第三回 数兆の哲学的ゾンビ



 まず金線花の象牙色の花びらを三枚ほどソーダ水に落とす。驟雨蛍の脚を五本。次いで五百日以上前の新聞紙の灰と、月死病薬を二十倍に薄めたものを加える。

 退廃的な淡い色彩の原版が完成した。これ自体は作品そのものではない。これを通してザイラー波を投影し、限定的・安定的な相異を領域内に投影することがシジル幻燈の目的だ。


 わたしは赤い照明を消し、暗室を出て居間へ移った。わたしの家は高層住宅の上のほうに位置していて、窓からは霞がかった居住区の建造物群が見える。ほとんどの建物は百階を越えている。人口を意図的に増やし、観測者を確保するという試みは半ばうまくいっていた。


 余ったソーダ水を飲みながらルーパー竜が雲を突き抜けるのを見ていると、生物部の雷門さんから電話があった。〈オオカミ〉が放出した怪獣が手に入ったので観測実験をするらしく、手伝いに来て欲しいということだった。もちろん雷門さんは怪獣ではなく〈沈着した禍因性実体〉という正式名称を用いたけれど、わたしは面倒なので〈怪獣〉と頭の中で変換している。


 電球が少なくとも五百日は点滅したままのエレベーターに乗って下まで降り、さらに地下鉄駅を降りて、やっぱり行くのやめようかなと思っていたら、右後ろにいた春屋敷先輩が「今引き返したら即座に連続性を失って土くれと化すことは明確なので、無理してでも行きたまえ、カナエ」と助言をくれたのでわたしは行くことにした。


 ユニを携帯端末にチャージして改札を抜け、やって来た電車に乗ると〈オオカミ〉の修正官が数人いた。真夏だというのに軍服じみたコートを着ているし、背中には歪んだ月と狼をシンボライズしたマークと、〈W.O.L.F.〉のロゴがあり間違いようがない。


 わたしが何かあったんですか、と尋ねたら、いろいろ、と上官らしい女性が答えた。蓋然性遮断式禍因切除装置を見せてください、とわたしが頼むと、公共の場所で騒ぐ子供と、それを放置する母親を見るような、非常識な人物そのものと、自然と想起させられる、その人物によって生み出される多数の厄介ごとの両方に対し憔悴したような顔を向けられた。


 それはできない、と修正官氏は言った。見たら塩の塊になって専売公社で売られ、夕飯のスープに入れられるのが落ちだから、やめておけ、といった主張だった。わたしは、分かりました、いいです、と言って席に着いた。


 わたしの通う赤目山西高校は、巨大都市には不釣合いな森の中にあった。夏なので当然セミがものすごい音量で鳴いている。あまりにうるさくて勉学に支障をきたすというので、ある年にすべて駆除したそうだけれど、それでもセミは翌日再び鳴いていた。セミの鳴き声が夏という概念に固定化されており、外すことはできなくはないけど、それをやっているうちに夏が終わってしまうというので、我慢するしかないということになったそうだ。


 校庭に怪獣が横たわっているのがさっそく目に入ってきた。雷門さんと、たぶん生物部二年だったと思う、姫川あるいは清川という先輩がいた。でももしかすると違う人かも知れなかったので、わたしは彼の名を呼ばないように努めた。


 怪獣は身長四十メートル、体重二万トンという巨大なもので、凶暴な肉食恐竜のような姿をしていた。亡骸の目は見開かれ、白く濁っている。口からは舌がだらりと垂れ下がったままだ。怪獣は基本的に腐らず、腐敗臭はしなかったが薄荷の匂いがやや強かった。それはもしかすると、右後ろにいる春屋敷先輩のものかも知れなかったけれど。


 雷門さんに、これをどう調べるのかと尋ねると、彼女は怪獣の体そのものではなく脳を利用し、人間では観測できない領域を調べるのが目的だと話した。姫川あるいは清川先輩はエプロンとマスクを装着し、包丁で怪獣の頭頂部を切開すると、金槌で乱暴に頭蓋骨を砕き始めた。


 わたしは何をすればいいのか、と聞くと雷門さんは、自分が言うデータを記録して欲しい、と大学ノートを手渡した。姫川あるいは清川先輩が、細長い金属の杭のようなものを持ってきて、手際よく怪獣の脳に突き刺していく。杭から伸びているコードを、やたらとごてごてした真空管アンプのような機材に接続し、それをさらにノートパソコンに繋いで、じゃあよろしく、と雷門さんはデータを読み上げ始めた。


 わけの分からない、なんとか指数が八十とか七十とかいう情報をひたすらノートに記録していたが、姫川あるいは清川先輩が、逃げろ、といきなり叫んで走り出し、雷門さんもそれに続き、わたしもわけが分からないまま森にまで遁走した。見ると怪獣の手が何かを掴もうとするかのように動いており、ゆっくりと起き上がると、天に向かって咆哮し、そのまま校舎に体当たりをして粉砕し、街のほうへ進んでいった。


 雷門さんはやや不満げに、まだ途中だったんだけどいいや、協力ありがとう、とノートを回収し、姫川あるいは清川先輩とともに下校して行った。


 わたしはてっきり、もっと時間がかかると思っていたけれど、都合十分くらいしかかからなかったので、せっかくだから買い物でもしようと、電車に乗って鎧谷へ向かった。


 電車内で隣に座ったのは、ホラー映画に出てきそうな格好の人で、わたしは実際に、ホラー映画に出てきそうですね、と話しかけたが無視された。長い前髪で顔がほぼ見えず、返り血のような染みが白いワンピースに付着している。よく見ると手には出刃包丁が。料理人なのだろうか。切るのもうまそうだし、この人に怪獣の頭部を切開してもらえれば、蘇って暴れなかったかもしれないとわたしは思い、それについても実際に口にした。わたしは西高の生徒で、生物部ではないんですが、今しがた生物部の活動に協力してきたところで、それが怪獣の死体を認識不能な領域の観測に利用するという実験だったのですが、頭部を切開して脳になにやらいろいろ差し込んだところ、その刺激がきっかけになったらしく蘇り、校舎を破壊していずこへかと去ってしまったのです、あなたは包丁をお持ちですが、怪獣の脳を切開した経験はおありですか、もしあるなら、生物部の先輩、名前があまりよく思い出せないのですが、その先輩がやるより、さぞうまくできたでしょうね、とわたしは今思ったしだいです。だからどうということはないのですが、いや、その先輩にしたってたぶん、切開が初という感じではなさそうでしたし、怪獣が蘇生したのも先輩のせいって決まったわけじゃないんですが。


 すると幽霊的な外見の人は、自分も理科の実験でカエルの解剖をすることになったが、生き返って逃げられた経験がある、とぼそぼそとした声で話した。もしかするとそう言ったのではなく、単なるうめき声だったのかもしれないけれど、わたしには若干、そう話しているような感覚があった。


 その人は続けて、恐るべき真実を語った。なんと、この領域に存在しているすべての人は自分の意思を持たず、外からはそう見えるように振舞うだけの存在なのだそうだ。すなわちNPC。


 わたしは驚き、あなたもなのですか、と問うと、その人はそうだと答えた。

 その人は八雲谷で降りていった。座席には血痕が残され、誰も腰掛けることはなかった。


 鎧谷は大都市の乱雑さ、猥雑さが毛玉のように集合する地点であり、フリッカーのたびに増築が瞬間的に行われている。通路や小道や数々の配線や配管がどこへ繋がっているのかは誰にも分からない。地下通路と陸橋と渡り廊下と大通りと避難用出口と食堂の厨房の勝手口が、無茶苦茶に接続されているし、常に五から十八ヘイズもの領域が重なり合っていて流動しているために、絶えず構造は変化し続けている。心なしか歪んだ月も地上に近い位置に浮かんでいる。


 しかし並みの観測機能を備えた人間にとっては、実は恐れる必要がない。意思があれば、意識的あるいは無意識的に望む場所に、必ず到達できるのだから。


 わたしは白いトレンチコートを着た大楼期風のビジネスマンたちを掻き分けながら、あの幽霊的な人の発言が事実ならばこの人たちも意思を持たずにそれらしく歩いているだけだということを考えた。

 そして、なら今思考しているこのわたしの意志は、間違いなくあると確約されているのか、などと思案したことが間違いだった。

 

 わたしは迷った。完膚なきまでに。突如、あの幽霊的な人の狙いが分かった。哲学的な思索を誘発することで、人を都市に迷い込ませるのが目的の愉快犯だったのだ。これは、明らかにわたしの精神的鍛錬の不足、観測能力の運用ミスである。


 人が一人通れるかどうかという狭苦しい、通路というより単なる隙間、といった風情の場所に迷い込んで、顔面に蜘蛛の巣を貼りつかせながら進んでいる。そういえば右後ろにいた春屋敷先輩はどうなったのかと思い無理に首だけで振り返ると、先輩はゼロ次元的な点と化しそこにいた。もちろん概念化した点であり厚みも重さも大きさもない。なんて快適そうな……と思いながら進んでいると、困ったことに前方からもこちらに進んでくる人がいる。


 わたしは建設的な提案としてその人に、じゃんけんで勝負して負けたほうが引き返す、というアイデアを示した。しかしその人はもっと手っ取り早く始末をつけようと、内ポケットに手を入れた。拳銃を取り出しこちらを撃とうとしているのだ。そしてわたしの屍を踏み越えて、先に進む腹だ。


 すでに勝負は、決斗は始まっているのだ。


 わたしも内ポケットに入れた銃を掴み、正面に向けて構えた。


 銃口が向かい合ったのは、同時だった。

 

 しかし、響いた銃声はひとつだけ。


 一陣の、薄荷の香りの風が路地を吹き抜けた。


 鎧谷の路地裏に散ったのはどちらか。


 その答えは、点となった春屋敷先輩だけが知っていた。

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