特異点としての春屋敷先輩

澁谷晴

第一回 オルキヌシア廃棄体採取

 八月の三十七日か三十八日、テレビのニュースは前者で新聞は後者だ。しかし電車の座席に置かれたままのその新聞は昨日のものかも知れないし、おとといのものかも知れなかった。いずれにしても晴れ。


 始発電車の窓からは海と、怪獣あるいはテロリスト、もしくは超能力を持った一個人、そうでなければ禍因性流動体によって破壊された街が見えた。そして歪んだ二つ目の月も。その破壊がいつ起こったのかは分からないし、実際に起こったのかどうか分からない。わたしはそれらが起こった領域の人間ではなくて、その結果だけが接続された領域の人間だからだ。確かなのは今もまだ夏休みの最中で、宿題は手付かずということだけ。


 携帯端末でネットニュースを見ると、十五ヘイズ離れた領域で〈オオカミ〉の人が何らかの英雄的活躍をし、市民に賛美されているということだった。瀬羅先輩も〈オオカミ〉でバイトしているはずだったけど、そういう英雄的な活躍はきっとしていないだろう、週二でしか入っていないし、たいした力は持っていないと自分で言っていたからだ。昼行灯だけどいざってときはやるっていうヒーローはよくいるけど、先輩は世界の終わりが来てもいつものだるそうな顔で、諦念とも怠惰ともつかない沈黙を保っているはずだ。


 赤目山駅で降りると駅前の広場に、西高の更坂先輩と冬石君がいた。わたしが近づいて挨拶すると、更坂先輩は上から目線でなんかのアニメかドラマの批判をし始めた。あの監督は視聴者の想像に任せるとか言っといて何も考えていないから、葬式の花みたいに美しくてもそれは造花なんだよそれを火鳥塚さんも分かってるでしょう三話の終わり方見たら? で、わたしはそれに対して、はい、あの監督は視聴者の想像力を縛らない、という美名のもと空白を生成しているだけの手合いかとわたしも思います、と言ったら先輩は気をよくして六口町にある爬虫類専門店の割引チケットをくれた。冬石君はあきれた顔で、よくそんなどうでもいいことを気にして生きていけるな、というようなことを考えているようだった。


 わたしは更坂先輩の批判した作品のタイトルに聞き覚えはなく、無論見たこともなかった。わたしは二人と別れた後で携帯端末を用いて検索したけれど一件もヒットしなかった。この検索エンジンは五百ヘイズはカバーしているはずなので、さっき会ったのは少なくともそれ以上離れた領域の更坂先輩だったということになる。久々に遠い。そうでなければ先輩は自分が見たのではない作品を分かったように批判しているということになるが、そういう人間は存在しないのでやはり先週の大断絶後に誘致された遠領域の更坂先輩だったのだろう。


 二人は早朝にだけ見られる領域間の相互作用である縞陽炎の調査に来たらしかった。彼らはわたしと同じシジル幻燈部員であるから、その素材として領域性の現象やそれを求めてやって来る概念体を探索するのは当然のことだけれど、縞陽炎は複写すると青色がきつくなりすぎるという特徴があり、それを更坂先輩がどう活かすのかは気になるところだった。


 わたしはまず朝食を食べようとファーストフード店へ行きメニューを見ると、通貨単位が見たこともないものだったので店の入り口へ行き壁を何度か蹴ってみたが、また別の見知らぬ通貨単位になっただけだったので、諦めて端末に入っているユニを使うことにした。近所のコンビニかどこかを探せば、いずれはエンが使える場所にめぐり合えただろうけど、わたしは今ハンバーガーを食べたかったので。一ユニは十二エンなのでハンバーガーが二四〇〇エンもするということになり、かなり痛手だ。しかしわたしはその痛みに耐える決断をした、その矢先、店員がハンバーガーは十時半からだと言い出した。かなり侵食度の高い月因子ルナーファクターがこの店舗に食い込んでいるように思えた。これでは十時半まで世界中からハンバーガーが消滅しているに等しい。これほどの差異を、〈オオカミ〉はなぜ放置しているのだろうか。すでにスクランブルがかかって上級修正官が作戦行動に移っていてもおかしくはないのに。


 わたしは何も買わずに店を出て近くのコンビニへ入った。そこはエンを使用できたが、食料品がほとんど売り切れだった。店員の男性が「浄化機構の指令により今朝より食料品を五十エン引きにしたんでごらんの有様です」と説明する、五十エン安くなっただけでこれだけまとめ買いなのか。わたしは絶望の余り右手の小指の先に入ったままの鉛筆の芯を撫でて平静を保とうとした。


 結局、わたしは諦めて何も食べずにオルキヌシア廃棄体を捜しに行くことにした。


 廃棄体は早朝にしか発見できないのでわざわざ始発で来て探さなければならない。わたしは睡眠を二時間摂れば寝すぎってくらいに睡眠を必要としない体質だからいいものの、一般的な人々は十五時間は眠らないといけないので大変だ。しかし廃棄体を認識できるのはこの領域でたぶん七人くらいなので、皆がこれの採取のために睡眠不足になることも、数が足りなくなることもなかった。


 陽が昇り始めた空の下、打ち捨てられた石作りの書店が半分海に沈んでいる。

 書店は七軒ありすべて、学校の体育館くらいの大きさだ。


 そして春屋敷先輩が当然そこに現れた。

 彼女は塗れた本を手にとって、どうにか読んでいる。


「この本を見なよカナエ、これは七千ヘイズ離れた領域のものだ。宗教書みたいだけど人が死ぬと全員必ずオウムガイに生まれ変わるなんてことが書いてある。罪人も聖人もみんな同じだって。恐らく月因子によって内容が変異したもので、オリジナルはオウムガイじゃなくオウムだったんだろうね、じゃなきゃ喋れないし。オウムになるのはいいけどオウムガイはちょっと嫌だな、あたしは罪人でも聖人でもないけれど、足が九十本あるのは多すぎる。更坂君は具合良さそうだった? 彼は昨日、四十度を超える熱を出して重要な集会を欠席してたんだけど」


 わたしは、更坂先輩は元気そうだったと告げた。恐らく昨日というのが既に数百から数千ヘイズ向こうへ流動しているか更坂先輩が超人的回復力を発揮したか仮病かそのどれかだ。


「重要って言っても三日前に見た夢くらいの重要性なのだけどさ。じゃあ例の何とか路側帯探しに精を出したまえよ、カナエ」


 わたしが最も好きな春屋敷先輩は「したまえよ」と語尾に添えた、応援あるいは、あたしには関係ないから勝手にやりなよって感じの無関心を発揮した台詞を、投げかけて去っていく瞬間だ。


 彼女は神出鬼没のトリックスターにして、安寧、清涼剤、そしてときには劇薬で万能薬だ。


 わたしは裸足になり、海水に漬かった書店の中へ侵入してオルキヌシア廃棄体を二体確保し、新聞紙にくるんでコンビニで何も買わなかったにもかかわらずもらった一番大きなビニール袋に入れた。


 薄荷の匂いを感じた。歪んだ月がこちらを見ている。


 それから赤目山西高校、シジル幻燈部の部室に来るまで七十五時間ほどかかり、その間にフリッカーが五回、余波でオルキヌシア廃棄体の片方が出血と小規模な発狂、絶叫。悪夢的な叫びにわたしも川に飛び込みたい気分だった。


 部室中には瀬羅先輩と左目が摘出されてないほうの鷺ヶ原さんがいた。瀬羅先輩はいつものように無言でだるそうに椅子に腰掛けているだけだ。鷺ヶ原さんは朝からカレーを食べている。彼女はよほどに好きなのか、選択が面倒なので代表的な国民食でお茶を濁しているのか、いつもカレーだ。それは彼女の左目が血が滲んだガーゼや眼帯に覆われていても変わらない。


 鷺ヶ原さんは今週の課題だった青化シジル原版提出を求め、わたしは六十二日前には当然完成させていたのでそれを取り出した。

 トモシビ蟲と二号反応液、蜂蜜を使い夜から朝への一瞬を三センチ足らずのガラス片に、暴力的なまでの静謐さをもって閉じ込めたものだった。


 左目が摘出されているほうの鷺ヶ原さんならば、これは緑班期五十六年の一乗寺派を思わせる蒼白が……などと長ったるい賛美を述べるはずだけど、摘出されていないほうの彼女は、いんじゃない、の一言で快活に済ませた。


 次いで彼女は瀬羅先輩にも原版の提出を求めたけれど、彼は今まさに世界の崩壊が始まったので何をしても無に還るため無駄だと言わんばかりの沈黙で応じた。鷺ヶ原さんは端正な顔を顰めて、諦めたように携帯端末を弄くり始めた。


 暫しのち、あっ、っと驚きの声を発して彼女はわたしに端末の画面を見せた。わたしは知らないが最近色んなところで人気と言われている集団〈ルパクラ〉が六千ヘイズ越えのツアーを開始するというニュースだった。どのくらい知らないかというとルパクラというのが何の略称か知らないくらい。

 鷺ヶ原さんはマジで、マジなの? 超ヤバい、と繰り返している。ヤバいということはつまり危機的、破滅的ということなので、このルパクラなる集団は正体を隠したテロリストか超界破壊者集団なのかもしれないし、怪獣を作り出す不法秘密結社かもしれなかった。そのことを鷺ヶ原さんは知っており六千ヘイズ内の領域が危機に晒されることを予見し、動揺しているのではないか。


 鷺ヶ原さんは混乱のあまり同調剤をラッパ飲みし始めた。あれはブルーチーズみたいな味と風味がするのに。好きなのだろうか?

 しかし彼女の全身が変異を起こして可燃性の体液を持つ七本足の牡鹿になったりはしなかったので、わたしはひとまず問題なしとの判断を下したけど、度重なるフリッカーによってこの日が量子的潮汐の縮退日であることを失念しており、また鷺ヶ原さんが真っ直ぐ帰宅するわけではなく、消防法を完全無視した人数を六畳ほどの空間に毎日詰め込むライブハウス〈臙脂杭〉に立ち寄るとは思ってもみなかった。


 その夜起こる騒動を嚆矢としてあのような惨劇が待ち構えているだなんてこのときは知る由もなかったし、春屋敷先輩がその危険性を最大限に発揮した場合、何万ヘイズの彼方にまでその無慈悲な波が及ぶだなんて想像することもできなかった。

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