第九回 無への突入

 放たれた散弾が夏の入道雲を背景に腐れきった果実を粉砕した。場所はわたしの住んでいる集合住宅の敷地内にある公園で、撃っているのは風守君だ。彼の家に大量に備蓄されていた、田舎から送られてきたりまとめ買いしたけど食べずに腐らせてしまったものを処分しているのだった。


 風守君は挙動一つ一つのたびに、かっと目を見開いて対象を見据える。銃撃の前に、その視線で獲物を撃ち抜いているかのようである。


 甘ったるい腐臭、蝉の声、陽光、熱気、すべてが気だるく調和しているようだったけれど、わたしにはその風景を眺めている暇はなかった。


 シジル幻燈部の赤目山東西高校合同会合が、あと十分で開始する。しかし開催地の西高までどんなに急いでも現在の領域の地理では三十分ほどかかり、遅刻は決定的なものとなっていたからだ。


 こうなった原因は、部分的な領域融合によって自室のドアが壁と化してしまったからだ。フリッカーを誘発し再びドアを出現させるのに一時間もかかってしまった。わたしは急ぎ足で駅へ入り、電車に乗って学校へ向かった。


 数日前に発生した断絶によって、西高校の敷地は海に浮かぶ小島と化していた。繋がっている橋はごく狭く脆いもので、わたしはいつも足元が崩壊するのを恐れながら渡っている。巨大な魚影が波間に見え隠れし、落下したら捕食されるのは確実だろう。わたしは醜悪な怪魚に粉砕される自分を想像しながら足早に、しかし慎重に進み、橋を渡りきることができた。


 遅刻してたどり着いた部室には東高の灰淵君と、禍道部との兼部である安寧院君がいた。安寧院君は謎の存在であり、常に全身がぶれており動くと残像が残る、声もリバーブがかかっていて、火鳥火鳥塚さん遅ん遅刻ですか何すか何かあったんでたんですか、といった風に聞こえる。基本的に禍道部の人は領域を侵食・破壊するので安寧院君もきっとあまりよくない影響をもたらし続けているはずだ。


 灰淵君は相変わらずこちらを無視し、一方的に質問してその答えが帰ってくる前に新しい問いを投げかけたりしている。

 両校の部長もいないし会合はもう終わったか、中止になったかしたのだろう。あるいは会合中に何か超領域的事象が襲い、集団消失が発生したのかもしれなかった。


 これ以上ここにいる意味がないと結論付けたわたしは部室を出て、昇降口へ向かった。すると前に会ったことがあるようなないような感じの女子生徒がいてわたしに話しかけてきた。彼女は剱持クオンと名乗った。


 剱持さんはわたしに困惑を覚えているようだった。前はわたしは身長は百六十弱、口調はなんだか理屈っぽく回りくどい感じで、分厚い眼鏡を掛けた地味っぽい人物だったのに、今じゃどうしてそんなふうになってしまったのか、という内容を口にする。


 わたしの身長は百七十近くあり、口調も理屈っぽくなくずっと砕けた感じで喋っているし、眼鏡を掛けたことなどない。髪を脱色し色をかなり薄くして、左の側頭部だけ赤く染めているので、多くの人は派手だと認識するだろう。彼女の言っているわたしは恐らく断絶前のわたしだ。しかしそんなことを説明するのはかなり面倒だったので、クオン何アシッドなことゆってんのー? とかなんとかあしらってわたしは下校した。


 鎧谷の市街地まで来ると、〈オオカミ〉の人たちが禍因性実体と戦っているのが目に入った。実体は五体いて、巨大なロボットのようだった。目や手から放つ光でビルに風穴を開け、その余波で人々が発狂し、殺し合いを始めたり世界平和について議論したりしている。


 わたしは流れ弾を回避し、鉈をこちらへ振り下ろしてきた中年男性を弾き飛ばしながら駅を目指した。


 鎧谷駅はその複雑な構造でよく知られている。あらゆる領域でここは人々を迷わせる。目指す場所へたどり着けないからといって、案内図を聞いたり駅員に尋ねてはいけない。そこには嘘が多分に混じっているのだから。


 どうやら他所から来たらしい老夫婦がわたしに、北五番出口はどこですか? と尋ねてきた。並みの利用者ならば、すいません分かりませんわたしも来るの初めてなので、などと言いながら半笑いで後退するのが関の山だろうけど、わたしほどの鎧谷利用者となれば、既に脳内に精緻な立体的マップを展開し、目的地までの最短ルートを割り出すことができる。


 北五番出口。オノダレコードパンク館に程近い、アーケード街沿いに出るあれか。とくれば、この通路をずっとまっすぐ行き、突き当たった所を左に曲がって二番目の階段を登ればよい。わたしは老夫婦に適切な案内をし、感謝をされ、二分後に、オノダレコードパンク館へ行く出口は南五番だということを思い出した。わたしは老夫婦を南北が入れ替わった別の場所へいざなってしまったことになる。鎧谷駅に精通していると自負していたわたしにはあるまじきミス、わたしはこの現実を認めたくなかったので、老夫婦の顔が気に食わなかったので嫌がらせのためにわざと別の出口を教えてやったのだということにし、溜飲を下げた。


 わたしは家に帰るために十三番ホームへスムーズな動きで到達し、隣にいた紳士に、お嬢さん、スムーズですね、何かやってたの? と聞かれるほどであった。わたしは、常に危機というものを意識して生きているだけですよ、と謙虚に答え、やって来た茜岩行き快速列車に乗った。


 電車の窓からは鎧谷の見知った景色が流れる。


 様々な看板、交差点、雑踏、爆弾騒ぎのあったマンション、カルチャーセンター、魚屋、歯医者、軌道エレベーター、〈オオカミ〉鎧谷支部、外骨格を纏い身長五百メートルに巨大化した春屋敷先輩、そして季節外れの桜。


 今日は確か八月に入って十五回目の金曜日だったはずなので、かなり季節外れだ。

 桜を見ていると、わたしは初めて春屋敷先輩と出会ったあの日を思い出す。


 あの入学式の日の異変。そしてその日学校で起きた殺人事件。

 〈密室少女〉獅子峠キサラギの起こした十四件の〈挑戦〉。


 わたしと春屋敷先輩が解決したあれらの忌まわしい事件が、フラッシュバックした。

 なぜ? わたしは自らに問いかける。確かに獅子峠キサラギは敗北し、因果律を遡及し消滅したはずだ。だけど何か、胸騒ぎがした。


 ふと、春屋敷先輩からもらった鳥のペンダントを見ると、なんとその両翼がひび割れている。そして、靴紐も切れている。さらに今日は十三日の金曜日である。あと仏滅。そういえばさっき霊柩車を五台も見た。


 これは何かの不吉な前触れではないだろうか……非常に不安な気持ちになってきた。

 わたしはどうにかして明るい気分になる方法を探したが、見つかりはしなかった。


 こういう場合、他者に助けを求めることができるかどうかが、その人の脆さのバロメーターになる。わたしは容易にできるので、隣にいた黒縁眼鏡のサブカル風お兄さんに助力を求めた。


 わたしが四月に倒した宿敵がもしかすると復活する、あるいは既にしたかもしれないのです。


 すると彼は、ならばもう一度倒すまでだ、と明瞭に答えた。


 しかし、どこにいるのか分からないのです。不吉な事象がわたしを包囲しているので近くにいるのはきっと間違いがない感じなのですけど。


 可能性はすべて潰せばいいのさ。


 わたしはその一言に頷いた。そうだ。相手は悪徳者、異常者、そしてこちらは正義。ためらうことなど、何もなかった。

 獅子峠キサラギ一人を殲滅するために、わたしは鎧谷全土を焦土へと変える決断をした。


 決断したはいいけれど、鎧谷は広い。いったいどのようにして破壊すればいいのだろうか。もたもたしている時間はない。のんびりしていると、あの殺人少女はまたぞろ密室殺人を始める可能性が高い。市民の安全が最優先だ。


 わたしはあまりやりたくはなかったけれど、禍道部の最大戦力、心を持つ禍因性流動体、竜喰部長に会う決断をした。


 竜喰部長は彩歌の地下深くに隔絶され、その封印は五十ユノもの対価を支払わなければ開くことはままならない。わたしは入り口の職員から防寒具を借りてもこもこに厚着し、部長のいる〈特別牢〉の前にまで来た。


 七重の分厚い隔壁によって閉鎖された牢の中心部は常に絶対零度近くまで冷却され、竜喰部長の意識が覚醒しないようにしている。万一覚醒が近づいた場合、人為的にコルト指数を急上昇させ、因果律遡及を発生させてまで彼を眠らせ続ける準備がなされている。


 なぜなら、竜喰ツバサという人物は、これまでにわたしが見てきた危険因子たち――鬼ヶ峰君や朧沼さんといった彼の後輩たち、獅子峠キサラギ、数々の禍因性実体、準終末誘発者〈ホーリー・ワン〉、〈大団円デッドエンドロール〉こと拝アヤト、異端結社〈銀の魔女ストレーガ・アルジェンタータ〉、雷門さんの家へ遊びに行くたび毎回何リットルもの麦茶(砂糖入り)を提供し続ける彼女の祖母、そして春屋敷先輩――のどれよりも恐ろしい存在だからだ。


 下手をすれば、彩歌全域のみならず、何億・何兆・何京ヘイズの彼方とその外側も、過去・現在・未来のすべてに渡って消滅しかねない。


 五十ユノの対価を携帯端末で支払ったわたしは、つとめて落ち着き払ったように振舞った。


 しかし、わたしの不用意な一言で世界全体が崩壊すると思うと、緊張のあまり食欲が失せ、夕飯はカツ丼三杯くらいしか食べられないな、と思い始めていた。


 警報が鳴り響き、赤いランプが点滅を始めた。


 これは異常事態ではなく、わたしが面会に来たために竜喰部長のいる牢の温度を上昇させているからだと分かってはいても、動悸が早まるのを止められない。


 やがて隔壁が順に開き、我が校の制服を纏い教室の椅子に腰掛けたままの部長が姿を現した。彼を束縛するために、唯一隙ができる授業中を狙い、教室の床と椅子と机ごとここへ転移させたのだ。その際の作戦では彩歌全土を停電させ、そのすべてのエネルギーを用いて封印することができた。あの作戦は二度と使えまい。また停電となれば冷房もテレビもネットも使えず、住民の不満が爆発することだろう。だから、もし部長が自由になったのならもはや封印することは叶わず、野放しにさせ最悪、全世界消失も覚悟しなくてはいけない。そもそも大規模な作戦は面倒だというのが市民と当局の一致した意見だから、たぶんやらないはず。


 ゆっくりと部長が目を開け、こちらを見た。

 わたしは目的を短く告げた。


 竜喰部長、すべてを消してください。


 わたしは小さな間違いを犯したことに言ってから気づいた。すべてと言っても鎧谷全土という意味で、決して彩歌の全領域・全時空という意味合いではないのですよ、と補足しようと思ったけれど、時既に遅し、すべては消えていた。


 わたしの体も頭脳も消えていたので、ものを考えることはもうできない。


 よってこれからの退屈をどう潰すかも考えられず、わたしはただ、永遠に無の中に佇むのみだった。

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