いつも笑って話を合わせる。私は、そもそも無関心だった。

 でも、私の変な質問のせいで微妙な空気になったし、さっきの話題はあのまま続いてほしくはなかったから、今回はいつになくナイスタイミングだ。


「ミナっちって、何で部活入らないの?」


 ―― と思ったのに、とんだ不意打ちだった。


「こら、千尋」

「だって、気になるじゃん。ミナっち、すごい才能あるのにさあ」

「そうかもしれないけど、きっと美奈にも事情があるんだよ」


 二人のやり取りはまるで、部活に入るのが当たり前みたいな口ぶりだ。


「だ・か・ら、その事情が気になるんだよー」


 理由なんて簡単だ。

 でも、璃沙や千尋が納得いくようなものじゃない。さっき私が、二人に納得できなかったのと同じ。


「ミナっち、すっごく絵がうまいのに、何か勿体ないじゃん」

「―― だからだよ」


 ついに、私は痺れを切らした。


「だから、私の絵を、他の奴らに邪魔されたくないの」


 千尋が知りたがっていたことを、端的に、わかり易く教えてあげる。

 仲間なんていらない。遊びでやってるわけじゃないから。誰かの指導も必要ない。一人でも才能を磨いていけるから。私と同じ目線で話せる人は、きっと誰一人として存在しないのだ。そんなの、足手まといでしかないだろう。


「……何か、よくわかんないよ」


 千尋は眉尻を下げる。


「私は邪魔だなんて、思ったことない」

「二人の気持ち、私には理解できない。……だから、私の気持ちも、二人には理解できないと思うよ」


 千尋が目に見えて落ち込む。

 悪いとは思わなかった。ぜんぶ本音だったから。だけど、ほんの少し息苦しさを覚えたのはなぜなのか、自分でもよくわからなかった。


「私は、こっちだから」


 ちょうど二人とは別れる交差点だ。


「ミナっち、ごめんね」

「別に平気」


 さすがの千尋も、少しぎこちない。璃沙も気まずそうにしている。


「そっか……じゃあ、またね」

「また明日な」

「……」


 私は黙ったまま、二人に背を向けた。顔も見なかった。

 一度も振り返らず、立ち止まることもしない。背中にのしかかる何かが、足をひたすら前へと押し出して、海で溺れて流されて行くみたいに、私はその何かに身を任せることしかできなかった。気のせいか、胸まで苦しい。

 ―― 赤信号。ようやく足が止まる。


「……はっ……けほっ、けほっ」


 胸いっぱいに空気を吸い込むと、肺がすべて押し返してきた。

 無意識のうちに呼吸を止めていたらしく、急に空気を入れられて、肺が驚いたのだろう。焦らずに、今度はゆっくりと息を吸う。―― そして、吐く。それを五回ほど繰り返して、ようやく普段通りの呼吸を取り戻した。

 いつの間にか、背中の重圧は消えていた。ふっと、後ろを振り返ってみたけど、璃沙と千尋の姿は既にない。当たり前だ。二人と別れた交差点はもう見えないのだから。それでも何かを口にしようとして、結局こぼれたのは、理由のわからないため息だけだった。

 信号が青へと変わり、横断歩道を渡る。人混みを避けるために、そのまま道幅の狭い路地へ入った。


「……はあ」


 また、ため息が漏れる。

 他に聞こえるのは、たまに通る車と自分の足音だけ。

 やっと一人に戻れたというのに、妙な不安だけがねっとりと絡みついて離れない。蜘蛛の巣みたいに心地の悪い感触。その正体を突き止めようと、私は必死で思考を巡らせ躍起になっていた。―― だから、前方から走って来る中型トラックの異変に、気がつけるはずもなかった。


 ―― キィィィィイ。

 断末魔のようなブレーキ音。

 白い大きな鉄塊てっかいが眸の端に映り込む。


 顔を上げた時には、既にトラックの巨体が目の前まで迫っていた。咄嗟に体を捻ろうとしても、都合よく体は動いてくれない。もうダメだと、私は瞬時に悟った。

 必死でハンドルを切る運転手と目が合う。左目の下にあざ。そんな、どうでもいいことが脳裏に焼き付く。走馬灯のように記憶が蘇ったりはせずに、ただ目の前の光景がゆっくりと、でも確実に、私を死へいざなおうと迫ってくる。

 どうすることもできず、瞼をギュッと閉じた。次の瞬間 ――


 今までに感じたことのない衝撃が、全身を襲う。


 ……。


 世界から音が消えた……。

 色も、においも、肌の感触も、痛みも……何もわからない。

 右腕に燃えるような熱さだけを残して、私の意識も闇の彼方かなたへと消えてしまった。

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