第二十二回 領域侵食者、見知らぬ果実を貪り食う

 海賊放送で電波を紛れ込ませてたラジオ体操、その挙動が限定的ではあるけど領域崩壊を誘発するというので〈オオカミ〉が捜査に当たってるって朝、幾何学模様の雲の合間を水素鯨が五体飛んでそれは不吉の兆し。とくに理由のない、死ぬから死ぬっていう突然死で鎧谷の街は死体が寝転がってる、その絨毯みたいに敷き詰められた屍は夏休み開始した直後にはもう転がってたけど腐りはせずただ一瞬の死が引き伸ばされてあり続けてるって様子。売血をしたら代わりに濃緑色の液体を血管に入れられてそれは脳で何かを開花させた、比喩じゃなく。種が混じっていた、ひとつじゃなくてたくさん、わたしから現実性というものを奪い取る呪いだ。それだからこういったアシッドな八月の半ばに、嫌な相手からの電話だと音で分かる時の呼び出し音とか悪夢から覚めて内容は覚えてないけどその残滓・余韻が夜中のカーテンの隙間に不気味な怪物の目を発見させるような気分になっていた。


 我々は全員一人の例外もなく知っていることだけど、わたしたちはコントロールされている、完全に。当該領域は一世紀以上前から超高性能な有機コンピュータが支配し、わたしたちはその指示通りに動く、しかし、それでもトラブルは起こるし社会は階層化され、誰もが他者に不満を持ち、暴力犯罪は毎日、いや一時間に十回は発生してる。それは、有機コンピュータ〈彩歌〉があえてそうしているからなのだった。ストレスのない状態は不自然なので、わたしたちの脳にいらつきを誘発させ、絶えず闘争状態、一定の混沌を付与し続けている。それに対して疑問を抱いたり怒る者は、いない。それは脳内で生まれる前に切除されてしまうから。


 指示は分散して行われる、朝のニュースや通りすがりの誰かの口笛、街頭のモニターから流れる流行歌、雲の形、足元を伝わってくる車の振動、看板、夕食の味、空気中の酸素濃度……それらの全ての情報がコントロールの手段である。だからわたしは、わたしたちは、何かを考えているふうを装ってはいるけど頭の中は空、何かを見聞きし、認識するとそれに対する反応は一瞬、煙のようにぼやっと浮かんで消失する。それが定着することは決してなく、過去の記憶とかも無色透明、わたしたちにはごく薄められた現在しかない。だから目の前で人が死んでも別にどうも思うことはないし、自分が死ぬのもそれほど嫌というわけでもないし望んでるわけでもない。何か劇的なことが発生してもそれは〈彩歌〉の指示でしかなく、領域じたいが危機に陥ることはないという絶対的な安全、ホラー映画の怪物がいかに恐ろしくとも、それがスクリーンから抜け出し観客席を強襲するだなんて誰も思っていないように、何も恐れる必要はないのだった。


 わたしは学校へ行き、机に積み重なった新聞紙の山から、「ろ」の字だけを切り抜くという作業を一日中やった。もちろん報酬はない。昼休み、給食はオレンジ一個だけだった。わたしはオレンジの皮を剥く手段を知らないので食べることはできない。というか、クラスじゅうの誰もそれを知らない。ずっとこうだ。オレンジはみんな、窓の下に投げ落とすことにしている。それは腐りはしないのでとてつもない山が、窓の下にはできている。オレンジの香りだけが、学校の敷地内を満たしている。


 わたしはふと、荒神先生にオレンジの食べ方を教えてはもらえないかと聞いた。先生は、知らないので教えることができないと答えた。ならば、誰か知ってる人に教えてもらうということはできないのですか。わたしがそう言っても、先生は、この領域じゅうの誰も知らないと思うよ、と言うばかりだ。ならどうして、オレンジが給食で出されるのだろうか、というかスーパーとか八百屋でなぜオレンジが売られているのか。そしてなぜオレンジを育て、収穫し、出荷するのか。無用の長物と誰もが知っているのに。わたしは、自分がオレンジの皮を剥いて食べる手段を開発しなければならないのではないか、と思った。しばらくぶりに、頭の中に使命感という炎が点っているのを感じた。その日のぶんのオレンジは既に窓の外の手の届かないところへ落としてしまったので、明日の給食のときに、いろいろと試してみよう。


 そうして翌日、「ろ」の文字をバケツいっぱい切り抜いて、給食の時間になり、さあオレンジだ、と思っていると、オレンジは出なかった。その代わりに、なぞの赤い物体が運ばれてきた。大きさは手に乗るくらいで、ふっくらとした逆円錐形、上部に緑色の葉っぱが付いており、全体に種子と思しき小さな粒がくっついていることから、これもオレンジと同様に果物なのだろう。しかし、あまりに得体が知れなかった。赤、というのが恐ろしい。本当に、鮮やかな赤色だ。赤というのは血液の色で、停止信号の色にも使われるように、生物にとっては興奮、警戒を促す色彩だ。その色の食べ物が存在するなんて、なかなか受け入れがたいことだった。もしかすると、これは自然のものではなく、人工的に遺伝子改造で生み出されたものではないのだろうか。青い薔薇、なんてのも作られていることだし、真っ赤な果実という不自然な存在があってもおかしくはない。問題は、何の意図で作り出されたのかということだ。やはりこれは危険を知らせる色なのだろう。おそらくは有毒、それを見分けることができるかどうかというひとつのテストに違いない。わたしがそういうことを考えていると、前の席の碇君が、赤い果物を無造作に食べてしまったではないか。クラスメイトたちはぼんやりと彼を見ているだけだったが、碇君が泡を吹いてぶっ倒れ、やっぱり食べてはいけないのだ、と思ってオレンジと同じく謎の果実を窓の外に落とした。


 学校が終わり鎧谷をぶらついていると、〈オオカミ〉の憲兵たちが練り歩いておられる。彼らは名前どおり肉食獣のように恐ろしく容赦のない存在で、何かあったら蓋然性遮断式禍因切除装置をすぐにぶっ放す。逮捕状なしに人々を拘束し、おのおのの裁量で処刑までしてしまうこの集団の使命は、もともとは第二の月の生み出す異変を鎮圧することだった。しかし、〈彩歌〉の完成で人々が完全に統率され、その認識までもがコントロールされるようになると、異変は収まり、今ではせいぜい月に一度か二度といった平穏な状態だ。


 異変が発生しなくなると彼らは、その原因とされる人々を取り締まり始めた。特定の条件に当てはまった者は犯罪歴の有無・社会的立場などによらず即刻拘束、異変を呼ぶ可能性の高さとその危険度の総合――〈侵食度〉が高ければ高いほど重い処分が待っており、侵食度が百を超えると即刻処刑もあり得る。


 例えばこの日は、身長が百七十センチ以上・百七十二センチ以下でミートソーススパゲッティにタバスコをかける者が領域侵食者に指定されていたようで、レストランで待ち構えていた憲兵たちが長身の男性を連行してきた。侵食度は六十ほどだったので処刑は免れたが、その侵食者は石にされ、海に沈められることになった。


 わたしはその様子を見たかったので、タクシーで〈オオカミ〉の護送車を追跡して蛭島まで向かった。


 海岸に到達し、憲兵たちの会話をわたしはこっそりと盗み聞きする。


「千条隊長、我々のしていることは本当にこの領域のためになるのでしょうか?」


「なんだ、君は〈彩歌〉のしていることに疑問を抱くというのか?」


「いえ、しかしこの男はブーツの高さを入れて身長百七十センチで、裸足ならば恐らくは……」


「領域侵食者には該当せず、というわけか? だが禍因性流動体はその名の通り流動的であるから、一センチ程度気にしないかもしれないではないか。我々が彼を野放しにした挙句、流動体の宿主となれば、多くの人命が損なわれることだろう。それを防ぐためにはこの犠牲は必然。見逃すわけにはいかんのだ」


 どうやら新人が何か疑問を抱いてしまってるらしかった。なってないな、とわたしは思った。わたしなら疑問ひとつも抱かずに、誰も彼も石にして海に沈めてしまうし、蓋然性遮断式禍因切除装置の引き金を引くことに躊躇もないというのに。


 そうだ、わたしは〈オオカミ〉の一員になろう。そうして、この領域のために、侵食者を殲滅する、それこそがわたしがこの領域に生まれた理由なのだ。そう思ったわたしはさっそく憲兵たちに近寄って、入隊の意思を示すことにした。なにしろわたしは文武両道、テストはいつも上から三十位以内、皆勤賞には手が届かないまでも一年に十五回しか休んでいないし、クラスでは人気者。おまけに美少女と来ている。これはもう、入隊試験を飛ばして採用されるのは間違いがない。


 するといきなり憲兵たちの顔は蒼白となり、全員がこちらに武器を向けたではないか。


「な、なんだあいつは!? 侵食率七兆だと……!?」


「ここでなんとしても食い止めなければこの領域は――滅ぶ!」


「ああ、なんということだ……化け物め!」


 いったいなぜ? と疑問に思う間もなく彼らは蓋然性遮断式禍因切除装置を使用しわたしを消滅させてしまったではないか。


 そして虚空を漂うわたしの根源体は五十三億サイクルののち、他の領域へ定着し、そこで赤子から高校生まで育ったが、未だに侵食率七兆は何かの間違いとしか思えなかった。


 そこである日の朝、通学電車の中で春屋敷先輩にそのことを話した。


「七兆か。それは大したもんだけど、あたしは侵食率五十兆でも領域侵食者には指定されなかったよ」


「え、それはなぜです」


「まあ彼らがあたしに対し一目置いてたからじゃない。狼だけに」


 その言葉を聞いていた周囲の通学・通勤者は皆一様に、傑作な冗談を聞いたかのごとくゲラゲラ笑い出し、二駅くらいの間それが止むことはなく、この冗談はSNSに書き込まれそれもまた馬鹿ウケ。春屋敷先輩は気の利いた、クールな、誰もが認める存在、という扱いになり、一方わたしは「狼だけに一目置く」という言葉の意味をまったく理解できず、誰に尋ねても「ああ……」と半笑いでお茶を濁される始末。なぜなのか。そしてわたしはこの蹉跌をきっかけとして学校に行かなくなり、毎日部屋であの赤い果実(イチゴというらしいです)を貪るだけの人生を送る羽目になったとさ。

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