第十二回 無獲得
爆発音のように
雨はすぐに止むと思っていたけれど、主観時間で三時間ほど経つのに止む気配がない。まずい状況だ。雨は領域内の安定性を奪う。観測を阻害し曖昧さを増加させる。因果律遡及率も八千~一万コルトほどにまで上昇している。
現に雨煙の覆いの向こうを、量子漂泊獣の群れや不朽飛空種などが横切るのが目に入ってくる。数~数十ヘイズの領域が融合しかけているようだった。
それからさらに一時間、わたしは因果律の波と時空間の乖離・融合の頻発によって領域酔いを発症し、手持ちの薬を飲みつくしてもなかなか症状は治まらなかった。頭痛と吐き気、息苦しさ、肩こり。もうじき幻覚が見え始める。そうなればさらに観測は阻害され、さらに基底現実が揺らぎ、悪循環の繰り返しでついに物理的変異を引き起こす恐れがあった。
こればかりは避けたい事態だった。〈
しかし、それでも雨は止まなかった。
そこから四十五分後、左手の指先から変異が始まった。
小指の側から、爪と指が高質化して黒ずみ、金属のような光沢を発し始めた。流れた血が固まったように手の甲が赤黒く変色し始め、薄荷の匂いがにわかに強まっていく。
変異した血液が手から心臓に到達し、動悸が早まり、一転して清浄な気分になっていく――調和症状の始まりだ。これはまずいな、とわたしは思った。このペースであればあと三分以内に変異は肩まで達する。脳まではたぶん五分ほどで、それまでにどうにかしなければならない。
強引にフリッカーを誘発させ、七百~九百ヘイズほど離れた領域への置換を行えばいい。ちょっとやそっとの衝撃ではだめだ。
わたしは護身用に所持している回転式拳銃を鞄から出し、口を開けた。
引き金を引いてから脳幹を銃弾が破壊する前に、フリッカーが誘発すればいい。しなければ死ぬ。手首まで変異が進み、左手はわたしの意志とは無関係にうごめいている――独立した生物のように。そのおぞましさに背中を押されて、わたしは右手で握り締めた銃を撃った。
結論から言うと、わたしは死なず、誘発したフリッカーによって変異は留められた。
〈W.O.L.F〉傘下の公衆衛生管理局の病棟で目を覚ましたわたしは、左肩までを培養殻で覆われ、投薬で意識は朦朧としていた。
担当医は丁寧にわたしの症状を説明してくれたけど、始終何か汚らわしい者を見るような目つきをやめなかった。
アルガント臓が形成され始めており、手術で摘出したが体内に卵が散らばっているために投薬を行い、その副作用で幻覚・幻聴があるかも知れないし、突発的フリッカーや局地的断絶も起こりうる、とのことだった。
培養殻の中の左腕は、生暖かい感覚以外なにも感じない。
数日間の入院生活はひどく退屈だった。
付けっぱなしになっているテレビをぼんやりと見つめるだけの日々だ。
両親と近所の人、春屋敷先輩をはじめとする東西のシジル幻燈部員たちが見舞いに来てくれた。皆、変異し培養殻に覆われた腕などを見るのは初めてだったらしく写真撮影をし、殻に落書きをしたりと楽しげだったので、わたしは憎悪を覚えた。
最後に左目が抉られているほうの鷺ヶ原さんが来て、面白い本があると言って置いていった小説を読み始めた。
それはある朝起きると腕にキノコが生えており、それがとても美味で、世界中から狙われる羽目になった男の物語だった。わたしはこの主人公に自分を重ね合わせた。わたしは悪いことなど一度も――この件だけでなく生まれてから一度もしていないのに、このような理不尽な責め苦に合っている。極めて不条理だ。
怒りを蓄積させながら、わたしの腕は再生された。
退院して帰宅したけれど、色々と違和感が消えない。わたしは違和感というものを持つことがあまりなかったので、違和感そのものにも違和感を覚えた。これまではフリッカーや断絶が、小規模なものも含めると一秒間に数十~数百回起こっており、そのすべてに対して何も感じていなかった。おそらく此度の変異によって、わたしの内部の耐因果律遡及機能が損なわれてしまったのだ。
わたしは投薬を始めたけど、これがめっぽう苦い上に幻覚と幻聴がなかなか収まらない。どうにかするためには歪んだ月を凝視すればいいと担当医に教わった。通常はあまり健康的な行為ではないけど、ずれた領域間の差異を、さらに大きなずれを目視することで緩和できるらしい。緩和というか麻痺させているだけ。
月は生き物のように脈動する。
わたしはそれを見ながら、何かを喪失するというのは一定量の無を獲得することなのだという、当たり前の事実に気づいた。
マイナスをプラスに変えるとは、こういうことだ。
わたしは生まれて初めて歪んだ月に感謝し、一礼した。
鎧谷行きの電車に乗り、乗客が全員頭をネズミに齧られ、一部の人は脳が露出しそれを啜られているのを見ながら、これが幻覚だろうとどこかの領域のリアルだろうと、わたしが所有する無によってこれを閲覧する権利を獲得したのだ、と強気に考えることができた。恐らく今までで一番、わたしはアシッドでホットな状態にあるのだ。
わたしは指笛を吹き、ネズミたちの精神に働きかけた。もっと深く潜るのだ。脳髄の深淵に。
ネズミたちがそれに反応したようには見えなかったけれど、もうじきすべての乗客の頭脳は齧りつくされ、空洞の頭蓋はネズミたちの快適な住まいへと姿を変えるだろう。
わたしが所有する無のパワーによって。
鎧谷は言うまでもなく、また形を変えている。高層ビルの間に無数の橋やロープが架けられ、その上に居住区が出来ている。そこからゴミや排泄物を落とす住民がいて、それを浴びながら地上の人々は何食わぬ顔で歩いていき、我慢できなくなれば公衆浴場へ入った。恐るべき数の公衆浴場が建ち並び、煙突から煙が常に立ち上っている。そしてその煙突同士の間にも空中の町が築かれ、汚物が投げ捨てられていた。
わたしは傘を買った。そうすれば汚れる心配はしなくていいけれど、誰もが晴れであるがゆえに、傘を差そうという発想には至っていなかった。
しかし、わたしが傘を差して歩くのを見るなり人々はコンビニへ走っていきビニル傘を買い求めた。ほかの店も、傘を取り扱っている所ならどこでも行列ができた。わたしがいち早く傘の購入という発想に至ったのも、無のおかげである。
わたしが酔いしれていると、フリッカーが起こり鎧谷の中心部に巨大なる何かが姿を現した。
それは砂で出来た像だった。
顔はのっぺらぼうで、その体は早くも崩れ始めている。
わたしはそれを一瞥しただけで、五十七ヘイズ離れた領域の鎧谷北幼稚園において一人の園児が構築した代物で、転移に伴って縮尺が狂いその大きさへ巨大化したのだと認識することができた。
そしてあと五十秒後にあれが崩れ、甚大な被害を出すことも。
わたしは慌てなかった。傘屋〈アルカンシエル鎧谷〉へ入り、疲れた顔の店主に話しかけた。
お嬢さん今日はもう売り切れだよ、なんだかさっきからすごいお客さんで――
店主の言葉をさえぎって、わたしは決定的な言葉を告げる――このお店では無を使うことが可能ですね?
店主は、畏敬・驚愕・感動・達成感、それらが入り混じったような表情を浮かべた。
どうしてあんた、それを……そうつぶやく彼に、わたしは左腕を翳し、深領域レビヤタン第四変異体の完全遺骸を。と注文する。
店主はもちろんこれを承諾したのだった。
その後の展開は、皆さんには当然お分かりと思いますが、もちろんその通りで高さ五キロの砂の像を消し去るほどの光輝が鎧谷に溢れ、そのショックで領域じゅうに夕立が降り始めたのです。
もちろんわたしは傘を持っていたので、今度は慌てて近くのバス待合所に駆け込むといった選択肢は取らず、歩いて家まで帰った。しかし遺骸を買ったせいで無が無くなってとても残念だった。
そして夕立は主観時間にして二十六日間降り止まず、その間わたしの幻覚は常に外の風景と同じく、青白く淀んでいたのです。
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