第五回 晦冥に自死するレビヤタン
多足象が街を訪れるというので見に行った。
エレベーターはほぼ満員で、下に降りると既に結構な人だかりだ。夕暮れ時、歪んだ月と歪んでいないほうの月が青白く光っている。ヒグラシの声と人々のざわめきに混じって、遠方から多足像の鳴き声がした。
近くに父がいた。二件隣の八十部の爺さんと、酒を飲みながらベンチで将棋を指している。
父は自分では将棋がうまいと言っていたが、恐らくわたしの住む九十七階では下位の実力で、今もどうやら八十部の爺さんに手玉に取られているらしく、しかめ面をしながら首を捻っていた。
同じ階に住んでいる風守君が、リンゴ飴を齧りながらぼーっと月を見ている。いったいどこであれを確保したのだろうか、と思っていると、近くに屋台が出ていた。これで花火でも上がればほぼお祭り。
やがて多足象が道の向こうからうっそりと歩いてくるのが見えた。
足は八本あり、背中からは昆虫のものに似た、退化した羽を生やしている。
象はゆっくりと歩き、人々は携帯端末で写真を撮り、その大きさに驚嘆した。
多足象が去っていくと、人々は集合住宅の中へ戻り始め、父や八十部の爺さん、風守君らも建物へ入っていくがわたしは、どうせエレベーターが混むだろうしただ待つよりは、と象を追いかけていくことにした。
多足象の巨体が踏みしめたために、アスファルトには足跡がへこむ形ではっきりと付いている。
高層の建物の間の道は長い直線で、足跡は続いているものの、肝心の多足象の姿は見えない。あれほどゆっくりと進む生物だというのに、既にわたしの遥か先へ進んでいるようだった。
やがて陽は完全に没し、辺りは夜の闇に包まれた。点在する街灯が象の足跡を照らしている。
もう少し追跡を続けようと思っていると、フリッカーが起こり、やにわに歪んだ月が大きさを増した。
どこからかお囃子が聞こえ、辺りには賑やかな声が響いた。
角を曲がると、どこから現れたのか週末夜の鎧谷のような人ごみ、そして並ぶ屋台、空には花火。完全なる夏祭りだった。
わたしは夏祭りは好きだったけれど人ごみはあまり好きではないので、その中に入っていくことはせず、端のほうの屋台でラムネを買い、喧騒から離れた場所の公園で飲み始めた。
もう一度フリッカーが発生すれば多少は人が減るかもしれないと思い、携帯端末に入っている、先日ダウンロードしたばかりの人気ミュージシャン〈ルーパーズ・クライシス〉の新譜を聞いていると、いきなり目の前をヤミモグリ屋の屋台が通り驚いた。ヤミモグリは少々グロテスクな外見の外領域生物で、それを開きにして売っているので精神衛生上よろしくはない。わたしはシジル幻燈作成の際に使用することもあるので多少は耐性があったけれど、それがない人々は目を背けたり、もろに見て嘔吐してしまったりしていた。
どうやら公園の中までが祭りに侵食されたらしく、量子漂泊者の集団や素体のままの二重歩きなどがいることから、数百ヘイズ間の一時的融合がなされたようだった。わたしの思惑は完全に外れた形である。
それどころか喧騒はますます増し、わたしは完全に満員のエレベーターよりも密度の高い人の波の只中にいた。
水風船や金魚ではなく、水に浮かんでいるのは甲蟲の眼球であるし、射的の的はどうやら巨人蝿の内臓に見えた。
しかしちょうど、現在作成中のシジル幻燈の材料として欲しかったところなので、わたしは客が撃ち飛び散った臓物の断片を拾い、地面に打ち付けて飲み口を広げたラムネの瓶に入れた。
無理やりに人々と人ではないものを掻き分けてわたしは家の方へ進んだ。
上のほうから何かを打ち付けるような轟音が聞こえてきたので見上げると、節足レビヤタンがビルに体をぶつけているところだった。
本来あれは高コルト環境でしか生息できないので、半ば窒息しそうになり錯乱しているか、苦しみから自死を選択したのだろう。
わたしは落ちてくる甲羅の一部を拾って、それも瓶に入れた。ただで素材が二つも手に入ったと考えれば、悪くない夜だ。
やっと祭りのざわめきが聞こえない、自宅近くまで来たところで〈オオカミ〉の一隊と遭遇した。
その中には瀬羅先輩と、西高生連続変異事件の折に世話になった千条隊長もいた。
何してるんですか? とわたしが訪ねると、千条隊長は、禍因性流動体が出現したので討伐に来た、と答えた。
そうですか、頑張ってください、とわたしが立ち去ろうとすると、隊長はわたしが持っていた瓶の中身を指差し、それをくれないか、と要求した。
わたしは、これはシジル幻燈のための希少な材料なので無理です、と拒否したが隊長は、忙しくて晩飯を食べておらず、このままだと禍因性流動体の討伐に支障をきたし、君の住居までもが危険に晒されるかもしれない、と無体な理屈をこね始めた。
そんなに空腹ならば、そこらにまだ多足象がいると思うのでそれでも食べたらいかがですか、とわたしは言った。もちろん象は既にどこかへ歩き去ってしまったので、それは叶わないと知りながら。
しかし隊長は、その手があったか、そうしよう、と言い出したのでわたしが今度こそ帰ろうと踵を返して歩き出した直後、ありがとう、これでいい戦いができるよカナエ君。という謝礼が背後から聞こえ、振り返ると多足象の白骨死体だけがあり、一隊は去った後だった。
わたしはエレベーターに乗って上階の自宅まで上がり、将棋を指している両親を尻目に――恐らく父は、八十部の爺さんに負けて収まりがつかず延長戦のつもりでやっているのだろうけど、母は爺さんよりも強い――わたしは部屋へ戻り、瓶の中の材料を使って新たなシジル幻燈を作成することにした。
電気は付けずにベランダで、花火を見ながら作成したために、作品も色鮮やかなものが完成し、わたしは満足した。
夜風に揺れる風鈴の音、勢いを増すレビヤタンの激突音、〈オオカミ〉の面々と禍因性流動体が戦っていると思しき爆発音、それらすべてがわたしを祝福しているかのように思えた。
翌日、夜明け前にわたしが目覚めると部屋の中に、浴衣を着て死蝋化した春屋敷先輩の遺体が横たわっていた。
わたしはそれに火を点け、三棟の集合住宅とともに焼き払った。
その灯火を目指して、次々に節足レビヤタンが飛来し、飛び込んでいった。
やがて太陽が昇り、灰となったすべてを眩く照らした。
夏の夜明けは、いつだって清浄で爽やかだ。
わたしは灰に付いた真新しい多足象の足跡を見つけ、今度こそ追いつこうと、涼やかな空気の中、歩き出した。
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