塀の上に
「ちくしょう!! ちくしょう!!」
そう叫びながら大我は金属バットで叩き続けていた。
ひたいと髪から汗が飛び、瞳は泣きはらしたかのように充血している。
「ちくしょう!! なんで死なねえ!!」
足元には『異常に顔の長い怪物』だ。ボロ布に身を包んだ痩せぎすな女。しかし、大きく縦に伸びた頭部のせいで身長は二メートルに届こうとしていた。
「なんでだよ!?」
大我がこの顔長の怪物と遭遇したのは、『田島』と表札を掲げる大きな屋敷の前だった。クラスメイトたちと別れて山の中をうろついた帰りだ。
怪物は門の陰からいきなり飛び出してきた。そのまま追いかけてはきたが、頭が重くてまともに走れずにすっ転んだのである。
パニックになっていたのだろう。気付いた時には怪物の長細い頭部に金属バットを振り下ろしていた。
しかしどうやっても死んでくれない。何度叩いても怪物の手足は動き続ける。
手に残るのは奇妙な感触だ。骨を砕くようなはっきりとした手応えはなく、車のタイヤを叩いた時のような――効いているのかいないのか不安になる感触。
オレはいつまでこうしていればいい? どうしたらこいつを何とかすることができる?
怪物の不死身性が大我の精神を追い詰めていた。体力も無限ではない。
「ちくしょうがあっ!! どうすりゃあいいってんだあ!?」
事ここに至って大我は今までの人生を深く悔いた。不良に落ちぶれ、喧嘩に明け暮れ、弱者から奪い続けた人生を心底後悔した。
沼倉大我という人間は、他者から舐められないためだけに生きてきたようなものだ。
人から怖がられ、後ろ指を指される度に頑なになっていった自意識。すべてに反逆せねばならぬという被害妄想。どんな時も暴力をチラつかせればうまくいくという思い込み。他者の意見など決して認めないという段階にまでに肥大化した自尊心。
その結果がこのどうしようもない結末だった。あの時クラスメイトたちの前で意地を張っていなければ、こんなことにはなっていないはずだ。
不意に――あ――と思う。
腕を振り上げた瞬間にバットがすっぽ抜けたのである。もう握力がなくなっていた。
地面に落ちた金属バットがガランガランと音を立てる。
次の瞬間、何者かに肩を叩かれた。
クラスの奴らが戻ってきてくれたのかと反射的に振り返ったら。
「ねえ。玄関に誰かいるんじゃない?」
極端に髪の長い女が、顔を突き付けるように大我を覗き込んでいた。ドブ川のような嫌な臭いがした。
「う、わああああっ!?」
上擦った悲鳴と一緒に反射的に手が出る。
適当に右手を振り回したら、女の顔面に当たった。
――パキャ。
笑いたくなるほど軽い音がして、女の頭部がねじくれた。ほとんど九〇度回転。あごが真横を向き、長い前髪がバサリと地面に落ちる。
「――――――――――――――――――――――――――――――」
今度の悲鳴は音が出なかった。
真っ黒な穴が……真っ黒な三つの穴が、大我を凝視している。
あらわになった怪物の顔には目も鼻も口もなく……ただ、元々、両眼と口が位置していたと思われる場所に大きな穴が空いているだけだった。……真っ黒な……沈みかけた夕陽に照らされても何も見えない、真っ黒な三つの穴が……。
埴輪のような、のっぺりとした顔。
「ねえ。玄関に誰かいるんじゃない?」
いきなり、怪物・埴輪女に両肩を掴まれた。大我の骨がきしむほどの力強さだ。生身の女の力ではなかった。
「ヨシオちゃんとこに野菜」
――こいつ、オレを引きちぎろうとしてやがる――そのことに気付いてゾッとした。だというのに、身体は恐怖で動かない。蛇に睨まれた蛙がごとく硬直している。
いよいよ肩の関節が脱臼すると思った瞬間だった。
「ねえ。玄か、んべ――」
大我を見つめ続けていた埴輪女の頭部が跳ねたのである。
長い髪を引き連れながら派手に地面に沈む。完全に失神ノックアウトの様相だった。
そして。
「はぁ……しんど……」
大我は、倒れ伏した埴輪女の向こうに、ゆっくりと蹴りを引き戻す空也を見た。
喧嘩に慣れた大我である。今の一撃が上段回し蹴りであることはすぐに推測できた。
「間に合ってよかった。またとんでもない奴らに襲われたね」
そう言いながら顔の汗をぬぐった空也。地面でピクピクしている埴輪女の首筋を思い切り踏み抜いてから、大我の肩をポンっと叩くのだった。
「昼間の交差点まで走ってくれ。俺は、こいつらを倒しきっていくから」
思いもしなかった救世主の出現に、大我は思わず目をしばたたかせた。いつもの反抗心も忘れて「お――おう」ついつい素直に首を振ってしまう。
「実は俺たちも村から出られなかったんだ。異常だよ、ここは。闇雲に動いてもどうにもならない。だからさ、一度みんなで集まって――そこから仕切り直さないか?」
「……まさかてめぇ……オレのために走ってきたのかよ?」
「まあね。『どうせならみんなで帰りたい』って、相羽さんたちに啖呵切ってきた」
「……馬鹿だろ、てめぇ」
「ひどいな。これでも必死で走ってきたんだぜ? ほら。ここは引き受けたから」
いよいよ日が沈もうとしている。目を凝らさないと足元も見えなくなってきた。
怪物に襲われて精神が擦り減っているのだろう。大我は柄にもなく「すまん」と一言告げて、ゆっくり走り出した。金属バットを拾い、ちらちらと空也を見返しながらも、黄昏の向こうに走り去っていくのだった。
空也はその場に仁王立ちしている。
「さてと」
そう喉を鳴らして視線を持ち上げた。
彼と対峙していたのは、恐ろしく顔の長い女。大我が金属バットで何度叩いても殺しきれなかった――長頭女――とでもいうべき異形の怪物が起き上がったのである。
「どうにも……姿かたちに一貫性はないみたいだな……」
空也がそう呟いた瞬間、長頭女がゆらりと動いた。
長い頭部が横殴りに飛んでくる。
「――っ!?」
これには空也も不意を突かれた。カウンターを合わせるつもりだったのに、思わず諸手受けでがっしり受け止めてしまった。
受け手となる腕をもう一方の手が支えることで鉄壁と化す諸手受け。
――まあ、こんなものか――
横殴りの一撃は確かに重たかったが、空也の想定を超えるものではなかった。彼の前腕がきしむこともなく、これならば全日本王者・三吉藤吉郎の中段回し蹴りの方が億倍恐ろしい。
打撃の反動を利用した長頭女から更にもう一撃。
――――――
また頭突きだ。今度は斜め上からの振り下ろし。
とはいえ、空手家・神木空也が不覚を取ることはもうなかった。
激突の瞬間、急激なひねり動作に空也の腰から上がかすむ。
「シ」
飛び込んでくる巨大な頭に合わせたのは、肘だった。
必殺の肘打ちが長頭女の皮膚を大きく引き裂き、得体のしれぬ中身を深くえぐったのだ。
長頭女は頭を振り下ろした勢いそのままに地面に突っ込むことになる。そして、腰が跳ねるほど大きく痙攣し、やがて動かなくなった。
そのあとは化け物ハイカーの時と同じだ。裂けた皮膚や口から黒い液体がこぼれ、漆黒の水溜まりをつくった。その水溜まりもすぐに地面に染み込んでいく。
しかし、空也はまだ警戒を解いていなかった。
「「「ドウモリさんとこの子も兵隊に取られたそうだね」」」
突然の声に反応して顔を上げれば――
「「「ドウモリさんとこの子も兵隊に取られたそうだね」」」
眼前にあった屋敷の背の高い塀の上に、気味の悪い笑顔が並んでいた。
見渡す限り、笑顔の怪物どもがずらりと並んでいた。
剥き出しになった真っ黄色な乱杭歯。
眼球は不気味なほどに小さく、豆粒のようだ。どこを見つめているのかも定かではない。
髪の毛が残っている者もいれば、火傷のように皮膚がただれている者もいた。
「……なんだ。新手か……」
黄昏も深まり、視界は闇に覆われようとしている。だというのに、塀の上に並んだ二〇以上のニヤニヤ顔は闇に浮かぶようにはっきり見えていた。
怪物の群れが声を揃えて言う。
「「「ドウモリさんとこの子も兵隊に取られたそうだね」」」
しかし空也はそれに気圧されることもなく――それどころか。
「ちょうどいい。ここらで数を減らしておくのも手か」
そう大きく踏み出すのだった。ニヤニヤ笑いの大群に抗するかのように、口元に薄い笑いを浮かべながら、だ。
瞬間――怪物の群れが消えた。
塀の陰に隠れたのだろう。耳を澄ませば、『巨大な何か』が塀の向こうを動き回っている物音が聞こえ、やがて音は遠ざかっていった。
「………………ふーう……」
そこで初めて深く息を吐いた空也。
無理矢理な強がりも案外役に立つなぁ――そんなことを考えて胸を撫で下ろすのだった。
辺りを見回せば黄昏も終わり、虫の音一つない夜が到来している。
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