第十九回 解放区の不満分子

 テレビで新しい映画の公開を知って、これを見に行きたくなった。それは誰もいない領域に転移してしまった不幸な少女の話だ。知っての通りわたしたちの住んでいる都市は人口が九千万人くらいいて、それが縦に恐ろしく引き伸ばされた塔と地下階層に詰め込まれているのだ。


 この領域では極めて短い間隔でフリッカーが断続的に発生していると〈オオカミ〉は解析している。それは一秒か二秒ごとに領域内の人口を七百人から千人ほど増加させているらしく、それらの人々の住まう建物・区画、そこに至るまでの道や電車の路線、駅なども同時に発生させ、さらには彼らと既存の住民の間の「関係性」すら生まれ続けているらしい。ずっと昔からそこにいたかのように彼らは現れ、増え続けている。


 わたしの知る限りフリッカーや断絶で消失が発生することは珍しくないのだけど、この領域は例外的にただひたすらに増え続けている。一日は平均すると大体、八万秒か九万秒くらいなので、一日で九千万人くらい、つまりわたしの住んでいる都市と同程度の人口が毎日増加してることになる。それはどこか遠くの場所に纏まって生まれるわけじゃなく、わたしの近所にも分散して増える。だからわたしの住んでいる都市も、日々どんどん大きく高く深く広くなっている。でも人口密度が低くなっていくわけじゃないので、窮屈な気分は拭い去れない。


 で、件の映画だけど、これはまだ何もない海辺とか平地をCGで作り出すことで誰もいない領域を再現し、そこでサバイバル生活を送る少女を描いたものらしかった。わたしは解放感を味わいたいと日々思っていて、恐らく同じような考えの人がたくさんいて、それで公開後間もなく大ヒットしたのだと思う。だけどこの映画を知ってから行こう行こうと思っているうちに公開後一週間が過ぎ、ある日突然人に誘われて渡りに船、と思いきや青菜に塩、わたしは人に誘われて何かをするのがとても苦手であったからだ。


 誘ってきたのは朧沼さんだった。


 大抵の領域で彼女は禍道部所属の準禍因性実体、抜き差しならぬ危険人物、竜喰部長に次いで領域全土を崩壊させうる可能性を秘めた悪鬼羅刹、ということになっているのだが、時折そうでないこともある。


 というのは、朧沼さんの、多くの領域内での共通要素として、とある少女の複製であるという点が挙げられる。正確には完全な複製ではなく、その人物が消え去った後、残された残滓、人々の記憶や潜在的・深領域的情報を用いて生み出される、量子漂泊者の一種、有体に言うと精度の低い幽霊なのだが、たいてい元となった少女――わたしと仲のよかった同級生――を申し訳程度に模倣した外見・雰囲気を除いて、有毒な怪物と化している。だけど、ごくまれに、残滓量の多い領域があり、その場合、元となった少女を色濃く複製し、ほぼ無害な人間に成りすますことに成功する場合がある(その場合朧沼さんは禍道部ではなくシジル幻燈部に所属しているか、両部を掛け持ちしている)。


 この領域では幸いにしてそうなのだが、だからといってわたしが人に誘われて行動するのが得意になるわけではないのだった。


 わたしはこれに対抗するために、朧沼さんの誘いをまず断り、それから彼女を逆に誘った。これで問題は解決、快刀乱麻とはこのことである。


 ところが、めちゃくちゃ人の多い道を通ってめちゃくちゃ人の多い電車に乗り、めちゃくちゃ人の多い映画館へ来て見たはいいが、この映画に対しわたしは非常な不満を覚えた。


 わたしからすれば、この窮屈な都市を脱することができたのだから彼女は爽快な気分になり、理想的生活を送ることだろうと思ったのだけど、彼女は周囲に誰もいないサバイバル生活に始終不満を訴える。入浴できない、買い物できない、寝具がなくて寝れない、家族・友人がいなくて寂しい、などとほざき、しかしそれに他の観客たちは涙するのであった。


 映画が終わり、わたしは朧沼さんに、めちゃくちゃつまらない映画だったね、カネと時間をドブに捨てたようなものだよね、と言うと彼女はむっとした顔になり、自分は面白かったと思う、と言った。


 わたしは聡明な朧沼さんがそんなことを本心から言っているとは思えず、誘ったわたしを気遣って映画に対し、お世辞を口にしたのだと結論付け、ああ、そういうことにしておこうね、と言ってソフトクリームを買いに行って、戻ってくると朧沼さんがいなかった。


 同行者に何事も言わずに先に帰るというのは無礼であるが、彼女はどうしてそのようなことをしたのか。


 答えは簡単、たぶん彼女はソフトクリームがとても嫌いなのだ、見るだけで重度の魂震病を引き起こし、耳から脳を滴らせてしまうほどに。ならしかたない、言うまでもなく彼女のぶんも買ってきたけれど、もちろん自分で食べた。


 映画館の入っている建物を出ると、外に広がる都市の光景が目に映る。すさまじい高さの塔がそこらじゅうに立ち並び、都市は空を喪失している。あの少女はこの息詰まる光景から脱することができたというのに、なぜあれほど嘆いていたのか。


 もやもやした気分を晴らすために、わたしは創作を行うことにした。シジル幻燈の材料を求め、かつては西鎧谷と呼ばれていた商業棟へ電車で向かった。


 商業棟は他の塔と同じく、毎秒のフリッカーのために増設された歪な構造をしており、東側に少しばかり傾いていた。高さ七百メートルほどの巨大な赤い招き猫が寄り添うように併設されていて、非常時にはあの招き猫は稼動し、過去にはこの建物を襲った禍因性実体を殲滅したという伝説もあった。


 商業棟へ接近する電車内、隣の席の女子が携帯端末を用いてその招き猫を撮影し、しかつめらしい表情でこれを検分、何度も消去しては新たに撮影、その度に巨大招き猫は近づき画面内で大きくなっていくのだった。わたしは彼女が何度目かに納得いく画像を取り終えたのを見て「ひとつ前の方が良かったと思うよ」と感想を述べた。なにしろ近づきすぎて最新の画像は招き猫が画面内に収まりきっていなかったのだ。しかし女子はわたしの台詞を完全に無視した。


 商業棟駅で降り、行きつけの材料屋へ向かって歩いていると、眼前に誰かが突然出現し、わたしはその人に衝突してしまった。


「ああ、どうもすみません」と詫びつつその人を見て、わたしは息を呑んだ。あの映画に出てきた主人公の少女にそっくりだったからだ。


「いや、気にしなくていいよカナエ、こっちが急に出てきたのが悪いんだし。謝るならあたしにじゃなくて、朧沼さんにじゃないかな」


 その人はこの領域に今発生したはずなのにわたしや朧沼さんのことを知っていた。もちろん、彼女がこの領域に出現したと同時に、わたしに近しい人物だという〈関係性〉が生まれたがためで、別に驚くべきことではない。


 わたしは、彼女に肝心なことを尋ねた。


「どうしてあなたはあれほどまでに自由な、〈解放区〉と呼ぶべき場所であんなに不満ばかりを口にしていたのですか」


「そんなのは簡単なことさ、だけどカナエ、あなたがそれを理解するためには実際に体験してみたほうが早いね」


 と、その人が言うや否や、わたしは見知らぬ場所に立っていた。


 それは、映画の舞台となっていた広大な平原だった。


 どこを見ても都市の影はない。わたしは、誰もいない領域に転移してしまったらしい。


 とにかくわたしは、呆然と立ち尽くすしかなかった。だけどそのうちに、どこかへ向かって歩き出さなくては行けないのだろう。水や食料を手に入れて、眠れる場所を探し出さなくてはならない。携帯端末はもちろん圏外なので、ネットワークに接続してはいない。わたしもあの巨大な赤い招き猫を撮影していれば良かったかも知れない。画面に収まりきっていなくても、それを見て少しでも元の場所を思い出し、慰めになったかもしれないから。


 自ずとわたしの口から不満ばかりが漏れてくる。わたしは今この光景が映画館のスクリーンに映し出され、多くの観客がそれを見ている中、あの人が――わたしより先にこの場所を体験していた、名も知らぬ先輩が――わたしを哄笑しているのを想像しながら、歩いた。この退屈極まりない解放区を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る