第十回 皆さんが静かになるまでに10^-43秒かかりました

 南雲さんと一緒に朝墓区へやって来た。


 南雲さんは隣のクラスの女子で、常に全身が煙に包まれているので全容は杳として知れない。煙はやけに甘ったるい香りがする。どの領域でも多少薄くなって中の影が見えたり範囲が広がって町じゅうが覆われたりという違いはあるものの、この煙が晴れたことはなく、顔は分からない。しかしそれは極めて些細なことだ。


 彼女はわたしと同じ集合住宅に住んでいるようで、大抵登校時間も重なるので、駅や通学路、廊下などで会うことも多く、そのうち彼女のほうから挨拶をしてくれて、やがて言葉を交わすようになり、なんとなく仲良くなった。


 朝墓区は巨大都市でありわたしがよく行く鎧谷も多数の高層ビルが立ち並びその足元に雑多なごちゃごちゃした建物が並び常に人の多い、大都市と言っていい地域だけど、朝墓区はそれよりもさらに大きいし、大体の人が体内に機器を埋め込んでいて、ミラーシェイド眸や空中投影式端末でネットワークに常時接続し、ユビキタス社会そのものといった具合に早足で歩いて人様にぶつかっては謝罪もなしに去っていく。

 

 我々は屋根がガラス張りの喫茶店で、頭上の歪んだ月や空中戦艦、メガネウラ型走査機を見ながら、電気モロコを飲みつつ淡々と会話を続けた。


 主に話題は音楽についてだった。


 〈流転するパラドクスの昏い夢〉はファーストの時点では極めてプログレッシブかつルナティックだったのにもかかわらず、サード辺りでシンプルで衝動的な方向へ転換した。


 多くの音楽グループとはまったく逆である。


 大抵はエントロピー増大のごとき様相を呈していくのに、あえてシンプルへ回帰、そしてサード・アルバムのタイトルが〈第二法則の誤謬〉であり意図してそうしたのか、あるいは偶然の産物なのか。謎は尽きない。


 南雲さんは、売れなかったのでメンバー全員がクローンと入れ替えられたという説を主張した。


 わたしはさすがにそれは飛躍が過ぎる・非現実的と思ったけど、曖昧に肯定し、話題を変えた。進路についてだ。


 わたしは大学受験を考えているけど、南雲さんはどうするの?


 すると彼女は、エルガー界調査士になりたいと言った。そのために溶暗学部へ進学したいそうだ。しかも深部の調査をしたいらしく、蒼聖大学を狙っているらしい。倍率は八十倍を超える難関だ。


 とはいえ模試で特に勉強しなかったにもかかわらず、A判定が出たのでたぶん行けると彼女は言うけれど、にわかには信じがたかった。


 わたしは、実際には勉強しているにもかかわらず、試験前にまったくしていないと言う欺瞞者を許したことがなく、一人残らず虚数界の彼方へ葬り去ってきた。場合によってはこの場で南雲さんに強制乖離処理を施さなければならない。


 本当に勉強をしていなかったのか、そしてA判定はまぐれということはないのか。わたしはその二点をこの煙る少女へ問うた。


 南雲さんはその纏った煙とは正反対の澄み切った声で、勉強時間は間違いなく皆無だと断言した。そして、問題の多くが記述式であり、その多くが既知の事象についての問いであったため解答できたのであってまぐれということはない、と告げる。さらに、あるいは普段趣味として行ってるエルガー界の探求が勉強に当たるのかもしれないが、自分の中にでは勉強という考えはなかった、と付け加えた。


 わたしは、彼女はシロだと判断し、左手の薬指に埋め込まれた銀光式乖離誘発装置をシャットダウンした。


 ふと、窓の外を見ると〈オオカミ〉の人々があわただしく動き回っている。彼らはろくに仕事がなくてもそうやって、熱心にこの世界を守っていますとアピールする場合が多いので大したことじゃないだろう、とわたしは思ったけど、これは利用できる、と、ちょっと見てくる、と言って外へ出た。南雲さんにここの勘定はわたしのおごりで、と言ってしまったのを後悔し始めていたからだ。なにしろ財布には六エンしかなく、携帯端末にチャージされているユニは今朝方どら焼きを六個買う際に大方使い果たしていた。


 壁際に立って時間を潰しているらしい〈オオカミ〉の人に何かあったのですかと話しかけると、その女性はわたしをしばらくじっと見てから、


 ああ、遠領域で大規模なボイドが観測された、八百正ヘイズ離れた辺りなので正確な観測は通常できないが、それでも発見されたということは相当な範囲で消失が起こったのだろう。それで通信障害とか禍因性流動体の集団流入とかが予測されるので準備をする必要があるのだ。


 そう答えてくれた。わたしには関係ない話のようだ。その人はまたこちらをじっと見て、恐らくわたしは君と会ったことがある、と言った。そのわたしはもちろんこのわたしではないのは明白だった。わたしは〈オオカミ〉の一員として活動していたらしい。そして、禍因性変異をした領域全土を二人で浄化するほどの活躍を繰り広げていたそうだ。


 そんな話はもちろん赤の他人が今朝見た夢みたいなものだったので、わたしはそうですか、と一蹴し、駅へ向かった。


 電車は止まっていないようだったけど、わたしは金がないので線路沿いに歩くことにした。断続的に薄荷の匂いが強くなり、空鳴りとなにかの彷徨が聞こえた。


 だけど空は晴れ渡っていて、ごく平穏だ。


 線路は鎧谷のほうへ伸びているはずが、どうやら違った様相を呈してきた。


 地平線の向こうまで続く白い石の平原にわたしは出て、線路だけが延びている。

 電車が通る気配もない。


 この光景をカメラで写し、歩くわたしの後姿を捉えてどんどん遠ざかって行けば、スタッフロールが始まり、やがて画面にエンドクレジットが表示されそうな雰囲気だと思った。


 来た方角を振り返ると、破滅的な光がいくつか見え、もしかすると消失しボイド化したという遠領域のごとく、朝墓区も消えて行くのかもしれなかった。


 端末の時計で一時間、主観時間では七時間半ほど歩くと、地平線から鎧谷の見慣れた建造物群が姿を現した。

 同時に後ろから電車が走ってきて、すれ違うその車体に不気味な触手の切れ端が絡みつき、緑色の液体がこびりついているのが見えた。


 あんな車両に乗ろうものなら、即座に月死病に感染し、四十一度の高熱と、下半身がサメに変異した巨人兎の幻影に翻弄されることだろう。


 ふと、わたしは波の音がするのに気づいた。

 歩みを進めて行くとそれは次第に大きくなっていき、やがて眼前に海が姿を現した。


 鎧谷との間に横たわるマリンブルーは、写真でしか見たことのない南国のそれだった。

 わたしは途方にくれて海に近づくと、大して深くはないことが分かった。靴と靴下を脱いで手に持ち、遠浅の海を横断することを決め、温いその水へ侵入した。


 もはや、後ろを振り返ってはいけない。

 振り返ったら、全身が反物質へ置換され、この領域を吹き飛ばしてしまうであろうことが容易に想像できたので。


 わたしは携帯端末のラジオを付け、退屈しのぎとした。遠領域消失のニュースが流れている。


 ……その場所は恐らく一気に、何の前触れもなく消失したのです。明日我々の住む領域もそうなるかもしれないし、今すぐに消えてもおかしくはない。我々はきっと、終末に気づくこともなく消失するのです。それではお知らせの後、公開相転移キャンペーンの応募要項を……


 滅ぶと知って緩慢に生きる、穏やかな終末も悪くはないけれど。

 サプライズ的な終焉も、どこか清清しくて悪くはない。

 そして、終末には海が似合う。


 わたしは一歩踏み出すごとに、今この瞬間に世界が消えるなら、と考えて、海を渡っていく。

 そういえば前に、春屋敷先輩と終末について話したことを思い出した。


「あたしたちの領域は、認識できないほどの短い時間の間に消えてまた生まれているという説があるんだ。プランク時間ほどの単位で全部消えて新しく作り直されている、鬼ヶ峰くんみたいな例外もいるけど、ほぼ全部。今見ている視界は常にまっさらな存在なのさ。だから終末、破滅なんてものはいまさら恐れる必要がない。それにどうせ、終わったところでまた新しく始まるさ。その繰り返しだよ」


 薄荷の匂いが、歪んだ月から立ち上る。


 すべてが消える間隙にもそれは満ち、万物の非連続性の例外であると主張していた。

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