愚者の選択
林間学校当日、空也の嫌な予感は見事に的中した。……およそ最悪の形で。
「いったいお前は何を考えとるんだっ!!」
木漏れ日が当たって右目を閉じる空也。ちらりと空を見上げれば、生い茂った木々の間に真っ青な空が広がっていた。見事な五月晴れである。
足元はひび割れたアスファルト。白線は薄く、ガードレールもところどころ苔むしていて、最低限の手入れしかされていないようだ。車の往来が多くない山道だからだろう。
「問題ばかり起こしおって! そんなに退学になりたいか!?」
二車線道路の路肩に停車した大型バス。クラスメイトのほとんどがその窓に張り付いて、車外の様子をうかがっていた。
大型バスのそばで一列に並ばされているのは、空也の班の七人だ。
担任の体育教師が凄まじい剣幕で怒鳴っている。
手にしていたタバコの箱を地面に叩きつけたかと思ったら、「今日という今日は許さんぞ! 大人を馬鹿にするのも大概にしろ!」と散々に踏みにじった。
さしもの相羽梓や三谷晴斗ですら気まずそうにうつむいている。
不服そうに斜めに突っ立っているのは叱責されている張本人――沼倉大我だけだ。紫の花柄シャツにブレザーを引っかけた身長一八〇センチ。肩幅も広く、相当の筋肉質に見えた。
「っせぇな。たかがタバコぐらいで」
大我の口からぼそっと発された不満。
しかしそれは体育教師の耳に届き、怒り顔を更に真っ赤にさせただけだった。
「――――――――――――っ!!」
もはや何を言っているのか聞き取れない。怒気そのものが発露したような叫びである。
事の発端は……沼倉大我のバス内における喫煙だった。
体育教師が居眠りした隙に我が物顔でタバコを吸っていた大我。隣席の三谷晴斗はそれを面白がり、周りのクラスメイトたちもトラブルを恐れて注意しなかった。それで、車内を漂ったタバコ臭に気付いた体育教師がバスを止めたのだ。沼倉大我のみならず班員全員を降車させたのである。
とばっちりを食った空也は――まさか俺たちまで立たされることになろうとは……事なかれ主義に逃げたバチが当たったか――そう思いながら神妙な顔で道路を見つめている。体育教師の怒声はすべて聞き流していた。気疲れを最小限に抑えるためだ。
いつまで経っても終わりを見ない体育教師の怒り。
「お前らガキはどうしていつもいつも先生をコケに――――っ!!」
地団駄を踏んで拳を振り回すその怒り方は、明らかに常軌を逸しているようにも見えて……最近、生徒たちの間に流布する『元々怖かった体育教師が精神を病んで更にヤバくなってる』という噂が真実味を帯びてくるのだ。
やがて。
「いいかぁ!? お前ら七人は研修所まで歩いてこい! 連帯責任だ!!」
という誰もが予想していなかった言葉を残して、鼻息荒くバスに戻っていった。
「……え?」
相羽梓と片桐夏奈が信じられないとでも言いたげに互いの顔を見合わせる。
「ちょ、ちょっ――マジでか……」
三谷晴斗もさすがに少しうろたえていた。
沼倉大我は、班の六人に聞こえるよう、わざと大きな舌打ちを一つ。
そして――体育教師がバスの中でも運転手に何事か怒鳴っているのが聞こえた後――神木空也、八剣咲夜、火乃宮京子の三人は、ゆっくりと回り出した大きなタイヤを無言で見送るのだった。
どこかで野鳥が鳴いている。姿は見えないが、初夏の山にふさわしい澄んだ鳴き声であった。
――やがて。
「最っ低!!」
そう声を荒げた梓が地団太を踏み、水色のリュックサックを大我へ投げ付けた。
「あんたねぇ!! あんたッ、悪ぶりたいんなら自分一人だけでやってなさいよ!! 迷惑かけんなクソヤンキー!」
学校随一の乱暴者を恐れることもなく大股で近づくと、真正面から食ってかかった。
大我は「あぁ?」と喉を鳴らしただけだ。さすがに、すぐさま女子に暴力を振るうことはなかった。
「うっせぇなぁ。オレのせいかよ」
「当たり前じゃない!! 他の誰のせいだっていうのよ!? 言ってみなさいよ!? ほらぁっ、さっさと言ってみなさいよ!? あんたが格好つけてあんな真似したから、こんなことになってんじゃないの! 陰でコソコソ吸ってんならまだしもっ、あんたの『タバコ吸ってますアピール』にあたしらを巻き込んでんじゃないわよ!!」
とはいえ、ヒートアップする梓に痛いところを突かれてしまっては黙ってもいられない。
梓の胸元をむんずと掴むと、首を傾げながら不良らしく凄むのだった。
「クソアマが生意気言ってんじゃねぇぞ。殴られて、ブチ犯されたいかよ」
ゆるく結んだネクタイをクシャクシャに握った大きな手……梓は一瞬それにきょとんとしたようだが、眉と口端を吊り上げながら鼻で笑う。
「笑える。このあたしが、安っぽい脅しに黙る女だと思うわけ? ていうか口臭いんだけど」
すかさず助け船が割り込んできた。晴斗と夏奈だった。
「まーまー。二人ともちょっと落ち着けって。ヒートアップしすぎじゃね?」
「梓が怒るのもわかるけどさ、もういいじゃん。ここでケンカしてもさぁ」
しかし梓の怒りは止まらない。夏奈に腕を引っ張られながらも牙を剥いた。
「はあ!? このクソヤンキーを許せっていうわけ!? おかしいでしょ! 全部こいつのせいなのに――ていうかっ、なんでまだ偉そうにしてんのよ!?」
「まーまー! ここは退いとけって梓! 大我くん怒らせたらマジヤベーんだって。本当に殴られちまうぞ?」
「それにさ、先生の怒り方も何か変だったでしょ? やっぱあの人、ちょっとおかしいんだよ」
車道にはみ出しながら騒ぐ梓たち四人。
とはいえ車の行き来はまったくなかった。本当に交通量の少ない道なのだろう。七人を置いていった大型バスが戻ってきてくれる気配もなさそうだ。
「火乃宮さん、ここから研修センターまでどれくらいかわかります?」
咲夜がヘアゴムで黒髪を束ねながら京子に問う。
神木空也、八剣咲夜、火乃宮京子の三人は――梓と大我の喧嘩を横目に――これからの対応を考えている最中だった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいね。電波、来てれば、いいんですけど……」
学校指定のリュックサックからタブレット端末を取り出した京子は不安そうな顔だ。
タブレット端末の画面にアイコンが並び、画面端に電波状況が表示される。
「あ、あ――大丈夫そうです。凄い。こんな山ん中なのに、ちゃんと電波入るんだ」
そして地図アプリが起動。
「ええと。そ、そうですね。一本道みたいですけど……多分、一〇キロはあるかも……」
「一〇? 結構ありますね」
「ご、ごめんなさい」
「あ――違うんです。そういうつもりではなくて……あの。神木さんはどう思いますか?」
急に話を振られた空也は、弱々しく苦笑しリュックサックを担ぎ直した。
「そりゃあ一〇キロ歩くしかないんじゃないですか。みんな荷物あるし、少し大変でしょうけど」
しかし、実のところ……空也は一〇キロという距離には何の思いも抱いていないのだった。空手のための体力づくりで普段からそれ以上に走っているからだ。空也一人だけならば、荷物の重さと坂道を考慮しても、一時間程度で研修センターに着くだろう。
……とはいえ、そうならないのが、班行動の難しいところだよなぁ……。
人知れず嘆息してから足を踏み出した空也。
見れば、咲夜が梓たちに『研修センターまで一〇キロ歩くしかないこと』を告げ。
「ちっ。かったりぃな。タクシー呼びゃあいいじゃねえかよ」
「あんたが全部お金を出すんならね!」
「つーか、町からメチャクチャ離れてるし、さすがに来てくれねぇんじゃねえかな」
「一〇キロってマジなのぉ? 脚むくんじゃうじゃん」
そう梓たちもしぶしぶ歩き出していたからだ。
京子と並んで、班の最後尾を歩く。
無言の間が苦しくて、何とはなしに問うた。
「そういえば、この辺りにも幽霊って出るんです?」
「ぅえ? あ――は、はいっ。研修センターに繋がる道路で、四つん這いの女が追っかけてくるって……も、もしかしたらこの道のことかも……」
「なるほど。とはいえ、徒歩じゃあ逃げ切れそうにないし。困ったな」
「ひ、昼は出ないんじゃないですかね……」
「記事にできるぐらいの情報は集まりました?」
「あ、集まったっていうか……むしろ集めすぎちゃって。しゅ、取捨、選択を、どうしようかな、って」
「そんなに心霊現象が?」
「そ、それがですね。この辺の土地って、元々ちょっと変わってるみたいで。不思議なことは、昔から多かったみたいです。はい」
「へえ。本当に面白そうだな」
「全部タブレットに入れてきてますから、落ち着いたら、その、お見せしましょうか?」
「ありがたい。是非」
と、そこまで話したところで、だいぶ先を歩く咲夜からの呼び声が割り込んできた。
「火乃宮さん! ちょっといいですか!?」
「あっ――は、はい! すぐ行きます!」
それでドタドタと駆けて行った京子。
空也は足取りを変えることなく、ゆっくりと他の六人に追い付いた。彼らは一所に集まって、何かを話しているようだった。
「ほら見ろ。ぜってぇこれ近道だって。ここを突っ切ってるんだって」
晴斗が興奮しながら京子のタブレットを覗いている。
何が話し合われているのか、それはすぐに判明した。
――二車線道路の脇から未舗装の小道が伸びていたのだ――
砂利道ではあるが、草も刈ってあるようでずいぶんと明るい。
空也が後ろから京子のタブレット画面をうかがい見ると……確かに、森を突っ切って研修センターの方に向かっているようではあった。……道の表示はなかったが……。
「ちょ、ちょっと待ってください。地図じゃあ、道はないんですよ?」
「いやいや、でも実際あるじゃん? 大丈夫? 目ぇ見えてる?」
「で、でも……」
「どーせアレだろ? ちっちぇ裏道だから、地図に載せてないだけだって」
そして晴斗はニコニコしながら大我へと駆け寄るのだった。
「大我くん。これやっぱ、まっすぐ行ったらすぐにゴールだわ」
すると大我は威圧するような大きな舌打ちを一つ。
「ならいいじゃねえか。おら。行くぞ」
そう言い捨てて脇道に入っていく。
「――あの」
遠慮がちに止めたのは空也であった。
「さすがに山道は危ないんじゃ……蛇とかもいるだろうし」
至極まっとうな苦言。しかし、空気が凍る。
「あぁ? てめぇ、なにほざいてんだ?」
ズカズカと歩いてきた大我にいきなり肩を殴られた。そのまま思い切り突き飛ばされる。
空也は大きくよろけ、二、三歩さがって尻もちをついた。
「つーか、てめぇ誰だよ。外野は黙ってろや」
空也の強靭な体幹からすれば、それはわずかな衝撃であった。しかし彼は、大我をこれ以上逆上させないようわざと転んだのだ。反撃もしなかったし、もう何も言わなかった。
「カーミぃーキーン。ホントつまんねえ奴だよなぁ、お前はぁ」
晴斗がニヤニヤしながら見下ろしてくる。
「ちょ――大丈夫?」
心配して駆け寄ってくれたのは、意外にも梓と夏奈だった。
京子はオロオロと事の次第を見守っているだけで。
咲夜は……地面に置かれた空也の手の甲をじっと見つめていた。砂袋や巻き藁といった鍛錬器具を叩きすぎて分厚く変形した『空手家の拳』を、静かに見つめていた。
「大丈夫? 怪我はない?」
空也の目の前で金髪が揺れる。
ふわりと香った甘い匂いにドキリとした。香水やシャンプーではない。もっと自然で、梓の全身から立ち昇ってくるような匂いだった。
空也は一瞬呆けたが、「あ、はい。大丈夫――大丈夫です」と立ち上がる。
「こう見えても、俺、結構頑丈なんで」
「そうなの? とてもそうは見えないけれど。筋トレとか?」
「ははっ。そんな感じです」
殴られた肩をグルグルと回す空也にホッと胸を撫で下ろした梓。
「ねえ。晴斗くんたち行っちゃうよ。梓どうすんの?」
彼女は、服を引っ張ってきた夏奈の指差す先を見て、頭痛そうに眉間を押さえるのだった。
「どうするって……班全員が揃ってないと、また大目玉よ? この道が研修センターに続いてるかはわかんないけど、あたしらも一緒に行くしかないんじゃない?」
梓の言葉に咲夜が「まあ、そうなるでしょうね」とうなずいて歩き出した。
「はあ……これだからバカな男って嫌い」
「でも晴斗くん格好いいよ?」
「顔だけでしょ? こういう時に調子に乗ってんの、ちょっと理解できないわ」
梓と夏奈も脇道へと足を踏み入れ。
「待ってくださ――わたしも行きますっ」
タブレット端末をリュックにしまうのに手間取った京子が慌てて後を追いかけた。
最後に残ったのは空也である。
陽が差し込む砂利道を見つめてから、遠ざかっていくクラスメイトの背中を見据えた。
「……仕方ないか」
諦め気味に一つ呟いて、足早に彼らを追いかける。
砂利道を踏んだ瞬間に何故だか背筋が震えたが、その感覚はわざと無視した。
――――――――――
――――――――――
「ねえっ。これ大丈夫なの!? 草とか木とか、さっきより多くなってない!?」
「大丈夫大丈夫! 行けるって。オレに任せとけ!」
「いったーい! なんか髪に引っかかったんだけどぉ」
「これは……制服が汚れますね。体操服に着替えておけばよかったかも……」
「おい眼鏡! こっち来いや! この道で合ってんだろうなぁ?」
「ひっ――わ、わかりませんっ。だからぁ、み、道はないって――」
「クソが。眼鏡のくせに使えねえな」
「どうする大我くん? 結構歩いてきたけどやっぱ戻る?」
「あぁ? んな面倒なことできるかよ。真っすぐ行きゃあいいんだろうが。遅れんなよ、お前ら」
――――――――――
――――――――――
「ちょっと晴斗。そろそろやめといた方がいいんじゃないの? これもう道じゃないわよ」
「何言ってんのさ梓。せっかくここまで来たんだろ? わがまま言わずに付き合ってくれよ」
「だからここはもう藪だって言ってんのよ!」
「やだぁ。これ絶対に虫に刺されてるって」
「つってもなぁ、大我くんもう結構先に行っちゃってるぜ?」
「あのクソヤンキー……」
「神木さんは大丈夫ですか?」
「平気です。葉っぱだらけですけどね」
「火乃宮さんは……」
「も――もう、無理ですぅ」
「……あっつ……汗が……服、脱いじゃいたいわね……」
――――――――――
――――――――――
そして草木を掻き分け続けた高校生たち。
最初にその地に足を踏み入れたのは、先頭を突き進んでいた大我であった。
「なんだこりゃあ……?」
開けた――というか、開けすぎた場所に出た。
空が広い。山間にできた大きな谷のようだ。
あちらこちらに田畑らしき土地があるし、家屋だっていくつか見える。
「村?」
金髪に付いた木の葉を払い落としながら、梓が言った。
ぜぇーぜぇーと息を上げながら、京子が疑問を呈した。
「お、おかしいです……研修センターの周りには、人なんて、住んでなかったはずですし……どこなんですか? ここ……」
あり得ないほどに静かだ。いつの間にか山鳥たちも声をひそめ、聞こえるのは高校生七人の吐息と足音だけ。
突如として目の前に広がった世界は、五月下旬の陽光で色鮮やかに輝いている。
だというのに。
「…………なんだか……少し、不気味ね……」
どれだけ目を凝らしても人影は見えなかった。
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