隠れ武術家、怪奇狩り
楽山
不帰の村にて
第一部 序章~夕暮れに達人二人~
五月の夕暮れは少しばかりの冷気を残していた。
空には雲少なく、視界に入りきらないほどの茜空が大きく広がっている。
そして――遊具の少ないさびれた公園には、少年が一人。
色あせたベンチに座って文庫本に目を落としていた。物語に集中しているのか、ほとんど動くことがない。背中を丸めながらまた一枚ページをめくった。
耳元をそよぐ風がうるさく感じるほどの静寂である。時折遠くを走る国道から車の走行音が届いたが、六時過ぎの公園を支配するうら寂しさが晴れることはなかった。
「……む……」
ふと、少年の手が止まる。文庫本に挿絵が現れたのだ。
半裸の美少女がスライムに襲われている扇情的な一場面であった。
涙の浮かぶ瞳、紅潮した頬、今にも先端が見えてしまいそうな巨乳、拘束された両手、尻を突き出したポージング。実にエロい。単なるモノクロイラストとはいえ、人気のないところでなければ読むのをはばかってしまうほどに、性的だ。
ライトノベルである。少年が熱心に読み進めている文庫本は、異世界に転生したダメ男が無敵の能力で成り上がっていく人気のライトノベルだった。アニメ化も決まったらしい。
渾身のお色気イラストをじっくりと堪能してから、ようやくページを進めた少年。
「…………」
一度顔を上げて、周囲を見回した。今更ではあるが、先ほどの挿絵に後ろめたさを覚えたのだろう。相変わらずの人気のなさにホッとする。
ブレザー姿の男子高校生――ベンチの少年は、その名を『神木空也』といった。
彼を表現する言葉はそれほど多くない。
普通。真面目。凡人。空気。
私立常凛高等学校の二年生であり、ただの帰宅部。
――どんな奴かはよく知らない――空也のクラスメイトたちに彼の人となりを尋ねたら、必ずこう返ってくることだろう。
花の高校生活を謳歌するわけではなく、特別に悪目立ちすることもない。友人は少ないが、孤高を気取っているわけでもない。宿題は真面目にやってきていて、授業中に当てられればそつなく回答する。その分、運動神経はそれほどでもないらしく、体育の時間に活躍することは滅多になかった。
存在感が薄く、いつも端の方に突っ立っている人畜無害……それが、神木空也という人間に対して周囲が持つ印象のすべてだった。
ふと――静かに本を閉じた空也。隣に置いていた通学カバンのチャックを開けて、のそのそと本をしまう。
空也がカバンのチャックを閉めたのと、彼の身体に大きな影が乗ったのは同時だった。
「わりぃな、神木。待たせたか?」
しっかりとした重たい声。
空也が視線を持ち上げれば、案の定、大男がいた。ゾッとするほどの筋骨隆々が仁王立ちしていた。
本当に大きい。身長は優に一九〇センチを超えているし、体重が一二〇キロを下回ることもおそらくないだろう。伸縮性に優れた半袖のスポーツウェアはパンパンに膨れ上がり、ハーフパンツから伸びる脚もまるで鋼鉄の柱のようだ。
凄まじい筋肉を備えた巨体といい、相手を食い殺すような鋭い目つきといい、猛獣を思わせる青年であった。とても人畜無害の空也の知り合いには見えない。
しかし、それでも。
「いや、俺が勝手に早く来たんだ。三吉くんが謝ることじゃない」
空也は少しもたじろぐことなく、すっくと立ち上がるのだった。薄汚れたスニーカーが砂を踏んでジャリッと音を立てた。
自然な笑みを浮かべながら、自分が『三吉』と呼んだ大男に声をかける。
「またでかくなってない?」
「図らずも身長が伸びたんでね、また制服を買い直さなきゃならねえ」
それを聞いて空也は小さく嘆息した。苦笑いを浮かべながら、後頭部を掻いた。
「なるほど。神様が不公平なのはいつものことか」
「でかくなったからって稽古で手を抜いたことはねぇがな」
「だろうね。じゃなきゃ全日本王者になんてなれるわけがない」
空也と向かい合う大男の正体……多少でも格闘技に詳しい人間がこの場にいたならば、簡単に判明したことだろう。
なにせ、この大男は『三吉藤吉郎』。
若干一七歳でフルコンタクト空手の全日本王者に上り詰めた、本物の天才なのだから。格闘技雑誌でも散々取り上げられ、次世代のヘビー級エースとして期待されている。かつての格闘技ブームすらも取り戻してくれると。
藤吉郎がズッと一歩前に出てきた。
空也はブレザーを脱いで、ベンチへと放り投げる。
「今日は逃げねえんだな」
「約束だからね。三吉くんが一番を取ったら戦う――俺が言ったことだ」
そして、二人はしばらく沈黙した。
藤吉郎はランニングシューズの爪先で地面を叩いているし、空也は背筋を伸ばして突っ立っているだけ。
不意に重たい声が風に流れた。
「……すまんな」
「いや、こっちこそ光栄だ。全日本王者がわざわざ足を運んでくれた」
それから二人はゆっくりと近づいていく。まるで、命を懸けた果し合いでもするみたく。
「アップはいいのか? こっちゃあ駅から走ってきてるけどよ」
「いつもどおりだよ。わかってるだろ?」
「常在戦場か……変わらねえな、てめえは」
そう言った藤吉郎が足を止めた。拳を握った両手を顎下まで持ち上げ、半身気味になって空也と対峙する。左足を前にしたオーソドックスな組手構えである。
直接打撃制の空手家なら誰もが使う珍しくもない構え。しかし藤吉郎のそれは、まさしく金棒を持つ鬼神がごとしの迫力だった。そこらの不良ならこれだけで尻尾を巻きそうだ。
一方の空也は実に自然体である。
藤吉郎に身体の正面を向け、両腕も垂らしたまま。その眼が藤吉郎をしっかりと見据えていなければ、自殺志願者とさえ疑われただろう。
体格差は歴然。とても空也が勝てる相手ではないように見えた。
ほどなくして――藤吉郎は言った。
「いくぞ」
空也が迷わず応えた。
「おう」
そして。
――――――――――
二つの拳が走る。
水で満たされた革袋を鈍器で叩いたみたいな鈍い音がした。
双方、初撃はみぞおちを狙った正拳逆突き。フルコンタクト空手の流儀とさえ言えるだろう。
流れるように次の動作につなげた方を勝者というのなら、打ち勝ったのは意外にも空也だった。藤吉郎の懐に深く飛び込んで正拳をねじ込んだのだ。大きな拳はしっかり伸びることができず、中途半端なまま空也の胸板を打った。
空也の二撃目は肝臓への下突きだ。
しかし右腕で防御されて、衝撃が通らない。骨はきしませたが藤吉郎の肉体は頑丈すぎた。
今度は、藤吉郎の左足が霞む。至近距離からのローキックだ。折りたたんだ左脛が空也の右大腿部へと落とされた。
空也は咄嗟に体重を落とし、太ももに力をこめる。脛で受ける時間はなかった。
脚が無くなかったかと思うほどのローキック。
それでも空也は、直後に拳を繰り出してもいた。下腹部中央の急所――明星――を打つ。
「ぐ――」
思わず息を漏らした藤吉郎である。
踏ん張りのきかなくなった下半身から放たれたとは思えぬ強烈な一撃――藤吉郎は大きくバックステップを踏んで、空也から距離を取った。
空也は追いかけない。先ほどのローキックがしっかり効いているのだろう。大腿部の痛みとしびれを抜くためか、一度だけ膝を深く屈伸させた。
「……今のが琉球の『チンクチ』か?」
藤吉郎が腹に手を添えながら問う。
「…………」
空也は答えなかった。再び腕を垂らして、体の真正面を藤吉郎に向けただけだ。
「まあいいや。相変わらずの強さで安心したぜ。いや、うちの道場に出稽古に来てた頃よりも、今のてめぇはずっと強ぇ」
「……三吉くんこそ。脚、吹き飛んだかと思ったよ」
「王様の蹴り、堪能してくれたか?」
「ああ。もうフルコンじゃ勝ち目はないね。嬲られて終わりだ」
「だからこその喧嘩よ。顔面突きも、金的も――なんでもあり。神木は、琉球空手を使え」
そして、両者は同時に踏み込む。
顔面に向かってきた鋭い突きを横方向にはじいた空也。返しの拳で金的打ちを狙うが、藤吉郎の掌底に真上から叩き落とされた。
ちぃ――さすがに懐が深い。
内心でそう舌を打った瞬間だ。脇腹に重たい衝撃。
何が起こったのかは確認しない。中段回し蹴りを喰らったのは明白だったから、なによりも反撃を優先した。
中段回し蹴りの隙を突いた、無防備な軸足への下段回し蹴りだ。
本来、古流の琉球空手には、『下段回し蹴り』なる技は存在しない。下段への蹴りは、膝を狙った前蹴りとなる。空也が使ったのはフルコンタクト空手で発展した技術だった。
くんずほぐれつの至近距離からでも十分な威力。膝の内側――側副靭帯を思い切り蹴り込んだ。
直後、藤吉郎が両手で空也を突き飛ばす。
「――く」
空也はわずかによろめき、二歩後退だ。圧倒的な体格差は如何ともしがたかった。
しかしすぐさま前に出る。
蹴りの動作に入ろうとしていた藤吉郎の驚く顔が見えた。
空也は必殺の上段回し蹴りを察知していたのだ。藤吉郎の蹴り足が伸び切る前に太もも内側に上段受けを合わせると、そのまま前方に押し飛ばした。
バランスを崩された大男は背中から転がったが、いとも簡単に受け身を取ってみせる。そのまま一回転して片膝立ちまで持っていった。
左手を前に突き出して隙のない藤吉郎。彼を見下ろしながら空也は静かに言った。
「道場、辞めるんだって?」
「……誰から聞いた?」
「父さんから」
すると藤吉郎が「つーこたぁ、話の出所は師範かよ……口止めの意味ねえな」と眉をひそめた。とはいえ、すぐさま気を取り直して、大きな口で不敵に笑うのだった。
「まあ、そのとおりだ。総合に移ろうと思ってる。ラスベガスのプロモーターがアジア人を探してるらしくてな。二年で金網の世界チャンプにしてやるっつーから、話に乗ってやることにしたんだ」
ゆっくりと立ち上がった巨体。それだけで空気が震えた気がした。
「神木、てめぇは一介の空手屋で終わるつもりかよ」
一字一句選んで発されたかのような強い言葉。
「俺と殴りあえるぐらい強いくせに、表にも出ねぇでシコシコと拳を磨くだけ。何の意味がある?」
空也は、茶化すわけでもなく、逃げるわけでもなく――まっすぐに藤吉郎を見据えて、本心を伝えた。
「いいんだよ俺は。市井の空手家で」
「なんだそりゃあ?」
「俺の空手は父さんからの直伝だし、世間様に見せびらかすつもりはないってこと」
藤吉郎の視線が落ちる。自身の足元を見つめ、口を真一文字に結んでいた。
……夕暮れの公園に、若き空手家が二人……。
人知れぬ決闘を見つめるのは、言葉なくそよぐ夕風だけだ。
藤吉郎が顔を上げた。静かに、しかしはっきりと言った。
「『秘拳』を使え」
「…………」
「師範から聞いてるぜ? 神木の親父さんが本物の天才だってこと。空手の奥義を修めて、常勝の拳を編み出したことを。うちの師範も昔、『秘拳』にやられて病院送りにされたっていうじゃねえか」
「…………」
「当然、使えるんだろう? てめぇも」
「…………」
全身の筋肉に闘気をまといながら回答を待つ藤吉郎。
空也はだらりと腕を垂らしたまま、やがて――薄く笑んだ。
「使える」
瞬間、笑みを浮かべた藤吉郎が大きく飛び込んでくる。
最速の上段追い突き。
一撃必殺の拳が空也の顔面を狙った。生半可に防御すれば、受けた腕ごと顔を砕かれるだろう。
――だからこそ、空也は前に出た。
左足で踏み込んで半身になりつつ、絞り込むように左腕を持ち上げる。藤吉郎の拳を左前腕に沿わせながら、一気呵成、懐に深く深く切り込んだ。
空也の右手はすでに岩のように固められている。
――手刀――
藤吉郎の本能が危険に気付くよりも速く、太い首筋に右手刀を叩き込む。筋肉の隙間を突くように頸動脈を打ったのだ。
――――――――
強い風が吹いて、足元の砂ぼこりが舞う。
……ズシャ……という物音は、藤吉郎が両膝をついた音だった。空也にもたれかかりながら崩れ落ちたのである。
「……ふぅ……」
短髪の後頭部を見下ろしながら、空也は小さく息を吐く。
太陽が紫色に燃えていた。
やがて今日の灯も燃え尽きて、そのうち夜のとばりが降りることだろう。
「……うまく『活』が入ればいいけど。駄目なら救急車だな」
そうぼやきながら藤吉郎を引き起こした空也。
決闘は終わり――空手家は、好敵手の命を助けるために『気付け』を試みるのだった。
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