乾く夜

 せめて風の音が欲しいと思った夜は初めてだった。


 畳の上に丸まっていた梓はスマートフォンを取り出し、時間を確認する。

 二三時一〇分。


 横になってから一時間以上が経過しているのに、少しも眠気はなかった。この様子ではいつ眠れるかわかったものではない。時間の進み方が異常に遅いように感じた。


 あまりにも静かだ。虫の音はおろか、風音すらしない。クラスメイトのかすかな呼吸音と衣擦れだけが聞こえていた。


 やがて我慢できなくなった梓が「ねえ。起きてる人いる?」と小声で訴える。すぐさま咲夜と京子から返事があった。


「疲れているはずなんですけどね」

「わ、わたしも、ダメみたい、です。目が冴えちゃって」


「神木くんは? 寝ちゃった?」


「…………起きてるよ」


 ゆっくりと上半身を起こした梓。高い位置にある格子窓からかすかに月明かりが入り込んでいる。暗闇に目が慣れているせいか、こんなに暗いのに室内の様子を見て取ることができた。


 床で丸くなったままの咲夜と京子。大の字になっている晴斗と夏奈。空也は壁にもたれて座っているだけで、端から熟睡する気などないらしい。


「晴斗と夏奈は――ぐっすり寝てるか……この二人はギャンギャンわめくわりに、変なところで図太いのよね。ほんと、羨ましい……」


 梓が口をつぐむとすぐさま静寂が戻ってきた。耳鳴りがしそうなほどの無音だ。


「……喉……乾いたね……」


 そうささやいただけで、場違いなほどに声が響き渡る。


「こういう夜ってさ、風の音とか、物音にびっくりするのが定番なんだろうけど……静かすぎるのも困りものね。頭おかしくなりそう」


 梓の声があまりにも気弱だったせいか、いきなり京子が柄にもないことを言い出した。


「も、もし退屈なら、わたしが、何かお話しましょうか?」

「なになに? もしかして京子ちゃんの恋バナとか? やった。気になる」

「違いますっ! そんなのない、ですから」

「えー。じゃあなんだろ……もしかして、怖い話とか?」

「そ、それぐらいしか、取り柄がないので……」

「怖いの得意じゃないんだけどなぁ……でも、そうね。それならとびっきりのをお願いするわ。あたしがガタガタ震えてる間に夜が明けてるぐらい、怖い奴」

「わたしが、今一番怖いって思ってる話で、いいですか?」

「なにそれ、気になる言い方するじゃん。聞かせて」

「じゃ、じゃあ――そうですね。タイトルは、『消えた殺人鬼』で」


 寝転がった梓と入れ替わるように身体を起こした京子が――コホン――と咳払いを一つ。声のトーンを落として淡々と語り出した。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――


 これは実際に起こった話です。


 終戦のちょうど二年後、昭和二二年八月一五日、とある大きな屋敷で女性の死体が発見されました。


 第一発見者は屋敷に出入りしていた酒屋の主人。いつもどおりに商品を届けた帰り、彼は、庭にあった松の木の根元に奇妙なものを見つけます。


 それは地面から飛び出した女の右手。手首から先の部分が救いを求めるかのように天に向かって伸びていました。人が埋まっているのです。


 すぐさまたくさんの警官が屋敷に踏み込んだのは言うまでもありません。


 広い敷地の隅から隅を探り、床板を剥がし、鯉の泳ぐ池をさらい――最終的に七体もの女の死体が見つかります。バラバラにされたものもあれば、刃物で心臓を一突きにされただけのものもありました。


 殺された七人のうち二人が町の売春婦であることはわかったのですが、それ以上の身元確認は困難を極めます。なにしろ終戦の混乱期ですから人がいなくなるのは日常茶飯事、町はどこの誰とも知れぬ浮浪者で溢れていたのです。


 やがて使用人として屋敷で働いていた老人が口を開きます。「若旦那が手にかけた」と。「戦争に行ったっきり若旦那は人が変わってしまった」と。


 そして新しい殺人事件が起きました。屋敷の跡取り息子が、逮捕にやって来た警官三人をその場で撃ち殺して行方をくらましたのです。


 誰も行く先を知りません。寄せられた目撃情報は「山に入るのを見た」というものだけ。


 山間には一つの村がありました。新たな被害者を出してはならないと躍起になった警察は、町からも人を集めて徹底的な山狩りを行います。何日も、何日も。


 山は深く、猟師でもない人間が足を踏み入れれば簡単に抜けることはできません。

 それなのに警察が男の姿を見ることは二度とありませんでした。


 町の人々は噂します。あいつは今頃クマの胃袋の中にいるのだろう、と。神隠しにあったのだという人もいました。


 殺人鬼の名前は平子義雄。


 ――これは実際にあった話です――


 なにしろ、わたしが大角村のことを調べている時に見つけた古い新聞記事そのままですから。


 平子義雄は大角村があるこの山に逃げ込んだんです。


 もしかしたら――この村のどこかで、まだ息をひそめているかもしれません。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――


「最後! 最後のは卑怯じゃない!?」


 話が終わるやいなや梓が京子を指差して糾弾する。声の勢いのわりにボリュームが控えめなのは晴斗と夏奈を起こさないためだろう。


 京子に抱き付いて力いっぱい抗議するのであった。


「ゾッとすんに決まってんじゃん! しかもなんで、そんな怖い話し方なわけ!?」


 咲夜も身体を起こして京子に目を合わせた。


「今の話は本当なのですか? 本当に大角村の近くに殺人鬼が?」

「じ、事実みたいです。終戦直後に、そういう事件があったというのは」

「なんと、まあ……とはいえ怖がることは何もないのでしょうね。七〇年以上も前のこと、殺人鬼だってさすがに寿命には勝てないでしょうし――」


 その瞬間、携帯の着信音。


「――っ!?」


 聞き慣れたメロディが大音量で室内に響き渡った。あまりにも突然のことに誰も動くことができず、あっという間に五コール目が経過する。


「もー。なんなの~? 起きちゃったじゃんー」

「ったく、うっせえな。誰の携帯が鳴ってんだよ?」


 音楽を流していたのは梓のスマートフォンだった。恐る恐る画面を見ても『圏外』のままだ。『非通知』の表示が恐怖を誘う。


「どど――どうすればいいのこれ」

 咲夜と京子に助けを求めるが、彼女らにどうこうできるわけがなかった。


「俺が出るよ」

 梓の手からスマートフォンを取り上げたのは空手家のゴツゴツした手だ。


「もしもし」


 返事はない。


 空也はスマートフォンを耳に当て直して、電波の向こうにもう一度「もしもし」と言葉を送った。


 返事はない。電話口から聞こえてくるのは――ゴオオオオ、ゴオオオ――そんな雑音だけ。何者かの唸り声に聞こえなくもないが、ずいぶんと乾いた印象を覚えた。風の音だと思った。


「――きっ」


 風音の中に何か聞こえないかと意識を集中していたが、発信者の手掛かりになりそうな音は見当たらない。そのうち通信は切れてしまった。


「な、なんだったの?」


 ためらいがちに聞いてくる梓に「わからないな。呪いの電話って感じじゃなかったけど」スマートフォンを返す。彼女は一度はそれを受け取ったものの、まじまじと見下ろし、「ごめん。やっぱ無理」と空也に押し付けた。愛用の電話に呪いがかかったように感じたのだろう。


「俺が持ってればいいの?」

「うん……ごめん。迷惑、かけるけど……」


「きっ」


「いったい何だったのでしょう、今の電話」

「さあね。聞こえたのは、風の音だと思うけど」


「きっ」


「風? それだけだったのですか?」


「――ちょっとぉ。なんか変な音してない?」

 不意に光が走った。

 夏奈がスマートフォンのライト機能で天井を照らしたのだ。


「きぃっ!」


 顔があった。


 天井板が一枚外れた箇所から、片目が異常に膨れ上がった怪物が室内を覗き込んでいる。真っ黒な口を大きく開いて、カァッと笑っているように見えた。


 怪物と目が合った夏奈の口から「ひゃあ」空気が漏れたのと同時。

「ち」

 空也の蹴り技が空間を切り裂いた。


 頭上への二段蹴り。

 垂直に跳び上がりつつ左足を蹴り上げる。


 一撃目は二メートルの高さにある怪物の鼻先を叩いただけだったが――ぐしゃり。

 続けざまに繰り出された右の爪先が、怪物の顔面へと深々突き刺さった。


 二段蹴りとはこういう技だ。左足の反動を利用してこそ右足が高く飛ぶ。二羽の燕がひるがえったかのようだった。


 ――ぞっ。ずるるるるるるるるるる――


 空也の着地から数拍遅れて、顔を潰された怪物が畳の上に落ちてくる。


「ちょ――きも! きっも! なんだこいつ!?」

「晴斗くんやだぁ! また変なのぉ!」


 皆が驚いたのは、その胴体の長さであった。なにしろ五メートル近くもあるのだ。両腕がなく、腹部が異常に伸びた裸の人間……いや、ここまで変形すると蛇の化け物にしか見えなかった。黒染みだらけの汚い肌が、どこか蛇の模様に似ていた。


「おいカミキン! こいつ死んでんだろうな!? もう死んでんだよな!」


 大蛇男――そう呼びたくなるほどの怪物は部屋の中央に長い胴体を投げ出し、沈黙している。


 夏奈がスマートフォンのライトで照らすと、潰れた顔から黒い液体が流れ出ているのが見えた。


「し…………死んでん、だよな……?」


 大蛇男が動く気配はない。


「………………」


 それでもう決着がついたと思ったのだろう。


「……は、ははは……ウケるぜ。カミキンに一発でやられちゃって、見掛け倒しかよ」

 長く伸びた胴体を眺めていた晴斗が、不用意に大蛇男を蹴ったのだ。


 次の瞬間――室内に竜巻が巻き起こった。

 長い胴体がのたうち、尻尾代わりの両足をバタつかせ、おそるべき巨体が室内を跳ね回る。


 少女たちの悲鳴。


 夏奈の恐怖に合わせて走り回ったスマートフォンのライト。

 枯葉のように吹き飛ばされたリュックサックの一つが梓に当たったのが見えた。


 すかさず空也が前に出る。

 荒れ狂う大蛇男の前に立って――自然体。だらりと両腕を垂らし、すっと背筋を伸ばした。


 そして、怪物の胴体が鞭のようにしなり、空也の前を横切った瞬間だ。


「シィっ!!」

 中段回し蹴り。戦斧を叩きつけたかのような一撃が、長い胴体を薙ぎ払う。


 ――めきゅ――


 それは梓たちが初めて聞いた音だ。ゾッとするほどに耳障りな音があり、それと同時に大蛇男の動きがピタリと止まった。力を失った巨体が畳に沈む。


 ………………………………。


 長い長い静寂は、大蛇男の絶命を確認する時間。


 やがて「お、終わったっぽい……?」脇腹を押さえながら梓が問うた。


「ああ……相羽さんは大丈夫? リュック、お腹に当たってたろ?」

「え? あー、どうだろ……骨は折れてないっぽいけど……すぐには動けない、かな」

「そうか。ごめん」

「は? なんで神木くんが謝るわけ?」


 壁際に尻もちをついていた咲夜が言った。

「皆さん、お怪我はありませんか?」


 タブレットを抱きしめながら京子が答えた。

「わ、わたし、大丈夫です。多分怪我ないです。ただ……片桐さんが、ちょっと泣いてて」


 その言葉を聞いて梓が夏奈によろよろ近づいていく。夏奈の背中を撫でながら、「ちょっと夏奈、大丈夫? どっか怪我したの?」と。 


「な、なんかね……なんか、晴斗くんいなくなっちゃったの」

「え? そんなわけ――」


 それで夏奈からスマートフォンを奪い取った梓である。暗闇のあちらこちらにライトを向けたが、確かに晴斗の姿はどこにもなかった。


 大蛇男の下敷きになってしまったのかと一瞬焦る。しかしそれは、不意に現れた沼倉大我によって完全否定されたのだった。


「何かあったのかよ? すげぇ音がしてたし、晴斗の奴が外に走っていったみたいだけどよ」


 大我はそれ以降、室内を埋め尽くした長い長い亡骸に絶句。肩に担いでいた金属バットを思わず取り落としてしまう。


「なんだよ……こりゃあ――」


 茫然自失の呟きは、しかし。

「あんのっ! クッソチキぃン!!」

 感情を隠すことなく突然壁を叩いた梓によって掻き消されてしまうのだった。


 空也と咲夜は飛び散った荷物を黙々と拾い集め、逃げ出した晴斗を追いかける準備を始めている。

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