井戸端の女神たち

 あれから時間をおいても咲夜と晴斗に異変が起きることはなく、やがて梓も井戸の水を飲んだ。


 そして、水飲み場が見つかった安心感と日中の疲れからか、女子高生たちは社殿の中で身を寄せ合って眠ってしまうのだった。


 一時はそんな少女たちに混ざろうと試みた晴斗であるが、「マジこっち来んな! 変態エロ魔人!」と梓に顔面を蹴られては諦めるしかない。「ちくしょう。鼻が曲がったらどうすんだ」などとぶつくさ言いながら、一人さびしく眠りについた。寝言が結構うるさいのである。


 やがて。

「――ん」

 社殿の中で目覚める空也。四時間程度は眠ることができた。案の定、座って壁に寄りかかっていただけだ。熟睡はしていないがそれなりに頭はすっきりしている。


 スマホで時間を確認すると五時半過ぎ。すでに陽は昇っているらしく、板戸の隙間から白い光が入っていた。


 社殿の奥に小さな祭殿が見える。曇った丸鏡と古ぼけたかんざしが供えられただけの質素なものだ。

 そんな祭壇の足元で、四人の少女が一塊になって熟睡していた。梓など両手両足を回して咲夜にしがみついている。抱き癖でもあるのだろうか。


 転がった晴斗が出入り口の引き戸を塞いでいた。


 空也は踏んでしまわぬよう慎重に晴斗をまたいで社殿の外に出た。


 朝だ。雲一つない、抜けるような青空がある。


「沼倉くん、見張り替わろう。寝るんなら中の方がいい。少しは暖かいから」

 社殿に上がるための石段に座り込んで半分眠りこけていた大我を揺り起こした。


 文句も言わずに奥に引っ込んだ不良は、盛大に晴斗を踏み付けたらしい。「ぐぎゃ」という声が聞こえた。


「さて――二日目か」


 空也は深く呼吸して、背伸びを一つ。座り寝で凝り固まった背中がゴキゴキと音を立てた。


 屋根付きの古井戸の前まで歩を進めたが、そこに女幽霊の姿はない。何の気配も感じない。


 それでも空也は。

「すみません。今日もいただきます」

 水場をくれた幽霊が眼前にいるかのごとく深く一礼するのだった。


 満水の井戸から水をすくって喉を潤す。冷水が胃袋に落ちた瞬間、新鮮な血液が全身を駆け巡った感じがあった。たまらずまた深呼吸する。悪くない朝だ。


「腹は空くけど、少し身体動かすかぁ」


 気分を良くした空也は、念入りな柔軟体操の後、そのまま境内で型稽古を始めるのだった。


 ワンシュウ。


 アーナンクー。


 チントウ。


 クーサンクー。


 バッサイ。


 ぶっ続けで型を五つ。バッサイが終わるころには、ひたいに汗がにじんでいた。


 当然それだけで空也の『朝稽古』が終わるわけがない。続いて――古井戸のすぐそばに立っていたクスノキに目を付けた。


「ご神木じゃなさそうだし、これでいいか」

 そう呟くやいなや、何とはなしに殴りつける。全力で。思い切り腰を入れて、だ。


 ――ゴシャ、ゾ――


 空也の拳が潰れたかのような嫌な音があり、しかし破壊されたのは硬いクスノキの方だった。


 打突の瞬間――ねじ込まれた拳に巻き込まれて分厚い樹皮がメリメリと剥がれていったのである。結果出来上がったのが、およそ人の拳が作ったとは思えない螺旋状の凹みだ。何も知らぬ人が見れば、宇宙人か妖怪の仕業と思うだろう


 続けざまに二つ、三つ、四つと拳を飛ばし、大木に打撃痕を増やしていった。木っ端微塵に砕けた木片が空也の足元に散らばっていく。


 一心不乱にクスノキを破壊する空也。しかし、ふとその拳が止まった。

 立て付けの悪い社殿の扉が開く音を聞いたのである。


 白に近い金髪が見えた。


「なんか変な音聞こえてなかった?」

「そうですか? 沼倉さんのいびきがうるさかったものですから」


 あくび混じりに外に出てきたのは梓と咲夜である。


 彼女らの横顔を見るやいなや、反射的に空也はクスノキの陰に隠れてしまった。


「てゆーか、神木くんどこ行ったんだろうね。もう起きてるんでしょ?」

「おそらくは見回りかと。沼倉さんも、夜の間、何度か森の周りを回っていたようですし」


 特別何かがあったわけではない。ただなんとなく、木を殴っている姿を見られたくなかっただけだ。『チンクチ』や『ガマク』といった独特の身体操作を隠そうとかそういう意図はまったくなかった。単純に気恥ずかしかっただけ。


「ふぅん。まあいいか。さっさと済ませちゃお」

「そうですね。三谷さんに見られでもしたら大変なことですから」

「あはっ♪ 言えてるわ。あいつのオナネタにされるのはねえ」


 二人が井戸の方へとやってくる。


 出るタイミングを完全に逸した空也は息を殺し――結局俺はぼっち気質なんだよなぁ……と情けなくなるのだった。対人関係だと及び腰になってしまう。どうにもうまく振舞えない。


 音を出さずに嘆息した空也は、やがて――パサリという軽い音を聞いた。


 ん? と思った。何か嫌な予感がした。


「うっわ。でかくない? 八剣さんのでかくない?」

「そんな。相羽さんと同じぐらいだと思いますが」

「いやいや、これ絶対あたしよりもあるって。クラス一だよ。羨ましい」

「羨ましいはこちらのセリフです。相羽さんの方が、ずっと綺麗じゃないですか」

「はあ?」

「形とか。色とか。滅多に出てくる代物ではありませんよ、そんな綺麗な胸」

「は、はあ? そ、そんなん初めて言われたけどなぁ」


 はしゃぐ二人の声に、空也は真っ青になっていった。まさか……と思って覗いてみたら。


「殿方には?」

「見せたことないっつーの」


 真っ白な肌が見えた。咄嗟に顔を逸らして木の陰に戻ったが、はっきりと見てしまった。


「……マジかよ……」


 ショーツ一枚になってお互いを拭き合う二人の美少女。

 絵画のような光景が網膜にこびり付いている。降り注いだ朝陽が梓の金髪と咲夜の黒髪を輝かせ――陶器のような肢体がうやうやしく井戸から水を汲んでいた。


 井戸の水を汚さないよう、キャップを外した水筒で水を汲み、タオルを濡らしていた。


「つめた――」

「失礼しました。もう少し絞った方がいいですか?」

「大丈夫。敏感なだけ。我慢するから」

「それにしても、水場を見つけることができたのは僥倖でしたね」

「ほんとよ。あのままなら一〇〇パー干乾びてたし、こうして身体も拭けなかったもんね。地獄に仏ってのが本当にあるとは思わなかったわ」

「相羽さんが幽霊を見たおかげです」

「やめてよ。せっかく忘れてたのに」

「昨日の幽霊はどこに?」

「……さあ。ここにはいないけど。多分どっか行ってんでしょ――って、八剣さん、なんか笑ってない?」

「すみません。昨晩寝る前に火乃宮さんがおっしゃっていたことを覚えていますか?」

「この村に来たせいで霊能力に目覚めたかもって奴?」

「ええ。相羽さんは嫌がるでしょうが――神木さんと火乃宮さんと相羽さん、空手家と専門家と霊能力者が味方にいることになります。なんだか心強く思えてしまって」

「どうせなら神木くんに霊能力が付いたほうが良かったのにね。そしたら最強じゃん」


 たわいもない会話に登場した自分の名前。聞き耳を立てたくなる。


 しかし――盗み聞きはよくないか――変に生真面目な空也は、その欲求を殺すことにしたらしい。まぶたを下ろすと、頭の中だけで『バッサイ』の型をそらんじ始めた。

 イメージトレーニングに集中することで、聞こえてくる二人の声を排除しようというのだ。


「……神木さんのこと、どう思われてます?」

 染み一つない梓の白い背中を磨きながら、咲夜がしみじみと問うた。


 むず痒そうに身をよじらせていた梓は「そりゃまあ……」と少し考えてから、苦笑混じりに告白するのだった。


「凄い男の子だったんだなぁって。評価が爆上がりしすぎてて気持ちが追い付かないよね」

「隣の席ですよね? 嫌いだったんですか?」

「違う違う。好きとか嫌いとか、そういう感じも――ねえ」

「つまり興味がなかったと?」

「……そうね。多分、そう……日頃の印象だけで、彼のことを切り捨ててたところはあったかもね。あたしの人生には関係のない――ただのクラスメイトって」

「ふふふ。それは手厳しい」

「だって普段の彼、割とひどいでしょ。むしろあれを好きになる女子とかいる?」

「まあ……確かに、目立つ方ではありませんよね」

「ぼんやりしてんのも勘弁だけど、それ以上に気弱そうなのがね……ついでに、やっぱオタクだったし」

「今はそういうのが好きな男子も多いですから」

「エッチな小説――ライトノベルっていうの? アニメの奴。昼休憩に体育館横のベンチで読んでるの、時々見るわよ。あそこ滅多に人いないじゃん」


 丁寧に背中を拭いてもらって、今度は梓が咲夜に奉仕する番だ。


 梓が拭きやすいように長い黒髪を掻き上げた咲夜であったが。

「それがさ! なんなのっ、この村に来てからの彼! かっこよすぎなんだって!」

 力の入った梓の手付きに悶絶する。濡れタオルを力いっぱいに押し付けられて声が出ない。肌がめくれたかと思った。


「あ……ごめん。つい――」

「い、いえ――だ、大丈夫ですよ。ただ、もう少し優しくしていただけると」

「ほんとごめんね。なんか、無性にイラついちゃって」


 コホンと咳払いして梓は気を取り直す。まるで赤ん坊の肌を扱うかのごとく、色っぽいうなじにそっとタオルを当てた。 


「相羽さんが混乱するのもわかります。私も、あそこまでの達人とは思ってませんでしたし」

「八剣さんは彼のこと気付いてたんだ?」

「ええ。なんとなくですが」

「エスパー?」

「お稽古で薙刀をやっているものですから。先生の雰囲気があんな感じなんです」

「まあ……昨日一日だけで、人は見かけによらないってのが身に染みたわ」

「……人間、緊急事態だと素が出ますからね……特に三谷さんとか」

「晴斗は論外でしょ。でもさぁ、もしも神木くんいなかったらとか考えちゃわない?」

「ゾッとしますね」

「化け物に襲われる高校生って……それもうただのホラー映画じゃん。神木くんがホラー展開全部潰してくれたから、誰も死なずにこうやってのんびりしてるだけでさぁ」

「本当に……このお礼は、何がよろしいでしょうか?」

「そうねぇ……あたしか八剣さんか、どっちかがマジで恋人になったげるとか?」

「はい?」

「あ――もちろん神木くんがオッケーしてくれたらの話だよ? 好みと違うかもしんないし」


 自分が言い出したことにワタワタと慌てる梓。


 振り返った咲夜が、首を傾げながら真顔で問いかけた。

「いえ、そういうことでなくて……相羽さんはよいのですか? 処女なのですよね?」


 その言葉には梓は一瞬きょとんとする。咲夜の質問の意図を考え、次第に顔を赤くしていった。あわわわ――と口元も緩くなっていくのだった。


 深くうつむき、女神像のごとき乳房を右腕で隠しながら、ぼそっと言った。

「………………ねえ……これが吊り橋効果って奴なのかな……」


 あまりにも乙女らしい仕草。さしもの咲夜とて赤面は免れなかった。今この場に空也を連れてきて、今の言葉を聞かせてやりたいと思うのだった。


 とはいえ……当の神木空也本人は、彼女らの声が届く距離に隠れているのだが……。


 クスノキの大木の陰――イメージトレーニングは佳境を迎えており、八度目の『バッサイ』を思い描いている。当然というべきか、集中しすぎて梓の言葉は耳に入っていなかった。


 しかし、である。

「っ」

 刹那――集中が途切れた。


 空手家の本能とでもいう感覚が、何者かの視線を察知したのだ。


 生々しさを感じるほどに湿った視線……反射的に身体が動いた。拳を引き絞りつつ、視線の主へと襲いかかろうとする。自然、クスノキの陰から飛び出す形となった。


「――え?」


「あ」


 ショーツ一枚の梓と咲夜がそこにいる。完全に目が合った。空也の動きが止まった。


 凄腕の空手家といえども思春期の男子である。女子高生の裸を無視できるわけもなく、思わず真正面から見てしまった。全視神経を駆使して艶めかしい肢体を堪能してしまった。


 事態を理解できていない梓と咲夜。

 咄嗟の羞恥心で胸は隠したが、柔肌の大部分は空也の視線に晒されていた。


 悲鳴は上げない。ただ、梓がわけもわからない言葉を口走った。

「みっ――見たいなら、そう言えバカァ!!」


「え? ――は? ……は?」


 次いで、多少冷静さを保っている咲夜が困ったような声を上げる。

「……なんでもいいのですが、あの……そう、じっくり見ないでいただけたら……」


 それで空也も自分が何をやらかしているのか把握したらしい。

「ごっごめん! そういうつもりは全然なくて!」

 全力駆動時とほとんど同じ速度で背中を向け、その場に正座した。


 人生初めての展開に心臓が高鳴っている。ふと我に返り、湿った視線のことを思い出したが――あの嫌な感じはもう消えていた。とはいえ、今はそれどころではない。


 すぐ背後で梓と咲夜が服を着ているのである。


 空也は、最大級の居心地の悪さを感じながら、衣擦れの音を聞いていた。


 ブラウスのボタンをはめる梓が「……聞いた?」と身震いしたくなるほどの低音を発した。


 何のことかわからなかった空也は「え?」とただただ震え声だ。


「聞いてた? あたしと八剣さんの話」

「い、いや。よくは……聞いてない、けど……」

「ほんと?」

「はい。嘘じゃ、ないです」

「……………………」

「…………すいませんでした……」

「……………………」


 そして――ため息だ。この場の緊張感を崩してしまうほどに柔らかなため息があった。


「そう。なら別にいいや。八剣さんも許してあげるっしょ?」

「まあ、仕方ありませんね。本当の『覗き』なら、あのタイミングで出てくることはないでしょうし」

「だってさ。もうこっち向いていいよ、神木くん」


 そう言われても、すぐさま梓たちの顔を見れるわけがない。申し訳なさに心がざわつき、土下座したい気分だった。むしろビンタでもしてくれた方が、気が楽になれただろう。


 そんな空也の心内を知ってか知らずか、二人の美少女はそそくさと行ってしまうのだった。

「神木くんも落ち着いたら戻ってきてよ。朝ごはんにしよ」


 一人残された空也は、しばらくの間正座したまま動こうとしなかったが――――ゴスッ!!

 いきなり地面へと頭突きをかます。小石の転がる地面にひたいを擦りつけながらうめいた。


「………………やっちまったぁ…………」


 愛読しているライトノベルで頻発するラッキースケベというものが、こんなに気まずいものだとは思っていなかったのである。罪悪感で胸が張り裂けそうだ。

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