白猫

ひかわまこと

白猫

バスに白猫が乗っている。

 下げたかばんからペットボトルを取り出して茶を飲み窓の外を眺めている。

 バスを降りて住宅街に入って行き、とあるアパートの一室へと入って行って、白猫はアパートに着くなりトイレに入る。

 洋式便座を跳ね上げて、白猫は便座の裏を磨き始めた。便器をブラシで磨くと水洗タンクのレバーを引く。

 白猫は手を洗って風呂に行きバス洗剤をかけて風呂を磨き水を抜く。

 シンクを洗い生ゴミを始末してゴミ袋を下げてゴミ捨て場に行って、缶は缶、ペットボトルはペットボトル、生ゴミは生ゴミでゴミに出して、空を眺める。FA-18らしき飛行機雲が空に一筋西から東に伸びている。

 冷蔵庫にから揚げやウインナーを入れて、ほうと息を吐き、白猫はかばんを肩から斜めに掛けて部屋を出る。夕方になった山際の紅い空を見上げて白猫はバスを待っている。

 世の中の他の生き物たちは自分より随分真面目だと白猫はいつも思う。単に片付けることしかできない自分より他の生き物たちは真面目だと白猫は思う。

 ぐっと腰を据えて自分の表現を磨き、世の中を果敢に泳いでいける人間とそうできない人間とが居るが、白猫にはそういうことでひとり一人が耐え忍んで引き受けるリスクというものがその人に明日を連れてくるのだということを、羨むというより、それを自分の手に持って立っていられない自分のひ弱さに少し嫌気が差してくる。

 もう随分焼肉を食べてないと白猫は唐突に思い出す。そういう風に実にランダムアクセスメモリのような頭の構造をしているのでイメージしたもので突然記憶が甦りフラッシュバックするストロボのような様子がする。熊本で食べたとんこつラーメン店が見事に店員が対話を拒んで品だけ出てくる自動販売機のような店だったと次に思い出した時に、一体記憶というものの脈絡のなさというものを思い付くまま思い出して何かいけないことをしていると思い込み過ぎていたと白猫は思う。

 黒猫はちまちまと靴を履くのがおぼつかずいつも靴の後ろを踏み、ほっておくと何ヵ月も同じジーンズを履いているので、白猫は黒猫の靴を履かせ、ジーンズを二回洗濯して干している。セルフケアということを適当にして誰も何も言わないからと、体から異臭がしていても気が付かないというのは心がきつくなる。今となっては黒猫の世話を白猫がしていて、白猫は結局そんな調子で二軒の家とその住人の世話をして暮らしている。

 チャトラと繁華街のカフェに待ち合わせで白猫が座った席は、すぐそばでイベントが始まる席で、カフェのスピーカーから流れる音楽とイベントの音楽がジャミングして聴こえてきた。音の波が立って、夏の始まりの賑やかさが満ちてきている。

 テレビの深夜の広報でミサイル降ってきたら伏せて頭を守りましょうと言っているのを聞いて白猫は実際の戦闘に至る前に戦いというものは勝つようにいくという孫子の言葉を思い出す。少し心がイガイガしてきたが、そういうことは敢えて話題にせぬような人々の様子を見ていると、淡々と自分がしていることに実際に影響が出てくるようなことにどうしても思えない。

 夜が明けて、白猫は牛丼屋に朝食を食べに、府立高校の脇を歩いている。ドーンコーラスが響き、地鳴りのような車の走る音が遠雷のように轟いて、そのような営みの気配を感じながら白猫は牛丼屋に入り、朝食を頼んで席に着く。チャトラとの今日の待ち合わせまでにはまだ間がある。いつもより少しだけゆっくりと朝食を摂り、一心地ついて食休みに麦茶を飲む。牛丼屋に来る道すがらの際立つ空の色を反芻して、白猫はこの景色であとごはんが八万杯はいける気がしてくる。

 生活が仕事となって久しい白猫であるが、ゴミを出してから電車に乗って餃子を食べに行く。普段は飲まぬ酒を飲み、一服して後に散髪をして風呂に入る。スーパー銭湯の甕風呂に浸かって空を眺めるようになって、白猫は自分のいまの生活が本当に許されるものであろうかという疑念が湯水のように心に湧いてくるこのもて余す感覚に慣れてきた頃には、甕風呂の心地良さと、狭いところに居ると和んでくる性癖を自覚して、夕暮れの青い空を見ている。

「ひたすらやってても砂地に水のようなことが続くと折れそうになるよ」

 きっと白猫は気付かぬ内に心から血が流れている。そうやって自分のことに鈍くなっていって、毎日を過ごせているラッキーさに感謝しているうちは大丈夫だと思っている。魂の平安を人に求めているうちは、きっと何事もなく、きつい日常に折れそうになりながら、日々をくらしていると、チャトラもどうやらそういう様子らしいと感じられ、白猫は黙ってコーヒーを飲んでいる。

 チャトラがこさえている絵の様子が徐々に反響を呼んできても、この人に届いて欲しいという人がはっきりとあるチャトラの絵に込められたひたむきな感情を見るたびに白猫は、こういう素晴らしいものを表現してもなお自己実現というものは人生で成し遂げるには困難を伴い、悩み苦しみ、そうであるからこそチャトラの絵は素晴らしい色彩を放つと思っている。そのような瑪瑙のようなものが自分の中にあるだろうかと白猫は思う。自分は本当に片付けることしかできないショボい奴なので、白猫は自分の中に瑪瑙もルビーもないだろうなと思う。

 世の中は不公平に出来ているので、白猫は最近気持ちをほぐすのに酒がどうしても必要になってきて、ほとんど以前は酒など飲まず今も依存するほどは飲まずだが、まったくないと心が割れてくる音がする。

 黒猫はあいかわらず靴の後ろを踏むので白猫は黙って黒猫に靴を履かせて自転車に乗る。無茶苦茶、心がきつくなることもある一方で世の中のことでシンクロニシティしてきて殺伐とした暮らしに潤いが出てきて、白猫は嬉しくなってくる。実際、白猫の暮らしに彩りが出てくること自体がラッキーである。程よく歳を取り、針の筵を過ぎた先に穏やかな日常が広がってきて、実はものの感じ方に化学変化が生じて、ラッキーだと思う事柄が変化しただけであるのだが、落とし所をうまく見つけられて、ギリギリのところで助かってると白猫は言うとチャトラが、そういうのわちにもあるよと静かに言っている。

 常に今と明日を見て生きてきて、過去は振り返らず生きているのは、白猫の脛にいくつも傷が付いているからで、過去のことを甘酸っぱく思い出したり人に語ったり出来ぬからでもある。そういう生活のなかでずる賢い詐欺に金を奪われ、敗戦の暮らしで耐え難きを耐えて忍び難きを忍んできて白猫は暮らしており、どうにか生きていけていることをラッキーと思うからこそ、嬉しく思うことがあるのでやっていけている。チャトラとの日常もそうやって過ぎている。黒猫は手がかかる一方ではあるが、よく考えてみると白猫の暮らしに何もすることがないとするならそんなアンラッキーな暮らしなど酷すぎる。そういう理由で、白猫はせっせと片付ける暮らしを過ごす。予定調和することばかりではなくて、不規則に起きる精神にかかる圧迫が、白猫を苛むが、最終的には終息して一応の魂の平安が訪れてきて、街で過ごす穏やかな日々と、魅惑の街暮らしが展開して、人の悪事をあげつらったり人のミスを声高に詰ったりする必要も理由も消滅してくる。都民ファーストが何をしようと何もきちんとせずとも、そういうことはどうでもいいので、都民ファーストに政治を任せる都民たちを冷ややかな目で見ている。そんな日常で人の理性的で知的な行動を期待できないと思った方が傷は浅く、その中にも民度が高く賢明な人間たちの行う、魅惑の営みを見ていた方が魂は安らぐ。

 白猫とチャトラが駅前を歩いていると、ヘッドホンつけてノリノリに踊ってるおっちゃんがいて、暑い日なのでその横でスペイン語でまくし立てているおばちゃんもいる。白猫とチャトラも踊りながら歩いて行く。

 チャトラをライブに送り届けて、ライブが終わるまで、白猫は電車に乗って散策している。ある程度散策を済ませて、ライブ会場近くで時間を潰している時に百均を発見して、かねてから必要だと思っていたグッズを入手してとてもやってやった気持ちになる。

 昼前、白猫はバスに乗る。小銭の落ちる音がして、隣のおばさんがシートの下を覗きこんでいる。白猫は小銭を拾い「落ちましたよ」と言っておばさんの手に小銭を置いたらおばさんは手話で何事か言っていた。白猫は手話はわからないので曖昧な顔をしていると、おばさんは携帯を取り出して「ありがとう」とディスプレイに表示させて白猫にかざした。白猫はスマホを取り出して「お気をつけて」とディスプレイに表示させておばさんにかざすとおばさんは笑顔になった。

 白猫はどこかで自分は社会参加している他の人たちの楽しむことや取り組むことは自分には体験は出来ないのであると思って暮らしている。自分のいる現実を生きていてそれがいくら努力して毎日暮らして居ようと、それがもたらすものを味わったり振り返ったりしている暇はなく、ただただ毎日を一日ひたすらもがいて暮らしている。それが溜める心の澱を安っぽい虚栄心を満たすことをして紛らわし、それも結局は許されず、白猫は社会ではごまめであり、チャトラのようにごまめで居られるラッキーさを噛み締めてもいないので、きっと自分に納得のいくように暮らしを営むことに専心している。白猫は自由になる金すら乏しくて窮屈な思いをすることになる。それすら自尊心をひたすら飲み込んで、毎日の苛烈な暮らしに加わるストレスを溜めないように生きて行くように暮らすために、規則正しく暮らしている。チャトラはチャトラで幾つか晴らせない心の澱と毎日闘い、そういう様子を見ながら白猫はチャトラを凄いと思う。きっと思っているよりは白猫もチャトラもラッキーなのである。身代を立てるための努力よりはごまめとしての仁義をわきまえた方がいいとは思うが、人の役に立ち自己実現を果たせるのか、自分の暮らしは窮屈でも自分より若い人が穏やかに暮らせていけるようにとチャトラが言って多少の不自由を堪え忍ぶと言っていて、国家が適正で納得できるお金の配分をするならいいのだが、白猫は窮屈なお金のやりくりをする状況でも自分たちはそもそもごまめであると思う。

 黒猫がモーニングを食べながら外をじっと眺めているのを見ながら白猫は、心の中を覗きこんだ所で、よくわからない黒々としたものしか見かけないことの上に、黒猫にはそうは言っても目に映る景色を眺めて、そう言えばここにいまいるのだという実感を噛み締めることなら、白猫も電車やバスの車窓から外を眺めたり、スターバックスの席から眺める空だったり、スーパー銭湯の甕風呂から眺める空だったりでそこにいるという実感を味わうので、想像できなくもない。少なくとも黒猫はそういう目をして喫茶店から外を眺めている。そういう意味ではSNSの発信というのは、取り繕っているものは取り繕っているように、見栄は見栄のように、罵りは罵りのように、賛辞は賛辞のように、好意は好意のように、悦楽は悦楽のように、悲哀は悲哀のように、うたはうたうように、魂の叫びは魂の叫びのように、絵は描くように、見事にみな心の中を晒している。直接見て推察することには正直な印象を得てもSNSは自分にですら嘘を吐ける。

「何が見えるんや」

「鏡」

 白猫が黒猫に聞くと黒猫はそう答える。黒猫の見ている方を見るとカーブミラーが見えた。

 アルバトロスの離着陸のような様子で電動アシスト自転車を漕ぐ黒猫の後ろを付いて走りながら白猫は、濃密な箱庭の中できっと自分も年老いていくのだろうと思う。

「いつもありがとうな」

 チャトラがそう言いながら鮭ハラス丼を食べている。白猫は「こちらこそいつもありがとうね」と言いながらアオサの味噌汁を口にする。

 きっとそういう恙無しを目指す日常の旅路で白猫はチャトラと暮らす。黒猫はあとどれくらい生きているかはわからぬが、見届けようと白猫は思う。

 白猫はチャトラと地下鉄に乗って繁華街へと出て行く。

 白猫はチャトラと京阪特急に乗ると中書島を過ぎた辺りから猛然とした雨になっている。祗園四条の改札を出て鴨川の端に立つと、京都の魔法にかかる。しかも祇園祭の宵山で、魔法は最強のかかり方をする。

 白猫もチャトラもこの祇園祭が生まれてはじめての祇園祭で、三条のリプトンでかき氷を食べていると騎乗したお稚児が通っている。街中で白馬が闊歩するというのがいかにも祇園祭の京都で、賑やかな街の風圧に白猫とチャトラは身体を晒している。

 三条京阪から京阪特急に乗る頃には、白猫もチャトラも脱力して淀屋橋まで寝落ちしている。

 

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白猫 ひかわまこと @makotohikawa

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