第二十一回 異形なる安らぎ
わたしは少しく疲れていた。夏休みがまったく終わる気配がなかったからだ。
それを聞けば労働者の方々は、何を社会を知らぬ小娘風情が偉そうに、休日が豊富ににあるというのがどれほどの贅沢かも知らずに、と立腹されるかも知れないが、まずはわたしの話をお聞きいただきたい。
確かに、わたしは目下のところ、冷房ががんがんに効いた室内でなんの義務もなく怠惰に過ごし、睡眠時間は十三時間といった具合、三食は頼まずとも用意され、小遣いを一日二万ユニも頂戴している立場だ。
しかし、休日とは労働や学業の合間に挟まるから喜ばしいのであって、単に休日だけが一ヶ月も二ヶ月も連続的に発生していたのでは、もはや何もすることがなく、単なる退屈の連続体に変質してしまうのである。
わたしにも人並みに友人や先輩後輩はおり、彼らにはしばしば「カナエはもうちょっと言葉、気を付けたほうがいいと思うよ」と言語力の不足を指摘されつつも、わたしが人格的に人一倍優れているので、何の問題もなく付き合いが続いているが、彼らはわたしに比べればいささか凡庸で、話もつまらないので毎日会うほどでもないかなって感じ。
で、一人で何をするかと言えばシジル幻燈の作成、ビデオゲーム、映画鑑賞、読書、カー粒子照射による否認知性僧帽蟲の変異実験などが最近のブームで、この日は鉄砲で敵兵を撃つビデオゲームをした。これはネットワークに接続されており、見知らぬ赤の他人との対戦が楽しめる。ところが、今日は出会う対戦相手がすべてわたし以上の腕前を持ち、一度も勝利することができなかった。わたしの技術はかなり平均に比べて高いので、このようなことはあろうはずがなく、なんらかの電子的不正が行なわれたか、未知の禍因性事象によるものであるのは明らかだった。
わたしはこのような不条理に襲われたことに深く苛立ち、自室の壁を金属棒で殴り平静を取り戻した。
すると玄関のチャイムが鳴り、来訪者があったことを知らせた。
出ると見知らぬ女子がいた。彼女は剱持クオンと名乗り、わたしと同じ赤目山西高校一年二組に所属している者だと説明した。
だが、わたしはこのような人物に見覚えがなかった。たぶんフリッカーによって今さっき出現したのだろう。
「何の用?」
わたしが玄関口でそう尋ねると、剱持さんは「自由研究でオルキヌシア幼生の観察を行うために、今から捕りに行こう」と言った。
なぜわたしが一緒に行かねばならないのか? 冷房の効いた部屋で時間を無為に浪費するという使命があるわたしが。
すると彼女はその理由を答える。なんと夏休みに入る際、剱持さんと共同研究をしようとわたしのほうから持ちかけていたらしい。この領域の過去のわたしは、なぜそんな面倒なことをするのか。
わたしはそれをなかったことにしたかったので、ひとまずいくつか前の領域から持ち込んだ、蓋然性遮断式禍因切除装置を用いて剱持さんを抹消し、そのあと記憶を消去した上で〈
蓋然性遮断式禍因切除装置はわたしの左手の人差し指に仕込んであり、一瞬で剱持さんは、何らの痕跡も残さずに、消滅した。
あとはこの集合住宅の一階に下りて、〈
エレベーターに乗り、一階に到達した、ところが、〈
どうしたのだろう、と思っていると、表がにわかに騒がしくなった。
建物内に武装した〈オオカミ〉の突入部隊が入ってきて、わたしを捕縛、いや、即刻抹殺しようと銃をぶっ放してくる。
どうにも妙だ、善良な市民であるわたしが襲撃されることもだけど、〈オオカミ〉がシジル干渉兵器でもフロギストンプラズマ兵器でも存在性剥奪兵器でもなく、単なる火薬で弾丸を飛ばす銃を使ったことが。
わたしはわけもわからず、蒸し暑い街へ逃げ出した。
それから逃亡を続けながらデータを収集したところ、いつの間にか奇怪な領域に来てしまったことが分かった。どうやらここは、月因子の利用や深界テクノロジー、第六理論などの科学技術が一切普及していないのだ。なぜかというと、ここはフリッカーの頻度も異様に低く、禍因性実体どころか流動体すら数十年に一度ほどしか出現しないらしい。
そのくせ、禍因性存在の察知技術だけは高く、わたしの蓋然性遮断式禍因切除装置の照射を察知し、大慌てで駆けつけたようだ。
わたしは領域の敵と名指しで報道され、高額賞金がかけられた。遁走するわたしが仰ぎ見た空では、歪んだ月が他の領域に比べて大きく欠けているように見え、極めて場違いな感覚を覚えた。
逃亡中に遭遇した春屋敷先輩とともに、火炎瓶を投げたり、銃砲店から盗んだマシンピストルで応戦したり、久々になかなかスリルのある一日だった。一時は鎧谷で包囲され、追い詰められたが、以前ほかの領域で探偵助手や〈オオカミ〉の隠密部隊〈狗賓〉だったころの経験を生かしてどうにか脱出することができた。
わたしはこの領域を破壊することに決めた。あまりに不完全・不健全だからだ。
将来的にわたしに近しい人々が、この無為な砂漠のような領域に到達したらと思うと恐ろしくて震えが来る。
テクノロジーとは暗闇を照らす光であり、ただ闇の中をふらふらとさまようような人生を歩むこの領域の住民は、打ち捨てられたタイヤに溜まった汚水を泳ぐ、ボウフラのように有害だと判断した。
わたしの肉体には数々の兵器が内蔵されており、選択肢は豊富だったが、以前我が校の禍道部部長だったころに得意とした、膨張式禍道法を使うことにした。
わたしの禍道の師匠である竜喰先輩の教えを思い出す――禍道とは、意思による「砕氷」である。現実を繋ぎ止めている秩序という分厚い氷を、固い精神で音もなく砕く、それが禍道だ。
薄荷の香りで肺を満たすと体内のギャルム器におびただしい月因子が流れ込み、わたしは自らの因果律遡及値を急激に高めた。
わたしの周囲では局所的な領域融合が発生し、まず数千ヘイズの領域が混じり合い、数百分の一秒でそれは数兆から数億へと増加した。
存在の根源にインストールされた、数多の領域の破滅を転写するだけで、現実は薄氷のごとく容易に砕け散る。果たしてわたしは自らを巨大な火球と化した。
太陽の十倍以上の質量となったわたしは、名実ともに禍因性存在ではあるが、誰もそれを止めることはできなかった――既に領域すべてが、わたしによって焼き尽くされ、蒸発していたからだ。
しかしここから先、しばらくの間、わたしは火球から人間体に戻ることはできない。たぶん六百くらいの領域を通過するまで。その間そこにいるすべての人々が何の罪もなく蒸発させられることだろう。またしても退屈な日々を送らなければならない。
わたしがそれを思って呆然としていると、後ろから鈴を転がすような澄んだ声がした。
領域が燃え尽きた跡の虚空に、一人の少女がいて、笑っていた。それは紛れも無く、剱持さん、いや、彼女がいつも模倣していたわたしの友人だった。
なぜいつも死んでいるはずの彼女がここにいるのだろうか。そう思っていると、いつしか周囲は虚空ではなく、どこか見知らぬ、夕刻の田んぼの只中だった。わたしの姿も火球から人間へと戻っているではないか。
そうだ、ヒグラシの声が鳴り響く中、遠くに都市の影を臨むこの田園地帯に、わたしたちはオルキヌシア幼体を取りに来たのだった。
わたしはその行為もまたいささか退屈に思えたが、今度は癇癪を起こすことなく、彼女と取り留めの無い会話をしながら、採取を行うことができた。あるいは、わたしは加減を間違えて自らをも燃やし尽くし、死に際にこの幻を見ているのかも知れない。
しかし、もしそうだとしてもこの走馬灯はなかなか気が利いているではないか。
夕日はやがて沈み、闇が訪れるころに我々は三体のオルキヌシア幼体を捕獲した。無数の触手と粘液と九つの目を持ち断続的に唸るそれこそが、わたしが久しく感じていなかった友との安らぎ、その象徴、いや安らぎそのものであった。安らぎは帰り道にわたしの右手の小指と薬指を齧り取り、近くを通りかかったおじさんの耳から脳に侵入し、左目から出てきた。それでもわたしにとっては安らぎの象徴。
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