黒髪と不良

「神木さん。少し、いいですか?」


 放課後。夕方のホームルームを終えてそそくさと教室を後にした空也を呼び止める声があった。実に艶っぽい……背筋が震えるような女の声だった。


 生徒たちが行き交う廊下で振り向くと、滴り落ちた黒髪がまず目に入る。


「八剣さん?」


 見知った美貌。同じクラスの女子生徒だった。


 ――八剣咲夜――


 空也のクラスには美少女が二人いる。一人は派手な風貌で目を奪う相羽梓であり、もう一人が幽玄な美貌でカルト的な人気を誇る八剣咲夜だ。


 真っ白な肌に、腰まで届く真っ黒なロングヘア。

 切れ長の目はどこか刀の切っ先を思わせた。まつ毛は長く、少し顎を引いただけで目を伏せているようにさえ見える。

 学校指定のブレザーを正しく着こなし、しかし、その肢体は一切の無駄がなかった。薄い肩や細い足首など――華奢と思えるほどの痩躯であるのに、胸元の肉付きだけは立派であったのだ。


 しっとりと濡れるような美人……戦国時代の姫君といえばそれっぽい印象かもしれない。


「ごめんなさいね、急に呼び止めてしまって」

「――や、それは大丈夫ですけど」

「来週の林間学校のことで一言あいさつしておきたくて」


 ほがらかな笑顔を浮かべた咲夜に空也はなるほどと思った。何事かと身構えてしまったが、たいした内容ではなくてホッとした。頭を下げる。


「なんかすみません……俺みたいなのが班に混じっちゃって」


 すると咲夜が首を横に振って空也の恐縮を柔らかく否定した。


「神木さんとこうやって何かを一緒にするのは初めてでしたよね?」

「多分、そうだと思いますけど」

「それに、同じクラスなのに、ほとんど話したこともないですし」

「でしたかね。まあ、俺は女子と話す機会そのものが滅多にないんで……」

「あら。それでも相羽さんとはよくしゃべってるじゃありませんか」

「あれは――席が隣だから」

「そうなのです? だったら私、次の席替えで神木さんの隣を狙ってみようかしら」

「え?」


 そして周囲を見回した咲夜。声が届く距離にクラスメイトたちがいないことを確認してから、唇に人差し指を当てつつ言った。


「実は少し興味があるんです、あなたに」


 咲夜の微笑に、どうして? とでも言いたげに眉をひそめた空也である。


「わかりませんか? その――お腹から重心が外れない立ち方……普通の高校生はそうは立ちません」


 そう言われて、空也は自身の下半身を改める。まさか級友から『そのこと』について言及されるとは思ってもいなかったのだ。


「私って、そういうところを見てしまうんです。日本舞踊と薙刀のお稽古をやっているものですから」


 咲夜は微笑みによって細くなった眼のまま、空也の右手に視線を落とす。

 しかし彼の両手はズボンのポケットの中にあった。


「……何かの武道かしら」

「さてね、どうでしょう」


 分厚い拳を見られれば空手家というのはすぐにわかるだろう。それでも空也は言葉を濁した。

 咲夜からの追及はなかった。


「八剣さぁんっ」

 不意に、クラスメイトの女子が背後から咲夜に抱き付いたからだ。


 そして集まってくる咲夜の友人たち。空也を押しのけて強引に黒髪の美少女を取り囲むのだった。


「大丈夫? なんだか凄い班にされちゃってたけど」

「てか先生もひどいよ。八剣さんをあんなケダモノと一緒にするなんて!」


 繰り出された話題は先ほどのホームルームで発表された林間学校の班分けについてだ。


 ケダモノと評されたのは、クラス一の問題児である沼倉大我か、それとも女たらしで有名な三谷晴斗のことか。


 沼倉大我。三谷晴斗。神木空也。

 空也たちの班は、男子三名、女子四名の合計七名で構成される。男子の方だけを言うならば、強烈な個性を持つ二人の存在を神木空也で薄めようとする教師たちの思惑が見えた。


「今からでも先生に直訴してみない? あたしらみんなでお願いすれば、八剣さんだけでもなんとかなるかも」

「担任に? 無理だよ。あいつ頭おかしいもん。顧問やってる柔道部でも、口答えした一年生がひどい目にあったらしいじゃん」

「奥さんと子供に逃げられて精神病んでるって噂もあるしね」

「じゃあ校長だ。校長室に乗り込もう」

「え、ええ。ありがとう……でも私は大丈夫ですよ」


 この場を離れようかとも思った空也であるが、咲夜の横顔が困り果てていたからやめた。代わりに廊下の窓に寄りかかり、真下に見える校庭をぼんやり眺めることにする。


 お? と思ったのは厄介な揉め事が見えたからだ。


 駐輪場で、文化系っぽい男子生徒が大柄な金髪男に胸ぐらを掴まれていた。

 二人の周囲には男子生徒の友人らと思わしき男子が二人いて――金髪男から少し距離を取りつつ、事の次第をうかがっている。


「…………あれは……」


 ひ弱そうな男子生徒のことは知らない。だが、金髪男の方は知っていた。ショートドレッドヘアで学校に来る人間なんて、空也のクラスの沼倉大我だけだ。


 全学年を通じてトップクラスの問題児。素行不良というよりは暴力的と呼ぶべき危険人物。今朝のホームルームで体育教師が彼を探していたのも、他校の生徒と乱闘騒ぎを起こしたことについて問い詰めるためだったらしい。クラスメイトたちがそう噂していた。


「それに八剣さんの斑ってあの二人もいるじゃない」

「二人……? 相羽さんと片桐さんのことでしょうか?」

「八剣さんが付き合う相手じゃないよ。絶対、迷惑かけられるよ」


 経緯は知らないが、見知らぬ男子生徒が怪我しないうちに先生を呼んだ方がいいだろう。


 空也がそう思っていたら、男の教師が飛んできて沼倉大我に何か言ったようだ。それで乱暴者は、掴んでいた相手を突き飛ばして、肩を怒らせながらどこかへ歩いていく。


 あのヤンキーと同じ斑かぁ……空也はそう思って少しだけ憂鬱になるのだった。


「学校でギャルなんか気取ってさ。何考えてんのかわかんなくない?」

「医者の子供でちょっと可愛いから調子乗ってんのよ」


 ヤンキーがいなくなった駐輪場では、突き飛ばされた男子生徒を友人らが助け起こしていた。まだ教師も一緒にいる。騒ぎを聞きつけて人も集まってきたようだ。


 もう心配することはないだろうと空也は胸をなで下ろした。


「ごめんなさい、神木さん」

 と、八剣咲夜の声に反応して首を回すと――彼女が友人たち三人に連れて行かれるところだった。両腕をがっちりと掴まれて、まるで警察に連行される凶悪犯みたいだ。


 女子の付き合いも大変そうだなぁ……そう哀れに思った空也である。ペコリと頭を下げて、咲夜を見送った。


「あのっ! 火乃宮さんに会ったら、私がよろしく言ってたと伝えてもらえます!?」

 廊下の向こうに消えた咲夜の最後の言葉。


 空也は「……火乃宮……京子、さん……だっけか」と口の中で反芻する。


 火乃宮京子――今回の林間学校で同じ斑になる女子の名前。


 実を言うと、彼女もまたクラスの変わり者なのだった。黒縁眼鏡をかけた化粧っ気のない女の子で、著名な民俗学者を父親に持ち、有名なオカルトサイトを運営しているらしい。


「……濃いメンツだよなぁ」


 咲夜が連れ去られていったのとは反対方向に歩き出した空也。


 ふと思い付いて、先ほどのホームルームで配られたプリントを通学カバンから取り出してみる。プリントには、林間学校の班分けが印刷されていた。


 相羽梓。

 片桐夏奈。

 神木空也。

 沼倉大我。

 火乃宮京子。

 三谷晴斗。

 八剣咲夜。


 五十音順に並んだ七人の名前は、それだけで目まいがするぐらい濃密な個性を放っていた。


 林間学校まであと何日かだ。三日間も気まずさに耐えられるかどうか、空也はそれが心配でならなかった。


 結んだ唇をひん曲げながら、本屋に行かなきゃな……と思う。今日は人気ライトノベルシリーズの発売日だ。深刻に思い悩むのは、待ち望んでいた新刊を読んでからでもいいだろう。

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