深夜の呪場
まさか飛び膝蹴りから入るとは思わなかった。
月明かりの道端に見つけた晴斗の姿。「おお。遅かったじゃん。なにしてたんだよ」とのん気にほざいた彼の胸に飛び込んだ梓である。
「はぁるとおおおお!!」
晴斗の胸骨に最大加速で右膝をねじ込んだ。
スカートのすそが流れ、あらわになる太もも。すらりとした脚が月光に照らされて――戦いの女神が天を翔けたかのような一瞬であった。
後ろからそれを見ていた空也は「うまいもんだなぁ……」と感心する。背中いっぱいに担いでいたリュックサック三つを草の上に下ろして、軽く腰を伸ばした。
「相羽さん、リュックここに置いとくよ。三谷くんも、三谷くんの荷物も持ってきたから、あとで確認しておいてくれ」
すると晴斗をもう一度蹴り飛ばした梓が「しんど……走るんじゃなかった……さすがにちょっと水飲むわ」と額の汗をぬぐってやってくる。リュックを開いて水筒を取り出した。
しかし次の瞬間――水筒を手にした梓ははたと動きを止め。
「やっぱやめた」
小さく嘆息しながら水筒をリュックにしまい込むのであった。
そんな一部始終を見つめていた空也は、まずいな……と眉をひそめた
あるかどうかもわからない自動販売機を探している余裕はない。今すぐにでも水がいる。
月明かりの中にいたから今の今まで気付かなかったが、なんとなく梓の頬がほんのり赤い気がしたのだ。まるで風呂でのぼせてしまったかのごとくに。
馬鹿めが、神木空也。愚か者が。肌の紅潮は脱水症状のサインだ。どうして見過ごした――今更後悔してもしきれなかった。
今日は朝から晩まで丸一日山を歩いてきた。この奇怪な村から出ることもできず、精神的にも追い詰められているだろう。それなのに彼女はペットボトル一本分も水を飲んでいないのだ。
それどころか一番まずいのは、残された水を大切に思うあまり梓がますます水を飲めなくなっていること……多分梓の脱水はすでに危険域だ。本人が大丈夫だと思っていても、実際は限界に近いはず。すぐさま身体が動かなくなって目まいを起こすだろう。
「……っ」
空也は忌々しげに唇を噛んだ。
単刀直入に水を飲むよう言っても『まだ大丈夫だって』という強がりで返されそうだ。うまく水を飲むように誘導できるか……いや、安全な水さえ手に入れば……。
――ざ――
不意の物音に振り返れば、咲夜に手を引かれた夏奈、不安そうに辺りを見回す京子と大我が歩いてくるのが見えた。
そして視界の端に一瞬だけ入った小さな光。
道脇の森の中で何かが光った気がした。人工的な光ではない。水面に月明かりが反射したような弱々しい瞬きだった。空手家・神木空也の目敏さでなければ気付かなかったに違いない。
暗がりに目を凝らす。
「…………お社……か? こんなところに?」
土が盛られて一段高くなった土地の奥に小さな鳥居と社殿があった。周りを背の高い木々に囲われ、田畑の只中に小規模な鎮守の森を形成している。
「おい神木。これからどうすんだよ。あんまウロウロしてっとあいつらが出てきちまうぞ」
やってきた大我にそう言われながら鳥居をくぐった空也。
近くに民家はなく、今いる場所の正確な位置すらも把握できていない。晴斗が村の中心部とは逆側――田畑しかないだろうと思っていた方へと逃げてくれたからだ。
当の晴斗といえば。
「悪かったって。悪かったよ。マジすまんかったって」
土の地面に正座させられて、梓と咲夜に叱責されている。
「晴斗みたいなのを『あさましい』っていうのよ。恥ずかしくない? そんなんで」
「男のくせにとは言いません。人としてどう思うのかと聞いているのです」
そんな言葉が聞こえた。本気トーンだ。梓の声など別人かと思うほど冷淡だった。
「どうすんだ神木よ。もう向こうには戻んねえのか?」
「ああ。ここで寝れないかなって思ってさ」
「はあ? てめえ、マジで言ってんのか? こんなショボくせぇ神社で、なんで……」
「悪くないと思うんだけどね。雨風を防げて、あいつらの隠れるスペースもなさそうだから」
「……ちっ……じゃあ周り見てきてやるよ。あいつらがいねぇんなら、別にここでもいいわ」
「ごめん。助かるよ」
「オレが呼んだらすぐ来いよ。わかってんな」
「ああ。俺はお社の中を見ておくから」
そして木々の間に消えた大我を見送り、空也は社殿の前に立った。
ささくれまみれのしめ縄をくぐって引き戸に手をかける。指先に力を込めると、ガタッと音を立てて戸板が動いた。立て付けは悪いが鍵はかかっていない。
「て、照らしましょうか?」
すぐ後ろに京子が立っている。空也の背中越しに社殿を覗きながら、スマートフォンを構えていた。
「後ろから光を当ててくれるだけでいいから。くれぐれも俺より前には出ないように」
「わ、わかりました」
「それじゃあ、開けるよ」
空也が引き戸を思い切り開けた。
へっぴり腰の京子。スマートフォンから伸びる光ががらんとした板間を照らし出す。
「…………い、いました……? ヤマンクロ……」
「……いや、中にあるのは神棚ぐらいだ。天井にも隠れられるスペースはなさそうだし」
「ろ、六畳ぐらいですかね? かなり狭いですけど、今夜寝るだけなら、まあ」
「にしても何を祭ってるお社なんだか……コトノシサンかな?」
「さ、さあ。普通のお稲荷信仰とかなら、狐の像があってもいいはずなんですが、そういうのないですし――」
その時、背後から梓の悲鳴。
即座に空也が動いた。拳を握りつつ身をひるがえす。
明るい月夜だ。振り返れば咲夜にしがみついて震える梓が見えた。彼女の恐怖に慄いた表情……それで空也は梓の視線の先を睨み付ける。件の怪物がいると思ったからだ。
反射的に飛び出そうとして、つまずきかけた。
「――て、あれ?」
殴り倒すべき相手を見つけられなかったのである。
梓が震えながら見つめている先には、古ぼけた屋根付き井戸があるだけだ。怪物はいない。
状況が理解できず、とりあえず梓の元に走った。
「大丈夫? 何かあった?」
「それが、相羽さんが突然……私もよくわからないのですが……」
梓の身体を抱きしめてなだめる咲夜。
「もぉー。晴斗くんが迷惑かけるから、梓おかしくなっちゃったじゃーん」
「ばっか! オレのせいじゃねえよ! オレのせいじゃ……」
そばにいた晴斗と夏奈も心配そうにしている。
やがて梓がガチガチと歯を鳴らした。井戸の方を指差して。
「――お、おお、女の人……能面の女の人が、いる……」
「女?」
そう言われても空也に見えるのは古ぼけた井戸だけだ。どれだけ目を細めても人影など見当たらない。
スマートフォンのライト機能で井戸を照らしてみたが。
「ひい」
梓がそう驚いただけで、やはり何かが見えたりはしなかった。
「火乃宮さんには何か見えるかな?」
「い、いえ。わたしにも、何も」
「にしても……相羽さんのこの怖がり方は尋常じゃないし……まいったな」
「――そ、そうだ。わたし、一つ思い付いたことがあるんですけど。ら、ライト――携帯のライト、そのまま井戸に当てててもらえますか?」
そして京子は手にしていたスマートフォンのシャッターを切る。すぐさま写真を確認して、「こっ、これ! これ見てください! 凄い!」興奮に声を上擦らせた。
ライトで照らされた井戸が暗闇に浮かぶ写真。
さしもの空也も「これは……」生唾を呑んだ。井戸のかたわらに白いもやのようなものがはっきり映っていたからだ。
「……心霊、写真か……」
「そ、そうなんですっ! ほんとにこんなの撮れちゃうんですねえ!」
「……ったく。次から次へと」
新たなる驚異の出現。京子とは逆に空也のテンションはだだ下がりである。うんざりしたような声で梓に言った。
「相羽さん。そこにいる人のこと、もう少し詳しく、どんな感じか教えてもらえる?」
「え――え? ど、どんな感じって……そんなの、女の人が立ってるのよ。能面をつけて、時代劇に出てくるような地味な着物を着た」
「敵意はありそう?」
「だからぁ! お面被ってるんだって! 怒ってるか笑ってるかだってわかんないわよ! なんでみんなには見えてないわけ!?」
「いや……多分、霊感って奴がないんだよ、俺たちには」
「あたしにだってないわよ! 今の今まで幽霊なんか見たことなかったんだからね!」
梓に叫ばれ、空也は困ったように後頭部を掻く。
「しかしまあ、幽霊か。井戸で死んだ女の地縛霊ってところかな」
とりあえず右拳を腰に構えつつ井戸に一歩近づいた。
次の瞬間、「あ。あ。そっか。井戸と、女――」空也を呼び止める京子である。
「あ、あのっ神木さん! もしかしたらこの井戸、猿の化け物の――」
「はい?」
「井戸と女です! お、覚えてませんか? 大角村の由来になった大猿の話。大猿に殺された娘の亡骸は、み、みんな、村の枯れ井戸に投げ入れられたって。もしかしたら、これがその枯れ井戸で、ここは猿に殺された人を祭るお社なのかも」
「……じゃあ、相羽さんに見えてるのは昔の犠牲者?」
「可能性はあります。あ、悪霊じゃないかも」
そう言われて空也は右の拳をほどいた。
「なるほど。だったらお社を一晩貸してもらおうってわけだし、礼は尽くすべきかな」
少し離れて井戸の前に立つと、うやうやしく膝を折る。
「か、神木くん……? 何してんの? 何する気……?」
「いや、あいさつの一つでもしとこうかと」
そして空也は――丁寧な座礼だ。背筋を丸めることなく深々と頭を下げた。
「あ」
直後、咲夜にしがみついたままペタンと座り込んだ梓。茫然と古井戸を見つめていた。
「い、今……いっぱいいた、女の人……井戸のところにめっちゃ並んでて、みんなが神木くん見てた……もう、いなくなったけど……」
ほどなく立ち上がった空也は古井戸へと歩いていく。
耳を澄まし、全神経を空間把握に集中させてみるが、嫌な感じは覚えなかった。
何とはなしに井戸の中を覗いたら。
「水だ」
石が積み上げられた天端まで水が溜まっていた。青白い月明かりに照らされた井戸水は一つの淀みもなく、宝石のようにキラキラと輝いて見えた。
水の存在を意識したら、ひどく喉が渇いていることを思い出した。唾を呑みこむだけで喉がひりついた。……『渇き』の方が怪物よりも難敵だな……ついついそんなことを考えてしまう。
そのうち、京子と咲夜、晴斗と夏奈も恐る恐る井戸に近づいてきたが。
「ちょ――ちょっとぉ。まだ幽霊いるかもしんないじゃん」
梓はまだ咲夜にくっついていて、まるで家事する母親を邪魔する幼子のようだ。咲夜の華奢な腰に腕を回し、重石のようにズルズル引きずられている。
京子もすぐさま井戸の水に気が付いた。
「あ、あれ? これおかしくないですか? これが娘の投げ込まれた井戸なら、枯れ井戸のはずじゃあ……それに地下水位がこんなに高いなんて。ふ、普通の井戸って、こんなところまで水上がってこないですよね?」
ブツブツとそんなことを呟きながら、井戸の縁に腕を突いて至近距離で水を凝視する。
やがて空也の方に向いて目を輝かせるのだ。
「……も、もしかしたらですけど、この井戸の水、飲めるかも」
「はい?」
「この水はコトノシサンの呪いがかかってないと思うんです。飲んでみてもいいですか?」
「は? いや、待ってくれ火乃宮さん。いきなり何言って――」
困惑する空也。反対に京子は両手を握り、満足そうにうんうんとうなずいている。
「そうですよ。このお社は、きっと幽霊たちの縄張り――神聖な霊場なんです。なら、ここにある水は幽霊が引き起こした超常現象で、コトノシサンの影響をうけていないはず」
咲夜が横から口を出した。
「火乃宮さんは、どうして幽霊がヤマンクロと無関係な存在だと?」
「お面です」
「お面? 確かに相羽さんは、能面と言いましたが……」
咲夜では京子が何を言いたいのか理解できない。しかし空也は「そういうことか」と手を打った。
「この神社の神性がまだ生きてるってことか。さっきの女が人間を怪物に変えてしまうような奴なら、今更顔なんか隠さないってことだろう? お面で顔を隠すのは、礼節をわきまえた神だと?」
「で、です。どこの神事でも、神様役はお面をつけるのが原則ですから」
すると、悩ましそうに眉間を拳で押さえた空也である。溢れんばかりの水をたたえた井戸を見下ろしてため息を吐いた。
「……まあ、実際、俺も喉が渇いて仕方ないし……ここで安全な水が確保できれば、言うことはないけど……」
しかし安全である確信が持てない。この水を飲んで何の味もしなければおしまいだ。大角村の呪いに汚染され、最後は怪物と化してしまうだろう。
京子に飲ませていいものかと決めきれないでいたら、「私が飲みましょう」と声が上がった。
「……八剣さん……?」
「火乃宮さんと神木さんに危ない橋を渡らせることはできません。あなたたち二人は我々の知であり、武なのですから。幽霊がつくったという水ぐらいは、私が飲みましょう」
「……味がしなかったらアウトだよ?」
「わかっています。でも私も喉が渇いておりますから。味の確認なら口に含むだけですし、万が一飲んでしまっても、神木さんが吐かせてくれるでしょう?」
「俺に八剣さんの腹を叩けと?」
「ふふふ。もしそうなったら、お手柔らかにお願いしますね」
月夜に映える美貌で微笑んでから、井戸の水面に両手を差し込んだ咲夜。
「ちょ――ちょっと、マジでやんの?」
梓がうろたえ、晴斗と夏奈でさえも無駄口を叩かない。
かすかに震える手で水を一掬い。数秒ためらってから、ゆっくりと口に含んだ。
そして――喉が動く。
舌の上で味を確認しただけではない。体内に水を取り入れたのだ。
真面目な咲夜である。もったいぶることもなく、正直に第一声を上げた。
「大丈夫。ちゃんと味はあります。とてもおいしい」
その言葉に心底安堵する空也。
咲夜の安全宣言を待っていたと言わんばかりに晴斗が動いた。彼とて渇き切っていたのだろう。遠慮も警戒心もなく井戸の水をがぶ飲みするのだった。
「ほんとだ! うっめぇ!」
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