古き人影(上)
「血は止まりそう?」
すっかり朝日が昇った午後六時過ぎ――社殿前の石段に腰掛けてゼリー飲料を吸っていた空也の顔を、梓が覗き込む。
それで顔を上げた空也。ひたいに押し当てていたハンドタオルを外すと、木片の直撃でパックリ割けた傷口に触れてみるのである。それから指先をまじまじと見つめ――しかしもう指が赤く濡れることはなかった。
「大丈夫。なんとかなったみたい」
梓に笑いかけ、半分ほど赤くなったハンドタオルをズボンのポケットに突っ込む。
すると。
「ちょっと傷口見せて」
梓がずいっと顔を寄せてきた。空也の了解を取ることもなく、彼の前髪を持ち上げるのだ。
思ったよりも冷たかった梓の手。
梓はじっと空也のひたいの傷口を見つめ、「少し深いし、痕が残るかも……」と顔をひそめた。そしてブレザーのポケットから大きめの絆創膏を取り出すと、傷口に貼ってくれた。
「何も無いよりはマシでしょ?」
空也は絆創膏の上から傷口に触れ、少し強めにこすっても痛みが出ないことにホッとするのである。これならば今日の行動に支障はあるまい。
ふと、難しい顔をした咲夜と京子がこちらに歩いてくるのが見えた。
空也と梓の元に来るなり、咲夜が前置きも無しに嫌なことを言う。
「あの井戸はもう使えないかもしれません」
空也も梓も特に驚かなかった。やっぱりか……とでも言いたげに眉をひそめただけ。
「ごめん。怪物を倒した位置が悪かった」
そう言って頭を下げた空也。
すぐさま咲夜と京子が――空也のせいではない。誰も悪くない――と言葉を並べる。
二人は、肉ダルマから流れ出た黒い液体――大角村の呪い――が、すぐそばの井戸を汚染していないか調べていたのだ。大角村で唯一安全な『幽霊水』がまだ飲めるかどうかは、高校生たちにとって一番の関心事だった。
「や、ヤマンクロの体液は、井戸まで流れてました。井戸の石が、少し濡れてて――」
「火ノ宮さんと相談しましたが、井戸の中に直接入ってはいないと思います。ただ……あれだけの体液が地面に染み込んで……地下の水がどうなっているかは……」
「ふ、古い井戸ですから、あ、あまり深くはないと思いますし」
歯切れの悪い咲夜と京子。
不意に沈黙が走り、やがて「……私が、また味を見てみましょうか……?」咲夜がそう言った。
すぐさま首を振った空也である。
「水筒の中に水はあるし、今日一日はそれでもつと思う」
そう言いながら石段から腰を上げると、境内の地面に降りた。おもむろに振り返って、肉ダルマに側壁を崩された社殿を眺めるのである。
「どのみち食料も少ない。今日中に決着させるつもりで動こう」
空也のその言葉を聞いて、梓、咲夜、京子の三人は顔を見合わせた。今日という日が自分たちの命を左右するという事実に、背筋が凍る気がした。
「じゃ、じゃあ神木くん……あたし、晴斗たち呼んでくる」
「『それぞれの班』は、昨日話し合ったとおりでいいのですよね?」
「と、とうとう大角村の謎に迫るんだって思うと、も、燃えてきました」
――大角村、三日目、午前六時半――
ここで高校生たちは二手に分かれることとなった。
一つは、死地に飛び込んで事態解決を図る神木班。
もう一つは、空也たちの留守を預かる八剣班である。
結局、空也が観音洞への同行者としたのは相羽梓と火乃宮京子であった。昨晩、同行を固持した梓に押し負けた形だが、あのあと京子が『わ、わたしも――』と言い出したのだ。
当然空也は京子を止めた。しかし彼女は意外なほどに強情で、『オカルトの知識なら、誰にも負けませんから』と言って聞かなかった。
おそらく一人のオカルト者として、逆さ観音を見ずに終わることはできなかったのだろう。好奇心を満たすために、自らの命すらも差し出そうというのである。
結局、観音洞には――眼と知識と拳――が向かうことになった。当然、命の保証はない。
とはいえ、骸井神社で空也たちを待つ八剣班とて、危険度は似たようなものだ。
新しい怪物が出現するおそれがある。今度また害意ある怪物に襲われれば、残された高校生四人の運命は、陳腐なホラー映画と同じ展開を辿るだろう。
大角村に安全地帯など無い。
それでも咲夜たち四人が骸井神社に身を潜めるのは、少しでも土地勘のある神社付近にいる方がマシという判断からだった。肉ダルマの死骸が境内に残っていても、その思いは変わらない。肉ダルマの死骸は大我が見張り、その他の三人で周囲の警戒を行うと決めた。
「ねえ神木くん。山登りするんだし、もう体操服に着替えとくでしょ?」
「そうだね。俺はそうするつもり」
「だっさい芋ジャージでも、動きやすさには代えられないもんねえ」
「着替えを温存するのももう終わりだ。とっとと終わらせよう」
「だってさ京子ちゃん。気張るわよ」
「は、はいっ! あ、あの神木さん、持っていく荷物、こんな感じでどうでしょう?」
わずかに残った食料のいくらかと水筒をリュックに入れ、あとの持ち物は懐中電灯ぐらいなものだ。京子だけが別に愛用のタブレットを抱える。
そして、すべての用意を終えた午前七時過ぎ。
「ご武運を」
そう言って咲夜が送り出してくれた。
「ちゃんと帰ってきてよね」
梓に抱き付いた夏奈はどこか涙声だ。
晴斗が空也の元に走ってきて「うまくやれよな」と拳を出した。空也は分厚い拳を合わせ「ああ。そっちは三谷くんと沼倉くんに任せたよ」と苦笑するのだった。
それから写真に撮っておいた『大角村の地図』に従ってまっすぐ山へと向かう。
途中、村の中心部を抜ける必要があったが、幸運にも怪物との遭遇はなかった。
ただ……どこか遠くから。
「おーい」
という呼び声は絶えず聞こえていたが。
「おーい」
家屋の並びが切れ、村外れの一軒を通り過ぎ、畑の間をまっすぐに抜ける農道がやがてくねくねとした山道へと変わっていく。昼前になれば、辺り一面深い緑に変わっていた。
「……さっきの変な声……夏奈たち、大丈夫かな……」
息を荒げながらそうぼやいた梓。
空也は急な斜面で不意に足を止め、汗をぬぐいながら振り返った。
「――何かが、後ろにいる……」
ドキリとした梓と京子である。
がばっと振り返って、必死に歩いてきた道なき道を不安げに見つめた。
「や、ヤマンクロ……でしょうか?」
「だろうね」
空也はそれだけ言って山登りを再開。前を向いて急斜面を登り切った。
「行っちゃうの? 大丈夫?」
「今はまだ距離を詰めてくる気がないみたいだし……まあ、放っておくよ」
「……わかった。神木くんがそう決めたんなら」
「む、無理言って、付いてきた身ですしね」
「二人ともやりやすくて助かるよ。ほら捕まって。そこの地面崩れやすいから」
――――――――――
――――――――――
太陽はまだ天頂付近にいる。
それでも深い藪をくぐり抜けた三人は。
「「「あ」」」
山道のどん詰まり――いきなり開いた空間で、ぽっかり口を開けている洞穴を見つけた。
「つーか、間違いなくこれでしょ」
「あ、案内板とか、全然なかったですね」
「観音洞とか言うわりに、祀られてる感じはないんだな。本当にただの洞窟だ」
草木で覆い隠されているわけではないが、雑草は伸びっぱなしで落ち葉だらけ。人の手が入っている感じはなかった。昔話の舞台なのに、ずいぶん長い間放置されてきたのだろう。
その場にリュックサックを下ろして、ひとまず水を口に含んだ梓と京子。一息つく暇もなく、すぐさま懐中電灯を手にする。
空也は水を飲みながら、無言で背後に意識を向けた。
先ほど感じた怪物の気配はもうない。山はすっかり静まり返り、これだけ緑に溢れているのに『命』の存在があまりに希薄だった。まるで『死』に囲まれているような寒気を覚えた。
「うー。なんか緊張してきたぁ。あたしらここ入るんだよね」
それから三人は持参した食料――ブロックタイプのバランス栄養食――をかじり、人の背丈ほどの洞穴の前に立った。
「いい? 俺が先頭を行くから、二人は後ろから光を当ててくれ」
「何かあったら助太刀した方がいい?」
「いや、それはいらない」
「あ、足元、気を付けてください。濡れてたら、結構滑るかも」
空也はリュックサックを洞穴の前に置きっぱなしにして、身軽な格好で暗闇に足を踏み入れる。
ぞくりとするほどに空気が冷たかった。
梓と京子の手元からそれぞれ放たれる光が洞穴の中を動き回り――先も見えないほどに奥が深いことがわかる。
まるで人力でくり貫いたかのような平坦な横穴。
ごつごつとした岩にスニーカーの靴底を噛ませながら、空也は一歩ずつ穴を進んでいった。
意外なほど天井が高い。二メートルはありそうだった。屈まないでいいのがありがたい。咄嗟の動きができる。
「……この穴、どこまで続いてんのかしら……?」
「こ……ここまで綺麗な穴だと……逆に、い、違和感ありますよね……」
一〇メートル進み、二〇メートル進み――入口の光が小さく、頼りなくなっていく。
ひたすら一直線に進み続け、やがて入り口の光が米粒ほどになった頃――――
「――なにやつ――」
水滴の滴り落ちる音だけが響く静けさの中に、見知らぬ声が生まれた。
懐中電灯の光が回った。
そして梓の懐中電灯が声の主を照らし出した。
洞穴の側壁にもたれかかるように――小柄な人影が座っていた。
「突き刺してくるような、摩訶不思議な灯りよな」
人影だ。
そう……座っていたのは人影そのものだったのだ。
どこにも色のない真っ黒い小男が――厚みと実体感のある人影が、ゆっくりと立ち上がる。粗末な着物を身に纏っているようなシルエットだが、そもそも肌と服が区別できなかった。黒一色で成形された人間が動いている。
その異様な光景に梓と京子がひるんだ。人影を照らす電灯がびくりと跳ねた。
「やれ。ここを人が訪れたのはずいぶん久しぶりなことだ」
空也はその――影男とでも呼ぶべき存在のシルエットをじっと見つめている。
長い棒のようなものを腰に提げているのを見つけて。
「……刀……侍か……?」
油断なくそう推測するのだった。
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