第八回 虚空宇宙よりの越境者による永劫の封鎖

 放課後の教室で朧沼さんと遭遇した。彼女は禍道部のエースであり、つまり準禍因性実体である。

 

 朧沼さんはかつてこの領域に存在していた別の少女の複写であり、その人生の淡い残滓だった。

 わたしは朧沼さんの元になった少女と割合仲がよく、その面影に惹かれてたまに会話したりするのだが、ほとんど後悔するはめになる。


 朧沼さんと対遡行装備を着けず話すのは亡霊が出るという廃墟に明かりもなしに侵入するに等しい――その亡霊は発狂しており犠牲者が既に三桁出ているものとする。


 そういうわけなのでわたしは即座に教室から遁走し、夕暮れの街へ逃げ延びた。


 暗視ゴーグルや情報素認識能力などがなければ、夜になるにしたがって危険は増していく。観測できる範囲が狭まっていく上に、歪んだ月が放出する月因子の量も増していくからだ。


 実際わたしが進んでいく中で何度かフリッカーが起こり、街灯が瞬くといくつかが二度と点灯せず、そのうち一つは紅葉したプラタナスの大木へ変わっていた。

 

 夕日が沈む中わたしはあることに気づいた。街じゅうにやけにテレビが置かれている。それも旧式のブラウン管の……そうか、今日は八月四十二日すなわちブラウン管祭りだ。


 山と詰まれたテレビの画面に緑色の砂嵐が写り、発せられる雑音の大きさが増し、街じゅうのそれらは同調して何か巨大な生物の唸り声のように聞こえ始めた。


 儀式は既に神降ろしの段階へ進んでいる。こうなればのんびりしている余裕など、ない。

 しかし、わたしは突然に紅茶が飲みたくなった。そういうことってないですか? 突如、特定の食物のみを欲しそれ以外では満足できないという状況に陥る。例えばコーヒー味のガムが食べたくなり、梅ガムやコーヒーでは満足できないというアシッドな状態。


 代替物では不可能、そのもの・・・・でなくば満足できない。


 わたしがこの時欲した紅茶は雪山社というメーカーの〈乱雲紅茶〉というブランド、そのストレートティーだった。


 それを買い求めるために近場のコンビニへ入ろうとしたけど、主観的距離にしてあと二キロほど歩かないと最寄の店舗はなく、しかも自宅を通り越す形になる。


 わたしはフリッカーを誘発するために、交差点にある空き店舗の店先を何度か蹴飛ばし、レンタルビデオ店やクリーニング店を経由したあとめでたくコンビニが出現した。


 ところが入店して飲料コーナーへ行くと〈乱雲紅茶〉がなく、〈曙光の紅茶〉という商品だけがストレート、レモン、無糖と揃っている。

 どうやらこの領域ではこれが支配的なペットボトル紅茶のブランドらしかった。


 やむを得ずわたしはそれを買い求め、イートインコーナーで一口飲んで床に噴き出した。化学薬品の風味が極めて強く、求めていた味どころか紅茶の味にすら思えなかった。


 この領域ではこんなものが飲まれているなんて……わたしは店員に、紅茶を少しこぼしたので処理をお願いできますか、と告げて店を出た。


 外に出るとフリッカーに伴って形成された派生球に、黄昏時の構成要素が吸い込まれ辺りは午前中だった。


 わたしは〈曙光の紅茶〉を入れた袋を手に持ち、周囲を散策した。ここは不破町という地域らしい。携帯端末で地図を見ると、鎧谷から三キロほど南にある住宅街のようだ。わたしの家からはかなり遠い。


 電車に乗ろうと思ったけど、駅まで行っても入ることはできなかった。入り口に大量の毒々しい花が咲き乱れ、噴煙のように毒の花粉を立ち上らせていたからだ。


 立ち往生したわたしは遮光装置とその上に建造された街が上空の、一ヘイズ半の距離に霞んでいるのを見ながら、新たなシジル幻燈のインスピレーションを得た。


 それは石に小さな穴を開けてそこから粘性の高い液体を滴らせることで、カー粒子が領域全土へ浸透し奇怪な生物が跋扈する羽目になった混成期惨劇の再現を試みようと思ったからで、アイデアの素晴らしさに自分で驚嘆し、わたしの脳が発火する際の青い閃光は、やはり超越的存在が放った数万桁の転生信号の産物であると再認した次第。卓抜的に改竄されたわたしのセンスが改心の霊感を齎し、すべての対抗要素を無に帰す、この一瞬のためにわたしはシジル幻燈をやっていると言っても過言ではない。もしかすると毒の花粉が精神に何かの影響を及ぼしこの高揚を発生させたのかもしれないけれど。


 で、まず石が必要になってくる。どこかに落ちていないかと思ったけれどない。石といえば川原。しかしここらの流れはすべて暗渠化されていて川がなく、あってもコンクリートで固められた水路でしかなかった。ならばそのコンクリートの覆いを粉砕して石を入手しようかとも思ったけど、わたしが欲しているのは自然石でありやはり探すしかない。


 そう思っていると、制服の上に白衣を着て原付でのろのろと走る見知った姿。それは生物部の雷門さんだった。わたしは人間の走行速度より遅いその原付に追いつき、耳元で彼女の名を呼んだ。


 彼女はものすごくびっくりして原付を蛇行させ、しばらく行ったところで停止しこちらを振り返った。なに? なになんなの? ビビるでしょ事故ったらどうすんのカナエ。危険人物だわあんた。そういう感じで雷門さんはわたしを批判した。しかし緊急事態なのでしかたがなかった、と弁解しわたしは彼女に、石はないか、と尋ねた。

 

 ない、という明快な答え。わたしは石を諦め、雷門さんにどこへ向かうのかと尋ねた。〈ルー・パーカー・アンド・ザ・クラッシャーズ〉というミュージシャンのレコードが発売されるので買いにいくらしい。わたしはその人たちを知らなかったけれど、先週の土曜日、近所のゴミ捨て場で父が蓄音機を拾ってきたので何かレコードが欲しいと思っていたところだった。同行したいと申し出ると、雷門さんはニケツで行く? と問いかけた。ニケツという単語の意味が分からなかったけれど、きっと神出鬼没みたいな意味で、今からテレポートしてレコード店まで直接行こうという意味合いなのだろう。わたしはテレポーターだった兄が空中で四散するのを幼少時に目撃して以来あまりいい感情を持っていないので、店の場所だけ教えてもらえばわたしは歩いていく、と伝えた。ああそう、と雷門さんは先に走って行った。


 レコード店〈オノダ〉へ、迷って迂回路を通った挙句たどり着くと雷門さんはいなかった。既に買い物を済ませて帰宅したのだろう、と思ったけれど、実はここに向かう途中で空から降ってきた他領域の巨大なセンザンコウが衝突し死亡していて、わたしはそれを後日知って、嗚呼、と嘆息したのだった。


 オノダは暗い水銀灯が照らす十畳ほどの店で、舶来と思しきいくつものエナジードリンクが売られており、その品揃えは豊富なものの肝心なレコードは大したことなく、一昔前に流行ってすぐに消えたアーティストたちのものが、埃をかぶって陳列されていた。わたしは店主のおばさんに、〈ルー・パーカー・アンド・ザ・クラッシャーズ〉の新作はどこですか、と尋ねた。おばさんは、そういう名前のミュージシャンは存在しない、と宣言した。置いていない、でも知らない、でもなく、存在しない。専門家が言うのだから恐らくそうなのだろう。雷門さんがここに来る前にいた領域には存在したのかもしれない。あるいは彼女が譫妄状態で作り上げた幻影か。


 わたしは店を出て帰宅の途についた。不破町と南鎧谷の境目まで来たところで、顔面に包帯を巻いて手に拳銃を所持した傷痍軍人のような男性がわたしに話しかけてきた。


 間もなくこの地域にコラプションが発生するので民間人には退去していただきたい。現在、浄化機関極西支部による局地命令三〇一が発令されている、従わない者は射殺してもよいと統治規律八五にて規定されているので悪しからず。


 そういう内容だったけど他の通行人たちは何食わぬ顔で歩き、談笑し、サンドイッチなどを食べ、平穏そのものである。

 しかし眼前の人は本当に射殺しようという構えだったのでわたしは従うことにした。


 どの辺にその、コレクションとやらは発生するのですか。家に向かって歩いている所なのでそちら方向を封鎖されるとまことに困窮するところではありますが。


 そうわたしが言うと、元老飯店南鎧谷店を中心とした半径六キロがコラプション予測地点に指定されている、とその人は回答した。


 わたしは帰宅を諦めざるを得なかった。


 それからわたしがどうしたかは、各種歴史書をご覧いただけば分かると思うけれど、蛭島から沖合いに十キロの岩礁、オトシゴ岩まで遠泳し、そこで春屋敷先輩と虚空宇宙の観測法について長きに渡る議論を交わした。


 やがてオトシゴ岩は波に削れ、我々は水面下へ没したけれど、筆談によって議論は続き、ついにその方法が確立された。


 そして我々は深宇宙の虚空に眠る古き存在を観測し。


 人類は新たなるステージへの階梯を一つ上った。


 それは後に白金期と呼ばれる、混迷と栄光の時代の幕開けであったけれど、それについてはこれを読んでいる皆さんのほうがよくご存知ではないでしょうか。果たして我々はこれからどこへ向かうのか――


 その答えは、彩歌の民一人ひとりが探求していかなければならないのだ。上空を覆う生ける天蓋の下で。

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