第一部 終章~人々の日々の中に~
大角村に迷い込んだ三日間は、現実世界では数時間の出来事でしかなかったらしい。
高校生七人が行方不明になって警察沙汰というわけでもなく、空也たちの担任である体育教師の暴挙に慌てた教師たちが周囲を探していたぐらいだ。
骸井神社にいた咲夜たちも山の方から押し寄せてきた鉄砲水に巻き込まれ、気付いた時にはダム湖の岸辺に流れ着いていたのだという――七人全員ずぶ濡れのままダム湖の周囲を歩いていたところを教師たちに見つかり、ダム湖で泳いだことを叱責された。
だが、その場で即時帰宅を命じられたのは逆に好都合だったかもしれない。七人とも疲労困憊で、林間学校のカリキュラムに参加できる状況ではなかったからだ。
学年主任の女教師に叱られている間、七人は何一つ言い訳をしなかったし、大角村のことはおくびにも出さなかった。どうせ信じてもらえないと高を括っていた。
なにせ――何の証拠も残っていないのだから。
元の世界に帰ってきて、気付いた時には手持ちの電子機器はすべて壊れてしまっていた。防水機能のあるスマートフォンでさえもデータが飛んでいたのである。大角村の写真を何枚か撮ったはずだが、すべて失ってしまった。
とはいえ……オカルトマニアの京子以外、それを惜しいと思う者はいなかったが。
その後、連絡を受けた家族たちが続々と迎えに来てくれる。
真っ先に飛んで来た夏奈の母親が『うちの子は何も悪くないのに置いていかれたんですよ!? 教育委員会に訴えさせてもらいますから!!』と大騒ぎし――学年主任の女教師が言うには、生徒を路上に置き去りにした体育教師には厳しい処分が下るそうだ。
しかし、それを横で聞いていた少年少女は、体育教師のことなんか正直どうでも良いと思ってしまう。あの問題教師が休職になろうが、退職になろうが、自分たちは『あの異世界から生きて帰ってきた』のだ。教師一人の去就など小さなことに思えた。
そんなことより一刻も早く家に帰りたい。
空也の父は、運転する車の中で「何か、いい経験をしたみたいじゃないか」と言ったきり。何があったのかという当然の追及すらなく、いつもの飄々とした調子だった。
後部座席の空也はそれを嬉しく思いながら、深い眠りに落ちていった。
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大角村の一件から一か月後の六月下旬。
梅雨の晴れ間の昼休み。
空也は、体育館横のベンチでライトノベルを読みふけっている。
「またエッチな小説読んでるの?」
ちょうどヒロインが裸にひん剥かれたシーンだったから、反射的に顔を上げた。
白金髪の美少女と黒髪の美少女――梓と咲夜だ。
ニヤニヤ顔の梓が、昼食前に行われた体育の授業のことを口にした。
「さっきのバスケ見てたよぉ♪ 派手にずっこけてたじゃん」
すると咲夜が明るい苦笑を浮かべつつ小さく頭を下げるのである。
「お休みのところ申し訳ありません。ちょっとお邪魔してもいいですか?」
空也が同席を了解するよりも早く、勝手に両隣に座られた。
右隣に梓、左隣に咲夜だ。
「なんかさぁ、ワンテンポ遅いのよ。全部の動きに変なタメがあるっつーか。あれ絶対、空手のせいでしょ」
「というよりは、『わざと普通に動こう』として無理をしている感じです」
「もうさ、全部バラしちゃえばいいじゃん。そしたら体育で大活躍できるわよ?」
「少なくとも反応速度では誰も太刀打ちできません」
両手に華だ。
さっきまで誰からも見向きされないオタク一人だったのに、今はミスコンの決勝戦みたいな様相を呈している。その光景に出くわした生徒たちが皆、なんだあれ? みたいな怪訝な顔で通り過ぎていった。梓と咲夜がその美貌で有名なせいか、「真ん中の人、誰?」とか聞こえた。
空也はカバーのかかった文庫本を閉じて、「今日も暑いねぇ」と。
「そういえば神木さん。昨日の夕方、沼倉さんと河川敷走っていました? 犬の散歩中、お二人らしき姿を見かけたのですが」
「たまたま鉢合わせてね。沼倉くん、なんかボクシング始めたらしいよ」
「へえ、あの不良が。いつまで続くかしらね」
それから梓と咲夜が少しだけ声量を抑えて言った。
「でさ――京子ちゃんのサイト見た?」
「ついに逆さ観音の登場まで話が進みましたね」
大角村の一件以来、学校を休みがちになった火ノ宮京子。今日だって学校を休んで自身が運営するオカルトサイト『ナコトちゃんねる』の更新に励んでいるに違いない。
彼女は、高校生七人が異世界に迷い込んだ『大角村事件』を題材に、一大ルポルタージュを執筆しているのだ。
巨大オカルトサイトの管理人自身が体験した超常現象――ネット上のオカルト界隈では、連日その真偽が議論され、何はともあれ話題になっていることは間違いない。今のところ、本当だという声とフェイクだという声がちょうど半々だろうか。
「あたしさぁ、神木くんのことが凄腕退魔師って書かれてるのが、もうおかしくって」
「まあ……空手の達人と書いても、読者を混乱させるだけでしょうし」
「神木くんと八剣さんは、あれ、意味わかった?」
「あれとは?」
「昨日の更新された記事に載ってたじゃん。『我々は戦国時代に発生した異世界に迷い込んだのだろう』って奴。じゃあさ、五〇〇年近く、あの場所はあったわけ?」
腕を組んで首をひねる梓。
彼女の疑問に「そうじゃない」と答えたのは空也だった。
ベンチの背もたれにもたれながら、どう説明するのが一番かとしばし考える。
「時系列に意味はないんだ。友江輪之助に斬られた瞬間、逆さ観音は、未来に存在するダム工事直前の大角村を自分の元に引き寄せた。逆さ観音はあらゆる時間の外側にいるんだよ。時間の外側から、過去、現在――そして、それこそ世界の終わりまでの未来に干渉することができる」
「……ほんとに、全部が全部……『こっち側の時間軸』とは関係ないってこと……?」
「ああ。異世界が生まれた時点で、逆さ観音と友江輪之助が通常時空から外れるから――戦国時代、大角村の村人は、逆さ観音が斬られたことも知らないはず。せいぜい友江輪之助が山から下りてこないって思ったぐらいなものさ」
「……どうにも納得いかないのよねぇ……大角村は異世界にされた。でも、あの村って、今はダムの底に沈んでるんでしょう?」
「ダム工事が行われたんだから、そうだろうね」
「村そのものが『時間の向こう側』に行ってるのに、どうやって工事すんのよ」
梓の率直な疑問に、空也は自身の顎を撫でる。
そう考え込むこともなく一つの仮説に辿り着いた。
「逆さ観音を倒したことで、俺たちは村から帰れた。多分その時、大角村も元の時間に戻ったんじゃないかな。……怪物はどうなったか知らないけど」
それを聞いて腕を抱いた梓。
「怖いこと言わないで。あいつらが『こっち』に来てたら、それこそ大問題じゃん」
この世に解き放たれた『大角村の怪物』を想像して身を震わせるのだ。
空也と梓の会話を静かに聞いていた咲夜が、率直な思いを口にした。
「私たち、ずいぶんと壮大な話に巻き込まれたのですね」
すると空也は薄く笑っただけ。
その後、幾ばくかの沈黙の後。
「結局、逆さ観音とはなんだったのでしょう?」
咲夜にそう問われると、空也は何の迷いも無く「何かの事象」と即答した。
「事象? 神ではなく?」
「人間にとっての神ってものがいるとしたら、それは骸井神社の幽霊のことだよ。何らかの意思を伴った超越者。だけど逆さ観音は、そんな感じじゃなかった」
「……そういえば神木さんは前にも、逆さ観音を『機械みたいだった』と……」
「この世界を形作るルールとか、未知の物理現象……そういうものが特別に形を成したのが、逆さ観音なんじゃないかと思ってさ」
そして空也は、手にしていた文庫本をブレザーのポケットに無理矢理突っ込む。
「まあ、ただの素人考えだよ。根拠があって言ってるわけじゃない」
文庫本のサイズが少し大きいのか、ポケットにちゃんと入りきらず、大きく斜めにはみ出している。少し動くだけでこぼれ落ちてしまいそうだった。
それから空也は、「でも――」すっくと立ち上がり。
「人類の科学が発展しつづけたら、いつか、逆さ観音にも別の名前が付けられる日が来るかもね」
おもむろに肩のストレッチを始めるのである。
ベンチに座ったままだと、通行人からの視線が気になった。やはりこの二人と一緒にいればすぐさま針のむしろだ。注目を集めすぎる。
わざとらしく美少女二人から離れた空也をジト目で見上げた梓。
「……夏奈の奴、晴斗と付き合うんだってさ」
何の前置きも無く、いきなりそんなことを言い放った。
肩を回していた空也は「へえ……」と喉を鳴らすしかない。
「絶対に浮気されるからやめろっつってんのに、あの子舞い上がっちゃって……ねえ神木くん。どうすればいいと思う?」
「え?」
「どうすれば、あの子、考え直すと思う?」
大角村と逆さ観音のことは饒舌に話した空也だったが、色恋沙汰の話を振られると途端に言い淀むのである。
「――い、いや……どうすればって……」
気まずそうに後頭部を掻きながら、梓から視線を外した。
すると、いつになく情けない空手家の姿に、「あっは! 俺にそれ聞く? って顔ね」梓が吹き出すのである。
恋愛経験のない空也をあざ笑う意図などまるでなく――空手家の反応がただただおかしくて、からから笑った。
屈託のない梓の笑い声。
空也はそれを聞きながら無心で肩のストレッチを再開するのだが、ふとした拍子にポケットから文庫本を落としてしまった。
梓が地面に落ちた文庫本に手を伸ばす。
空也はだいぶ反応が遅れた。ベンチの上の梓がパラパラと文庫本をめくるにつれて、表情を無くす。当然だ。今読んでるライトノベルは、挿絵が一段と過激だったから。
しかし梓は扇情的なイラストには何も言わず、ただ一言「髪、伸ばそうかな」とだけ。長髪のメインヒロインを意識しての言葉だろうか。
「エッチなのもほどほどにしなくちゃダメだぞ」
ニヤニヤ顔ではあるが、すんなり文庫本を返してくれる。
空也はそれをあわあわと両手で受け取るのだった。
そんな二人の様子を眺める咲夜はほがらかな笑みだ。空を見上げ、流れる雲に言った。
「……いい天気ですねえ」
明日からはまた雨模様が続く予報。
しかし、青春の日々を送る高校生たちにとっては、この一瞬一瞬こそが宝石なのだ。外野の声など気にしていられない。
例えば――たった今、空也たちの前を青い顔で歩いていった女子生徒たちのやり取り。
「やっぱそのリプライおかしいって。あんた鍵アカでしょ? 知らない奴から返信が飛んでくるとかあり得なくない?」
「うん……『赤い目になってください。会いに来ます』とか、何のことだか……」
「ほんとに心当たりないの? 実はフォローしてたとか」
「知らないよ。『コトノシ』なんて奴――」
そんな不穏な会話、三人には少しも届いていなかった。
第一部 了
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