第十五回 潮水に没するマクガフィンの数々
わたしは〈むくろ亭〉の油で光るテーブルの向こうにいるハクアと長いこと、気鋭のロックバンド〈ザ・ルーラーズ・パラサイト・クラン〉について話していた。その四番目のアルバムに収録された〈リジー・ボーデンの憂鬱〉で描写されたのと同じ手口で、三日前に同級生二人を殺害した少女についてもだ。
ハクアは胃が弱そうでちょっとしたショックで喀血しそうな外見とは裏腹に大食いで早食いだ。ライス大盛りの餃子定食と醤油ラーメンをすべて、フリッカーが発生したのかと見紛うばかりの速度で食べ終えてさらに杏仁豆腐も注文する始末だ。
わたしの通う西高の制服がブレザーなのに対し、ハクアの在籍する東高は学ランと黒セーラーだ。細身で長身の春屋敷先輩が黒いセーラー服に身を包むと極めて絵になるけど、それと同様にハクアもまた、漆黒の学生服がよく似合った。夏なのにそれを汗ひとつかかずに纏い、その上、他の生徒が身に付けているのを一切見たことがない学帽をハクアは四六時中着用していた。目深に被ったそれの奥から時折覗く彼の眼は宝石のように美しく、わたしは時折、誰かが鷺ヶ原さんにしたのと同じように抉り取って、保存液に浸し、宝物として保管したいという衝動を抱いている。ハクアはきっと眼帯も似合うはずだ。
春屋敷先輩が「したまえよ」という語尾でわたしに何かを提案するのが好きだという話は前にしたと思うけれど、ハクアは時折、彼が何かを強調したい場合に、~なんだぜ、と付けるのをわたしは気に入っていた。彼は基本的に口調も表情も淡白で、だけど内に秘めた意思がにじみ出るかのようにそう言う場合、わたしは何か晴れやかな空の下で涼しげな風を受けているような気分になる。
と、いったことをわたしは、思春期の少女の内なる残虐性と〈ザ・ルーラーズ・パラサイト・クラン〉のボーカル、キース・モーガンの危ういとも言える繊細な声質の関連性を語りながら考えていた。つまり、いつも通りの平穏な夏の一日というわけだ。
わたしはそこで、ロックバンドではなく焦熱期に何人かいた、ひたすらに陰鬱で最後は薬物自殺や心中で夭逝した作家の話でもするべきではないだろうか、と思い至り、だけど自分がろくにそういった小説家の名前も知らないということに気づいた。わたしは水を飲んでいたハクアに対し、そのような作家とその代表作を知らないか、とやや唐突に尋ねた。
うん? 知ってるか知らないかで言えば、そりゃ僕は前者だけどさ。ご他聞に漏れず僕は暗い人間だからね、そりゃ読むものだって、ダークな人間性の滲み出た方向に行こうってものだぜ。
だろうね。例えばどういったものがあるの?
九重志流だと〈溶暗〉とか〈風〉が一番じゃないかな?
その人って入水自殺で心中した人?
いや九重は首くくった人、入水自殺したのは……
といった話をしてるとやにわに〈オオカミ〉の隊員たちが店内に押し入ってきた。既に蓋然性遮断式禍因切除装置を構え、何かあればいつでもこの区画ごと店を消失させるつもりのようだった。隊長らしい人物が我々のテーブル席に来て、この付近に広領域指名手配犯である量子漂泊者、通称〈鬱屈者〉が潜伏しており自分たち第六捜査隊が目下調査中であると述べた。隊長は千条と名乗った。
見てないですが、そいつは何をしたのですか? とわたしが尋ねると千条隊長は、密漁だと答えた。違法改造した幻燭照射装置を用いて、エルガー界より希少なカルモス幼体を多数捕獲、売りさばいているらしい。密売していたシンジケートは押さえたものの、肝心の〈鬱屈者〉を捕縛できずにいた。しかし、ついにこの区画に追い詰め、現在第六隊が総出で事に当たっているとのこと。
そうですか、お疲れ様です。じゃあ我々は帰るのでごゆっくり調べてください、と言って勘定を済ませて出ようとする。隊長は、そうだ、早く出て行きたまえ、〈鬱屈者〉は危険な境界破堤兵器を所持しており、場合によっては培養領域より膨大な肉塊がこの領域へ限定流入しかねないのだ。そうなれば区画はまるごと押しつぶされるだろう。危険だからとっとと去るのだ。もしかすると、この場所の地下に潜んでいるかも知れん。そう厳格に語るのだった。
我々はそりゃやばい、って早々に離れ、西鎧谷に向かうことにした。ハクアが、ハクボ電気西鎧谷店に行きたいと言ったからだった。
西鎧谷へ向かう電車の中で轟音が鳴り響き、少しばかり揺れを感じたけれど、あれは千条隊長の懸念どおり、肉塊が流入した際の破壊音ではなかろうか。〈むくろ亭〉は肉に沈んでしまったのではないか。まあいずれ再出現すると思うし、大丈夫だろう。そのどこかの領域の肉塊が料理に混じっていたりしたら嫌だけど。
ハクボ電気の前まで来ると、地下鉄の出口から登ってくる更坂先輩と冬石君がいた。先輩はわたしを見るなり、朝は有意義な議論ができてよかった、ネットでもやはりあの監督に対する批判が高まっており、火鳥塚さんと俺の意見の正しさは確定的だ、と言い放った。その後、やっぱりあの割引券を返してくれたりってことはない? 今度、虹鱗の卵をいくつか買おうとしていたのを思い出したのでその際に使用したいんだが、と先輩は申し出た。これには冬石君が、さすがに一回頼まれてもないのにあげたものを取り戻そうとするのはどうなのか、といった反論をした。冬石君の真後ろに立っていた春屋敷先輩も、そうだ、それは先輩として、シジル幻燈作成者として、何より更坂ジョウという人間としてふさわしくない、と付け加えた。二人にそう言われ更坂先輩はいかにも惜しそうな顔であるものの、ああ、確かにそうだ、と言い立ち去った。
どうやら彼は別の領域のわたしと何らかの取り引きをしたらしかった。爬虫類専門店かなにかの割引券を、ろくすっぽ考えもなしに先輩はわたしに譲渡したのだろうか。確かに虹鱗の卵は高く、末端価格で八千ユニはするだろう。自分で採取しにいくほうが早いけれど、歪んだ月が強めに歪んでいるときしかあの共鳴種は姿を見せないので、気長に待つしかない。更坂先輩は割合短気なのでまず無理だろう。
それで、ここには何を買いに来たの? わたしはハクアに尋ねた。
彼は、今所持しているラジカセがこの前シジル幻燈の材料に買った鋼線花の分泌液で壊れたために新しいのを買うのだと答えた。
ハクアはかつてはレコードで音楽を聴いていたけど、あるとき自室が倒壊し半ば海に沈んでしまい、レコードもすべて波にさらわれた。遠浅の海を歩き彼は長いこと探し続けたけど、一枚も見つけることはできず、それ以来カセットテープを愛用するようになったそうだ。
家電売り場へ行き、店員にラジカセはどこか、と尋ねると、現在売り切れで、入荷は未定という答え、倉庫が先日半分崩れ、ラジカセの在庫がすべて海に流れてしまったのだそうだ。ハクアはひどく落胆し、これからは音楽を捨て文学一筋に生きる、と言い、今度は犬潟へ向かうことになった。
わたしはしかし、またぞろ彼の部屋が崩れ、次は本の山がすべて海に流される様子しか想像できなかった。
犬潟に電車で来ると、街は騒がしかった。
何かのイベントをやっているのかと思ったら、違った。人が何人も路上に血を流して倒れている。そして手に山刀を持った制服姿の少女がうろついており、〈オオカミ〉の人と戦っている。しかも同じ顔の少女が視界の中だけで六人ほど存在している。それは報道で見た殺人少女のものだ。ハクアが、あれは概念性分離体だ、と呟く。くだんの少女はもちろん、既に逮捕されているけど、その殺人行為という現象はまだ活動を継続しているというわけだった。もちろん人間じゃないのでほぼ禍因性実体とご同様。〈オオカミ〉の中にも犠牲者が出ているようだ。
ついには現場を中継し、現代社会の闇とか教育現場の崩壊とか言っていたアナウンサーまでもが首をぶった切られてしまう、しかしわたしたちには無関係なのでアーケード街に突入し、古本屋〈鵺〉に向かった。
この店は焦熱期から波濤期前期にかけて多くいた、優れているけど暗く読んでて死にたくなる作品の数々を取り扱っている、ハクア愛用の店だ。しかし、店の引き戸を開けて中に入ると、視界には海が広がっていた。店はかつてハクアの部屋や家電の倉庫に起こったように、半ば崩れ、外からは潮風。むろん本の大部分はすでにない。ハクアは店主に、何があったのですか、とは尋ねなかった。代わりに、どれだけ残っているかを聞いたけど主に滑稽本しかないということだった。
ハクアは無言で店を出た。いや、まだだ、と呟く。文学とは紙の上にのみ成り立つものじゃない。町で蠢く人々こそが、それ自体文化・芸術だ。例えば先ほどの殺人劇。襲い掛かる少女、我先にと逃げる通行人、自分は無関係とばかりに見物を決め込む野次馬、戦う〈オオカミ〉の人、そして無残な死体。これこそ、文学だ。それを僕は生で見て、文化的営みとしよう。
わたしはあまり文化的とは思えなかったけど、ハクアに同情を覚え、何も言わなかった。
犬潟駅前の交差点に戻ってくると、そこには誰もいなかった。というか、交差点そのものがなかった。
彩歌は、海の上に築かれた都市だ。無数の杭を海に突き立て、その上に作られた街だ。突如として、地盤が崩れ、アーケードの出口から先はすべて海へ没してしまった。
ただ、凪いだ海と水平線に沈みゆく穏やかな夕日があるだけだった。
このとき、我々はまだ気づいていなかった。都市への浸食が始まっていることに。
それは傲慢な人類に対して領域そのものが出した答えなのか。
あるいは、何らかの禍因性存在の仕業なのか。
千条隊長は〈鬱屈者〉を捕縛することができたのだろうか。
果たしてわたしは、ハクアの目玉を入手することができるのか。
全ては謎のままだった。歪んだ月が空で嘲笑うように光っている――
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