未明に立つ巨人

「迎えに来たぞ! 早く出てこい!」

「みんな心配してるのよ!? いいかげん出てきてちょうだい!」


 社殿の外からはっきり届いた大人の声。


 毛布にくるまって眠りこけていた高校生たちはただちに目を覚まし。

「何でしょう? 今の」

「んだよ。せっかく梓、咲夜ちゃんと夢で……」

「おい。誰でもいい。明かり付けろ」

「何よぉまだ四時過ぎじゃん……もうちょっと寝るぅ……」

「ほら、起きなってば夏奈。神木くんは――当然、起きてるか」

「め、眼鏡――眼鏡が、ないです。あ、あれ?」

「待ってくれ火ノ宮さん。ほら、これ」

 真っ暗闇の中、続々と身体を起こしていく。


 七人全員が社殿の中にいた。外の見張りはいない。

 いや、正確には、大我と晴斗が交代で見張りに立つはずだったのだが、午前三時過ぎに『寒い。眠い。どうせ何も起きないって』と晴斗がサボタージュしたのだ。ちょうど晴斗以外の全員が深く眠っていたせいで、その愚行を咎める人間はいなかった。


「ここにはおらんのじゃないかね。向こうを探してみよう」


 誰かは知らぬ老人の声が聞こえた直後、白熱電球の強い光が社殿の天井を照らす。大我が昨日手に入れた懐中電灯のスイッチを入れたのである。


 しかし――

「やめてくださいっ」

 即座に咲夜が懐中電灯と大我の腕に毛布を被せた。


 すると再び、社殿に暗闇が舞い戻ってくる。


「何しやがる」


 大我が不満の声を上げるが、「……ヤマンクロかもしれません。見つかってしまいますよ」咲夜はそう声をひそめて反論した。


「誰かいるかー! おーい! 誰かいるかー!」


 また別の声だ。今度は中年男の野太い呼び声……不安に駆られた梓が夏奈の身体をギュッと抱き締めた。


 楽天的だったのは晴斗。見張り番を投げ出して熟睡していたことを悪びれもせずに、「助けが来たんじゃねーの」と軽口を叩く。


「こんな夜更けに?」

 そう言ったのは空也だった。


「この村は怪物の巣だ。誰であろうと、わざわざ危険を冒して夜中に動くとは思わないけれど」

「でもよ、オレらを探してるっぽいぜ?」

「今までの怪物だって言葉を使ってた。もともとヤマンクロは、『空言を発し、生者を山に引き込む怪』らしいし。ねえ、火ノ宮さん」

「はっ、はいっ。そうです。そのとおりです」


 真っ暗闇の中、空也は手探りで荷物を掻き集める。手にしたリュックサックを適当に分配していき、それからかすかな物音と共に立ち上がった。


「神社を捨てて逃げることになるかもしれない。みんな、水は大丈夫?」


 おそらく自分のものではないリュックサックを背負い、薙刀代わりの柄付きシャベルを手にした咲夜が答えた。

「昨日、神木さんが眠った後、私と相羽さんで全員の水筒に水を入れておきました」


「さすが。それじゃあ、いつでも外に出れる準備をして……あとは静かに」


 そして七人全員が靴を履き終え――スイッチをオフにした懐中電灯を持ったのは梓と京子だ。京子に懐中電灯を押し付けた大我は、その右手に金属バットを握る。


 社殿の中に立つのはブレザー姿の空也一人。


 他の六人は、片膝を突いて、外の状況に息を潜めた。


「いない。いないなぁ。どこに行ったんだあ?」


「池に行ったら死んじゃうよ。おばあちゃん言ってたもん」


「君たち、真面目に探せよ。時間がないんだから」


 いったい何人いるのだろう。先ほどから社殿の中に届く声はすべて別人のものだ。中年男、中年女、老人、子供、青年――似ても似つかない声が次々聞こえてくる。


「……まさか……囲まれてるっぽい……?」

 梓がそんな不安を口にした。


 しかし空也は何も言わない。左手にリュックサックを提げたまま、ひどく落ち着いた雰囲気で外の気配を探っていた。


 高校生たちの心中を占める思いはただ一つだ。

 ――できることならここでやり過ごしたい。さっさとどっか行ってくれ――


 それは、もうすぐ朝が来るのに……という無念に満ちた無言の五分間。唾を飲み込むこともできない緊張と恐怖の五分間。


 やがて。

「見つけたー! 見つけたー! あっちだー!!」

 けたたましい笑い声を伴った嫌な叫び声を最後に、パタリと音が止んだ。


 ……………………………………。


 ……………………………………。


 ……………………………………。 


 一分、二分、三分……いくら待っても何の声も聞こえてこない。


 油断するつもりは微塵もなかったが、ようやく普通に呼吸できると空也以外の六人が胸を撫で下ろしたその時だ。


「見つけたー!! 見つけたー!!」


 社殿の横壁――木の板がいきなり弾け飛んだ。人間の顔面のようなものが室内の暗闇に飛び込んできた。狂ったかのような笑い声が耳をつんざく。


「きゅああああ――っ!!」


 夏奈の悲鳴が走ったのと、空也が前蹴りで社殿の引き戸を吹き飛ばしたのはほぼ同時。

 二枚の引き戸が重なり合う『召合せ』の中央を押すように蹴り抜き、最短時間で逃げ道をつくったのだ。


「神木くん――!!」


「行って!! 走って!!」


 空也の鋭い叫びを皮切りに、大きく開いた出口へと床を蹴った高校生たち。反射的に懐中電灯のスイッチを入れた梓を先頭に、社殿の外の短い石段を駆け下り、境内の地面を踏んだ。砂が舞い上がった。


「ちくしょう! また化け物かよぉ!」

「晴斗! そういやあんた見張りでしょうが! なんで仕事してないのよ!?」

「神木さんは!?」

「まっ、まだです! まだ中――中に、います!」


 そして、事態を確認するために振り返った高校生たちは、懐中電灯の光線が照らし出した『青白い肌の小山』に戦慄する。社殿の側面に顔を突っ込んでいた『異形なるモノ』に息を呑む。晴斗など、驚きのあまり足がもつれ、激しく転倒してしまった。


 それは――巨大な肉ダルマ。


 人体に例えるならば、腰から下が丸ごとない。それなのに、地面から頭までの高さが二メートル半を超えるのだ。


 不気味なほど筋肉質な腕は右腕一本。左腕を失って丸くなった左肩からは、引き千切れた繊維のようなものが、藤の花がごとくにバラバラと垂れ下がっていた。


「京子ちゃん! 懐中電灯!」

「は、はは、はいっ――」


 何とも幅広で、分厚く、ゴツゴツと複雑に隆起した胴体である。隣に並べばグリズリーだって華奢と思えてしまうだろう。体重は一トン近くありそうだ。


 そして京子の持つ懐中電灯の光が当たったことで。

「……おい……眼鏡……何だありゃあ……」

 その胴体の隆起のすべてが、人間の顔面の凹凸によるものだということが判明した。


 ――人面瘡。


 まったく毛のない肌に浮き出ていたのは、人間の顔に薄いゴムを被せたかのような巨大な腫れ物だった。それが、壁のごとき肉塊をびっしり埋め尽くしているのである。


「おえ――」

 転んだ晴斗を助け起こしていた夏奈が、本気でえずく。ふとした瞬間に目に入った肉ダルマの異形が吐き気を誘ったのだ。特に、あの――所狭しと集まった人面瘡が駄目だった。


「あ」

 そう声を上げたのは京子だ。社殿の側壁に突き刺さっていた肉ダルマの顔面が、跳ねるように懐中電灯の光の中に入ってきたから。


 立ち上がった晴斗が「神木だ!」と拳を握る。


 空中に散らばった木片の数々と、大きく仰け反った肉ダルマの頸椎。社殿の中に一人残った空也が上段回し蹴りでも喰らわしたのだろうか。


 巨大な胴体と比べると不自然なほど小さい肉ダルマの頭――ゴルフボール程度の大きさしかない人間の顔面が何十も組み合わさってできた異形なる頭部が、大きくねじ曲がった。

 歯を剥き出しにした何十人もの顔が、もともとどんな容貌だったのかもわからぬほどに歪んだ沢山の顔たちが、ブルンブルンと揺れる。


 空也の打撃の凄まじさがありありとわかった。


 今までの怪物ならこれで終わり。

 いとも簡単に地に伏して、黒い液体を垂れ流していたはずだ。


 ………………。


 しかし肉ダルマは倒れない。頭部を夜空に向けたまま、数瞬停止。


 ………………。


 おもむろに丸太のような右腕を高く振り上げ――――社殿に叩き付けた。


 粗末な木造建築は大砲のような一撃に耐えることができず、幾重にも重なり合う破砕音を上げた。


 壁板、床板の破片が盛大に舞い上がり、もうもうと湧き上がった大量のほこりが肉ダルマの姿を一時覆い隠す。社殿の中にいる空也の安否も明らかではなかった。


「神木くんっ!!」

「神木さん!!」

 梓と咲夜の悲痛な叫び。


 次の瞬間、社殿に向かって駆け出そうとした梓を、「あ、ああっ、あぶないですって!」彼女の服の袖を取った京子が必死に引き止めた。


 金属バットを握る大我が、辺りの暗闇を見渡して舌を打つ。

「化け物はあのデカブツ一匹かよ。妙な小細工しやがって」


 先ほど高校生たちを怯えさせた老若男女の声、しかし境内にいる怪物は肉ダルマだけだ。あの怪物一体が、あれだけの声色を操っていたのである。


「京子ちゃん離してってば! 神木くんが――!!」

「だ、大丈夫っ! 神木さんなら、きき、きっとっ、絶対大丈夫ですから!」


 梓と京子が揉み合うせいで、二人の手にしていた懐中電灯の光が回る。境内のあちらこちらを照らし出し――そのために『立ち上るほこりの内部から飛びかかってきた脅威』にまったく気付かなかった。


「ひゃあ」

 いきなり声を上げた夏奈。


 その悲鳴に残りの五人が注目してみれば、彼女の右手の袖に『白い組み紐』のようなものがくっついている。


 よくよく目を凝らしてみると、組み紐の先端は、異様に小さな赤ん坊の手であった。小さな爪と短い指、むちむちとした肉に包まれた左手が、夏奈の右袖をしっかり握りしめているのだ。それは二〇メートル近く離れたほこりの渦から伸びてきていた。


 そして風も吹かない境内に響き渡った子供の声。 

「ボクもお母さんのところ行きたい」


 直後、夏奈が人間業とは思えぬ力で引っ張られる。一瞬も踏みとどまることができずに、前のめりに倒れる。そのまま土の地面を引きずられた。


「きゃあああああああ――!!」


「片桐さん!!」

 即座に飛び出したのは咲夜だ。

 スカートがひるがえるほどの大きな踏み込みで夏奈に追いつくと、柄付きシャベルで白い組み紐を下段から薙ぎ払う。


 ――――


 夏奈の袖から赤ん坊の左手が外れた。それはそのまま宙をひるがえって咲夜に襲いかかるが、返すシャベルの先端がむちっとした左手を叩き落とした。


「立って!!」


 咲夜に言われずとも、夏奈は四つん這いの格好のまま逃げようとしている。

 それを見て咲夜もきびすを返した。


 しかし、動かなかった左足。


 見れば……紺色のソックスを履いた左足首に、赤子の左手が三つも巻き付いているではないか。人ならざる力で引っ張られれば、尻もちをついて土の地面を滑るしかない。


「く――っ」


 咲夜は見た。ほこりの晴れた社殿脇――赤子の手と組み紐を伝って辿り着く先が、肉ダルマの左肩であるのを。肉ダルマの左肩から藤の花のように何本も垂れていたのは、獲物を捕らえる伸縮自在の触手だったのだ。


 柄付きシャベルを持ち替え、肉ダルマの触手を狙った咲夜。


 シャベルの先は確かに青白い触手を突き刺したものの、切断はおろか、傷一つ付けることもできなかった。高密度のゴムに跳ね返された感触だった。


 そのうち残りの触手すべても伸びてきて……咲夜の手首や胸元、腰、太ももに次々巻き付いていく。色白な肌を青白い触手が締め上げる。スカートはめくれ上がり、白い下着も露わになった。


 地面を引きずられる速度が上がる。


 いよいよ肉ダルマが近くまで迫り、咲夜も観念したのだろうか。

「皆さん行ってください!! 逃げて!!」

 彼女は、こんな時まで――優等生・八剣咲夜――だった。


 そして。


「――しぃぃいっ!!」


 咲夜の決意を台無しにしたのは、突如として肉ダルマの頭部へとねじ込まれた飛び回し蹴り。回転しながら高く跳んだ空也の回し蹴りが、斜め上から叩き込まれたのだ。


 中国武術では旋風脚とも呼ばれる大技。


 崩れかけた社殿の側面から空也が飛び出してくることを予想していなかった京子たちは度肝を抜かれ、肉ダルマさえその動きを止めた。


「神木くんっ!!」

 そう叫ぶことができたのは彼の安否に思いを馳せていた梓だけだった。


 蹴り脚を振り切った空也は地面に着地するや否や、肉ダルマの胴体――人面瘡の一つへと正拳を入れる。


 止まらない。

 正拳はそのまま三連突きとなり、コンビネーションの締めは腰の入った膝蹴りだ。


 常人であれば命すら失いかねない空手家の連撃。

 今までの怪物であれば、黒い液体を吐いて倒れるしかない無念無想の連撃。


 しかし。

「おとーさーん。ちいちゃん来るってー」

 肉ダルマはわずかに動きを止めただけで、太い右腕で空也を薙ぎ払おうとするのだ。まるでハエでも払いのけるかのごとく。


 肘受け。


 突き出した肘で攻撃を受けることで、相手の肉体も破壊する攻防一体の受け技。しかも空也は、受け手側で握った拳にもう一方の手を添えて、思いきり肘を張っていた。


 激突の瞬間――体重移動も行って、圧倒的な体格差を埋めようとする。


「ぐぅ――っ」


 だが無理だ。受けられるわけがない。

 まるで強風にあおられる木の葉のように宙を舞った空也。境内の中央まで吹き飛んで、地面に激突した。縦横に激しく回転して、受け身など取れるわけがなかった。


「神木くん!」

 懐中電灯を握ったまま駆け出す梓。


 京子はその場に立ち尽くし、ガタガタ震えながら肉ダルマに懐中電灯を向けていた。


 その間も必死にもがき続ける咲夜だったが、まったく状況は変わらない。手足を拘束する触手は、紐のように細いといえ、人間の腕力でどうにかなるものではないのだろう。


「く――神木さんでも――」


 空也の打撃を受けて一時的に止まっていた触手が、再び咲夜を引きずり始めた。


「おおおおっ!!」

 そこに現れたのは大河。

 金属バットを天高く掲げると、地面を這いずる触手の束めがけて力いっぱい振り下ろす。一度だけではない。何度もだ。咲夜を連れて行かれまいと、何度も、何度もだ。


「神木くん大丈夫!?」


 空也に駆け寄った梓は、ゆっくりと身体を起こしつつあった空也に懐中電灯を当てる。そして「ひ――っ」ギョッとした。彼の顔半分が真っ赤に染まっていたからだ。


 血。血。血。


 四つん這いだった空也がゆっくり立ち上がると、彼の顎先からボタボタと鮮血が垂れた。


「か、神木く――」

「大丈夫。社殿を壊された時……あの時、板の破片でひたいを切っただけだから」

「切っただけって、その出血……っ」

「……まいったな……あのデカブツ……一応、効いてるはずだけど――」


 そして空也は、心配でうろたえる梓をその場に残して、地面を蹴る。

 一瞬で闇を駆け抜けて――京子の懐中電灯が照らし続ける肉ダルマへと一直線。


 今度は胸元への飛び膝蹴りから入った。


 まるでサンドバッグでも相手にするかのごとく、一撃必殺の拳足で畳み込んだ。


 上段追い突き 中段逆突き 中段肘打ち 上段裏拳 正拳下突き 上段肘打ち 中段膝蹴り 二連上段掌底打ち 中段後ろ蹴り 中段前蹴り 上段前蹴り 中段追い突き 上段縦肘打ち 中段膝蹴り 正拳下突き 中段三日月蹴り 上段追い突き 中段前蹴り 上段逆突き 上段肘打ち 中段五寸打ち 正拳下突き 上段飛び膝蹴り―― 


 的確に人面瘡を叩きのめしていく。


 巨大な壁の足元を流水のように動き回って、肉ダルマの胴体前面を埋める人面瘡は残らず叩いた。


「おっかあ」


 それでもなお殺せない。今度、肉ダルマから飛んできたのは、振り下ろしのストレートパンチだ。


「ちい――」

 空也はそれにカウンターの上段回し蹴りを合わせた。


 威力はあるも、挙動が見え見えのテレフォンパンチ――肘が伸びきったのを見計らって肉ダルマの上腕に両手を置くと、そのまま逆立ちして異形の頭部を蹴り飛ばしたのである。反射的に繰り出した技。軽業師のような一撃だった。


「おっかあああ」

 肉ダルマが鳴いた。


 空也が蹴り飛ばした方に向かって、巨体がゆっくり倒れていく。


 それで空也は、肉ダルマへの追撃を狙って頭側に回り込もうとするのだが――突如突き出された巨大な右手を喰らってしまった。


 ノーガードだったわけではない。

 身体の正面で両腕を交差させた中段十字受けは間に合った。


 だが――またもや体重差がありすぎる。


 巨象に蹴り飛ばされたジャッカルがごとく、あっけなく吹っ飛ばされて土の地面を転がるのだ。


「――お、ぐ――」


 すぐさま立ち上がろうと試みるが、身体が言うことを聞いてくれない。仰向けからうつ伏せに態勢を変えるのが精一杯だった。


 その間にも肉ダルマはもう動き始めている。


「誰かいるかー! おーい! 誰かいるかー!」


 一度は完全に倒れ込み、地に伏した青白い小山。しかし二〇秒もしないうちに、巨大な右腕を支えに立ち上がる。そして、かすかに身をよじりながら、ナメクジがごとくに境内をズルズルと這いずり始めた。


「沼倉さん! もういい! もういいですから!」

 肉ダルマの動き出しに合わせて、再び咲夜が引きずられ始めた。


 必死に金属バットを叩き付けていた大我もいいかげん効果がないと悟ったのだろう。金属バットを投げ捨てると、すぐさま咲夜の身体にしがみつく。重しになろうというのだ。


 咲夜の腕に巻き付いた触手の一本を引き剥がしながら、大我が声を張り上げた。

「なにやってんだぁっ!! 立てや神木ぃぃい!!」


 力強いその声に反応して跳ね起きた空也。

 境内にある屋根付き井戸の近くまで進んだ肉ダルマに飛びかかると、渾身の中段回し蹴りと正拳突きを叩き込んだ。


 当然、この程度の攻撃では、肉ダルマを倒せないことを空也は知っている。


 無心の拳を放った後――単純に一撃の威力が足りない――そう歯を噛むのだ。


 この巨大な怪物をここまで叩き続けてきて、一つ気付いた『印象』があった。素手で殴っているからこそ伝わってくる『肉ダルマの性質』を空手家は理解しつつあった。


 今まで出会った怪物は、その姿形の異様さに驚くことはあったが、どれも殴った瞬間の感触に『妙な物足りなさ』を感じていたのである。


 初めは、上手く急所に入ったのだと思った。しかしその思いは次第に、『夢想剣で不死性を剥ぎ取れば、大角村の怪物は羽虫のようにか弱い』という確信へと変わっていった。


 そこに現れたのが、この肉ダルマ。


 二撃目――本気の飛び回し蹴りを顔面に入れた時、今までの怪物とは明らかに感触が違った。

 それは、今までの怪物とは段違いの『命の強固さ』……こいつを倒すのは骨が折れるぞ、という確かな予感だ。


 最初は『やたらと頑丈な怪物』なのだと思った。しかし打撃を積み重ねた今、空也の拳と武術家的感覚は、肉ダルマが『数多の怪物の複合体』という事実に辿り着いている。


 ……なんとなく……こいつの腹ん中に、未消化の怪物がまだいるっぽいんだよな……。


 風が吹けば飛ぶようなか弱い怪物どもが出会い、混ざり合うことで、ここまでの巨体に成長した。か弱い命たちが結びついて、生半なことでは滅されぬ命に至った。


「――あっぶな」


 肉ダルマの薙ぎ払いを全力のバックステップでかわして、再び距離を詰める。


 まともに突き刺さった正拳追い突き。

 ――しかし威力が足りなくて、神殺しの一撃にはならない――


 最高速度で繰り出した追撃の正拳逆突き。

 ――しかし連打の速度よりも、怪物の命が再生する方が速い――


 まるで『川』を相手にしている気分だった。足元の水を散らしても、次から次へと新たな水が注ぎ込み、永遠に途切れることがない流れ…………どうしても倒したいというのなら、『川の地形を変えるぐらい強力な一撃』がいる。


「――神木くん!!」


中段前蹴りを肉の壁に深々と突き刺した直後、唐突に暴れ回った肉ダルマの右腕に空也が巻き込まれた。また枯れ葉のように吹き飛ばされて地面を跳ねる。


 駆け寄ってきた梓が、涙にかすれる声で言った。

「も、もう……もう無理だよ。勝てるわけ――」


 だが――


「無理じゃない……っ!!」


 今度も空也は、その腕を力いっぱい地面に突き立てた。


 砂にまみれた全身を震わせながら、血まみれの顔面で思いっきり歯を食い縛りながら、それでもなお渾身の力を込めて立ち上がろうとする。


「どうして――」


 たったそれだけ口にして言葉を失った梓に、身体を起こしながら空也が応えた。


「ここで尻尾を巻けば空手家としての俺が死ぬ」


 その声は苦痛と疲労に満ち、あまりに弱々しく。


「別にさ……有名になりたくて、誰かにいい顔がしたくて、毎日稽古してきたわけじゃない」


 しかしいまだ彼の身体の奥底に灯る『火』は消えていない。


 今にも泣き出してしまいそうな梓の肩を手掛かりに、必死に立ち上がりながらも、空也の声はまだ死んでいなかった。


「どうしても逃げ出したくない時に、意地を張らにゃあならん時に――」


 強大すぎる脅威を目の前に、空也の意志は少しだって絶望していないように聞こえた。


「ほんの少しでも、一秒でも長く、その場に立っていられるように」


 どうにかこうにか立ち上がることができた空也は、梓にボロ雑巾のような身体を支えられ、京子の懐中電灯が照らし続ける肉ダルマを見やる。また拳を握る。


「ようやくだ」


 滴り落ちる空也の顔の血が、ポタポタと梓の服の右袖を汚した。


「ようやく俺の一〇年が試される時が来た」

 そう言う空也の身体が少しずつ前傾姿勢へと変わっていく。


 梓は、若き空手家が走り出す瞬間まで彼の身体を支え続け――空也の血が付いた右袖で瞳に浮かんだ涙をぬぐった。


「敵は怪物、おあつらえ向きだ。むしろ足りないぐらいだ」

 そう呟いてかすかに笑った空也。


 その直後、「ぎゃああああああああああああああああああ!!」とヤケクソに叫びながら肉ダルマに向かっていく人影がある。


 ――晴斗だ。


 大我が放り投げた金属バットを手に、たった一人、果敢に肉ダルマへと向かっていった。


 思いきり振りかぶった横殴りの一撃。

 しかし当然、力任せの攻撃が肉ダルマに通用するわけがない。

 それどころか、二発目を振りかぶったと同時に、肉ダルマの右腕に身体を薙ぎ払われた。


 あっけなく吹き飛ばされて地面で三回バウンドした晴斗。


 そして――――その時には、空也はもう地面を蹴っている。


 まるで、晴斗が命懸けでつくってくれたわずかな隙を逃すまいと、一切の出し惜しみのない踏み込みだった。


「ヒグマを殺すしか能のない技――」


 その瞬間、空也の脳裏を走ったのは、かつて交わした父とのやり取り。

 あまりにも複雑な身体操作を要求するその技の習得に手こずり『こんな技、使い道ないって』とふて腐れた空也に、彼の父は『いつかヒグマと戦う時に』と笑った。


 あの時は、馬鹿なことを――と呆れ果てたものだが、図らずも『その時』は来たのだ。


 使う機会などあるわけがないと、空手の身体操作感覚をつちかうためだけと――そう割り切って身に付けた技が、必要とされる時が来たのだ。


 ――神木隆也――


 不世出の空手家である父がこの技を生み出していてくれて、この技を自分に伝えていてくれて――本当にありがたいと思う。


 たったの五歩でトップスピードまで加速した前のめりの空也。

 その動きはまさしく暗闇を切り裂く猛虎のごとし――その躍動感を目撃してしまった高校生たちは、誰もが彼を美しいと思うのだ。


 そして空也は、父から伝えられた技を胸に、大地を蹴る。


 全身全霊をもって高く跳ぶ。


 ――猛禽類の狩りのごとく腕を広げて空から襲いかかった、その技――


 ――その秘拳の名は――


「いかずち」


 ――豪拳・雷――


 空也の腰が勢いよく右に切られた。

 右方向にねじれた上半身から一瞬遅れて、空也の左手がかすむ。

 腕を薙いだばかりで動きのない肉ダルマの頭部側面に向かって、旋回式の左掌底打ちを打ち込もうというのだ。


 だかしかし――その時にはすでに、空也の腰は大きく左に切り直されていた。


 左に向かおうとする腰の動きに付いてきたのは、右の肘だ。今度は必殺の右肘打ちが肉ダルマの顔面を狙う。


 結果――左掌底撃ちが肉ダルマの頭部側面を捉えたのとほぼ同時に、右の肘打ちでそれを挟み打つ形となった。


 逃げ場を失った衝撃が、肉ダルマの頭部を駆け巡る。


 とはいえ『雷』はまだ地に落ちない。

 左掌底と右肘で挟み打った肉ダルマの頭を中心に、空也は身体を一気に回転させた。

 それはさながら、獲物に噛み付いたワニが肉をねじ切るために水中で回転する『デスロール』である。


 ――――――――


 遠心力の加わった衝撃に耐えきれず、やがて変形限界を迎えた肉ダルマの頭部。空也の左掌底と右肘の間でいきなり破裂した。


 そして空也は、最初の跳躍の勢いそのままに、肉ダルマの肩口を抜けてその背後の地面に突っ込む。まともな受け身を取ることもできず、ほとんど頭から地面に飛び込んだ。


 すべてが一瞬の出来事だった。

 すべてがすれ違いの瞬間に起きたような大技だった。


 最後の気力を振り絞って動き出した空也は、左の掌と右肘が濡れていることに気付き、視線を回す。

 見えたのは、懐中電灯の強い光の中に立ち尽くす肉ダルマ…………やがてそれがゆっくりと前方に倒れていく光景だった。


 ズシンと地面が揺れた気がする。


 ………………………………………………。


 よろよろと立ち上がった空也は真っ先にブレザーの上着を脱いだ。肉ダルマの頭が破裂した時に黒い液体で濡れてしまったからだ。左の掌もブレザーでぬぐって、シャツ一枚になる。


 今更になって、初めに脱いでおけばもう少し動きやすかったかもなと思った。強敵の出現に舞い上がっていたらしく、自分がどんな格好か気にもしていなかった。


「神木くん! 今の何!?」

「す、凄いですっ! 途中から全然っ、わ、わかんなかった、です!」

「さ、咲夜ちゃぁん!! あたし、あたしっ、怖くて全然動けなくて――」


 懐中電灯を持った梓と京子が空也に駆け寄ってきて、そして手ぶらの夏奈は咲夜の元へ向かう。


「……………………」

 その間、空也は肉ダルマをジッと見つめ続けるが、人面瘡だらけの巨体が立ち上がることはもうなかった。


 梓に言って懐中電灯の光を向けてもらえば、空也の粉砕した顔面から黒い液体が止めどなく流れ出ているのが確認できる。ゴポッゴポッと鈍い水音を立てながら、井戸の方にまで届きそうな巨大な水溜まりをつくろうとしていた。


 ――八剣さんはどうなった――

 そう思って振り返った瞬間、少しふらついてしまう。


「ほら神木くん。肩貸したげるから」

「ごめん。助かる」

「だ、大丈夫ですか? ほ、骨、とか――」


 梓に肩を貸してもらいながら、もう動き出すことのない肉ダルマの触手――それが伸びる先へと歩みを進めると。

「…………あ……神木さ……ん…………私……もう、駄目かと……」

 梓と京子の懐中電灯に照らし出されるのは、いまだ肉ダルマの触手に縛られたまま仰向けに倒れた咲夜であった。


 大きくめくれ上がったスカートから真っ白な下着が見えている。


 胸元に巻き付いた触手のせいで、あからさまに強調されたクラス一の巨乳。


 長い黒髪は乱れに乱れ、顔のあちこちに張り付いて、何やら妙に色っぽかった。


 よほど怖ろしかったのか、それとも助かったということがいまだ信じられぬのだろうか。咲夜は「……ここ……天国じゃないですよね……?」と、呆然とした美貌を仲間たちに向けるのだ。

 まだシャベルを力いっぱい握りしめていた。


 そんな咲夜を見下ろして、空也、梓、京子、夏奈、大我の五人が、一様に苦笑を浮かべる。


 咲夜を守ろうとして砂だらけになった大我が、服の砂を落としながら言った。

「礼なら神木に言え。何とかしたのはこいつだ」


 その時、ふと空を見上げた空也。

 空にうっすら色が付き始めていることに気が付いたのである。


 ――漆黒から深い藍色へと。


 ――星明かりの降る空から陽光に染まり出した空へと。


 きっと夜明けが近いのだろう。


「――ちょっとぉ~……」

 かすかに聞こえた声。


 咲夜を除く空也たち五人が声の方を向けば――肉ダルマに吹き飛ばされた晴斗が、クスノキの大樹の根元で情けない声を上げているではないか。


「……め、めっちゃ身体痛いんだけどぉ……こんなの、ほとんど交通事故じゃんよぉ……」


 それで空也と梓は。

「大丈夫? さっきは助かったよ」

「晴斗ぉ。神木くんは、それを何回も喰らってんだからね」

 倒れたまま動こうとしない晴斗を助け起こすために歩き出すのである。


 ――――――――


 あと何十分もしないうちに日の出がやって来る。


 鳥も鳴かない、風も吹かない――そんな静かな黎明に、空也は太陽の昇る音を聞いた気がした。


 そして夜が終わる。

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