15 前夜


              ***

 

 地平線から半分顔をのぞかせた月が、蒼く大気を濡らしている。風はあるが、初夏の宵のように暖かい。基地の立つ高台からマキルとポーレの家が見える。赤ん坊の誕生を祝いに行って三日になる――

 最後の散歩に、と夕食後にドロシーに誘われた。マイケルは微笑んで二人を送り出した。ゆっくり歩いて坂道の手前まで来ると、ドロシーは振り向いてデレクを見つめた。

「どうしても行くの?」

 デレクは困ったようにため息をついた。

「すまない。約束したんだよ、娘たちと。今回に限って、家を出るとき泣かれてね。きっと何かを感じたんだろう…… 約束してきたんだ、きっと帰ると」

「あなたと結婚しようと思ったのに……四年間だけど、楽しい生活が送れるのに」

 デレクはどんな顔をしていいかわからず、辛い言葉を唇に乗せた。

「おれには妻がいるんだ、ドロシー」

んだ、でしょう?」

 デレクは無言のままだった。

 ドロシーはうつむいた。

「そうか。んだ、ここに」デレクの胸を指先で押した。「ごめんなさい」

 ときおり風が巻き、旋風となって鼻先をかすめる。もう〈花嵐〉が生まれている。それを知る惑星子ほしのこは、明日から〈花祭り〉を始める。惑星中の集落で、花舞いの勢いが緩むまでの三日間、歌と踊りが続くのだ。

 踊りの輪は今度が最大規模になる、とマキルが自慢していた。

 祭りを待てない者たちの歌声がする――


 世界中の若者たちがみんな

 船乗りになる気にさえなったら

 海にきれいな舟橋を

 かけることさえできように


 地球こきょうの古い詩が風に乗る。

「地球では夢物語でしかない詩でも、ここなら実現できるのね」

「ここは、種族を育てる牧場かな」

「……わたしたちは野蛮人。でも、わたしはここに残って、ここで死ぬ――いえ、皆と融合して循環する。次の宇宙のもとになる…… 明日は見送らないわ、デレク。そういうの苦手なの」

 デレクの目を見つめて、さよなら、と呟いた。背を向け、坂道を下っていった。

 星が強い光を曳いて流れ、夜空を切り裂いた。


 ドロシーは蜜樹ハニーツリーの林を抜けて、ぽっかり開けた広場に出た。

 黒い塊に崩れ果て、〈長老〉が死んでいた。

 次はどの樹が〈長老〉になるのだろう。ぐるりと林を見廻しても、まだ変化の気配もない。〈長老〉に成る樹が決まると、周囲の樹々は枯れ、新たな〈長老〉の樹に融合するそうだ。

 焼けたむくろの前に立ち天を仰ぐと、星々の散る漆黒の宇宙が落ちてくるようだ。

 あまりの壮大さに圧倒され、ドロシーは両腕を挙げた。基地の前に立つ地球人像のように。

 無辺の天蓋は悠久の時を想わせる。ふいに足元から大地が消え失せ、宇宙のただ中に放り出されたような錯覚にとらわれた。絶望的な寂寥感が襲いかかってくる。

 わたしたちは、なんて小さい。小さすぎて涙が出そうだ。宇宙の微かな変化でさえ、わたしたちを、ひと吹きで消し去ってしまうだろう。あまりにも弱くて、無力だ……

 寄る辺なさが神を求める。ヒトは、神を創り出してでも、祈らずにはいられないのだ。

 ごめんなさい。そう言えば、ゆるしてもらえるだろうか?

 ごめんなさい。地球人わたしたちは悪いことばかりしてきた。ごめんなさい。赦して、神さま、神さま……パパ……両腕を拡げてわたしをすくい上げて、お願い……

 目尻から溢れた涙が頬を伝った。

 腕を下ろす。目は星々の深淵を見つめる。地球こきょうはどの方角だろうか。

 明日、デレクは発つ。たった一人で。誰もいない、思い出だけしかない地球こきょうへ向けて。九年前に交わした家族との約束を守るために──

 なんて愚かな……でも、宇宙一ステキ。 

 胸が熱い。

 地球人は愚かだけど、こんなにステキだ。

 まわり道なんかせずに生きるっていう、すまし顔の惑星子ほしのこさんたち、あんたらには、こんな気持味わえるもんか。ざまあみろ。

 知らずに口元がほころんだ。

「デレクの、ばか」

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