遠く、耳鳴りが(下)
あらかじめ暴漢の接近に気付いていたわけではない。
真横から飛んできた角材を見たわけでもない。
しかし空也は振り向きざま咄嗟に両腕を上げていた。無意識のまま、頭部を守る防御姿勢を取っていた。
角材の直撃を防いだ『空手家の本能』とでも呼ぶべき危機察知能力――それがなければ命にまで届く一撃となっていたことだろう。頭蓋を砕かれ、無残な最期を迎えていたはずだ。
筋肉をしっかり備えた前腕が角材の間に割って入り。
「――ぐぅ――っ!」
とはいえ、衝撃のすべてを殺せたわけではない。
強く押し込まれた前腕が側頭部にぶつかり、結果、脳を激しく揺らすことになった。
角材の折れる音が聞こえたのと同時、目の前が真っ白になって何も見えなくなる。
呼吸が乱れ、脳に流れ込む血流さえ痛いと感じた。
――不覚――
そう後悔して歯を噛んだが、今さら自身の油断を嘆いても仕方がない。無理矢理にでも呼吸を回すしかないのだ。酸素が肺を駆け巡る度、視界に色が戻ってくる。
視力の回復まであと呼吸三回。
しかし暴漢の追撃にはとても間に合わない。
下腹部辺りにずしりとした重さを感じ、すぐさま体当たりを喰らったとわかった。
「ち――ぃ」
力任せのたどたどしいタックルだ。普段の空也ならば苦も無く対処できたはずだし、カウンターを合わせることだってできただろう。不測の一撃にやられる前の空也ならば……。
身体がふわりと浮かんだ感覚。
空也は少しも踏ん張ることができなかった。勢いよく押し倒された瞬間、地面に後頭部を打ち付けないようにするぐらいが精一杯だった。
冷静に息を吐く。落ち着いて息を吸う。無駄な動き一つなく、ただただ回復に努める。
空手家は脳震盪の対処法を知っていた。
だからこそ今度は間に合ったのだ。
――鈍い銀色――見過ごしてはならぬそれを視界に捉えることができた。
腹の上に馬乗りになってきた男がためらいもなく振り下ろした白刃。
すんでのところで男の左手首を右手で掴む。
「んぐっ――!!」
次の瞬間、聞き慣れぬうめき声だ。驚異的とさえ言える空也の握力に驚いたか。
……いや、違う……。
暴漢は確かに声を上げずにはいられぬほどの激痛を感じたのだろう。
……指が……空也の左親指が、暴漢の右目を深くえぐっていた。
目突き。
古流空手では当たり前に用いられる技術が、空也に逆転の機会を与えたのだ。
潰れた眼球から指を抜かず、それどころか暴漢の眼窩に親指を引っかけた空也。
「ふっ!」
あろうことか、そのまま真横に投げ飛ばすのである。
すると――いとも簡単に腹の上から男の影が消えた。
如何な暴漢といえど無条件反射に抗えるわけがない。もしも頭と一緒に横っ飛びしなければ、空也の指が眼窩を突き破ったはずだ。暴漢がマウントポジションを捨てたのは、極自然な動物的反応だった。
とはいえ、凄腕の空手家がそれだけで良しとするわけがない。
空也の追撃。
まだ立ち上がれそうになかったから地を這って暴漢の腹にまたがった。
相手は刃物を持っている。少しもグズグズするわけにはいかない。
空也は男の人相も確認せぬままに頭部を挟み持つと、最小限の動作で地面に叩き付けた。下がコンクリートならこれで終わりだが、土の地面では多少ひるませたぐらいだろう。
だから、右手を振り上げつつ拳を握った。
――鉄槌――
握り拳の小指側で顔面を叩く技だ。
単純な技だが、その威力は侮れるものではない。鼻骨ごと骨鼻腔を砕くことも容易く、脳にまで衝撃が届けば一撃必殺となりうるのだった。
迷いなく鉄槌が落とされ――しかし男の顔面には届かなかった。
何を思ったのか、圧倒的優勢だった空也がいきなり横に転がったからだ。
――直後に乾いた破裂音。
――遅れて広がる火薬の臭い。
いつの間にか暴漢の手には拳銃が握られており、その銃口から薄く煙が立ち昇っていた。
「……南部……拳銃……」
片膝立ちになった空也が男の手元を睨む。
男が手にしていた黒鉄の塊……それは俗に南部十四年式拳銃と呼ばれる自動拳銃だ。ほっそりとした銃身と後ろに張り出したボルトが特徴的な、旧日本軍で広く用いられた拳銃である。
旧日本軍を象徴する存在として現在でもフィクション作品に登場し、だから空也も見たことがあった。……まさか本物を拝むことになるとは思ってもいなかったが……。
そして……その銃口が自分に向けられるとも……。
「ぐ、ぅ……仕留め損ねましたか……」
先に立ち上がったのは空也だ。歩けないほどの目まいではなくなっていたが、全力駆動ができる状態には程遠い。回復にはまだまだ時間がかかりそうだ。
「それに、目を潰してくるなんて……ただの子供じゃなかったんですねぇ……」
右目を押さえてうずくまる男は、カーキ色の襟付き服を着ていた。国民服と呼ばれる終戦前後の服装だ。現在ではコスプレ会場ぐらいでしか見ることがない。
男に隙があれば拳足を叩き込むつもりの空也だったが、油断なく向けられた銃口のせいで迂闊には動けなかった。
残った左目一つで空也を睨め上げてくる男。
どろりとした情念の込められた視線に、空也は覚えがあった。ピンと来ないわけがない。今朝から探していた『不穏な視線の主』をとうとう見つけたのだから。
痩せぎすとはいかないまでもかなりの痩せ型だ。身長も一七〇センチに届かないだろう。
落ち込んだ眼球やこけた頬、白髪交じりの短髪のせいか、もの凄く神経質そうに見える。
……こりゃまた厄介そうな相手だ……。
それこそが、空也が男に抱いた第一印象。弱そうとは少しも思わなかった。
「柔道……いや、唐手かな……」
銃口を下げることなく、男がよろよろと立ち上がった。膝を伸ばしたと思ったら、前後に二、三歩ふらつき……さっき後頭部を地面に叩き付けたのがまだ効いているのだろう。
幽霊のように少し傾いて立つ男。
「…………………」
空也は背中にじっとりと汗が滲むのを感じた。
男の、異様ととも呼べる凄み。いつでも踏み込めるはずなのに、簡単にはそうできない自分がいる。この男とは命のやり取りはしたくない――そう強く思うのだった。
それと同時に――この男、どこかで見たことがあるような――胸をざわつかせたデジャヴ。
不意に、男が銃口で空也のブレザーを指しながら言った。優しげなかすれ声だった。
「しかし君、その格好は何です? 英国の紳士みたいな」
空也はそれには答えず、ただ一言。
「……平子義雄か」
瞬間、男の残された左目が見開いた。
しばらくの沈黙の後。
「いかにも」
かすかな笑い声が夕暮れに紛れて消える。
「いかにも僕が平子義雄です。まさかとは思いますが、君たちは警察の協力者ですか? 少年探偵団とかいうのがこの頃流行っていると聞きますが」
「違う。ただの学生だ」
「ほお。ただの学生が唐手を使う」
冷静を装いながらも空也は驚きに目をしばたたいた。まさか本当に『平子義雄』であるとは思いもしなかったのだ。まさか本当に、『終戦直後の殺人鬼』だとは……。
火乃宮京子が昨晩語って聞かせてくれた『大角村に消えた殺人鬼』の話――七人の女と三人の警官を殺したという男のイメージになんとなく当てはまったから、口に出た名前だった。
空也に男の名前を言い当てるつもりはまるでなく、会話の糸口を見つける程度の、脳震盪が治まるまでの場繋ぎになればいいぐらいの気持ちで発した言葉だったはずなのに。
そして――空也の胸中には一つの疑問が浮かんでいる。
この男が平子義雄だとして、さすがに若すぎないか? という当然の疑問だ。
戦争が終わってすでに七〇年以上。普通に考えれば平子義雄とは一〇〇歳前後の老人のはずだろう。それなのに、目の前にいる男は多少やつれてはいるものの三〇歳そこらにしか見えなかった。まったく意味がわからない。
……まあ……今は考えなくてもいいか……。
「平子義雄。あんた、本当に人を殺したのか?」
すると平子は当たり前のように微笑んだだけ。一つの言い訳もなかった。
「僕のことが書かれた新聞でも読んだのですか? ならば、そのとおりですよ。新聞記者は嘘偽りなく書いたのでしょう。たくさん殺した――とても、たくさんね」
「……いったいどうして?」
「……耳鳴りが、ね……」
「耳鳴り?」
「ええ。いつの頃からだったか、鳴り止まぬ耳鳴りに悩まされてまして。ほら、今も聞こえる」
「……へえ」
「あんまりにもうるさくて首吊りも考えたのだけれど、ちょうど歩兵連隊への入営も決まった頃だったし、御国のために死ぬのも悪くないと思ったんです。それで大陸に行って、初めて人殺しというものをやった」
その瞬間――なるほど――と合点がいった空也である。
なるほど、道理で怖いわけだ。
凄腕の空手家が容易に踏み込めなかった理由、それは平子が拳銃を持っているからではない。この痩せ男が、太平洋戦争の最前線を生き延びた人間だからだ。
実戦経験がまるで違う。
いくら空也が何千と組手を繰り返そうとも、戦争という壮絶な命のやり取りに勝るわけがない。凄惨な最前線、悲惨な消耗戦……この殺人鬼はそんな地獄をくぐり抜けた本物なのだろう。
「そうしたら、あんなにうるさかった耳鳴りがパッと消えましてね。何日かしたら元に戻るのだけれど、殺す人間はいくらでもいたから……ああ、懐かしいなあ……あの戦争は極楽そのものだった。終わったと聞いた時は愕然としたもんです」
「まさか、終戦後に女性を殺したのは、耳鳴りを消すために?」
「まさかも何も。僕の望みはそれしかない」
あまりにも独善的な理由。殺された女たちのことを考えて、思わず空也は「むごすぎる……」と唇を噛むのだった。
平子には聞こえなかったらしい。
「僕は人殺しさえ許してくれればそれでいいのに、あの警官たち色々うるさくて――」
やがて気を取り直したように問いかけてくる。
「山に入ってもう四日。命からがら大角村に辿り着いたら、人っ子一人いないじゃないですか。前に来た時と幾分か村の様子も変わっているみたいだし。君、何か知っていないです?」
吐き捨てるように空也は言った。
「そりゃあ……殺人鬼がやって来るから逃げたんだろうね」
「やれやれ、おかしな冗談を言う子供だな。君らもこの村にはびこる怪物を見ただろう。あれはこの世ならざる者どもだ。それに、味のしない水と野菜……」
「――それよりも、だ。どうして俺たちを見ていた?」
「何のことです?」
「朝からずっと俺たちを見張っていたろ? もう耳鳴りを我慢できなくなったのか?」
すると、きょとんとした顔の平子。
だんだんとその顔が歪み、完全な笑みとなった。
「これだから唐手家は。無駄に勘が良いから、やりにくいったら。気付かれていたとはなぁ」
一方の空也は。
「……気付くさ、さすがに」
何言ってんだこいつ……とでも言いたげだ。
あんな情念まみれの視線に気付かない武道家がいるものか。あれで隠れていたつもりかよ。
「わかりますよ。唐手家は相手の機微にさといのですよね」
平子と話していると調子が崩れる。なんだか気持ちが悪い。言葉の端々からにじみ出る狂気にあてられて、悪酔いしたみたいだった。
「当て身を得意とする武術は、やはりその辺り敏感なんですねえ」
それに――この男は片目を潰されて、どうして平然としていられるのだろう。
「ずいぶんと空手のことを知っている素振りだ」
「昔、同じ部隊に琉球の人間がいましてね。あれが唐手を使った」
「へえ」
「それは凄まじいものでしたよ。鉛玉が切れても敵に向かっていくのだから。鬼神のごとき、とはああいうことでしょうね」
そう言った平子が一歩にじり寄り、空也は一歩下がった。
平子が拳銃の引き金を引かない理由――それは空也が潰した右目が平子の『利き目』だったからに違いない。
利き手、利き足と同じように目にも利き目がある。利き目が使えなければ銃の命中精度は極端に下がってしまうのだ。片目を失ったばかりならば尚更だ。
空也との間に横たわる五メートルすらも、今の平子には果てしなく遠いのだろう。
そして空也はそのことに感づいているから、平子を近づけさせないのだった。
「なに、君らを見ていたのは、こうやって話しかけてもいいものか吟味していたわけでしてね。今朝方、ひどい目にあったものですから」
「へえ。人間と間違えて怪物にでも話しかけたかい?」
「ご名答。僕は昨晩の夜半過ぎに村に着いたのだけど、いくら村を回っても家はもぬけの殻。やっと人影を見つけたと思ったら、そもそも人ではなかった」
「同情するよ。俺たちと同じだ」
「奴らはこの銃で撃っても意にも介さない。そして、月明かりの向こうに見た異形の一団……いよいよこれは幻覚か、気でも触れたかと思った時に君らを見つけたのですよ。最初は奴らの仲間かと思ったのですが、僥倖でした」
「こっちは最悪だよ。あんたみたいなヤバいのに目を付けられて」
「美しい少女が二人いるでしょう」
「――――」
その瞬間、空也の纏う空気が一変した。
「一人殺させてもらえませんかね?」
おぞましい提案をあっけらかんと放つ平子。
そんな彼をじっと見つめて、空也の両眼は凍土のように冷たく、深淵のように暗く、朝の森のように静まり返っていくのだった。
「かっ、神木くん!? さっき凄い音しなかった? 何か破裂したみたいな――」
何も知らぬ梓が背の高い草木を掻き分けて戻ってきても、空也は微動だにしない。
空也と平子のちょうど中間辺りに現れた金髪美少女。
平子の存在には少しも気付いていなかったらしく、大角村で初めて見る仲間以外の人間にひどく混乱するのだった。
「え? え? あれっ?」
そしてそんな梓に向かって、平子は片目の潰れた笑顔を向けた。
「どうも初めまして。僕は平子義雄といいます。こちらに来てもらえますかね?」
梓がそのまま従うわけがない。
彼女の視線が注がれていたのは、平子の手元――空也に向けられた南部十四年式拳銃だ。この国民服の男が何者かは知らないが、空也とトラブルになっていることは一目瞭然だった。
迂闊に動くべきではないというのは小学生でもわかる。
恐る恐る空也のそばに寄ろうとして――しかし。
「早くこっちに来いって言ってるんですよおおっ!!」
不意の怒号。
梓の肩がビクンっと跳ね上がり、顔の表情筋すべてが硬直した。拳銃を構えた男にそんなことを叫ばれたら誰だって顔面蒼白になるだろう。
動くことも声を上げることもできず。
「――――っ」
真っ白な顔で空也と平子を見比べる。
やがて……。
やがて梓は……平子へと小さく一歩近づいたのだった。
「いい子だ、いい子。物分かりのいい娘は大好きですよ。ほら、もっと。もっと近く!」
これ以上男を激昂させては空也の命が危ない――聡明な彼女はそう判断したのだろう。
平子の乱暴な手招きに従っていたら、いつの間にか手が届く距離にまで近寄っていた。
「綺麗な髪ですねえ。外人の血が混ざっているのですか? こんなの、どこの色街探したっていませんよ」
平子に腕を回され、力いっぱい抱き寄せられる。
「実に若いなあ。香りもいい」
潰れた右目を押さえていたせいで血まみれとなった右手に髪を撫で回された。白い金髪に平子の鮮血が塗りたくられていく。
しばらく梓の体温を堪能していた平子だったが、ふと空也へと目を移し。
「さて、唐手家くん。これで僕の方が有利になりましたねえ」
嫌らしくほくそ笑むのだった。
空也は身動き一つしない。平子の右手に梓の身体が弄ばれる光景を静かに見つめている。
「………………かみ、き……く…………」
身を固めて、ただただ恐怖に震える梓。
何の事情も知らぬまま突然捕らわれの身となった少女が、今にも泣き出しそうな顔で空也を見ていた。
「僕はねえ……僕は、一目見た時からこの美しい少女を殺したかったのだけど、君が邪魔で仕方なかったんですよ。邪魔で邪魔で邪魔で、だから君を最初に殺してしまいたかったんです」
「……ふぅん」
「すぐにまずい相手だとわかりましたからね。僕の邪魔をするならば君だと思っていたのです。そんなの生かしてはおけない」
「……そうか。だったらどうする? 撃つのか?」
「いいえ。外したら一大事ですし、君には自殺してもらうのが一番かと」
「……自殺、ねえ」
「そこに短刀が落ちているでしょう」
そう言って銃口が指し示した地面には、確かに木製グリップのナイフが転がっていた。先ほど平子が握っていたものだろう。
「それで首を掻っ切りなさい。逆らったらこの娘がどうなるかわかりますよね?」
舌なめずりしながら命令した平子。
空也は思わず鼻で笑ってしまった。
「何を馬鹿なことを。どうせ相羽さんも殺すくせに」
そう吐き捨てたが、「まあいいよ。言うとおりにしてやるさ」とナイフを拾おうとする。
「まっ、待ちなさい!」
それを制止したのは何故か平子であった。
「やはり駄目です! 唐手家に刃物なんて持たせるもんじゃあなかった!」
おそらくは彼の記憶の中にいる戦友……太平洋戦争を駆け抜けた空手家の姿が咄嗟に思い浮かんだのだろう。武器を手にした空手家の恐ろしさを忘れていたのだ。
平子はどうすべきか悶々と思案していたようだが、結局――
「今すぐこの場から消えなさい。僕の邪魔をしなければ、君は見逃してあげますよ」
空手家を遠ざけるのが一番の安全策だという結論に達したらしい。
――夕陽が赤みを増している。もうだいぶ夜が近い。
空也がもう一度平子と梓を見れば、声も出せない梓が小さく首を振っていた。
まるで『行かないでください』と懇願しているようだ。恐怖と不安と絶望に染め上げられた美貌……それでも夕日に照らされた少女は美しかった。
「なあ、平子義雄」
一分の隙を見せることなく空也が言った。
「あんた、その一緒に戦った空手家から、空手の秘技について聞いたことがあるか?」
「秘――?」
「『秘拳』だよ」
「……ひ、けん……?」
「俺が父親から伝えられた技の中に、遠く離れた相手を一撃で打ち殺す技があってな。『口縄』というんだが……」
「何を馬鹿なことを――こっちには銃も、人質だっているんですよ?」
「撃ちたけりゃあ撃ってみればいいさ。俺でも相羽さんでも、どちらでもいい。この技は、お前が引き金を引く前に殺す技だ」
薄笑みを浮かべる空也。
その余裕たっぷりな立ち姿に、平子はいきなり取り乱した。
「ば――っ!? 『あの人』は遠間の敵は投擲で倒した! 君も! 君もそうなんだろう!?」
「さてね。俺の姿をじっと見てればわかるさ」
「んーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
奇声だ。
唐突、この世のものとは思えないおぞましい鳴き声が平子の喉から発された。
「ひっ――」
間近で聞く羽目になった梓が驚愕に身を固め。
「――?」
空也でさえも眉を上げたが……当の本人は、何事もなかったかのごとくわななくのだった。
「馬鹿な馬鹿な馬鹿な! 僕はそんなの見ていないぞ!」
空也に向く銃口がガタガタと震え出している。
「あの人は生き残るために唐手のすべてを使うと言っていたんですよ!?」
「さあ。俺が知ったことじゃないな」
「んーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
二度目の奇声。
その時、空也は平子の発言を思い出していた。
『やれやれ、おかしな冗談を言う子供だな。君らもこの村にはびこる怪物を見ただろう。あれはこの世ならざる者どもだ。それに、味のしない水と野菜……』
――味のしない水と野菜――
……ああ……そうだったな。こいつも、大角村のものを食ったのか……。
「唐手に離れた相手を殺す技があるなんて! そんなっ、そんな武術――」
動揺する平子の隙を突いて逃げ出そうとした梓。
しかし叶わなかった。
平子の右腕がしっかり梓の胸を捕まえていて、まるで鋼鉄で鋳造されているかのごとくビクともしなかったからだ。痩身とは思えぬ、異常な力であった。
そして梓は見る。潰れた平子の右目、そこから真っ黒な何かが盛り上がろうとしているのを。頭蓋骨がきしみを上げているのに平子自身はそれに気付いていない。
「か――神木くんっ……こ、この人、もう――」
「ああ。知ってる」
「んーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
空也と梓は人間が怪物に変貌する瞬間に立ち会っているのだ。
もともと平子義雄は人間と怪物の境界線上に立っていたのだろう。空也が右目を潰したことは関係ない。どのみち時が満ちればこうなっていた。
「はったりはやめろ! やめなさいよっ!」
平子の変貌を最後まで見てみたいという興味はあったが、梓をこれ以上の危険に晒すことなどできるわけがなかった。
「だったら――はったりかどうか、俺の目をじっと見ていろ」
空也が一歩前に出た。脳震盪の影響はもう欠片も残っていない。
平子が梓ごと二、三歩下がった。恐怖のためか、南部十四年式拳銃の銃口はずっと空也に向いている。
六メートル超。それが空也と平子を隔てる距離。
「あっ、あの人だって、そんな――」
平子の顔面が特大の畏怖に歪んでいた。いくらなんでも銃を持つ元軍人が丸腰相手に抱く感情ではない。いったい――平子義雄は、神木空也にどんな空手家を重ねているのだろう。
空也の唇がかすかに動いた。
誰にも聞こえぬほどの声で「飛拳、口縄」とぼそり。
――――――――――――――
平子は瞬きもせずに空也を凝視していた。
かすかに動いた空也の唇すらも凝視していたはずなのだ。
それなのに空也の姿を見失った。動き出す兆しはまるでなく、ただ忽然と姿が掻き消えた。
反射的に拳銃の引き金を引いてしまう。
強烈な発砲音。鉛玉が誰もいない夕暮れを切り裂いた。
そして何故だか、気付けば平子は黄昏を見つめている。
雲一つない紫色の晴天。それが、平子義雄が見た最後の景色となった。
いつまでも鳴りやまない耳鳴りの中――ごしゃ――と、喉元で何かが砕ける音がした。
――――――――――――――
――――――――――――――
――――――――――――――
「………………………………え……………………?」
最初、何がどうなっているのかわからない梓。
夕焼け空が見える。頬のすぐそばに空也の腕がある。そして背中には……人肌の温もりだ。
「わっ! わわわっ――!」
跳ね起きた。梓は仰向けに倒れており、平子の身体を下敷きにしていたのだ。
見れば――空也の右手が仰向けになった平子の喉を鷲掴みにしていた。
いや、鷲掴みどころではない……右手の五指すべてが深々と喉に突き立っていたのだ。指は平子の喉仏を握り潰し、頸動脈にまで到達していた。
「これが、口縄……引き金を引く前に殺すってのは嘘だけどな……」
平子が空也の動きを捉えられなかった理由――それは急激な上下動のせいだ。
技の出だし――空也は膝の力を抜きながら滑るように前に飛び出した。
凝視していた空也の頭が少しも上下に揺れなかったために、平子は空也がまだ動いていないと錯覚したのだろう。
しかし、その時点で空也の重心は崩れ落ちており、ある時点で重力に従い一気に前のめりに倒れ込むのだ。平子はここで空也を見失った。
あとは地面すれすれで二歩目を強く蹴って、三歩目で平子の首めがけて跳び上がる。
そして喉打ち。
手形は『矢筈』。人差し指と親指を伸ばした、喉打ち独特の握りである。
とはいえ、無理な態勢で放った喉打ちだから一撃必殺になるわけがない。せいぜいが喉を突き上げて仰向けに倒すぐらいだ。
だが、口縄――蛇に毒があるように、この技とて二段構えで相手を死に至らしめる。
それが喉の握り潰しだった。
喉打ちを喰らって無防備な相手の喉仏を空中で握り、地に叩き付けても決して離さない。
地を這う毒蛇がいきなり飛びかかってくるような喉打ち――それが『口縄』の正体。
「……曲芸技だよ……あんたが、まともな武術家じゃなくて助かった……」
もう動かない平子にぼそりと話しかけた空也。
彼の潰れた右目からは、ゴポッゴポッと黒い液体が溢れ出ていた。そして肉体そのものが次第に薄くなっていく。
大角村の怪物と同じ死に様だ。『口縄』を受けた時、平子義雄はもう怪物だったのだろう。この殺人鬼は、人ではなく怪物としてその命を終えたのだ。
平子の手元を見れば、薄煙を上げる南部十四年式拳銃。その銃身の尻からボルトが飛び出していた。弾切れを知らせるホールドオープンという状態だ。
「最後の一発だったのか……弾を無駄遣いしてこないわけだ」
――運が良かった――と空也は思う。
本当に紙一重だった。いくつもの幸運が重なったおかげで、空也と梓は生き延びた。
さしもの空也も腰が抜けそうだ。
横から飛び込んできた梓を支えきれず、尻もちをついてしまった。
「神木くん! 神木くん、神木くんっ! 神木くん――っ!!」
空也にぴたりとしがみついて、彼の襟元をクシャクシャに握る少女。
殺人鬼の血にまみれ、いまだ事態を受け入れることができずに震え怯える少女。
空也は、そんな年相応にか弱い姿を哀れとさえ思った。
照れくさいとか、俺なんかが……とか、そんな余計なことは考えず、今は心のままに梓を抱きしめるのだった。
この泣き虫な少女に早く泣き止んで欲しいと、それだけを考えていた。
「よかった……相羽さんに怪我がなくて、本当によかったよ……」
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