第十七回 シミュラクラの陥穽
瀬羅先輩が入院したそうなので見に行った。行くと安寧院君がいた。全身が
相変わらず話さない瀬羅先輩をほとんど無視して、歪んだ声の安寧院君と話していると九十九先輩が来た。そして、当然〈随員〉もだ。
〈随員〉は正体不明な存在だ。禍因性実体でも量子漂泊者でもない。あるいは干渉性幻覚かもしれない。それは身の丈三メートルくらいで、ところどころ血や謎の液体がにじんでいるボロ布で全身を覆われている。鎖で布の上からがんじがらめにされていて、足だけが見えている。それはスニーカーを履いた、女子のものと思われる小さな足だ。布の中がどうなっているのかは分からない。〈随員〉という名もわたしが勝手にそう呼んでいるだけで正式名称は知らない。前に、九十九先輩に、それはなんですか背後霊ですか、と尋ねたところ〈随員〉が急にわたしに接近し、肉体を弓なりに曲げ、何かをされた、と思った瞬間わたしはばらばらになっていた。もうそういう目には合いたくないので少なくとも九十九先輩本人に聞くのはやめた。
代わりに春屋敷先輩に一度尋ねたところ、むしろ
挨拶もそこそこに先輩はこんなことを言った、「カナエさあ、こういう場で言うのもなんだけど、あたしはこの世の真理に気づいたぜ」
「また世迷言をほざいてらっしゃる。具体的にはどういったものなのですか、先輩」
「よしきた、ちょっとばかし長い話になるけどしよう。あれは三日前、あたしが鎧谷の豆腐バーで暇を持て余している際の話だ。そのとき店内にはマスターと、お袋の彼氏が新興宗教に執拗に勧誘してくるので辟易しているパンクスだけしかいないはずだったんだが、どうやら第三の、いや、あたしを入れて第四の人物がいたのだよ、それはさながら婚礼装束の中世騎士のごとく――」
「ちょ、ちょっと待ってください、九十九先輩」わたしは手のひらを突き出し話をストップした。「なんですかそれは」
「え? ああ、パンクスのお袋の彼氏が薦めてくる宗教についてなら、ほら聞いたことない? あの深き世界を垣間見るためとか言ってものすごく臭い食い物を一気食いすることを強要するやつ、確かなんつったかな、えーと、〈淡き夜色の目覚め団〉とかいう――」
「いえ、そうじゃなくて、その豆腐バーというのはいったいぜんたい、どのような施設なのですか」
「だから豆腐を出すバーだよ、そのパンクス君も、このままいくと間違いなく来週中に臭豆腐たんまりコースが待ち受けてるってんで、予行練習のつもりでそこにきたわけだな。幸いその店じゃ取り扱ってないってわけで、これは僥倖だったね、あたしとその中世騎士のようないきいきしたおじさんにとっては。そう! そのおじさんがまずあたしに対してこう聞いたんだ――」
「それはいいです、そのバーに連れて行ってください、先輩」
「なんだよ、予想外のところに食いついたなカナエ。いいよ、今から行こうじゃないか。カネは持っているのかい」
「あいにく三エンと十五ユニしか所持しておりません」
「そいつぁしみったれてんね、なあ安寧院、カネ持ってねえの? いたいけな少女が豆腐バーに行けずして困窮してるってのに、大の男が指を咥えて見てるつもりかい?」
安寧院君はそのつもりだったらしく、その意思を誇示するため実際に指を咥えてこちらをじっと睨み始めた。
次に九十九先輩は矛先を重傷者たる瀬羅先輩に向けた。わたしは九十九先輩と違って人並みの常識はあるので、これにはさすがに二の足を踏むところではあった。しかし急に持病であるオルガノイド転移病の発作に見舞われ、口の中で病魔退散の呪文を唱えなければならず、九十九先輩を止めるどころではなかった。
瀬羅先輩は多くの領域で放送禁止用語に指定されている単語を発して九十九先輩を攻撃した。これに対し〈随員〉が反撃、クライン複合粒子波を放ち次元傷をうまい具合に抉り、これで彼の退院は一ヶ月伸びた上、わたしとしてもカネは手に入らないという最悪の結果。
「なんだよどいつもこいつも、こうなってきたらがぜん、あたしはカナエに資金援助をしたいって気分になってきたぜ。よーし、最後の手段だ。部費に手を付けてやる!」
「お気遣いはありがたいですが、そんなことをした暁には部長の制裁が待っているのではないですか」
「どうってことないさ、最悪ここを中心とした二千億ヘイズの領域が跡形もなく消滅するだけだし」
この無謀な先輩と違いわたしは思慮深いので、部費横領に代わるプランを練り、三秒後にそれは浮かんだ。
「先輩、犯罪に手を染めずとも大金を稼ぐ方法を思いつきました」
「おいおい冗談は止せよ、そんなものがあればあたしらは学校に通う必要もないじゃないか。そんな戯言はさておき、今から金庫を破壊するための器具を調達しに行こうぜ」
「最後まで聞いてください、真剣な話なのです、先輩」
「あたしが気づいた世界の真理には食いつかぬくせに、その眉唾なプランとやらは静聴しろってかい? まあいいだろ、話せよカナエ」
わたしは以前訪れたとき、禍道部の部室の天井に、人の顔にしか見えない模様があるのに気づいていたのだ、それも二つ。これを双子の霊魂だとか言って拝観料を取って公開すれば、あっという間に濡れ手に粟の大もうけ、大富豪間違いなしである。
「霊魂だって? するってえと何かい、カネを払ってまでうちの部室の汚らしい天井を見たいって物好きが、我が校には多数潜んでるとあんたは言いたいのか? 第一、あたしも長らくあの部室に通ってるけど、顔なんざ見えたことはねえぞ」
「しかしわたしにはそうとしか見えないのです」
九十九先輩の疑念はなかなか晴れることはなく、目の前に転がっている大金をむざむざ取り逃がしかねなかったので、わたしは実際に見れば分かると言って先輩を部室に連れて行くことにした。
道中、電車で移動しているときも先輩は、「あんたっていささか頭がどうかしてる部分があるので、それがあんたのみに見せているのじゃないかい?」などと謂れのない疑いを向けてきた。わたしは苛立ちのあまり、瀬羅先輩よろしく多くの領域で放送禁止に指定されている単語を用いて罵倒しかけたが、〈随員〉が睨みを利かせているのを思い出し踏みとどまった。ここで死んでは金儲けができない。うかうかしていると日暮君辺りに先手を取られかねないではないか。
そうして部室に到達しかけたところで、案の定日暮君が先に中に駆け込むのが見えた。あれは金儲けの臭いをかぎつけたハイエナそのものである。そうして彼は中から鍵をかけやがったではないか。
「ほら先輩、日暮君に先を越されてしまったではありませんか!」
「落ち着けって、あんたのプランでいくとその模様ってやつを人に公開しなきゃならねえんだろう? こうしてロックしてちゃ、客を入れることもできねえじゃないか」
そういえばそうだ。彼は焦る余り、致命的な失態を犯した。
わたしは持久戦に持ち込むことを選んだ。扉の前に張り込んで、時折歌を歌ったり乱暴にノックしたり、中の日暮君にプレッシャーをかけつつ、九十九先輩と交代で夏休みが終わるまで待ち続けたが、結局日暮君は出てくることがなかった。
それから部室が使えないと困るというので、業者を呼んで扉を開けてもらったところ、中で日暮君は餓死しているのが発見された。
そして問題の天井はというと――身の毛もよだつことに、顔に見える模様は三つに増えていたのだ。
なんということだ。この部室にいる悪霊は、金儲けのプランで人を誘い、この場に釘付けにして引きずり込んでしまうのだ。わたしも後一歩で霊の仲間入りをしてしまうところだった。
それ以来、部室は閉鎖され、誰一人立ち入ることはなくなった。しかし、明日にでもあなたは部屋の天井に、顔のような模様があるのに気づくかもしれない。だが決して、それで金儲けをしようなどと考えてはいけない、いくら豆腐バーへ行きたいとしても――霊たちは狙っているのだ。あなたを向こう側へ引きずり込む瞬間を……。
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