遠く、耳鳴りが(上)
今日という一日が徒労に終わったわけではない。『コトノシサンに関する情報は何も得られなかった』、それも立派な成果だろう。
満足に食べることができているわけではないが食料はまだあるし、飲み水にもとりあえず困っていない。明日も大角村の謎を追いかけることになるはずだ。
高校生たちの間で議論になったのは、まだコトノシサンを探し続けるか、それとも新たな可能性を見つけ出すことに全力を尽くすかだった。
結論はまだ出ていない。京子と咲夜がコトノシサンの存在を諦めきれていないからだ。とりあえず今夜一晩じっくり話し合ってみることになった。
今頃――咲夜、京子、大我、晴斗、夏奈の五人は昼間民家で見つけた毛布を骸井神社に運び込んでいることだろう。
「神木くんがいなくて、みんな大丈夫かな」
「沼倉くんと八剣さんがいるし。何かあれば三谷くんが走ってくるよ」
「それもそっか。あいつ逃げ足だけは達者だもんねえ」
夕焼けを反射して橙に色付いた小川のほとりを歩く空也と梓。
二人は、集会所の地図にあった『万力岩』とやらを見に行っていたのだ。骸井神社からそれほど距離がなく、もしかしたら何かの手掛かりになるかもしれなかったから。
結局……新発見は何もなく、それどころか、どの岩が『万力岩』と呼ばれているかすらわからなかった。それっぽい大岩があちこちに転がる中、看板も何もないのだから仕方なかった。
「……そういえば、空手はいつから?」
空也が自分から話しかけないせいか、沈黙が続かないよう時折こうやって梓が話題を振ってくれる。気ぃ遣われてるなあ……と不甲斐なさを感じつつも、気まずい思いをしなくてありがたいとも思うのだった。
「物心ついた頃には。父さんが空手やってるのをいつの間にか真似てたって」
「ふぅん。お父さんも空手家さんなんだ」
「俺と同じで趣味だけどね。本業は普通の公務員だし」
「強いの?」
「強いよ。俺よりもずっと――頭おかしいレベルでね」
不意に隣を見れば、梓が妙な顔を向けていた。疑念と驚愕が入り混じったあまり美しくない顔だ。空也よりも強い人間の実在を信じられなかったのかもしれない。
「へ、へえ。それじゃあ、あの怪物にも勝てるわけだ」
「俺の拳が通用するんだから余裕だろうね。あの人の方が『夢想剣』に近いわけだし」
「むそーけん? 何かそれ、昨日も言ってなかった?」
――この人よく覚えてるな――思わずそう感心した空也である。素人に武術の話をしても面白くないだろうとは思ったが、これ以外に饒舌になれる話題もないし静かに語り出した。
「大昔の剣豪、伊藤一刀斎が達した剣の極致さ。鶴岡八幡宮で刺客に襲われた一刀斎は、無意識の内に相手を切り伏せてみせた。その夢うつつの境地こそが、夢想剣」
「けんごー……? 空手じゃなくて?」
「通じるところがあるんだよ、空手も剣術も。松村宗棍って唐手の達人は示現流の免許皆伝だった。どちらにせよ、修行の行く先は『無念無想』だ。空手だけを稽古していても気付かない極意だってある。俺だって、刀の扱いは一通り修めたし」
「空手家なのに、武器も練習するんだ」
「空手家だけど大きいくくりでは武道家だからねえ。そもそも空手だって結構武器使うし」
「はあ? なんか面倒くさくない?」
梓の口から思わず飛び出した率直な意見。空也は少しも失礼だとは思わなかった。それどころかよくぞ言ってくれたと拍手したい気分だった。思わず笑ってしまう。
「ああ、面倒くさい。武道ってのはとてつもなく面倒なもんなんだ。考えて考えて、余計な思考と感情を少しずつ削っていく。最後に残った極限にフラットな思念こそが夢想剣の正体だ」
「ふぅん、そっか……てゆーか、大丈夫なの?」
「何が?」
「いや……さっきから色々話してくれるけど……」
「うん」
「奥義っていうの? そういうのってさ、あたしみたいな部外者に言っちゃダメなんじゃ――」
「ああ……大丈夫大丈夫。武道の奥義自体はほとんど無価値だから」
「そんなもん?」
「そうだね。意味があるのは、奥義に至るまでの過程だけだし」
「太っ腹だ」
「至れるもんなら至ってみろって奴だと思うけど」
サラサラと小川が流れる音。新緑が生い茂り、細い道のほとんどすべてを覆い隠していた。
実に平和な夕暮れだ。昼間に後頭部が長い怪人と遭遇して以来、怪物の姿は見ていない。
数歩先を歩く梓が振り返って微笑んだ。
「で? なんで神木くんは怪物を倒せるわけ? わかりやすく教えてよ」
空也は一瞬だけ難しい顔だ。頭を掻きながら「これは完全に俺の推測だけどね」と前置きしてから苦笑いを浮かべるのだった。
「打撃の瞬間、俺は『何の意識もしていない』んだよ。奴らを怪物と思って叩いてるわけじゃない。つまるところ、未熟な夢想剣だ」
拳を握り、怪物を撃ち抜いた鉄拳をまじまじと見つめてみる。
「『認識はする。しかし意識はしない』、そういう状態の攻撃なら怪物の命に届くんだろうね。例えば神霊というものが、人に畏れられることで『その人に対して力を持つ』のなら……俺がやってるのは、神様を無力にして殴ってるってことだし」
「は、はあ? むっずかしいこと言うなぁ」
「恐怖、嫌悪、畏敬、絶望――どんな感情であれ、『人間の心の揺らぎ』は、あの怪物に無敵の神性を持たせてしまうのかもね」
そう呟いてから、空也は分厚い両手をポケットに突っ込んだ。
歩きながら、しみじみと夕焼けを見上げる。
「例え銃を持っていようが、畏れを抱いたまま引き金を引いたんじゃあ、駄目だろうな」
その言葉を聞いて梓が軽く爪を噛んだ。
「あの不気味なのを見て何も思うなって? 無理言わないでよ」
「とはいえ、殴って倒せるんだし、ヤマンクロってのは案外か弱い怪物なんだろうけど」
「か弱いって――うちの空手部の連中でも、あれを倒せるわけ?」
「……正直、難しいかな。三吉藤吉郎レベルならあるいは、って感じだから」
「誰?」
「――え?」
「三吉って」
「……いや、友達」
「……へえ……神木くんって友達いたんだ……」
「……少しは、ね。空手関係には、少しだけ、いるんだよ……」
「……そっか……一〇人ぐらい?」
「……ごめん。そんなには、いないな……」
「――――ぷ」
「はは――――」
笑う。不意に二人して笑い声をあげて笑顔になる。どうしてこのタイミングで神木空也の友達の数を確認しちゃったのだろうとおかしくなったのだ。あと、本当に少なくて笑えた。
梓が笑い涙をぬぐいながら言った。
「神木くんって結構面白いよね。せっかく隣の席なんだし、普段からこうやって話しておけばよかったわ。魅力に気付けたかも」
「やめてくれ。絶対しどろもどろになるから。苦手なんだ」
「それは、会話が? それとも女の子が?」
「どっちもだよ。コミュ障なのは見りゃあわかるだろうに」
「でももったいなくない? こんな非常事態にならないとかっこよさに気付いてもらえないなんて。あたしみたいに思わず惚れちゃう女の子だって――」
「え」
突然、ドキリとした。鍛え抜いた心臓が爆発したかと思った。
今、何て――と思って梓を見ると。
「あ」
今の一言は梓にとっても最大級の失言だったらしい。唇を半分開けっ放しにしたまま固まっている。顔に赤みが差していくように見えるのは夕焼けのせいだろうか。
かすかに震える両手で顔を隠し、ぼそぼそ言うのだった。
「いや、まあ……かっこいいんじゃない? ……うん、かっこいいと思う」
混乱しているのは梓だけではない。
空也だって何をどう反応すべきかわからず、目を泳がせていた。
「そ、そっか――ありがとう」
この程度の返答しかできなくなるぐらいには動揺している。
せめて風が吹いていれば……と思った。強い風音があれば梓の失言が聞こえなかった振りもできただろうからだ。
しかし無情の無風。というか、大角村に入ってから風音というものを聞いていない。この村には、人も、動物も、虫も、風も存在しないのだ。嫌になるぐらい静かな世界なのだ。
今更聞かなかったことにはならない。小川のせせらぎで聞こえなくなる声音ではなかった。
顔を隠したまま唇を震わせる梓。
「ちょっと聞いて」
「うん」
「ちょっと、言い訳させて」
「うん」
「あたしってほんと、こういう、わけわかんない状況でも冷静になれるタイプに弱いの。怒ったり泣いたりするんじゃなくて、ちゃんと理性を保っていられる人……だからさ、村に来てからの神木くんが、どストライクなわけ。わかる?」
「そ、そりゃあ、どうも」
「…………です……」
「……うん……」
「……『フレイムオーダー』ってアクション映画知ってる?」
「ハリウッドの奴だよね。確か、元特殊部隊の運び屋が無双する……」
「あたしの初恋、あの映画の主人公なのよ。どんなピンチでも落ち着いてるのがクソかっこよくて。あと筋肉」
「……そ、そっか……」
「気が強いって言われますけど、あたしだって女ですから、守ってもらったらキュンキュンしちゃうわけで」
「は、はあ……」
「ごめん神木くん、なんか死にたくなってきた。もうやめていい?」
「うん。なんか……こっちこそごめん。申し訳ない」
すると、よろよろとその場にうずくまってしまった梓。
空也だって己の首筋を片手で撫でつつ途方に暮れている。
「なんて言えばいいか……」
決定的に経験が足りていない。こういう時こそ男としてフォローすべき言葉があるのだろうが、それが何であるか見当がつかない。
だからこそ空也は、梓に落ち着いてもらおうと思ってこう告げるのだった。
「とりあえず、生きて元の世界に帰ろう。そのためなら俺は全力を尽くすから」
しかしまったくの逆効果。
空也の言葉は、今の梓が最も待ち望んでいるものに違いなかった。
反射的に顔を上げてしまった梓。そして彼女は見てしまうことになる。紫色に色付き始めた不気味な茜空の下――少しだけはにかむような微笑みを浮かべた空手家の姿を。
「……神木くん……」
空也の泰然とした立ち姿、思わず見惚れてしまいそうになった。
慌てて膝の中に顔を隠す梓である。
「ちょ――やめて。やめて、そういうの。ほんとベタ惚れしちゃうから」
空也に聞こえないようにそんなことを口走るのだった。
「……ちくしょう……なんで……」
……………………。
長めの沈黙の後。
「……なんで……こんな、手玉に取られるかな……」
忌々しげにそう呟くと、やがて意を決したかのようにガバッと立ち上がった。
何事かと身構えた空也であったが、そんな彼に梓は強い口調で言った。
「あたしちょっと離れるから。先行ってて」
空也はその言葉の意味がわからない。美少女の突然の言動に戸惑うばかりだ。
「待ってくれ、相羽さん。いったい何言って――」
「いいから! 先に行ってってば!」
「駄目だ。危ない。どこ行くつもりか知らないけど、一人じゃ駄目だ。怪物がいるかも知れないのに」
「トイレよ! わかんない!?」
「――はあ?」
「さっきからずっと我慢してたの! もう無理!」
「いや、ちょ……ま、じでか……」
「なによ神木くん。まさかトイレにまでくっついてくるとは、言わないでしょーね」
そう言った梓は苦しい艶笑だ。唇は色気たっぷりに歪んでいるのに、目が笑えていない。
今すぐにトイレに行きたいなんて、ただの方便――それぐらいは、人付き合いの経験値が圧倒的に不足している空也の見識でもわかった。
梓は、思春期の少年と少女の間に流れてしまった妙な空気にいたたまれなくなっただけだ。少し距離を置いて、頭を冷やして、そこから仕切り直そうというのである。
それでも『危ないから付いていく』と言い張れば彼女は折れるだろうが、それはしたくなかった。今度こそ本当に泣かれてしまうかもしれないから。
十何秒かの思案の後、空也は、深いため息を吐いた。
小さく頭を振って苦々しげに言った。
「わかったよ。ここで待ってるから。手早く済ませてきてくれ。それと――何かあったら大声をあげること。それだけは約束して欲しい」
直後、梓が心底ホッとしたような顔をする。それと同時に罪悪感もあったのだろう。
「あ、あの――あたし、普段はこんなんじゃなくて……ごめん」
もの凄く申し訳なさそうに道脇の草むらに入っていくのだった。
「……あの! 本当に気を付けて! 何かあったらすぐに呼んでくれ!」
草木を掻き分けて、掻き分けて、やがて見えなくなった梓の背中。
空也は、最後に梓の背中が見えた木の陰をぼんやり見つめつつ。
「……どうにも……女子ってのは、難しいな……」
ぽりぽりと頭を掻くのだった。
――背後に――
――背後に角材を振りかぶった男がいると気付くのに一瞬遅れた――
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