第2話 毛むくじゃらでムキムキ
凍結した洞窟は、居心地のいい場所ではない。
薄暗くて奥がよく見えない上、滑りやすい地面は岩だらけ。
背筋を伸ばすと天井に頭を擦ってしまう。
おまけに酷く寒い。まあ、これは当然だが。
分厚い冬季用の野戦外套がなかったら、僕はとっくに凍え死んでいただろう。
僕は山脈の向こうにある街を目指していた。
麓の村を意気揚揚と出発した時は、まだ雪景色自体が物珍しかった。
冷たく澄んだ空気も、実に心地よく思えたものだ。
だが山道を登るにつれ、最初は控えめに振る舞っていた雪は、風を味方につけて次第に大胆になり、ブリザードと化して我が物顔で荒れ狂いだしたのだ。
やがて僕は山の斜面に口を開いた洞窟の片隅で震えながら、冬山の気紛れが終るのを待つという、実に気の進まない選択を強いられることになった。
雪も風も一向に弱まる気配がない。
火打石は持っているが、ろくに燃やすものがない。
少しばかり不安になった時、僕は先客がいるのに気がついた。
「――誰だ!」
誰何の声が木霊となり、やがて冷たい岩肌に消えていく。
何の反応もない。
ただ洞窟に吹き込む風の音が鳴っているだけだ。
幻聴……? いや、確かに笑い声が聞こえた。
ぞっとするような女の声が。
妖魔だ。
腰の剣を包んだ防水布を手早く外し、鞘から刃を抜き放つ。
剣を構え、足元を慎重に確かめる。
頭上に振り被るスペースはない。突き主体で――
いや、ちょっと待て。
一つ、厄介事は避けたい。
二つ、出口(先程までは入り口だったが)は目の前。
三つ、レディファースト。
結論。
大人しく外に出て、たっぷり雪が積もった斜面に別の洞窟を掘ればいい。
こんな殺風景な穴を巡って、やり合う必要なんてないのだ。
少々手間はかかるが、命がけの戦いをするよりはずっといいだろう。
「我ながら生産的な解決方法だ。早速外に出て……」
「ふふふっ……駄目よ……」
ふいに耳元で囁く声。背筋がぞくり、と震えた。
恐怖ではない。
「ここにいて……」
感情の抜け落ちた――それでいて恐ろしく淫蕩な声。
「私と一緒に……」
ほっそりした腕がするり、と後ろから伸びて来て僕を抱き締めた。
途端に氷水に浸けられたような冷たさが染みてくる。
手が身体を弄ると、僕は思わずうめき声を上げた。
まるで氷柱を突き刺されたかのように、背筋に強烈な快感が湧き上がる。
ホワイトレイディ。
精霊族の一種だが、妖魔と同じ位危険な存在だ。
彼女達は支配域に迷い込んだ人間に一時の快楽を与え、代償にその命を吸い取る……と、言われている。
一刻も早く逃げ出すべきだ。
だが今は手が太腿をじらすように這い登っている最中だ。
うん、あと少しだけ待とう……とか思っていたら、華奢な指先は動きを止めてしまった。
ああ、そんな殺生な。
気がつくとブーツは氷に覆われ、地面にがっちり固定されていた。
「ふふふっ……」
ホワイトレイディは含み笑いをして僕から離れた。
そして、ゆっくりと前へ回り込んで来る。
やばい。彼女の目を見たらお終いだ。僕はぎゅっと瞼を閉じた。
「あら……意地悪しないで……」
見えない分、一層セクシーに聞こえる。
この素敵な声の持ち主は、どんな美女なのだろう?
「お願い……痺れるような快楽をあげるから……」
切なく、可愛らしい哀願の響き。
指先が頬を撫で回し、子猫のように身体を擦り付けてくる。
反則だ。
これじゃどんな聖人君子だって我慢できない。
「目を開けて……ね?」
最初に見えたのは、清潔そうな桜色の唇に浮かぶ勝利の微笑み。
吸い込まれそうな銀の瞳、長く艶やかなブルネット、透けるように白い肌。
そばかすの散った……低い鼻? ツリ目で、ちょっと三白眼?
この寒い中、薄布を纏っているあたりはいかにも精霊らしい。
だが、ガリガリでお粗末なプロポーションもはっきりわかってしまう。
「……」
こんな貧相な身体であんな台詞を吐くとは、厚かましいにも程がある。
氷よりも冷たい声で僕は宣告した。
「却下」
ホワイトレイディ、いや目の前の小娘はポカンと口を開けた。
控えめに言っても相当な間抜け面だ。
「あの……却下……って?」
不安げな幼さの残る表情。
それは彼女が十代の半ばにも達していない事を窺わせていた。
「君、ひょっとして初めて?」
「ばっ、な、何が……!」
途端に白い肌がゆでだこのように燃え上がった。
あわあわと両手を振り回し、思い切りうろたえているようだ。
のんびりした口調で、僕は誤解を解いてやった。
「いや、人を殺すのが。今までに経験あるの?」
「と、当然よ! 一時の快楽と引き換えに……」
「へぇぇぇ、快楽。どうやって?」
「だから……て、手……とか……貴方にしたみたいに……」
「その後は?」
意地悪く尋ねてやると、彼女はぐっとつまってしまった。
調子に乗って、僕は質問を繰り返した。
「その後は? どんな風にやったのか、具体的に説明してくれよ」
「……う、うるさぁいっ、この変態!」
彼女はぱっと僕から離れ、尻尾を踏みつけられた猫みたいに目を剥いて怒り出した。
「話し合わないか、お嬢さん。いい事を教えてあげるから」
「命乞い? 散々馬鹿にしたくせに、今更遅いのよ!」
もっともだ。
「許さない!」
彼女を中心に大気が逆巻き、雪煙が舞う。
洞窟の壁が鋭い音を上げてひび割れ、僕は舌を巻いた。
これは極低温の竜巻だ。
触れたが最後、細胞の一片まで氷漬けにされてしまうだろう。
瞬時にこんな魔術を起動するなんて、大した才能だ。
いや、感心している場合じゃない。
このままでは、まずい事態になりそうだ。
その時、勇ましい雄叫びを上げて騎兵隊が到着した。
「っ!? きゃあああああっ!!」
彼女の気持ちはよくわかる。
毛むくじゃらでムキムキのずんぐりした怪物が洞窟の奥から飛び出し、嬉しそうに自分を追い掛け回し始めたら、僕だって冷静ではいられないだろう。
「やだやだやだ、なになになにぃぃぃっ!」
「スノービルダーだよ。雪山に住む下等な妖魔の一種で、集団で狩りをする」
「し、知っているわよ、そんなことっ!!」
つけ加えるなら、彼らは種の保存に極めて熱心に取り組む事でも知られている。
つまりそれが雌であれば、委細構わず襲いかかるのだ。
「やっ、やぁん! こ、来ないでっ!」
逃げ惑う精霊の姿など、滅多に見られるものではない。
得難い経験を楽しんでいると、彼女はいかにも文句のありそうな視線を送ってきた。
お返しに僕は思い入れたっぷりに首を振り、ブーツを覆った氷を剣先でコンコンと叩いてやった。
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