古き人影(下)
洞穴内を漂う冷気が強くなった気がする。
寒いなと思いながら空也は短く問うた。
「あんたは?」
人型の影――影男――は、真正面をこちらに向けながらあっけらかんと答えた。
「それがしか? それがしは、友江輪之助と申す者。諸国を巡り、ふさわしき主君を探しておる」
それだけ聞いて、やはり侍……と眉をひそめた空也。
影男が『遠い過去からの存在』であることを察したのである。姿は異様だし、時代もわからないが……多分きっと、逆さ観音に関わるまでは生身の人間だったに違いない。
「神木空也だ」
「そちら、面妖な格好をしておるのだな?」
「俺たちからすりゃあ、あんたの方がよほど変わってるよ」
「なるほど。『コトワリハズレ』がどこぞの世から人を引き入れたか」
「コトワリ――? ああ、『理外れ』」
……意外に話せるな……古い口語を使われたら十分な会話は難しいと思ったが……大角村の呪いが何か影響しているのか?
空也はそう首を傾げつつも、とりあえず警戒を緩めることなく一つ一つの言葉を選ぶのだった。目の前にいるのは尋常な相手ではない。何が契機となって襲いかかってくるか知れたものではないのだ。
「ここで何をしているんだ?」
「…………待っておるのよ」
「待つ? 何をだ?」
「傷が治るのを、だ。不覚にも理外れに触れられてなあ」
「何があった? 友江輪之助、あんた何を見た?」
「……神よ……彼岸に立つ神を見たのだ」
「…………神……」
「そして斬った」
「……神とは、そんな容易く斬れるものなのか?」
「知らぬ。だが、それがしとて武芸者の端くれ。山に入っては化生の輩を幾らも斬ってきたものよ。神と化生に何の違いがあろうか」
「……これだから昔の人間は……神殺しなんてバチ当たりなことしやがって……」
「珍しいことではなかろう? 矢坂何某とやらも雷神を斬ったと耳に届いたぞ」
「しかし、あんたは何故、神を斬った?」
「異なことを言うこわっぱよな。我が功名を高め、どこぞ良き殿に召したてられるために決まっておろう。以前この地で角のある大猿を斬ったが、あれは駄目だ。あの程度の化生では俸禄もろくに払えん田舎大名の耳にしか入らぬわ」
その言葉に空也は――ああ。なるほど――と一つ思い当たるのだった。
この影男がいつの時代に生きた人物だったのかも大体推測できた。
かつて大角村の由来となった猿の化け物を斬ったという旅の侍……今、空也の目の前に立っているのはその成れの果てだ。
大角村の人食い猿を退治した侍・友江輪之助は、その後再び村を訪れていたのである。
――功名を求め、逆さ観音を斬るために――
「観音が出たという話を聞いたのでな、仏でも斬れば我が名も広まろう」
「で、あんたは、それが何の神であるか確かめもせず、ただ殺したと」
「いや、殺してはおらぬ」
「なんだと?」
「斬るには斬ったが、殺しきることはできなんだ。あと一太刀……一押しというところで理外れに触れられてな。どうにも呪を注がれたらしい」
「それじゃあまだ逆さ観音は――」
「この先で生きておるよ。臨終、だがな」
その言葉を聞いた瞬間、空也は、驚愕と興奮に肌が粟立つ思いだった。大角村に関するすべてが一つに繋がった気がした。
やはり異変の根本は逆さ観音なのだ。
しかし真の元凶は、友江輪之助なる戦国時代の侍であった。
戦国時代――大角村に猿の化け物が現れ、村の娘たちを喰い荒らした。そして、それを友江輪之助が打ち倒した。そこまではいい。めでたしめでたしで終わる話だ。
その後、大角村で病が流行り、瀕死の子供が逆さ観音によって救われた。
不運だったのは、望みの士官が叶わなかった友江輪之助の耳に、逆さ観音の噂が届いてしまったこと。侍は大角村を再訪し、あろうことか時空を操る神を手にかけたのだ。
しかも最後まで殺し切っていない。
死にかけの時空神が何をするか……そんなこと、人間の理解が及ぶはずがなかった。
――遥か未来から無人の大角村を呼び寄せて、完全なる閉鎖世界を創り――
――様々な時代の人間を、順序関係なく手当たり次第に迷い込ませ――
――撒き散らした呪いで誰も彼もをことごとく怪物化させる――
そういう事態が起こることだって十分に有り得る。
なにせ、逆さ観音はあらゆる時間と空間を統べる神なのだろうから。不可能はない。
「……せめて、最後まで殺してりゃあ……」
歯噛みしながらそう吐き捨てた空也。
十分冷静と言える態度を取りつつも、その実、燃え上がるような熱に心臓を焼かれていた。
それは、途方も無い怒りだ。
自分たち七人をこんな状況に追い込んだ元凶が目の前にいる。もしも空也が今よりも未熟であれば、反射的に殴りかかっていたに違いない。
しかし――神木空也は、どこまで行っても空手家だった。
如何なる窮地においても『最良の拳』を放つために積み上げてきた『空手家としての生き方』が、どんな激情だって簡単にそぎ落としてしまう。
その結果、少年の心中に残るのは、いつもと変わらぬ自分自身だ。
呪を注がれたという友江輪之助の様相を眺め、苦々しげに問うた。
「あんた、その身体がいつか治ると思っているのか?」
「無論よ。それがしの身は臓腑に達する傷さえ塞いだのだ。治らぬわけがない」
からからと笑う影。
空也は――何を馬鹿なことを。自分の姿を見てみろよ――そう嘲笑って、鏡でも持ってきてやりたい気分だった。
治るわけがない。友江輪之助はもう完全に変質してしまっている。
この男にはもう、人由来の物質など欠片も残っていないのだ。皮も、肉も、骨も、臓器も、血液も、衣服さえも……すべて神に呪われて、真っ黒な何かに変えられてしまっているのだ。
神に触れられた瞬間、友江輪之助という剣豪は死んだ。
そして大角村の怪物の第一号と成り果てた。
「しかし、あんた……今でも立って歩いてるし、だいぶ元気そうに見えるけどな」
「そうかね」
「その身体では神を殺せないのか?」
「できぬな。人を斬るには支障ないが、神斬りはまた趣が違うからの」
「趣、ねえ」
「今のそれがしは色々と見えすぎておるのだ。この暗闇でもこわっぱらの姿が明らかに映る。これが良くない。今の我が身は我が身にあらず。心身にほころびがあれば、神は斬れぬよ」
「だから元に戻るのを待っているわけか」
「おう」
「……そうか。使えないな」
「……ほう?」
「そこをどいてくれ」
「断る」
「時間がないんだ。あんたが神を殺さないなら、俺がやる」
「認めぬ」
「俺たちは生身なんだ。まともな水がなければ生きてはいけないし、腹も減る。いつまでもあんたの回復を待ってはいられない。だから、そこをどいてくれ」
「断る。きゃつはそれがしが斬る。誰にも渡さぬよ」
「……どけ」
「……どかぬわ」
空手家と剣豪の間でほとばしった緊張感。
いよいよ耐えきれなくなって、後ろから梓が声をかけた。
「た、戦うの?」
空也は眼前で仁王立ちする影を見据えたまま、「仕方がない」と苦笑するのだった。
「一言目から殺気まみれだった。どのみち、この怪物に俺たちを帰す気はないよ」
「怪物とは心外だが――そのとおりよ。理外れに続く道を知ったからには一人も生かさぬ。大人しく観念せい」
先に動いたのは友江輪之助。腰に提げていた棒状の物体に黒い手を伸ばした。
「あと一太刀なのだ。あと一太刀で、それがしが神殺しと相成るのだ」
空也の見立てどおり、それは刀だった。
鞘と柄は真っ黒に変色しているわりに、すらりと抜かれた刃にはまだ色が残っていた。
灰色だ。
刃渡り七〇センチの打刀――刀身に金属光沢はなく、灰を固めたかのような色をしていた。
「ここに来たのはぬしらが二番目よ。一番目はだいぶ前……おなごの姿をした神に導かれた若武者であったわ。なにやら、『すべてを終わらせる』とか、ぬかしおってなぁ」
「その人はどうなった……?」
「斬った。首を飛ばしてやった」
「……そうか」
「そうしたら落ちた首を抱えて胴体が動き出してな。あれは実に滑稽であった」
女の姿をした神――それは十中八九、骸井神社に現れた幽霊のことだろう。
……俺たちの前にも、この異常事態を収めようとした人間がいたのか……。
骸井神社の神と意思疎通できて、最期は友江輪之助に斬られてしまった若武者。
呪いまみれの友江輪之助に殺されたせいで人として終わることもできず、今頃は大角村のどこかをさまよっているであろう首無し武者……。
空也は哀れな先達に思いを馳せて、「無念だったろうな」と呟くのだった。
「神命に応えられず、怪物にも成り果てて」
それを友江輪之助は嘲笑った。
「同情は無用ぞ? あの程度の業で理外れを斬ろうとは、とんだ与太話だったのだからな」
「手厳しいな」
「死にかけとはいえ、理外れはいまだ彼岸の彼方に立っておる。未熟な武芸者では刃すら届くまいよ」
そして――灰色の刃が、ゆらりと動いた。
「しかし……なるほどなぁ。今度のこわっぱは一味違うようだ」
そう笑いながら右足を大きく引いた影男。
両膝が張るほど深く腰を落とし、右肩に刀を担ぐのだった。
現代剣道にはない構えだ。鹿島新當流に伝わる『車の構え』のようにも見えたが、それよりもずっと腰が低い。獲物に飛びかかる直前の虎がごとき、勇壮な構えだった。
伏した黒き虎を前にして、いまだ空也は自然体。
「相羽さん、火乃宮さん……頼みがあるんだ。もう二、三歩下がって、光が全体に薄く当たるように――――うん、ありがとう。十分だ。よく見える」
「…………神木くん……」
「…………か、神木さん……」
「……………………」
梓と京子が思わず名前を呼んでしまったのも当然のこと。
自分たちは今にも腰が抜けそうなぐらい緊張しているのに、空也の背中が静まり返っているように思えたから。緊張感や闘争心はおろか、動くという意思さえも纏っていなかった。
――静と動――
――柳と虎――
空也と友江輪之助は、対照的な構えで向かい合う。
「よいのか? 今生の別れが、それで」
「……最期にはならないさ」
立ち合いの距離はわずか三メートルだ。
空手家・神木空也はステップも踏まず、まるで真剣を握る剣豪の印象だった。
「……………………」
「……………………」
一撃必殺を有する達人同士の真剣勝負である。
攻防はおそらくは一度か二度……決して長引くことはないだろう。一瞬で終わる。
両者ともそれがわかっているから。
「……………………」
「……………………」
機先を取れる瞬間を慎重に探り合うのだった。
迂闊には動かないが、遅れを取ることもしない。
……………………………………。
沈黙が熟し。
……………………………………。
静寂が陳腐化し。
……………………………………。
やがて洞穴の中に――ぴちゃん――と水滴の音が響く。
それが決着の始点となった。
――――――――――――
友江輪之助の踏み込み。
真っ黒な肢体が滑るように飛び込んでくる。物音一つしない異様な歩法だ。
そして灰色の刀身が消え失せた。
空間を削り取るような、速すぎて空気に溶けるような、想像を絶する斬り下ろしである。
とはいえ、空也の動きそのものを無為にするほどではなかった。
「ふ――」
侍の踏み込みとほぼ同時に動き出していた空手家。半身になりながら繰り出したのは、指を伸ばした手刀受けだった。
抜き身の刀を避けるわけでも、白刃取りで挟み込むわけでもなく。
「――」
ただ素直に迎えてやる。
爪の先から手の甲で刃文を撫で、前腕に刃の側面を沿わせ、そのまま肘を抜けさせた。
まさしく絶技。必殺の軌道を逸らしたのである。
反撃は侍のみぞおちを狙った正拳逆突きだ。
だが。
「――っ」
手応えが悪い。
空也の握り拳は確かに何かを叩いたが――それは固く、乾いた物質だった。
ギョッとした空也。見れば、刀の柄頭で拳を受け止められている。
馬鹿なと思った。いくらなんでも刀の引き戻しが速すぎる。
砕いたのは柄の何割かだ。刀の握りに影響を与えるほどではなかった。
「当て身かぁ!!」
衝撃に跳ねた刀――しかし燕のようにひるがえり空也の首を狙う。
凄まじき技の冴え。
それは天地神明を殺す一刀だ。
当然、空也にも刀の行方は見えていなかった。
寸でのところで身をかがめることができたのは、単なる直感と幸運だろう。
髪の毛の先だけが暗闇に舞った。
身をかがめた窮屈な姿勢のまま、それでも空也の右足が霞む。
侍の膝頭に足刀横蹴りを叩き込んだ。深々と、だ。
「ぬお――」
片膝を蹴り潰されて前のめりにつんのめった侍。
それでも空也の右足刀は止まらない。天に昇る龍のように、そのまま侍の顔面を叩いたのである。
軽い音がした。真っ黒な頭部が跳ね上がった。
足刀二連蹴りだ。絶命させるほどの威力はないが、尻もちぐらいはつかせられる。
侍の尻が岩の地面に触れた瞬間、その顔面を今度は左の前蹴りが撃ち抜いた。
それは間違いなく決着の一撃。
だが、命さえかえりみぬ無念無想の果て――鬼神がごとくに顔を歪めた空也は、続けてもう一手だ。
如何な猛獣よりも速く跳び上がり。
「――」
真上から手刀を落とした。
そして見事、黒き侍を脳天から両断する。
いや……違う。空也の手刀が切り裂いたのは真っ黒な霧だけだった。
空也が手刀を入れた瞬間、友江輪之助の身体がたちどころに霧散してしまったのである。
………………………………。
………………………………。
あとに残されたものは何もない。友江輪之助の愛刀すら霧と消えてしまった。
間違いなく脅威は消え去ったのだ。空也が倒したのだ。
「………………ふう…………」
手刀を地面に叩き付けた格好のまま、思わずため息を吐いた空也。
今更になって冷や汗が噴き出てきた。
「……二刀目……全然見えなかったな……」
片膝をついて死闘後の静けさに身を任せていたのだが。
「神木くんっ!!」
「――ぐふ」
いきなり抱き付いてきた梓からの衝撃に、思わず息が漏れた。
「ちょ――大丈夫!? ねえ!? 今、首斬られてなかった!?」
「い、生きてる! ちゃんと生きてるから! 相羽さん落ち着いて――」
首筋をまさぐってくる梓を剥がそうとくんずほぐれつした時だ。
「ほ、ほっとしましたぁ。わたしもてっきり、神木さんがやられたのかと」
苦笑いで懐中電灯を向けてきた京子の背後――逆光に目を細めた梓が、「ひっ――」と声を引きつらせた。反射的に身体を縮こめたせいで尻もちを付いてしまう。
「――っ!!」
即座に背筋を伸ばして拳を握る空也。
しかし彼には何の異変も見て取ることはできなかった。どれだけ目を凝らそうとも、逆光に浮かぶのは京子のシルエットだけで、倒すべき相手が一向に見つからないのである。
それで梓に問いかけてみる。
「……もしかして、そこに何かいる?」
すると梓はコクコクとうなずいてから、「ビックリしたぁ。京子ちゃんの隣に立ってんだもん、あの神社の幽霊」と、胸を押さえながら立ち上がった。空也の背中に隠れて、京子の隣の空間――何もない暗闇――をジッとうかがうのだ。
京子はどうにもそれが納得いかないらしい。
「どうして相羽さんばっかり――」
思わず本音が飛び出した。
梓の視線を追いかけて、『能面を被った少女』の姿を探す。隣に居座る暗闇に手を出したりして引っ込めたりして、なんとか幽霊の存在を実感できないか試行錯誤していた。
認知すらできない相手を空手でどうにかすることなどできない。
空也は軽いため息とともに拳を下ろし――そんな彼に、梓が恐る恐る声をかけた。
「……あのさ、神木くん……どうしたらいいと思う?」
「え? 何が?」
「幽霊が――幽霊がね……手ぇ出してるのよ」
「手?」
「うん。『お手』っていうか、握手っていうか」
「……触れろってことかな?」
「……多分……」
眉間にしわを寄せた空也は京子の隣の暗闇を見つめ、「……嫌な感じがしないなら、幽霊の言うとおりにした方がいいかも」と自らの見解を梓に伝えた。
「友江輪之助が言ってたろ? 『女の姿をした神様が若武者を導いた』って」
「そ、そうだったっけ。あたしあの時、頭真っ白だったし――」
梓は空也の後ろで逡巡するが……やがて覚悟を決めたのだろう。
空也の背中を押し、空手家の陰に隠れながらではあるが、『相羽梓だけにしか見えない女幽霊』へと手を伸ばすのである。片目を固く閉じ、息を止めて――だ。
その光景を、京子は心底羨ましそうに見つめていた。唇を噛んで嫉妬に耐えている。
……………………。
やがて。
「はあ――」
静かな真っ暗闇に響き渡った梓のため息。幽霊との触れ合いが終わったのだろう。
「ど、どうでした? どんな感じ、だったです?」
「どうって……なんとも言えない感じよ。感触はないのに、相手の手の形に沿って冷たさが残るっていうか……」
自らの掌を見下ろした梓は、うへぇ――という苦々しい表情を浮かべている。
空也が苦笑しながら言った。
「もう行った?」
「うん。愛想が無いっつーか、せめて何か言ってから消えればいいのにね」
「……何か意味があるんだろうか?」
「さあ。でも、あの幽霊……最後、神木くんにお辞儀してたわよ」
「お辞儀?」
「なんでかは、知らないけど」
「いや――」
梓の言葉に何気なく首を回した空也。
洞穴の奥――懐中電灯を向けても照らしきれない深い闇をじっと見つめ……ふと、嘆息混じりに言うのだった。
「なるほど。『託された』ってことかもな……」
拳を握る。
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