袋の神

 暗闇の一本道を抜けた先はドーム状の大空間だった。


 相変わらず光と音はなく、何者かが潜んでいるという気配も空也は感じなかった。


 単なる広大な暗闇だ。


 それで、ついつい不用意に踏み込んでしまいそうになる空也だったが。

「待って。ここヤバい」

 呼吸の乱れた梓にそう言われ、首を傾げながらも足を止めた。


「相羽さん。もしかして、何か見えてる?」

「見えてるっていうか――この状況……どう言えばいいかな、ほんと」


 懐中電灯を向けることもなくあちこちに視線を回す梓。


 空也の目の前に広がるのはやはり暗闇だけだ。

 しかし、梓には別の世界が見えているのだろう。おそらく、懐中電灯が不要な、常人には見えない明るい世界が……。


 まいったな……と眉間を掻いた空也。


 すると京子が「相羽さん。どうぞ、つ、掴まってください」と、眼前に集中するあまりふらついた梓の身体を支える。梓の背中に左手を添えつつ、右手を差し出したのだ。


「ありがと京子ちゃん。助かるわ」


 ひたいに脂汗を滲ませながらも、梓は無理矢理苦笑する。そして何のためらいもなく京子の右手を取った。


「――へ?」

 その瞬間だ。京子の腰が抜けて――たった一人、その場にへたり込んでしまう。


 手を繋いだままの梓が「い、いきなりどうした? 変な冗談やめてよ」と怪訝な声を上げた。今度は、中腰になった梓が京子の様子を気遣うのである。


「……見える……」

「見える? 何が? 何が見えるの?」

「た――多分っ相羽さんが見てるのと、同じものですっ! も、模様っ! 変な模様みたいなの、動いてますよね!?」


 梓の顔を見上げて声を荒げてしまった京子。


 思いきり唾を飛ばされても梓は気にしなかった。驚愕の感情に瞳孔がギュッと広がる。


「そ、そう。そうなのよ……模様が、ね……だけど、どうして、京子ちゃんが……?」

 うわごとのような呟き。


 空也の落ち着いた声が洞窟内に響き渡った。

「多分、幽霊じゃないかな」

「……え?」

「さっき神社の幽霊を触ったろ? そのせいだと思うけど」


 空也の言葉を受けて、梓と京子が顔を見合わせる。


 梓に引っ張られて立ち上がった京子が、黒縁眼鏡の位置を正しながら言った。


「な、なるほど。わたしが見えるようになったのも、あ、相羽さんと手を繋いだから」

「だろうね」

「や、やりました! これでわたしもっ、念願の霊能力者に!」


 思わず胸の前でガッツポーズする京子。


 梓はそれを横目で見ながら、「それ嬉しい? あたしは『こんな眼』、返上したくて仕方ないんだけど。幽霊なんて金輪際見たくもない」と深いため息を吐いた。


 少女二人のやり取りに空也は苦笑するしかない。

「ま、まあ――火ノ宮さんは、幽霊の力で一時的に見えるようになっただけだと思う」


 不意に、梓が空也を見た。

 それから何の羞恥心も感じていないような様子で、「……神木くんも触っとく? あたしの手」綺麗な右手を差し出すのだ。


「いくら神木くんが凄いっても、何も見えないんじゃあ、色々困るでしょ」


 空也は、「そうだね。それじゃあ、お言葉に甘えて……」と、ズボンの太ももでしっかり手をぬぐってから、控えめに梓の掌に触れる。

 その瞬間、「なにその触り方」白魚のような指が意外な力強さで空也の手を引き寄せた。


「ほんと、女の子に耐性ないんだから」

「……ごめん」


 そして視界の変化は――空也が瞬きをした直後、いきなり巻き起こった。

 あまりに唐突、息を呑む暇もないぐらい瞬間的に、世界が一変したのである。


「……なんだ……これ……」


 懐中電灯など消してしまいたいほどに明るい世界だ。

 空間自体が青白く光っている。

 そして――ドーム状の壁や天井、地面を、なにやら得体のしれない文様のようなものが這いずり回っていた。文様の色は白一色。どこかアイヌ文様を思わせるデザインだった。


「……凄い、な……」


 それ以上は声も感想も出てこない。梓と手を繋いだまま絶句してしまった。


 改めて前方を見た京子だって、やはり何も言えないでいるようだ。

 思い付いたようにリュックサックからタブレットを取り出して写真を撮ろうとするが、そもそも電源が入らなかった。この空間が原因なのか、現代の電子機器は完全に沈黙している。


 強い風の音がしていた。


 ついさっきまでまったくの無音だったのに、尋常ならざる世界が見えるようになった瞬間、乾いた轟音が耳をつんざくのだった。


 ごうごうと、ごうごうと、風が吹き荒ぶ音だ。


 風音に掻き消えぬよう語気を強めて空也が言った。

「少し待っててくれ。様子を見てくる」

 梓から手を離す。


 彼女の体温が指先から消えても視界はそのままだった。


 明るいドーム空間の地面には差し渡し一〇メートルの大穴が口を開けており、風はそこから吹き出て暴れ回っている。超大型台風並みの風速。気を抜くと身体を持っていかれそうだ。

 とはいえ、風が弛む時間――ほとんど無風になる瞬間もあった。


 空也は足元を動き回る文様を踏まないように大穴に近づき、目を細めて内部をうかがう。


「……逆さ、観音……」


 深さ五メートル。すり鉢状の穴の中央に逆さ観音が浮かんでいた。


 それは逆三角形の奇妙な灰色で、確かに『顔の潰れた観音菩薩の坐像』を逆さまにしたように見えなくもなかった。

 底部から天辺までの高さは二メートル程度だろう。空也が想像していたよりは大きくない。


 何とも言えない形と色合いだ。開け口を下にした巾着袋のようにも見えるし、いくつもの機械を複雑に組み合わせた何かの実験装置のようにも見えた。


 しかしどうにも上手く認識できない。ちゃんと見ているはずなのに頭の中で像を結べないような、視点がぶれるような、視神経が焼け付くような……未体験の感覚であった。


 空也が逆さ観音に抱いた印象は――超常なる生命体というよりは、理解不可能なほどに高度な量産機械。神話の時空神ではなく、『世界の調整機械』だった。


 奇怪すぎる巡り合わせに胸がすく思いだ。

 ここまでのものを見てしまえば、あとは笑うしかない。


「……あれか……」


 きっと友江輪之助は逆さ観音の腹に刀を入れたのだろう。

 腹部と思わしき辺りが真一文字に断裂しかかっており、今にも千切れてしまいそうだ。


 不意に。

 ――――――――――――

 千切れかけた逆さ観音の腹から『文字のような黒いもの』が大量に噴出した。


 しかしそれが何であるかは空也にはわからない。

 なんとなくだが、歴史の教科書に載っていた楔形文字に形が似ている気がした。


 黒文字は穴を落ちていき、青白い光を放つすり鉢状の底に触れるやいなや、跡形もなく消えてしまった。大角村の大地に溶けたのだ。


「……あれが呪いか……いや――」

 空也は口元に手を当てて思案する。


 やはり逆さ観音が生物であるとは思えない。今わの際で呪いを振りまいているというよりは、壊れかけて機能不全を起こしているだけのように思えた。


「トキハカシノカミ……」


 隣を見れば、いつの間にか京子が穴の縁にしがみついて逆さ観音を凝視していた。


 空也が首を傾げた。

「とき――?」

「時量師神、です。こ、古事記に名前だけ出てくる、超マイナー神の」

「名前のとおり時の神なのかい?」

「い、いえ……どんな神かは、わかっていないんです。い、イザナギが袋を捨てると、そこから、時量師神が生まれたとだけ」

「なるほど」

「わたしには……あれが、逆さにした袋のように、見えたので……」

「ああ。俺も、巾着袋っぽいとは思ったな」


 そこに梓もやって来て大穴を覗いた。


「――気持ち悪」


 だが一瞥しただけだ。空也と京子みたく、逆さ観音をつぶさに観察することはなかった。


 そんな梓の仕草を小さく笑い。

「神木くん?」

 空也はその場でジャージを脱ぎ始めた。上半身裸になる。


「いや、逆さ観音とは少し距離があるし、軽くなっておこうかと」


 靴も脱いで、靴下も投げ捨てた。


 ズボンに手を掛けて……少し考える。

 結局ズボンは履いたままだ。別に梓と京子の目を気にしたわけではない。男の場合はズボンがあった方が動きやすいこともあるだろう。今日の下着がボクサーパンツだったら、きっと脱いでいた。


 青白い光に浮かび上がる空也の上半身。


 それは……梓が想像していたよりもずっと筋肉質で、遥かにたくましいものだった。

 腹筋は割れているくせに全体的には特大サイズの丸太のようなのだ。

 とはいえ、鍛えすぎたその胴回りよりも更に広い背中のおかげで、無理矢理くびれができている。


 いったいどんな運動をしたらこんな肉体になるのか……格闘技に関して梓はずぶの素人だが、空也が歩んできた研鑽の日々を垣間見た気がしてため息がこぼれた。


「結構、着痩せするんだ……」

「ん?」

「その身体凄くない? ってこと」

「ああ。まあ、いつの間にかね」


 梓に裸をまじまじと見られて、照れくささに顔を背けた空也である。


 だから、いきなりの全力抱擁に対処できなかった。


「行くの?」

 厚い胸板に顔を埋めて息を吐いた梓。


 空也は最初困り顔だったが、やがて、梓の背中に腕を回してやった。子供をあやす父親のように梓の背中をポンポンと叩いた。


「ああ、行く。逆さ観音を完全に壊してやらないと」

「壊したらどうにかなるって保証があるわけ?」

「……さあ。でも、空手家にできるのはそれぐらいだ。分の悪い賭けかもしれないけれど、俺は、俺にできることをやるよ」

「……ちゃんと帰ってきたら、あたしの手料理ごちそうしてやるから」

「そうか。だったら、なにがなんでも成功しないとね」

「……神木くん……」

「大丈夫だ」

「……うん……」


 取り残された京子が、はたから「が、がんばってくださーい」遠慮がちなエールを送った。


 そして空也は、大穴の縁から遠く離れた位置に立つのだった。

 たった一撃――とどめの一撃を逆さ観音に入れるために、助走を付けて跳ぼうというのである。


 穴からの風の吹き出しが止むのを見計らって。

「締めだ。気張れよ、俺」

 そう歯を剥いて踏み出した。


 全速力で大穴の縁を蹴って、神の座に向かって跳んだ。


 空中では膝を抱えたような姿勢。

 逆さ観音に届いた瞬間――全身をひねりながら飛び足刀を繰り出す。


 千切れかかっていた逆さ観音の腹を見事蹴り抜き。

「――っ!!」

 上下を完全に両断した。


 空手家の右足刀が、彼岸の神を殺したのだ。


 すると、水。


 光に満ちた大穴の底がいきなり割れ砕け、奥から巨大な水柱が噴き上がってきた。


 大量の水に激突されて、「ちぃ――」空也は穴の外へと押し流されてしまう。


「相羽さん! 火乃宮さん!」


 同じく水流に巻き込まれた梓と京子が見えた。


 とどまることを知らぬ大水の奔流、瞬く間にドーム空間を埋め尽くし荒れ狂う。


 必死に両手を伸ばした空也。

「神木、く――」

「神木さん――」

 どうにかこうにか梓と京子を掴まえたところで、より一層の流れに顔を叩かれて視界が消えた。


 目を開けることができない。

 消えそうになる意識を繋ぎ止めるので精一杯だった。


 上下左右、無茶苦茶に振り回されながらも、とにかく耐え忍ぶ。両腕に抱きかかえる梓と京子を決して離さない。暴力的な激流から彼女らを守り続けた。


 ――――――――――――


 ―――――――――――― 


 どのくらい水の中にいたのだろう。


 あの鉄砲水にどこまで流されたのだろうか。


 不意に、鼻先に緩やかな空気を感じた。


 次の瞬間――空也は目を見開き、思い切り肺を開いた。

「ふはっ!」


 新鮮な酸素を胸いっぱいに吸いこんでから、「し……死ぬかと……っ」一息つく。


 暗い洞穴の中ではない。


 昼の光があった。

 穏やかな青空と美しい白雲があった。

 そして、辺り一面は水浸し。というか水深が深くてまったく足がつかない。


 どこだここ? どうにも湖っぽいが……そう思いつつ顔を回したら、腕の中の梓が「神木くん。力、入れすぎ」うめきを上げた。京子も「ほ、骨……ぇ」と苦しそうだ。


「あ、ごめん――」


 梓が空也の肩にしがみつきながら言った。

「なにここ? もしかして、あたしらめっちゃ流された?」


 意外にも水泳が得意だった京子は、体操服のままバシャバシャと泳ぎ出し……やがて、ハッとしたように騒ぎ出すのだった。


「ち、ちが――!! こっここダムです! ダム湖です!! 」


 ダム。

 その言葉を聞いて、顔を見合わせた空也と梓である。


 ダムといえば大角村が沈んだダムしかない。元の世界に存在するダムしかない。


 すぐ近くの湖面を漂っていた大きな流木まで泳ぐと、二人一緒に流木にしがみついて一息つく。


「おおーーーーーい! 神木ぃーーーーーーーー!! 生きてっかああーーーーーーーー!!」


 かすかに届いた呼び声を探してみれば、遠く離れた岸辺で咲夜と晴斗、夏奈が手を振っているのが見えた。大我もいる。


 風が吹いた。どこか懐かしい新緑の香りがした。


 その時――空也は事件の終わりを悟る。


 ああ、そうか……帰ってきたのか……。

 そう思って瞳を閉じた。少し疲れていたし、もうここで眠ってしまおうかとも考えた。


 ――小さな水音――


 すぐ隣にいる梓が裸の肩に頬を寄せてきても、空也は目を開けない。


 ……相羽さんはいい匂いがするな……。


 泣きたくなるぐらいに優しい触れ合いだ。叶うならば、いつまでも堪能していたかった。


「あはっ」

 いきなり梓が軽い笑い声を上げる。

「死ぬほど流されて、それで元の世界って――最後の最後までドタバタだったわね」


 すると空也も小さく笑った。


「…………終わったんだよね……?」

「…………ああ……」


 涼しげな風音の中、どこかから「ピーヒョロロロロロ――」という鳥の声だ。トビだろう。初夏の山によく似合う美しい鳴き声だった。


「終わったよ……ちゃんと、終わった」

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