帰らずの里
誰の胸にも嫌な予感はあった。
――この村に出口はない――という口にもできぬ予感である。
生活感は残っているのに人っ子一人いない景色。
到底理解できぬ化け物の出現。
ここ、大角村がすでにダムの底に沈んでいるという事実。
超常的なことが重なっていく。ホラー映画だってここまで容赦のないことはしない。
こんなにも酷いことが続くのだから、『村から出られない』なんて至極当たり前のことのようにも思えて……そして、そんな胸騒ぎは見事に的中した。
「……嘘でしょ……」
森を抜けても、藪をくぐっても、結局は大角村に戻ってきてしまう。
大角村から離れようとしているはずなのに、その度に大角村が先回りして眼前に現れてくる。何度もだ。何度も何度も、だ。
高校生たちは気力の限り歩き続け――しかし『八度目の大角村』でとうとう夏奈が泣き出したのである。
相変わらず空に雲は見当たらない。
時刻は午後五時を回っていた。夜の到来はもう少し先だが、太陽の光はずいぶんと頼りなくなっている。空が赤く色付き始めた。
「熱心に何を見ていらっしゃるのですか?」
敗残兵のような重たい足取りで昼間の三叉路に戻ってきた高校生たち。
地面にあぐらをかいていた空也は「八剣さん」と呟いて、咲夜の声に顔を上げた。
「……手帳、ですか? あの怪物が持っていた」
それぞれが思い思いに絶望の夕暮れを過ごしていた。
ぐずる夏奈をなだめる梓に、意外と冷静にタブレットを叩き続ける京子。晴斗は、地面の小石を蹴り飛ばして無為な時間を送っていた。
「何かわかりました?」
「ん……どうだろうな。大半は登山記録だよ。見つけた花とか体調の記録とか。あまり几帳面な人じゃなかったんだろうね。どうやって大角村に来たのかは書いてなかった。ただ――」
「ただ?」
「気になる走り書きがあってさ、『ここのものは味がしない。気味が悪い』って」
「…………『ここ』とは?」
「さてね。大角村かもしれないし、別の場所かもしれない。まあ、素直に考えれば、この村のことだと思うけど」
「もしもこの村で手持ちの食料が尽きれば、当然、その辺の畑になっているものを食べるでしょうね。……もしかしてバイオハザード。生物災害でしょうか? 村のものを食べたからあんなことに?」
「あの人が怪物になった原因?」
「はい。もちろん、私の想像でしかありませんが」
「……そうだな。『何かを口に入れたから変質した』ってのは、そのとおりだと思うよ。ただ、食中毒とか、生物テロとか、そういう現実的な事象とは少し趣が違うような気がする」
「どういうことでしょう?」
「八剣さんは古事記を知ってる?」
「自信はありませんが……一般常識の範疇でしたら」
「イザナギとイザナミの離縁のくだりさ。炎神を産んだせいで死んでしまった女神だけど、その時点じゃあ、まだ黄泉の国の住人じゃなかっただろう?」
「ええと、確か……黄泉の国の食べ物を食べたからでしたっけ?」
そこまで言って咲夜は空也の言いたいことに気付いたようだ。ハッとしたように「まさか。冗談でしょう?」と彼の顔色をうかがった。
「創造神ですら蛆虫だらけの怪物になるんだ。人間なんざどうなるかわかったもんじゃない」
「本気で言っておられるのですか? 非科学的な……」
「オカルティズムにハマるつもりはないけどね。こんな状況だ。常識で考えていても埒が明かないし、案外、突飛なアイデアの方がいい所を突いてるかもしれない」
「では、神木さんはここが黄泉の国だと?」
「黄泉ならいいさ。イザナギは現世に戻った。それなら俺たちだって帰れる道理だろう?」
本気かどうかわからない表情で笑い、空也は手帳を閉じた。
「黄泉の国に迷い込んだか、それとも山の神様にでも呪われたか……ともかくこの村のものは飲み食いしないことだろうね」
「……酷なことをおっしゃる。私、もう半分ぐらいしか水筒に水残っていませんよ?」
「俺も同じさ。せめて安全な水だけでも確保できれば――」
その時、すぐそばの草むらがガサリと鳴った。
咲夜はビクッと身体を固めたが。
「なに話してんの? オレも混ぜてよ」
膝丈ほどの雑草を踏んできたのは晴斗であった。
「つーかさ、ツイてねえわ。そこの畑になってたイチゴが多分腐っててよ。全然味がしねえ。咲夜ちゃんも気ぃ付けた方がいいぜ?」
それで「「――え?」」と思わず顔を見合わせた空也と咲夜。
「ちょ、ちょっと待ってください。まさか、この村のイチゴを食べたのですか?」
「はあ? そりゃあ食べたけど。小腹空いてたし……。え? なに? もしかしてイチゴ泥棒とか言っちゃう気?」
真っ先に空也が動いた。
滑るように晴斗の前に立つと、右の掌を彼のみぞおち右斜め下に当てる。
「は? なに?」
晴斗は何が起こったのかわかっていない。
空也はただ一言。
「ごめん。相当苦しいよ」
そして有無も言わさず晴斗の腹に掌底をねじ込むのだった。
「――ぉぶっ――」
寸勁。
空手家の下半身から発生した衝撃力が晴斗の腹で暴れ回る。柔らかい胃を叩き潰し、揺らし回り、思う存分にひねり上げた。常人が耐えられる一撃ではなかった。
案の定、晴斗はみぞおちを押さえて膝をついてしまう。咳き込む暇もなく、激しく嘔吐した。吐しゃ物の中に赤い果実が見えた。
「神木くん!?」
悲鳴のような梓の声だ。騒ぎに気付いて駆け寄ってくる。
「何やってるのよ!? こんな時に喧嘩なんて――!」
咲夜が間に入ってくれた。ほとんど羽交い絞めする形で梓を押さえる。
「違うんです! いいんですあれで!」
「はあ!? 晴斗死んでんじゃん!? いったい何を言って――」
「理由は後で説明します! とりあえず今は吐かせないと!」
オロオロしていた京子に空也が叫んだ。
「火乃宮さん! 俺の水筒取ってください!」
「はっ、はひ!!」
無理矢理に立ち上がらせて寸勁二発目。今度は膝が折れるより早くゲロが宙を舞った。晴斗の目がグルンッと白目に変わる。意識が飛んだのだ。
京子から手渡された水筒の中身をがぶ飲みさせて――寸勁三発目。吐き出されたのは水で薄まった胃液だけだった。
「くそ――これ以上は身体がもたないか」
意識のない晴斗を横向きに寝かせると、口の端から唾液と胃液の混合液がこぼれた。
あちらこちらに飛び散った吐しゃ物を眺める空也。隣にやってきた咲夜が心配そうに聞いてくる。
「……どうでしょうか……?」
「わからない。多分、全部吐かせたと思うけど」
空也はひどく冷静だった。両手で襟首を掴んできた梓にも動じることなく、平然と目を合わせる。
「説明しなさいっ……!!」
梓の瞳がうるんでいるように見えた。人ひとりを絶命せしめるほどの暴力を目の当たりにして混乱しているのだろう。激昂することでしか精神を維持できないのだ。
「それは私が説明した方がよろしいでしょう」
今の状況では空也がどう弁明しても無駄かもしれない――そう察した咲夜が横から口を出してくれた。
彼女は梓の肩を支えながらその場に座らせると……空也が見つけた手帳の一文や『この村のものを食べると怪物に変貌するかもしれない』という推測、実際に晴斗が『味がしない』と訴えたこと――そういったあれこれを懇切丁寧に言葉にしていった。
「だからああするしかなかったんです。あの人は三谷さんを助けようとして……どうかわかってあげてください」
空也はさっそく晴斗の『気付け』に取り掛かっている。
だらしのない上半身を引き起こすと、膝で背骨を強く圧迫。強烈な痛み刺激が晴斗の意識を現実に引き戻した。
「お――う、ぁ――」
二、三度咳き込んでから、腹を押さえた晴斗である。寸勁三発のダメージが消えたわけではない。内臓を掻き回された鈍痛にもだえる時間がやってきたのだ。
「ほら。ちゃんと生きてるでしょう? 大丈夫ですよ、神木さんは達人ですから」
「やることが怖すぎるのよ。あたし、神木くんが晴斗を殺しちゃったのかと……」
苦笑いしながら瞳をぬぐう梓。地面にうずくまった晴斗とその背中を優しくさする空也を見て、ほぅっと息を吐いた。
そういえば……と思って夏奈に目を移せば、体育座りのまま動いていなかった。太ももに顔を埋めて、まるで泣き疲れた子供のようだ。
京子がおずおずと話に加わってきた。
「い、今のお話……わ、わたしも、神木さんの行動は正解だったと思います。確かに、ヨモツヘグイをそのままにしておくのは危険すぎるかと」
「え? ヨモ? 何?」
首を傾げた梓に、京子は土の地面を指でなぞってみせる。『黄泉戸喫』と書いた。
「あの世のものを食べることです。神木さんが言ったイザナミの話とか――そ、それ以外にも有名なのが、ギリシャ神話にあってですね。冥王ハデスとペルセポネの話ってわかります?」
「えっと、わかんない。ごめん」
「え、あ――そうです、よね……ええと、ハデスにさらわれたぺ、ペルセポネもあの世のものを食べるんですけど、そしたらやっぱり死者の国から出られなくなるんです。黄泉戸喫にはそれだけ大きな意味があって。だからもしかしたら、あの怪物だって――」
梓がため息まじりに金髪頭を掻いた。
「でもそれは、昔話の中だけじゃないの? 神話が現実になるなんて聞いてないわよ」
咲夜も思わず梓の行動をならう。
「神木さんもおっしゃっておりましたが、もう、常識で考えても埒が明かないのかもしれません……現代の常識よりは、昔ながらのタブーや説話の方が役に立つのかも……」
「でもさ、あたし、昔話って桃太郎ぐらいしか知らないんだけど。怖い話とか、都市伝説っていうの? そういうのにも基本興味ないし――って、神木くん? どうしたの?」
気が付けば、空也が夏奈を無理矢理歩かせようとしているところだった。
「だから、どうしたわけ?」
手招きされて梓たち三人も彼と一緒に草むらに入った。密集した草むらの中にはすでに晴斗がいて、いまだに腹を押さえて丸くなっている。
「静かに。ゆっくり頭を下げればいいから」
空也がひどく落ち着いた声でそう言った。
梓たち三人は意味がわからず顔を見合わせたが、大人しく従うことにしたらしい。なんとなく、『空手家・神木空也』に指示されているような気がしたから。
空也は草むらの中でうつぶせになって完全に身体を隠している。
「やだなぁ。シャツまで土まみれになっちゃうじゃん」
しぶしぶうつぶせになって空也に並んだ梓たち。しかし、空也が指差した先を見て。
「――――っ!?」
言葉のすべてを失った。
――夕暮れの景色の中に、あの怪物がいたのだ――
空也が倒したのとは明らかに違う個体……長い髪を生やしたソレは、遠くの方に見えるあぜ道をゆっくり歩いていた。上半身をブンブン振りながら、だ。
身体を深く折り曲げ、大きく反らし、とても人間的な動きではなかった。
「……なによあいつ……メトロノームみたいじゃん……」
「……こちらにはまだ気付いていないようですね……」
詳細な姿かたちまではわからない。逆光になっているせいで、怪物のシルエットしか確認できないからだ。
橙色の夕景に大きく揺れ動く黒い影。それは悪夢としか言いようのない光景だった。
「とりあえずそこの家に退避しよう」
「いいの? 不法侵入になっちゃわない?」
「どうせダムの底に沈んだ村だ。もしもまともな住人がいたら問い詰めてやるさ、『あの化け物は何なんだ』って」
「な、何体ぐらいいるんでしょうか、あれって」
「さあ。俺だけで倒しきれる数なら、ありがたいんだけどね」
それから高校生たちは息を殺して怪物の影が行ってくれるのを待った。
あの怪物がいきなりこっちに向かって走り出してこないかとか、どこか死角から別の怪物が飛び出してこないかとか――そんなことを考えて心臓が痛くなった。
やがて揺れる黒い影が見えなくなって。
「よし行こう。荷物は俺がまとめて持つから」
「でしたら三谷さんは私と火乃宮さんで支えます」
「ほら夏奈も立って! しっかりしろ」
高校生たちは三叉路に面していた大きな民家の一つへと走る。
表玄関――重厚な両引き込み戸には鍵がかけられていたが、裏の勝手口は無施錠だった。
「……何もないじゃん……」
「ええ……残っているのは、大きな据え付き家具ぐらい。まるで、昨日今日にでも引っ越した後みたいですね」
家の中はずいぶん薄暗かった。
明かり取り用の窓から入る夕日も弱く、足元まで光が届いていない。スマートフォンのライトを点けておかないと思わぬ段差につまずいてしまいそうだ。
「埃っぽくもないわね。八剣さんの言うとおり、引っ越してからそんなに経ってなさそう」
家の中でも何が起こるかわからない。誰も靴を脱いでいなかった。
「あれ? 神木くんどこ行くの?」
「部屋を一通り見てくるよ。化け物が隠れていたらいけないし」
「あ、あたしも行くわ。神木くんから離れたくない」
「みんなで行きましょう。その方が怪物を見つけられる可能性も高いでしょうし。それに、何かあっても神木さんが対処してくれるのでしょう?」
「……努力はするよ。期待に応えられるかは、わからないけど」
そして空也を先頭に家の中を巡る。
歴史がありそうな木造平屋建てだったが、思いのほか確認に時間はかからなかった。畳敷きの大部屋ばかりで、怪物が隠れていそうなところなどほとんど見当たらなかったからだ。
「うん。押し入れの中も空っぽだし、大丈夫そうじゃん」
「今日はここで夜を過ごすことになりそうですね」
「あ、あの。あとでいいんですけど、少しだけ、話を聞いてもらえませんか? わたし、いくつか思い付いたことがあって」
家の中央に位置する二〇畳ほどの部屋に荷物を置いて、腰を下ろした。
梓も咲夜ももう動けなかった。少しでも落ち着ける場所に辿り着いたせいで、ドッと疲れが出てしまったらしい。畳の上に横座りになってしばらくうなだれた。
梓がポカンとしたような顔で空也を見上げる。
「なにしてんの?」
彼はブレザーを脱いで、上半身のストレッチをしていた。胸の前で腕を十字に組んで、肩の筋肉を伸ばしている。
「いや、ちょっと外を走ってこようと思って」
「はあ?」
「沼倉くんを放ってはおけないだろう? 結局さっきの三叉路には戻ってこなかったし、どこかで化け物に遭ってるのかもしれない」
「ちょ――ちょっと待って。なに? あのクソヤンキーを助けに行こうっていうの?」
「まあ、そういうことになるよね」
あっけらかんとした空也。梓と咲夜は言葉がなかった。
梓が残った体力を振り絞るように空也を睨む。
「信じられない! なに考えてんの!? そんな危ないこと――」
深いため息と共に咲夜が立ち上がり、空也の前に立った。彼の行く手を塞ぐように、だ。
「ここにいる人間が生き延びるために言わせていただきますが――現状、神木さんは唯一の戦力です。得体のしれない怪物にあなただけが立ち向かってくれた……もしも神木さんに何かあった時、誰があなたの代わりをするというのですか」
空也はストレッチを続けながら咲夜の言葉を聞いていた。
太ももの裏を拳骨で叩き、平手でふくらはぎを揉みほぐす。
「それに、神木さんが危険を冒すほどの価値があの人にあるとは思いません。暴力的で、協調性の欠片もない。私は不良という人種が嫌いです。今日一日で、もううんざりしました。」
吐き捨てるような言葉にはさすがに苦笑いが出た。
「手厳しいね」
しかし空也の動きは止まらず、スニーカーの靴ひもを結び直し始めたのである。
「わかるよ。わかる」
何があってもほどけないように固くきつく結ぶ。
一向に考え直す気配のない彼の様子を、誰もが不安げに見つめていた。京子が何か言いたげに唇をパクパクさせたが、結局のところ遠慮がちに下を向いただけだ。
「俺だって沼倉くんに思うところはあるさ。色々と」
スッと背筋を伸ばした空也。咲夜が見たその顔は、すがすがしいまでに前を向いていた。
「でも、それでも、どうせならみんなで帰りたいじゃないか」
自分は今、何を為すべきか――それを自覚した目をしていた。
「それは……そうかもしれませんが」
「怪物は一体だけじゃなかったんだ。こんな危険な場所に彼一人だけ置きざりにして、後悔が残っても嫌だろう?」
「…………ですが……」
咲夜はもう何も言えない。代わりに声を上げたのは梓だった。
「ちゃんとここに帰ってこれる保証はあるの?」
ペタンと畳に座ったまま、ピンク色の水筒を空也に差し出している。
空也は水筒を受け取ったが、直飲みタイプのステンレスボトルだ。一瞬とまどって――飲み口に唇を付けないように水筒を傾けた。一口分の水を含み、喉を潤す。
「逃げ足には自信があるからね。大丈夫。無理も無茶もしない」
「そう。じゃあ、いってらっしゃい」
梓のその言葉がスタートの合図。
「必ず帰ってくる」
跳ねるように走り出した空也はあっという間に民家を飛び出し、三叉路を踏んで、驚くほどの速度で大角村の中を駆け抜けていくのだった。
もうすぐ夕日も沈みそうだ。今にも夜のとばりが降りようとしている。
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