第十六回 或る初夏の日曜日、新宿にて/竜喰ツバサの破滅的勧誘
一言で言うなら怪獣、ティラノサウルスに禍々しい棘がいくつも付いたような巨大な怪物が、都市のど真ん中に鎮座している。
夢を見ているのだろうか、と目をこすり、向かいの座席の女性と目が合ってすぐに逸らした。
携帯電話に振動を感じて取り出すと、知らない誰かからのメッセージ、差出人は登録した覚えのない奇妙な名前だった。
火鳥塚カナエ。
見たこともない苗字だ。ひとりつか、とでも振り仮名を振ればいいんだろうか。
『初めまして、ハクア。こっちの領域で会うのは初めてのはず、だから初めまして』
初めまして、と言うわりに名前を親しげに呼んでいる。続けざまに次の文が送られてきた。
『たぶんあなたは、今見ている巨大生物に戸惑っているはず』
『それでこれは夢だとか思い込もうとしているんだろうけど現実だよ』
『こっちの世界にはオオカミはいないしあれを倒すヒーローとか巨大ロボットとかもいない』
『今のところは。あと二十分くらいであの禍因性流動体は実体化して大暴れ』
『だから、わたしがどうにかしようかと思っているんだけどどうだろうか』
『これでも何度かオオカミの一員だったこともあるし』
文字は異様な早さで打ち込まれていき、全てを読むことはできなかったが、白亜はどうやら何かが起こっているのだという点については理解した。異常事態なのに、異様なほど冷静だ。いや、冷静だと思い込もうとしているだけで、内心は恐慌状態だ。まるで平穏が壊され、非日常に巻き込まれていくアニメか何かの一話目みたいな導入だ、なんてことを思う。それにしたって唐突過ぎやしないだろうか。
電車は新宿駅のホームに滑り込んだ。放心したまま白亜は乗客たちとともに降車し、改札を抜けた。
西口から外に出ると、青空を背景としてあの怪獣がまだそこにいた。動く様子はない。しかし、あのメッセージの送り主によれば、あと十分ほどで動き出し、新宿を破壊するだろうということだ。
「そう、これは夢でも幻でも物語でもない、現実の話」
眼前に一人の少女が立ち、白亜を見ていた。背は低く痩せ型で、明るい茶髪に染めたセミロングの髪。纏った制服は白亜が通っている学校のものだ。銀縁の眼鏡を指で押さえながら、一礼して彼女は言った。
「改めて初めまして、
君はいったい誰? どうにか白亜はその台詞だけを口にすることができた。
「わたしは
さて、短いけれど話はこのあたりにして、そろそろ始末をつけようと思う。
ハクア、わたしはたぶん三分くらいで消えるけど、すべての領域のあなたが安らかでアシッドな生活を送ることを祈っているよ」
そんなことを言うと火鳥塚カナエは突如跳躍した。弾丸のように早く、三十階建てのビルと同じくらいの高さに跳躍し、未だ動かない怪獣に巨大な光の槍を放った。
閃光に包まれる怪獣。道行く人々はそれに気づく様子もなく、新宿の街はいつも通り流れている。
そして怪獣と、火鳥塚カナエと名乗った少女は、雨城白亜の前から姿を消した。
■
そういった話を白亜が翌日、春屋敷先輩にしたところ、「それってなんていうアニメ?」と真顔で聞き返され、あれはやはり夢だったのだろうと思うことにした。
しかし、それから一週間後、日常は再び打ち破られた。
昼休みの教室で、購買で買ったコロッケパンを食べ終え、本日発売の漫画雑誌を読んでいると、突然、何かがひび割れるような音がした。
窓を見やるが、壊れてはいない。だが教室は異様に静まり返っていることに気づいた。級友たちは一人残らず消えうせ、窓からは真昼の光ではなく真っ赤な、日没時のような光が差し込んでいる。
白亜は以前ネットで見た、異次元へ迷い込んでしまう怪談を思い出して身震いした。
「カラスが鳴くから帰ろう、というフレイズに聞き覚えはないだろうか」
突然、そんな声が聞こえて白亜は振り返る。自分と同じ制服を纏ってはいるが、見たことのない男子生徒が立っていた。
これといって特徴のない、地味な容貌だが、赤い光に照らされたその顔はやがて歪んだ笑みを浮かべ、流れるように喋り始めた。
「逆に言うとカラスが鳴かないと帰れないのでこの人物はどうしても家路に着くためにカラスの鳴き声を聞かねばならないのだけどそうやって探すと決まってカラスは鳴かないどころか見つけることすらできずに家に帰ることはできず、延々とそこらをさまよう羽目になるんだ。彼が家に帰ろうとしている限りカラスは鳴かないのだが、それを知ることなく永久にさまようこの彼、そう、この彼とは君のことでありオレや大西さんやまだ見ぬ宿敵、あるいはオレたちが既に忘れてしまったあの娘のことだったりするのさ……悲惨な呪いの、お話でした」
白亜は見知らぬ男子生徒に、カラスが鳴くから帰ろう、というのは『家に帰るのにカラスが鳴く必要がある』というのではなく、カラスが鳴いたことにより現在の時刻は夕刻であるということを認識し、家路に着くべき頃合であると想起させることを意味しているのだ、と言った。
「ああそうだった……三日前まではね。それでアマシロ君、アマシロ君はこの領域からの帰還を望むのかな。ここはカラスも鳴かないしアオバズクもホトトギスもヒクイドリも鳴かない領域。既に災禍が蔓延っており終末を漂う領域なのですよ。やべえことこの上なし、まあそういう状態にしたのは何を隠そうこのオレなんだけどね。まことに申し訳ないが笑って許してやってくれ、なにせオレときたら寄る辺のない、と見せかけて七京飛んで十六人の同胞を隠し持つ男。カタストロフを友とし、破局を枕とし、オフクロの胎内に希望というものを置き忘れてきた最低最悪な要注意人物なんだからさ……既にご存知とは思いますが」
白亜はもちろんご存知ではなかった。まず、君は誰なのか、と尋ねた。
「オレの名前は
それで君にとっては幸いなニュースがおひとつ、確定的な断絶は未だ発生しておらず君は元いた領域とのリンクが切れてはいないという。これはだから、夢みたいなものなんだ。まったくいいよな、安定的な領域の民はさ」
白亜はツバサと名乗った少年に、ここはどこかと聞いた。視線が定まらず、壁や天井や窓の外の赤い空を見ていたツバサは、まっすぐに白亜を見て、話し始めた。
「君は並行世界というやつを知っているだろうか。自分の住んでいる世界と、よく似た異世界が存在しているという説だ。そしてここもそれなんだけど、なんと並行していないわけ。してるのもあるけど、時間の流れがめちゃくちゃだったり因果律がおかしかったり、別の世界の過去となんの前触れもなく接続したりといった怪奇現象が起こったりする。君の世界――オレらは領域と呼んでいる、一個の世界の中にたくさんの領域があるっていうわけなんで――それをまっすぐに進む線だとすると、その線の周りにぐにゃぐにゃと別の線がたくさんあるって感じで、ほらあの、漫画とかで不機嫌だったり困惑を表すときに、フキダシの中にぐちゃぐちゃした黒い綿飴みたいなのが描写されるでしょう、そういう感じにいろんな領域が絡み合っているというわけなのです。
オレたちはその、領域間のアクセスとかによって辺りが何かおかしくなることをフリッカー、ちらつき、と呼んでいる。例えばさっきまで空腹だったのにいきなし満腹になってる。目の前に見知らぬ男が出現し親しげに話しかけてくる。知らない場所に瞬間移動している。貨幣価値が大きく変動している。など。ただ、これは別に慣れるとあんまし気にならない。小規模だしちょっとしたショックで元に戻る希望もあるし。
ところが、ときたま領域が断絶することがある。
さっきのたとえで言うと、ぐにゃぐにゃ、ぐちゃぐちゃであっても線がずっと延びていることには変わりはないんだけど、その線がぷっつり途切れてしまうってことも起こる。そこでおしまい、すべて消滅、なら別にいいんだけど何事もなくまた現実が続くってこともある。それまでとまったく別の領域かのように変貌した上で、ご好評にお答えして再開するって形ね。これはね、すげえよ。使われてる言語がまるごと変わってたりとか、見たこともない色の空になってたりとか。死んだやつも何食わぬ顔で蘇る。フリッカーと断絶の区別ってのは具体的な基準が一応あるらしいんだ、オオカミのやつに聞けばわかるかな? とにかく世界観が全部変わってしまうのが断絶だね。今回のこれはまあ断絶に近いけど君一人がちょいとこっちに一時的に迷い込んだだけだから、そのうち戻れるよ。
良かったね、めでたしめでたしと言いたいところだけど、君の領域ちょっと怪しい感じがするんだよね。っていうかまあ、もうだめかも知れない、つまり、線が曲がり始めてるんではないかな、とオレは思っているわけさ。
例えばこの前、カナエがいきなり君の前に出現しただろ? あと禍因性実体が出現、そして今回の来訪。これはさ、もう戻れないかもしれないね。以前の平穏な日々に……どうすればいいのだろうか? とお悩みの貴兄に、オレは禍道を始めてみることを提案するよ。
禍道。それは領域への挑戦。己の身ひとつですべてに挑む、これぞ真の冒険。実際オレがこの領域を滅ぼしたときは、見えたね、光が。それってのはオレが放出した毎秒3.8 × 10^26ジュールのエネルギーによるものではなく、悟り、気づき、によるものだったわけです。
オレはこの禍の道こそが、この
白亜はそれになんとも答えることができず、気がつくと元の教室で昼休み終了のチャイムを聞いていた。
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