第七回 禍因性変異体駆除者としての火鳥塚カナエ
漸増型シジル変異体はわたしの蓋然性遮断式禍因切除装置によって両断され、明朝の浜辺にその無残な残骸を横たえていた。全身が塩の塊に置換され、じきに波に溶けて消散するはずだ。
潮の香りを打ち消すほどの薄荷臭がした。わたしはライフル型の切除装置をシャットダウンして背負った。
瀬羅先輩と日下さんが近づいてきてわたしを労う。日下さんは極めて眠そうだけどそれは彼女が一日に十八時間ものの睡眠を必要とする体質だからで、それは四歳の頃に耳から光る軟体が侵入して寄生されたからだと言っている。その寄生体は宿主から眠りを奪うので眠るということはそいつに餌を与えるだけの行為で実質的にはほとんど眠ることができないのだそうだ。幼少期に薬を複数摂取した影響で、髪の毛と両目から色が抜けて青みがかった灰色をしており、だけど投薬は大して効果がなく今でも常に眠いのだということだ。
瀬羅先輩は何か囁いていたが声が小さくて聞こえず、たぶんどこか数千ヘイズ離れた遠領域に伝わる、魔除けの呪文か何かを呟いたのだろう。何かとてつもなく不毛な行為を望まずにして骨折り損としか言いようのない疲労を抱え、それを忌々しく思っているような顔だ。
八月に入ってからわたしたちは既に百五十四体の禍因性流動体を駆除した。
それでもやつらは不可知領域から湧き出てくるのをやめず、戦いは終わらない。埃や水垢が発生し続けるのと同じだ。だから〈オオカミ〉はそれら
仕事が終わって瀬羅先輩はさっさと帰ってしまったけれど、日下さんがわたしになにか話があるというので、蛭島駅西口にある壊れたままの電話ボックスに無理やり二人で入り、彼女の話を聞くことにした。内容は以下のようなものだった。
私が今住んでる超ボロいアパートに迷惑な怪人がいてその人は私がいろんな努力、例えばトマトに苛性サボテンの針を刺してハリネズミみたいにしたものを十個入れた風呂に入るといった儀式をして軟体を弱らせようとするんだけどそれをあざ笑うかのようにヤバい騒音と挙動で私を攻撃してくるわけなんだよ。そいつを殺害して安寧を手に入れようと思っていて、その片棒を担いでほしいというのが望みなのです。
わたしはこれを承諾し部活の会合をサボって日下さんのアパートへ向かった。東鎧谷のスラム街といっても過言ではない居住区にやって来て、一挙に空気が変わるのを感じた。明確に淀んでいて、長い間入浴していない人の汗と死細胞が醸し出す饐えた臭いが満ちている。ギャング的な人々もいて大っぴらに拳銃や山刀などを所持していて、そいつらが襲い掛かってきたら即座に撃てるように、わたしはライフル型切除装置を持ち引き金に指をかけて警告とした。
融合式義肢店を曲がり、甲殻に覆われた野良猫をあしらいながら路地へ入ると日下さんの言うとおり超ボロいアパートがあり、外壁は毒々しい緑色の蔦に覆われてその草いきれで湿気がすごかった。玄関からして酷くカビ臭く、壁の一部が朽ちて一室の内部が丸見えだった、その住民はほとんどミイラみたいな性別も判然としない老人で、腐った畳に横たわったまま瞑目しピクリとも動かなかった。
こんな場所に住むなんてそれだけで体に悪くないですか、とわたしは一秒後に腐り落ちそうな軋む階段を上りながら日下さんに言った。彼女は、だけど家賃が一万八千エンと激安だし鎧谷も近いし悪くはないよ、住めば都とは言いがたいけど、ひとまずうちに来てよ、と言いながら自室へわたしを招き入れた。
何もない部屋だった、四畳半で布団が敷いてあり、卓袱台とコーヒーメーカーがあるだけだ。この人はコーヒーだけ飲んで生きているのだろうか、とわたしは訝しんだ。
その怪人っていうのは隣に住んでいるのですか? わたしがそう言うと日下さんは首肯し、壁を指差した。この向こうだよ、あと一時間くらいしたら帰ってくるから、そしたら押し入ってぶち殺そう。私はそれまで寝るから来たら起こしてよ。
日下さんは布団に横になったけれどもちろんちゃんと眠れているのではなく軟体に餌をやっているだけで、だいぶ不快そうな表情をしていた。わたしは携帯端末を弄って芸能人の離婚や連続殺人のニュースを見て一時間潰した。とても無為な気分になった。
やがて隣室に人が帰ってくる気配がし、次いで不気味な詠唱が始まった。かなりの大音声で、唸り声というか苦悶の声のようなものを発している、あまりに苦しそうで何か自傷行為をやっているのではないかと思われるほどだ。わたしは日下さんを起こして廊下へ出ると、隣室のドアをノックした。
詠唱がぴたりと止まり、しかし応答はない。ドアには鍵がかかっておらず、我々は室内へ侵入した。
天井も壁も床も、赤黒い何かでひどく汚れている。血膿のようなそれはまだ乾いていない。どうやら無人だった。
日下さん、逃げられたようですよ。わたしが言うと彼女は、まだ遠くには行っていないはずだと言い、表に出て行った。
わたしは引き続き中を探索しようと浴室へ入ると、中に黒いレインコートを着た人物が潜んでおり、突如火炎瓶を投げつけてきた。
視界がスローになり、それが牛乳瓶であることや、詰められたボロ布を焼く火のちらつきまでがはっきり見えた。
わたしは火炎瓶を掴んで浴室へ投げ返し、室外へ身を躍らせた。
部屋の中からガソリンと肉の焦げる臭いがし、薄暗い廊下が火に照らされる。わたしは日下さんを放置しその場を離れた。主観的観測を放棄すれば、この忌まわしいボロアパートはすぐにフリッカーによって数十ヘイズ離れた場所へ流れていくはずだ。
なんとなく彷徨っているうちに朽虚駅にまで来てしまった。空腹を覚えていたので何か食べようと思っていると、道行く人々が何かを齧りながら歩いていた。どうやら生の肉らしい。妙に赤黒くて粘液に覆われたそれを直に持ち、人々はにやにやと笑いながら食している。
彼らが来る方角を見ると、肉塊があった。
それは高さ三メートルほどで、溶けかけた雪だるまのような形状をしている。
地面はそれが分泌する粘液でぬるぬるしているし、生臭い臭いが辺りに漂っていた。
わたしはライフル型の切除装置を抜いて、それへ向け放った。
異なる領域が射線上に展開して走りぬけ、この領域自体を抉り取って瞬時に閉じた。
肉塊が存在していた事実は、すでにあり得ないものとなっている。
あれを破壊せよという命令は出ていなかったが、〈オオカミ〉はいつだろうと自己の判断で月因子の監視と破壊を行ってよいという特権を持っており、その影響を受けた人間に対し、逮捕状なしで拘束・粛清を実行することさえできる。
わたしはその後朽虚から家に歩いて帰るまでの間、七十五の肉塊を除去した。
短時間に切除装置を複数回使用したせいで周囲のコルト値は急激に上昇し始めていた。薄荷の香りとともに、因果律遡行への耐性が低い人々がその場で転倒したり、肉体を変異させて鳥や緑色の原形質や新たな肉塊へ姿を変えたりしていた。
わたしは自宅近くの幹線道路沿いにある、リーズナブルな定食屋〈むくろ亭〉へ入店し、店主が水を運んできたところでメニューも見ずに半チャーハンとラーメンのセットを注文し、店主も我が意を得たりといった様子で頷き、厨房へ向かった。
わたしは幼少期からこの店を利用しており、今までに半チャーハンとラーメンのセット以外を注文したことは一度もない。これは既に常識、しきたり、社会通念と化し、万物がわたしは〈むくろ亭〉で半チャーハンとラーメンのセットのみを注文する、という前提の下で動いているのだ。これはあまりに強固であり、例え数億コルトもの因果律の遡行が発生しても覆ることは絶対にない。同様に、この店において半チャーハンとラーメンのセットが廃止される可能性も一切ない。わたしがいる領域からチャーハンとラーメン、半チャーハンという文化などが消失することはなく、仮にしたところで〈むくろ亭〉へわたしが赴けば、その瞬間だけ因果律を無視して半チャーハンとラーメンのセットが注文可能な状況へ書き換えられる。
同様に〈むくろ亭〉店主の阿室氏ならびにこの店舗自体も、爆弾で吹き飛ぼうが地殻変動に飲み込まれようが、あるいは断絶によって消失しようとも、わたしが入店しようという意思を抱いて目視可能な位置に到達した時点で、必ず復旧する。
わたしが、〈むくろ亭〉では半チャーハンとラーメンのセットのみを注文すると決めているから。
強い意志は、歪んだ月のもたらした混沌をも切り開く。
〈むくろ亭〉の半チャーハンとラーメンのセットこそが、人類の抗いの象徴・旗印である。
五十七巻だけあるギャグ漫画(油でぬるぬるしている上にページは黄ばみ、ところどころ醤油やソースで主人公の顔や吹き出しが消えている)を読みながら座して待つと、阿室氏が確固たる現実の象徴、半チャーハンとラーメンを運んできた。
わたしは大量のラー油をふりかけ、聖餐と呼ぶべき昼食の準備を整えた。
春屋敷先輩は、「毎回思うけど、君、ラー油かけすぎじゃない?」と疑問を呈したけれど、これはほとんどラー油ではなく、基底現実のエッセンス、聖水、霊薬である。
わたしが半チャーハンとラーメンを一度咀嚼するごとにビッグバンがどこかで起こり、新たな領域が生まれる。
そして無論そこにだって、〈むくろ亭〉と半チャーハンとラーメンのセットが存在するであろう。
食べ終えると同時にわたしは今後の人生で一度の敗北もないことを再認し、店主に万札を差し出し釣りは要りませんと宣言した。彼は無言で頷き、受け取った。
わたしは店を出て、振り返らずに歩き去る。あるいは、背後では無数の瓦礫と地盤が砕け散り、中空へと〈むくろ亭〉が飛散しているかもしれない。
それでもわたしは必ずやこの店を、また訪れる。
遠くのビルが倒れるのが見えた。禍因性流動体が形を成し、巨大な怪鳥の姿が現れた。
わたしは蓋然性遮断式禍因切除装置を構え、月によって獣の相をとる人狼のように戦士の顔となって、跳躍した。
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