第22話 俺の初恋と私の初恋

 彼を好きになるのに、特別な理由なんてなにもなかった。

 最初はただ同じ委員会だっていうだけで、事務的な会話しか交わさなかったし。でも、一緒に委員会の仕事をしている中で、いつも大変な目に遭ってる彼を放って置けなくなって、少しでも手伝ってあげたくなって。そんな中でも示してくれる不器用な優しさに、一年近く触れて。

 お世辞にも、これまでまともな人間関係を築いてこれたと言えない私が、恋愛感情を抱くのには十分な時間を、彼と過ごしたから。

 ただそれだけの理由。彼と先輩のように、劇的ななにかを経たわけではない。大なり小なり、ドラマと呼べるようなものもあったけど、言ってみればただそれだけ。

 彼の気持ちがどこを向いているのかも、私があの人に勝てないのも、十分すぎるほどに理解している。

 それでも。だとしても。

 私は、葵くんが好きだから。

 だから諦めない。自分の気持ちに嘘をつかないために。

 この初恋を、ちゃんと終わらせるために。








 バレンタイン当日である。

 ついに来てしまったか、と言った気持ちが強いものの、どの道避けては通れない。

 クラスメイト達は朝から無駄にソワソワしてるし、既に何個もらったとかそう言った話題が上がっていた。

 カースト上位の女子なんかは、義理チョコと称してクラスの男子何人かに渡しているのも見られたし、男子のみならず女子も少しくらいソワソワしてたりするんだろう。まあ俺はそいつらから貰ってないんだが。なんなら母親からすら貰ってないまである。

 それがいつものバレンタイン。毎年恒例、お菓子の甘さなんかとは程遠い日常を過ごすのが俺だったはずなんだが。


「いやぁ、面白いくらいソワソワしてるね、葵君」

「……分かっててもそういうのは言わんでくれますかね」


 いつものように三人で昼飯を食べていると、ニマニマといやらしい笑みを浮かべた先輩に声をかけられた。

 あの喫茶店で偶然出会ってから数日が過ぎているが、あれ以降も小梅先輩は、いつもと変わらぬ笑顔で俺たちとの時間を過ごしている。あの時少しでも見せた、なにかを諦めたような表情なんて、微塵も見せずに。


「そんな可愛い葵君には、あたしからプレゼント。駒鳥ちゃんにもね」

「わ、私にもですか?」


 小梅先輩は足元のカバンからセロハンの包みを二つ取り出し、俺と小鞠にそれぞれ手渡した。まさかこんなタイミングで渡されるなんて思ってなくて、つい面食らってしまう。

 しかし、先輩は相変わらず笑顔を浮かべていて。


「バレンタインは好きな人にチョコを渡す日なんだから。あたしは二人とも大好きだし、二人に渡すのは当然じゃん」

「ありがとうございます……! でも、私先輩の分は用意出来てなくて……」

「いいのいいの! その代わり、ホワイトデーに期待してるから!」


 このチョコが、線引きのように感じられるのは、俺の邪推だろうか。

 先日小梅先輩が口にした言葉。三人で、少しでも長く一緒に。

 それを叶えるための、線引き。

 俺や小鞠の気持ちを分かった上で。いや、分かったフリをした上で。


「ん、どしたの葵君? 学校一の美少女からチョコもらえたっていうのに、反応が薄いじゃん」


 考えすぎだ。たかがチョコ一つに、そこまで意味を込めてるとは思えない。むしろ、今日という日にチョコを渡すことを考えれば、そんな全く真逆の意味をわざわざ持たせるなんてバカなこと、この人はしないだろう。


「嬉しいですよ。自分で自分のこと学校一の美少女とか言わなかったら、もうちょいポイント高かったかもですけど」

「えー。事実なんだからいーじゃん」

「事実でもいちいち言うようなことじゃないでしょって言ってんですよ」


 頬を膨らませるなあざといから。可愛いけど。これだから美少女ってのはせこい。

 ちょうだいしたチョコは一先ず置いておくとして、今は弁当を食わねば。今日は水曜日。即ち、小鞠が作ってくれた弁当だ。次は月曜までお預けになるから、しっかり味わって食べなければ。順調に胃袋つかまれてるな。


「まーでも、今日みたいな日は学校一の美少女も大変なのよね」

「そうなんですか?」

「そうなんですよ。女子には義理チョコ作ってあげないとダメだし、男子からは呼び出し受けるし。もう大変」


 どうやら、リア充にはリア充なりの苦悩というものがあるらしい。まさしくその様を今朝の教室で見て来たのだが、小梅先輩ほどにもなると、クラスの女子連中なんぞ比べ物ならないほどの苦労があるのだろう。


「でも、それだけ白雪先輩を慕ってる人がいるってことですよね」

「駒鳥ちゃんはいい子だなー」

「きゃっ、ちょっと、白雪先輩……」


 食事中の小鞠に背後から抱きついて、頭を撫でる先輩。突然の百合。いいぞもっとやれ。

 小鞠も満更でもなさそうだから、なんだか見ていて和む。うめまり、あると思います。


「そう言うわけだから、今日は放課後になっても暫くはここにいないのよね」

「どう言うわけだからですか」

「さっき言ったでしょ。男子から呼び出されてるから、丁重にお断りしてこないとダメなのよ」


 心底めんどくさいと言った様子で、小梅先輩はため息混じりに言った。抱きつかれたままの小鞠は先輩の吐息が耳にでも触れたのか、少し擽ったそうにしてる。

 名も知らぬ男子生徒さんは可哀想に。心の中で合掌しておこう。南無。


「つっても、俺も小鞠も今日は図書委員の当番ですから、どの道ここには来ませんけどね」

「一応報告よ、一応。あたしに何か用があっても、ここにはいないからねって」


 了解です、と頷いて弁当を食べ進める。先輩も小鞠を愛でるのに戻ったようだ。

 いや、そろそろ離してやれよ。弁当食べづらそうじゃねぇか。








 放課後の図書室は今日も利用者がおらず、俺と小鞠が二人で受付カウンターに座っているだけ。奥の部屋に司書の先生はいるものの、滅多に表に出てくることはない。いつもお仕事ご苦労様です。

 そろそろ図書室の存在理由がなくなってしまいそうだが、小鞠曰く、小梅先輩のお姉さん、つまり桜さんが在学時には、図書室もそれなりに利用者がいたらしい。


「まあ、間違いなくあの人目当ての男子ばっかだったろうな」

「そうでもなかったみたいですよ? 桜さんは途中から生徒会で図書委員は辞めたみたいですし、煩くする人達はみんな追い出した、って言ってました」

「想像できるな……」


 一度会っただけではあるが、まあそうなるだろうと容易に想像出来てしまう。もしくは、この受付カウンターで桜さんと夏目さんの夫婦漫才でも見せられていたのかもしれない。

 人前でも気にせずイチャつくのはどうなんでしょうかね。

 とまあ、ここにいない人達に対して心の中で文句を言っても仕方がない。それで図書室の利用者が増えるわけでもないのだから。


「でも、他の曜日は多少なりとも人来てるんですよね」

「みたいだな。俺も前はそれなりに人いるの見たことあるし」


 あの空き教室に通うまでは、ここで放課後の時間を潰すことが多かった。その時は全く人がいないと言うわけでもなく、まばらながらに利用者はいたはずだ。

 これはあれですね。俺の醸し出す不幸オーラが人を寄せ付けないとか、そんな感じのあれですね。もしくは無意識にATフィールドでも発動してるのかも。いや、それなら俺が時間潰してる時も人来ないっての。


「まあ、その辺俺らが気にしても仕方ないだろ。委員長やらがなにかしら考えるんじゃねぇの?」

「たしかにそうですね……」


 それきり会話は途切れてしまい、互いの間には沈黙が降りる。それ自体はさして珍しいことでもない。そもそも図書室では静かにしているのがマナーなのだから。

 でも、いつもは聞いていて心地よいページを捲る音色が。秒針の刻む律動が。すぐ隣に座っている小鞠の息遣いが。

 こんなにもハッキリと聞こえてしまうのは、どうしてだろう。分かりきった疑問だ。こと此の期に及んで、自らに問いかけることすら白々しい。

 やがて図書室内の沈黙を破ったのは、最終下校時刻のチャイム。それを聞いて、俺も小鞠も読んでいた本を閉じる。


「ゴミ捨てて帰るか」

「はい」


 司書の先生に挨拶を残し、いつものように二人でゴミ捨て場へと向かう。利用者がそこまで多くもなく、それにつれて仕事もそんなにないから、ゴミ袋の中はまだ余裕はあれど。もはや習慣のようなものだ。他の図書委員の連中がゴミ出しをちゃんとしてるのかなんて知らないし、俺たち以外には誰もしていないかもしれない。

 会話はなく、ただ二人隣り合ってゴミ捨て場まで歩く。そういえば、小梅先輩は今頃どうしているだろう。呼び出した名も知らぬ男子生徒は、木っ端微塵に玉砕したのだろうか。万に一つ、小梅先輩がその告白を受け入れたとしたら。いや、あり得るはずもないか。実際彼女は、丁重にお断りしてくると言っていたのだし。


「よし。今日の仕事終わり、っと」


 辿り着いたゴミ捨て場でゴミ袋を放り投げ、ポンポンと手をはたく。

 さて帰ろうかと来た道を振り返り、一歩足を踏み出したのだが。隣に立っていた小鞠は、しかしその場から動くことはなかった。


「葵くん。まだちょっとだけ、時間いいですか?」


 決意を秘めた瞳で、覚悟を決めた立ち姿で、小鞠が俺の足を止めた。

 そんな彼女に、真正面から向き合う。

 今日のどこかのタイミングで、このような時間ができることは分かっていた。だから、俺なりの答えも考えて来た。

 この時まで敢えて考えないようにはしていたのは、それでもまだ、心のどこかでこの時が訪れるのを恐れていたからだろうか。日曜日に、小梅先輩のあの顔を見てしまったから。

 それでも、もう逃げる事はできない。

 黙ってただ頷き、俺よりも小さな少女を見つめる。


「私……葵くんのことが……」


 紅潮した頬は、恐らく俺も同じ色だ。一字一句聞き逃しまいと、熱を帯びた小鞠の言葉に耳を傾ける。


「葵くんのこと、が……」


 けれど、その先が紡がれるよりも前に。

 小鞠の瞳の焦点が、俺からズレた。言葉を発するために開いた口は、そのまま固まってしまい。ただ、驚いた様子で俺の後ろを見ている。

 まさか。そんなわけがない。そう思いながらも振り向いた先。俺の予想は不幸にも当たっていて。

 俺たちと同じく、ゴミ袋を持った小梅先輩が、そこにいた。

 あの空き教室のゴミを捨てに来たのだろう。たしか、結構溜まっていたはずだし、この時間なら先輩があそこに戻っていてもおかしくはない。

 なんてことを考えても、現実逃避にすらならない。


「……っ」


 先輩のその顔に、笑顔なんて一つもない。ただ、今にも泣きそうで、辛そうで、見ていて痛々しいだけの表情を浮かべて。

 ゴミ袋をその場に捨て置いて、先輩は脱兎のごとく逃げ出してしまった。


「小梅先輩っ……!」


 追いかけようと踏み出した足を、踏みとどまらせる。

 違う。今は小鞠と話をしていたんだ。だから、この場から勝手に去るなんて。あまつさえ、あの人を追いかけるなんて。それは筋が通らない。


「行ってください」


 だと言うのに。向き直った先の小鞠は、至極穏やかな笑顔を浮かべていて。まるで心にもないことを言うのだ。


「でも……」

「私は、大丈夫ですから。だから、追いかけてください」


 なんでだ。違うだろ。大丈夫なわけがない。


「私は知ってます。いつも不幸だとか、ツイてないとか言っても、それでもあなたは、誰かに優しくすることが出来る人だって」


 俺だって知ってる。

 お前が、俺みたいなどうしようもないやつにも、小梅先輩みたいな面倒な人にも優しく出来る、凄いやつだって。

 誰かのために、なにかを為そうとすることが出来る、強いやつだって。

 俺は、お前のそんなところが──。


「私は、葵くんのそんなところが、好きですから」


 ──好きだったから。


「だから、白雪先輩を追いかけてください。葵くんが、自分の気持ちに嘘をつかないためにも」


 でも、もう遅い。

 俺の初恋は、自分でも知らないうちに始まって、いつの間にか終わっていたんだから。

 今、俺が隣にいたいと思う人は。一緒にいたいと願う人は。目の前の小さな少女じゃなくて、走り去っていった、面倒な先輩なんだから。


「……ごめん、小鞠」


 鼻の奥がツンとする。込み上げてくるものを無理矢理押さえ込んで、小鞠に背を向けた。

 振り返ることはせず、ただ足を動かす。あの人の行く先ならひとつだけ当てはある。

 あの空き教室だ。

 言い方を選ばなければ、学校内のあの人の居場所なんて、あそこしかないだろうから。

 途中躓きそうになりながらも階段を駆け上がって、息を切らしながらも辿り着いた第二校舎三階の空き教室。

 手をかけた扉は、しかし閉ざされたままだった。


「マジかよ……」


 思わずその場に頽れてしまう。我ながら体力のなさに辟易としてしまうが、それ以上に。あの人がここにいなかったという事実の方が、俺には大きかった。

 昼休みまではいつも通りだったはずなのに。三人で弁当を食べて、先輩が俺たち二人にちょっかいを出して。ありふれた平凡な、それでいて穏やかな日常が流れていたはずなのに。

 たったひとつ歯車が狂っただけで、全てがなくなってしまうのか。


「ツイてねぇ……」


 嘯いた言葉は白い吐息とともに、廊下に反響して消えていった。








 葵くんが走り去ってから、どれくらいの時間が過ぎただろう。体内時計は曖昧でしかなく、空の色も変わらず茜色のままだから、私はどれだけこの場に佇んでいるのか、それすらも分からない。

 本当は、行って欲しくなかったのに。あの人よりも、私のそばにいて欲しかったのに。

 彼にあんなことを言っておいて、私自身、決意も覚悟も決めておいて、結局は私が自分の気持ちに嘘をついてしまった。

 でも、私が好きになった男の子は、あんな顔をした想い人を放っておけるような性格じゃないから。


「どうして、私じゃないんですか……」


 口を突いて出た言葉に、ハッとする。

 それはきっと、ずっとうちに秘めていた醜い本音で。そんなもの、表に出したくなくて。

 だって、白雪先輩のことも、好きだから。歳上だけど、初めて出来た同性の友達だから。

 でも。でも、でもでも……!


「私の方が、先に好きになったのに……! 私の方が、ずっと一緒にいたのに!! なんで……どうしてなんですか……」


 一度溢れ出した感情は止まることなく、頬を濡らしてメガネを曇らせる。

 こんなに好きなのに。他の誰も考えられなかったのに。

 でも白雪先輩も、同じくらい好きで。頭の中がぐちゃぐちゃになって。

 ただ、どんな形になっても、三人でずっと一緒にいたかったのに。それでも私は、どうしても言いたくて。伝えたくて。

 好きだって気持ちが溢れて、胸が張り裂けそうで……!


「チョコ、渡したかったな……」


 ギュッと両手に力を込める。

 カバンの中に入っていた包みは、ついぞ陽の目を浴びることはなかった。

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