三人のこどもたちは②


 ***


「もう少しだから、待ってて」

 額にたまの汗を浮かべながら、淡い金の髪を揺らし少年は笑った。その笑顔が自分を安心させるためのものだということは、抱えられたフレイヤにもわかる。

「大丈夫よ……私歩けるから」

「僕は平気だよ」

 赤く腫れあがった右足よりも、胸の苦しさに眉を顰めた。自分の犯した失態への悔しさと少年への申し訳なさだけではない。先程新たに加わったものに困惑している。

 彼は思っているよりもずっと大人になっていたのだ。もっとぷにぷにしていて、柔らかかった筈なのに。今、すぐ脇に存在している胸はフレイヤとは違い硬くて、しっかりとしている。肩と膝裏にまわされた腕だって細いが自分よりも逞しい気がするし、無駄な肉がないのも少し恨めしい。

 加えてこの状況に心拍数を上げているのが、フレイヤだけと言うのも気に食わない。もちろん非常事態に相手を意識してドキドキする方が不謹慎なのもわかっているけれど。


「ごめんね、フレイヤ。僕のせいだ」

 少年の幼さの残る顔が苦痛に歪む。どこか宙を見ながら、暗い声を滲ませた彼は強く唇を噛んだ。

 寒さも助けて切れてしまったのだろう。下唇が真っ赤に染っていく。

「そんなことない……っていうか血が!」

 慌てて彼の唇に指をあて、血を拭う。驚いたように少年の肩が跳ね、危うくフレイヤは取り落とされそうになった。

 しかし今はそれどころではない。真っ赤なそれは止まることなく少年の唇を染め続けている。

 止血の為のハンカチを探そうとするも、そう言えば先程足を冷やすために使ったのだ。

 フレイヤは暫し考え、自らの袖口を少年の唇にあてた。あまり清潔ではないだろうが、このまま放っておくよりはいいだろう。

「だっ、大丈夫だよ、フレイヤ。服が汚れるよ!」

「平気よ。それとも何?血まみれの唇を放っておいていいと思ってるの?舐める訳にもいかないし仕方無いでしょう?」

「そうだけど……」

「帰ったら薬つけましょ」

 そう言いながらそっと袖口で血を拭う。最後にとりあえず一時的に止血できたか指で確認しようと、そっと触れると大袈裟に彼は肩を揺らした。

「ふっ、フレイヤ!?」

「なっ、何よ?」

 その大きな声に今度はフレイヤ自身が驚き、少年を見る。

 潤んだ瞳が近づいて、フレイヤはぎゅっと目を瞑った。


 ***


 ゆっくりと瞳をあけると、フレイヤは瞬きした。ぼんやりと霞む頭のまま、周りを確認する。

 そこはネーベルに来てからフレイヤに与えられた部屋で、魔石の力を使った灯りが優しい光を放っている。しんと静まり返った部屋には自分以外誰もいない。

 フレイヤはベッドの上で、未だ服は夕食会に出た時に着ていたものだった。

「夢……」

 あれは夢だった。しかし、今まで一度も見た事の無い、少年との夢だった。ただやはり少年の顔を思い出そうとしてもはっきりと覚えてはいない。雰囲気や色彩などは明確にわかるものの、具体的にどんな顔だったのかは全く思い出せないのだ。

「姫様、目が覚めましたのね!」

 その時廊下に繋がっている扉が開いて、ミリアが飛びつくように駆け寄ってきた。

「私倒れてしまったのね。皆さんには申し訳ないことを……」

「お医者様の見立てでは特に心配は要らないそうですわ。ただ少しお疲れだったのではないかとのことで、今夜は安静にと。皆様もご心配されてました」

「そう……明日きちんと謝らなければいけないわね。ありがとう、ミリア」

 そうミリアに告げ、ネグリジェに着替え始める。王族ならば着替えを手伝って貰うのは当たり前なのだが、フレイヤは育ちが特殊なだけにあまりそれを好まない。侍女の前で着替えるというのも近年漸く慣れたところだ。

「お礼をお伝えするのは私ではありませんわ、姫様。スイ様ですよ」

 その言葉にボタンをとめていた手が止まる。

「スイ……様?」

 何故今彼の名前が出てくるのだろうか。訳が分からず、フレイヤが首を傾げるとミリアはにやにやとした笑みを浮かべ始める。

「姫様を部屋まで運んで下さったんですよ。それもお姫様抱っこで。スイ様の方が真っ青な顔でお部屋に来られて。その後も止める周りの方々を説得されて先程までずっと姫様の手を握ってらしたんですよ?」

「ええっ? なんで!?」

 思わず言葉遣いが乱れ、顔が熱くなる。何故彼がそこまでするのかわからない。フレイヤとは殆ど面識など無いはずだ。

「姫様を見つめられていたあの瞳は恋をする者の瞳でしたわ!姫様、何があったんですの?」

 何があったのかと言われても、こちらが聞きたいくらいだ。それともフレイヤが倒れたことに彼が関わっているのだろうか。いや、それは無い。単にあれは疲れが溜まっていただけだろう。では何故。

「とにかく、私は寝るわ!」

 ネグリジェはもう着終わった。湯浴みは夕食会前に終えたし、化粧は……具合が悪く倒れてしまったのだから致し方ない。他にも諸々寝る前の準備は出来てないが、今日は寝た方が良い。でないと、整理がつかない気がする。

「ミリア、おやすみなさい」

 布団に入って彼女に背を向けた。後ろから堪えきれてない笑い声が聞こえるが、気付かないフリをする。

 顔が熱い。握られていたという手もなんだか熱い。どちらかもわからないけれど。

 あの第四王子の顔が浮かぶ。同時に夢に見る彼もこちらを向いて、フレイヤをじっと見つめたような気がした。途端身体中が沸騰したように熱くなって、心臓が騒ぎ出す。


 眠れそうになかった。


 ***


 室内の照明は全て落とされ、代わりにカーテンの隙間から差し込む月の光が室内を朧気に照らしだしている。時たま遠くの方から寂しげな梟の鳴く声が聞こえるが、それ以外は静寂に包まれていた。

 そんな中、その些細な異変に気付いたのは、フレイヤがうとうととし始めた時だ。

 がたり、とバルコニーに面した窓の方から僅かな物音がしたのだ。

 眠りにつこうとしていた意識は覚醒し、フレイヤはそっと物音のした方へと視線を向ける。月明かりを背にしてカーテンに黒い影が映った。明らかに猫や犬、イタチなどの動物とは言い難い大きさの影だ。

(暗殺者……密偵……?なんにせよ不審者だわ……ここはミリアを……ダメだわ、そのまま呼べば彼女は一人で来てしまう)

 もし暗殺者や密偵なのだとしたら、フレイヤとミリア二人では適わない。少なくとも逃がしてしまうことは確実だ。

 またミリアの安全のことを考えても、彼女をただ呼ぶことは絶対にできない。

 ならばどうしたら良いか。危険が迫っている可能性が高い事をこの不審者に気付かれずにミリアに伝えるには……。

 考えてみたが有用な策が焦ってしまい全く思いつかなかった。

 不審者は中の様子を伺うように、バルコニーで息を潜めている。

「誰……?」

 気付くとフレイヤは影の主に声をかけていた。良策でなかったことは明らかだ。一歩間違ったら殺されてしまうかもしれない大事な一手を完全に読み誤ったとフレイヤは心の中で自らを詰った。

 しかし意外にも不審者は大袈裟に肩を揺らして驚き、慌て出す。先ほどよりも大きな音をたて、逃げ出そうとしていた。

「ちょっと、待ちなさい!」

 慌ててフレイヤはベッドから起き上がり、窓のカーテンを開ける。そしてそこに居た人物に息を飲んだ。

「スイ様!」

「や、やあ?」

 苦笑いし、手を振った彼の頭には沢山の木の葉がついている。生成のシャツに街の少年が履くような作業ズボン姿のスイはとても王子には見えなかった。

(なっ、何この人……こんな時間にこんな所で、なんの為に?!)

「……なにをしてらっしゃるんですか?」

 いつでもミリアを呼べるように準備をして、あえて冷たい視線をスイをに送る。

「え、えーと……その……」

 気まずそうに目を逸らすスイは怪しい。そうでなくともこんな時間にこんな所にいる時点で人を呼ばれてもおかしくはないと思う。

「ミ……んっ、んんっ!」

「待って待って! 怪しくないから! 僕はただフレイヤが心配で来ただけで……って、痛っ!」

 ミリアを呼ぼうとしたフレイヤの口を慌てて抑えたスイの足を思い切り踏む。ほんの少し前にスイのことを意識してしまった自分を恥じた。

「何しに来たのよ! 大体貴方に呼び捨てされる謂れはないわ!」

 咄嗟に吐いた言葉に、スイの顔が悲しげに歪む。見開かれた灰青色はすぐに宙を彷徨い床の方へ落ちていった。俯くスイへ、当然のことを言ったはずなのに何故か罪悪感が募る。

「ごめん……なさい。フレイヤ、様」

「いえ、その……」

 次の言葉を発することも、その場を去ることも、フレイヤにはできたはずだ。もちろんスイにもそれは言える。

 しかし重たい空気がその場にのしかかったように二人は何もできずにいた。

 そんな沈黙を破ったのは、あんなに晴れていた空からの雫だった。

「雨……?」

 フレイヤが見上げるとスイもそれを倣うように視線をあげる。降ってきた細かい水の粒子が室内からの僅かな魔石の光に照らされ、ぼんやりと光っているように見えた。

 透けるようなスイの白い肌は妙にそれに似合っている。そのまま溶けていってしまいそうだった。

「……濡れてしまうわ。帰って」

 フレイヤは部屋へと踵を返す。チェストの上のストールを掴んで、最後にバルコニーのスイへと投げた。放物線を描いて、それはスイの手元へと吸い込まれるように収まる。

「風邪ひかれると、困るの」

 驚いたような彼の顔を振り切って、窓を閉めた。

(とんでもない人だわ! 一体何をしに……)

 そこまで考えて、フレイヤは敢えてそれを止める。こんな時間に女性の部屋に、しかもこっそり窓から来るなんて、ろくな理由じゃない。これ以上、夢の少年に似た彼の素性を知ることは良い結果を生まない気がする。

「綺麗な夢のままが幸せなのかしら……」


 なんて、忘れてしまった方がいいのかもしれない。

 過去なんて、思い出せなくてもいいのかもしれない。


 ただ生きていくだけならば、きっと。






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