第二回 シジル幻燈部

 水銀横丁で鯨骨から作られたというペーパーナイフを見て買うべきか買わざるべきかと悩んでいると、冬石君が呼びに来た。


 冬石君はとても長い髪をしている。定期的に整えているので不潔感はないが、異様だ。腰よりも少し長いくらいのその髪は呪術的防壁なのだと前に言っていた。


 フリッカーと断絶を何度経ても、髪が長くなることがあっても短くなることはなく、手の込んだ編み込みが見られることもあった。不滅なそれは、彼の証だ。春屋敷先輩が存在の根源を持たないがゆえに強固であるように、世界の亀裂も彼の呪術を破れないし解き明かせない。


 断片化と非連続化は、何をもってしても妨害できないと思われがちだけれど、実際は何であってもそれを妨げることができる。

 人間の思いや慣習、呪い、魔術、科学技術、幻想、薬物、あるいは平坦で変わりがない日常、逆に波乱に満ちた日常、それでもって断絶をも乗り越えられる。


 だけど、問題は何が正しい状態で、何が間違っている状態なのか、誰も知らないことだった。


 わたしは東高校のシジル幻燈部のメンバーたちとファミレスにいた。昼時で席がなかなか空かずだいぶ待たされたけれど、一旦座ったら長々と集会を行う迷惑な集団だ。


 午后崎部長がキャンバスに墨で描いた即席霊固定用の文様は、まだ起動紋が描かれていないにも関わらず立体的で流動的、大瀑布のごとき力強さ。しかしキャンバスでテーブルがふさがって邪魔。現宮先輩はそれを見て頷き、フィッシュアンドチップスだ、とつぶやいた。この力作を目の当たりにしてもためらうことなくメニューを決する決断力は、数億の領域内孤立を経て身に付けた技術なはず。


 神妙な顔で多々良さんがメニューを見て、今日のランチは得体が知れないのでたこ焼きなどでお茶を濁すべきでしょうね、と言った。多々良さんは背が高く、常に苦悩しているような顔をしている。生まれつきそういう顔か、もしくは領域の融合・相転移時に多くの人の苦悩を無意識的に、一手に引き受けているからかも知れなかった。わたしもランチメニューを見ると、確かに得体の知れない、海産物と思しき白い肉が目に入った瞬間無意識的に視覚を遮断し、何度断絶を繰り返し再充填が済んでもこれは食べないほうがいいだろうな、と確信することができた。


 更坂先輩はいなかった、三十日以上見ていないので恐らく断絶によって消失したか、数千ヘイズ離れた領域へ誘引された可能性もあった。

 

 わたしは東高の生徒ではなく当然東高校シジル幻燈部の部員でもない。そのわたしが、なぜこの部の会合に参加しているのか。

 自分でも謎だ。六月の後半からそうなったのだと記憶しているけど、六月は主観時間で百日前後あったので後半の記憶はほぼなく、誰かに聞くしかないのだけれどそうしようとすると必ず甲高い声で黒猫が鳴いてみんながそっちを見てしまうので聞き出すことができずにいた。


 そういえば春屋敷先輩はどこにいるのですか、とわたしは午后崎部長に尋ねた。

 今は春屋敷先輩はここではない位置にいる、数万ヘイズに渡って横たわる帯のような不可視の形態をとっているから見ることはできないけれどそこに内包されればいるのだと分かるはずだ、という答え。


 春屋敷先輩は時間や空間や概念になることもしばしばだけれど、それは他の人が服を着替えたり違った表情を見せるようなもので、わたしはたぶん何か嫌なことがあったのだろうなと経験から推測した。前に春屋敷先輩が後輩の曠野くんに、フリッカーそのものに刻印された希少なシジル彫刻を貸し、なかなか返してもらえなかったときや、携帯端末をぬかるみに落としたときなどに、数万から数億ヘイズの幅の不可視のゆらめきとなって五十日前後姿を消した。曠野くんとはもうかなり長いこと会っていないけれど、きっと断絶によって衰滅を迎えた領域とともに、薄荷の匂いに満たされてカタストロフィに沈んだはずだ。彫刻もそのまま消えてしまったのだろう。


 それでも、消えたものはいつか必ず戻ることが保障されているので、春屋敷先輩もいつかは彼から彫刻を取り戻すことができるはずだ。


 それにしてもタンホイザー騒乱からこっち、管理局も運営が徐々に適当になってきてんねぇ、と灰淵君が卵白と針金細工と皇帝蝶の蛹を閉じ込めたシジル標本を弄びながら独り言のように呟いた。灰淵君は自己と他者を認識する機能が一度崩壊し、数億ヘイズ間に集団消失を誘発させた。当局が超法規的措置として消滅とサルベージを五万サイクルほど繰り返すことで復旧したものの、今でも色々なものを無視することがある。


 しかし確かに、異領域からの流入が恐ろしいスピードで起こっているように思えるし、因果律も七千コルトほどが安定して遡上しているので芳しくないのは間違いない。今朝方も六メートルくらいある量子漂泊者の集団が、歪んだ月と連動した不安感を誘発させる脈動とともに、肉屋の店先を横切って吊り下げられた肉塊を炭の塊に変えた。反物質とかじゃなかっただけまだましとは思うけれど。


 我々は灰淵君が五秒ごとに百八十度や五百四十度違った話題を展開し始めたのをきっかけに、昼食時に長居しちゃ迷惑だし、と今更な感の否めない自戒とともにファミレスを出た。


 空は真っ白に染まり、小雨が降っている。交差点を雑多な人々が消滅と出現を繰り返しながら、横断している。馬鹿げた高さのビルの上を、誰かの視線が飛行機雲のように痕跡を残しながら横切って、フリッカーを何度か誘発させた。


 街頭ビジョンで歌う歌手の曲は一度も聞いたことのないものだったし、それから先一度も聞くこともなかった。彩歌サイカ全体のどの領域にも、この瞬間だけ、この一曲の間だけあの歌手は存在していた。


 薄荷の匂いが一瞬、頭の上をよぎったあと、春屋敷先輩が今まさにこの領域に横たわっているのを感じた。

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