朝の凡人
あくび交じりに教室の引き戸を開けた。
朝のホームルーム五分前である。教室にはすでにほとんどのクラスメイトが登校してきており、友人らとの談笑に興じている。気だるげな神木空也を見る者はいなかった。
「おざいまーす」
おはようございますを正しく発声するのも面倒なのだろう。どうせ反応なんてほとんどないのだから、いくら略そうとも関係ない。朝の空也はいつもこんな感じだった。
「おざいまーす」
ペコペコと会釈しながら教室を進む。教室後方にある自席のそばまで来て、ふと空也は足を止めた。座る椅子がなくて困惑したのだ。
「腹立つわー。さっき朝練、下窪の奴、マジありえんくなかった? あのタイミングでチャージとか。あいつ、どこ中だっけ? 一年坊主のくせに態度がなってないと思わね?」
つまるところ、空也の椅子はすでに占領されていたのである。サッカー部の三谷晴斗に。
「今年の新人は調子こいてるの多いし、ここらで一発、性根入れとくかー?」
空也の前後の席がサッカー部員だというのもあって、また溜まり場として使われているのだろう。
三谷晴斗は流行りの若手俳優みたいなわかりやすいイケメンで、顔だけならば間違いなくクラスの男子で一番の人気者だ。脱色はしていないものの整髪料で髪をいじっており、今日の髪形は一見ワカメっぽく見える。
「そういや晴斗、マネージャーの件はどうなったわけ? 一年から手紙もらったって奴」
「え? なんもしてないけど? もらったっきり」
「興味ないならさっさと振ってやれよ。あの子、オレにまでどんな感じか聞いてきたぞ」
「はあ? なにそれウゼェ。ストーカーかよ」
根っからの悪人ではないのだろうが、少しばかり素行不良。空也が持つ三谷晴斗への印象はそんな感じだった。正直、得意なタイプの人間ではない。
そばに立っているのに気付いてもらえなかった空也は、「おはようございます。あのぅ、椅子……」と、おずおず声をかける。
「あぁ? 『カミキン』かよ。何の用?」
晴斗にはそう凄まれたが、そう言われて引き下がれるわけもない。空也の席はここしかないのだから。
「いやぁ、そろそろホームルーム始まるし、三谷くんも席戻った方がよくない?」
「っせーな。こちとら、朝練で疲れてんだ。帰宅部はチャイムまで立ってろよ」
「ま、まあ、そう言わずに。頼むよ……」
毒気のない苦笑を浮かべた空也。
実のところ、クラスメイトの誰一人とて空也が凄腕の空手家だということを知らないのだった。空也自身が言っていないし、鍛え上げた拳に気付く目ざとさが彼らにないからだ。
空也はあくまでも下手に出つつ、しかし内心は――俺だって朝の鍛錬で疲れてんのに――という不満に膨れていた。
神木家の朝は早い。今朝も五時に目を覚まし、五時半には庭に出ていた。
空手の師匠でもある父親と並んで型を練った後、重たい砂袋を叩いて拳足を鍛え、最後に三〇分間のライトコンタクト組手だ。
撃ち抜かず、蹴り抜かないからダメージはないが、それは親子が熟達の空手家だからである。常人なら青あざだらけになるような、顔面・金的ありの攻防を休みなく続けたのだ。
朝食の用意を終えた母親に怒鳴られるまで父と子のじゃれ合いは続き……何事もなかったかのように父は仕事に、空也は学校に向かう。こんなことを一〇年近く続けていた。
「なんなのお前? オレ、今日機嫌わりぃんだけど」
「いや……そんなこと言われても……」
殴ってしまえば話は早い。苛立ちは晴れるだろうし、今後、晴斗のような輩に絡まれることだってなくなるはずだ――そんなことを考えたりもする。
それでも空也がクラスメイトに空手を見せない理由……それは彼が『真っ当な空手家』として育ったからだ。俺の拳は決して軽くないという矜持があるからだ。
さて、どうしたものかな……途方に暮れて唇を噛んだ瞬間だった。
「いや、あんたの方が『なんなの?』でしょ。いいかげん席戻りなよ、晴斗」
突然耳に入ってきた綺麗な声に振り返る空也。
「つーか、もう先生来るし?」
ハッとするような美少女が、机に頬杖を突いていた。
金髪。
といっても、目が痛くなるような黄金ではなく、上品な白金色。柔らかそうなセミロングヘアの毛先は内側にカールし、まるで天使の翼のようだ。
髪の隙間から覗く耳には星形のピアスが光る。
そして、学び舎には不釣り合いなほどの美形……目鼻立ちが抜群なのはもちろんのこと、どこか人間離れした神妙な色気がある。
涙袋を伴った大きな瞳、細すぎない眉、ラメ入りリップを乗せた厚めの唇。今風のメイクはしているが、必要なものを最低限にだけだ。生まれついての清艶さを損なわぬ程度に化粧で遊んでいた。
白金髪が静かに揺れる。美少女は流し目で晴斗を見やりながら。
「ほら、さっさと消える」
まるで羽虫でもあしらうかのように軽く手を振るのだった。
すると、「ちぇ――」憮然としながらも椅子から立ち上がった晴斗である。
「まあいいや。愛してるぜ、優しい梓。今度デートしような」
そして空也の肩にポンッと手を置いた。女子に助けられた哀れな地味男を鼻で笑って、自分の席に帰っていく。
明らかな挑発だったが、凄腕の空手家は愛想笑いで後頭部を掻いただけだ。
「どうも、すみません」
金髪美少女にペコペコと頭を下げ、机のフックに通学カバンを引っかける。
椅子に座ったら、座面に晴斗の体温が残っていて嘆息が漏れた。
「あのさぁ」
棘のある呼びかけに首を回す。金髪美少女が頬杖のまま空也を睨んでいた。ジト目というのだろう。多少の軽蔑と苛立ちが込められた視線だった。
「少しは言い返したっていいんじゃない? バカにされてんのよ、あんた」
そう言われて、空也は「すみません」と低頭する。どう返答すべきかわからなかったのだ。
――相羽梓――
クラス一、いや、学校一の美少女に気を遣わせてしまって、申し訳ないと思った。
見せつけるほどに着崩した制服に、人目をひく白金髪。爪だってピカピカに磨いている。誰が言わなくともギャルであることは明らかだ。
「神木くんも男っしょ? 頭ばっか下げてないで、たまには戦ったら?」
「すみません」
「またその顔。もういいよ。ごめんね、急に話しかけたりして」
そう言ってそっぽを向いた梓。
梓の一つ前の席――その椅子にまたがって背もたれを抱きかかえていた別のギャル系少女――片桐夏奈――が笑みを浮かべた。
「どうしたの梓。なんか熱血じゃん」
梓は口を尖らせながら、わざと空也に聞こえるように言った。
「べっつにぃ。なんかヘラヘラしてるからムカついただけ」
空也は今度も言い返さない。「いやぁ……」と言葉を濁していた。
すると夏奈が明るい声を上げる。
「ごめんねー神木くん。梓、今日はきっと生理なんだよ♪ ――ぃたっ」
即座に梓が夏奈の頭をはたいた。そのまま夏奈に何か言おうとしたが、教室前方の扉が開け放たれたので口をつぐんだ。
「日直ぅー」
枯れた声と共に教室に入ってきたのは、腹の出た中年の体育教師であった。
担任が教壇に着くよりも早く、「きりーつ」と日直担当の男子が号令をかける。
礼をした生徒たちが席に着くと、体育教師は室内を見渡し、「沼倉はどうした? 遅刻か?」とクラス一の問題児の名前を出した。
質問に答えられる者はいない。
舌を打った体育教師は、「おい日直。沼倉が登校して来たら職員室まで知らせるように」そう言って鼻を鳴らすのだった。
朝のホームルームが始まると、さっそく、来週に迫った林間学校にまつわる連絡事項が告げられる。
場所は高原の研修センター。
行程は二泊三日。野外炊飯やオリエンテーリング、日の出前に山頂を目指す早朝登山などを通して、自立心と自然を愛する心を養うらしい。
初夏の一大イベントに心躍らせた生徒たちであったが、「当日の班分けは学校側が指定するからな」との言葉にブーイングを上げた。
しかし生徒たちの抵抗は、体育教師が教壇を一発叩いただけで終わってしまう。
「決まったことだ!! それでも文句があるやつはいるかぁ!?」
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