13 横道


               *


 見る夢は快適だった。快適過ぎたのだ。目覚めたとき、ボブはいつも焦燥感に捕らわれる。巧緻な詐術にずるずるはまりかけているような……

 夢の街には懐かしい人たちが暮らしている。マイケル、デレク、ドロシーもいる。彼らを避けてボブは歩いた。

 見覚えのある角を曲がれば通学路があり、育った家がある。家の中には母親と、血の繋がらない弟がいるはずだ。だが、家には近づかない。オフクロには逢いたくない。逢ってしまえば、お互いが、思い出したくない過去に向き合ってしまうだろう。

 これで何杯目かわからなくなった。夜の居場所になったダイニングテーブルで、ボブは空いたグラスにバーボンを注いだ。みんな寝静まって、一つだけ点けた灯りの下、取り残された気持で酒を舐める。

 いきなり、あっ、と声を洩らした。昔を肴に飲んでいるうち、突然思い至ったのだ。

 〈フェッセンデンの宇宙〉――夜空のシールをめくってこちらを覗く男の顔。それが誰の顔か、今さら気づいた。あの男――

 いやらしい目をした男が昼下がりに家に来た。男が来る日は、小学校エレメンタリーが終わっても五時まで家へ戻るな、とオフクロに言われた。

 ――そうか。夜空からヌッと出てくるのを怖れたのは、あいつの顔だったか。

 子供時代の心の傷が開いて、血が滲むような気がした。

 両親は離婚して、父親は病死したらしい。くわしく訊くとオフクロの機嫌が悪くなるから、細かい事情を知らない。母子二人暮しだった。

 その家で、オフクロはを取っていた。夜、レストランへ給仕の仕事に出る時間まで――


 まっすぐ家へ帰れないおれは、弱いやつを苛めたり、虫を殺したり、万引きしたりして時間を潰した。雨の日は図書館にこもった。似合わぬ読書などを始めたのはそのせいだ。SFが好きだった。SFは、おれを遠い世界へ逃がしてくれた。

 オフクロが取っている客は一人ではなかった。噂は燎原の火のように拡がる。

 娼婦の息子。そう呼ばれるのはすぐだった。

 中学ジュニアハイに上がると早々に、おれはになった。にしてくれたのは、繁華街に通じる横道の街娼たちんぼだ。真赤な口紅のロージー。オフクロに近い歳だった。

 人通りのない朝の横道。そこにロージーは倒れていた。

 酔っぱらっていて、誰かに殴られた顔が赤黒く腫れていた。路上に散乱した商売道具を、おれは拾ってトートバッグに戻した。タオル、避妊具、潤滑ローション、性玩具……そのバッグを代わりに担ぎ、涙で汚れた彼女を支えてアパートまで送った。冷凍庫で保冷剤を見つけ、タオルを巻いて顔の腫れに当ててやった。その日は遅刻した。

 数日後、横道でロージーに会った。おれを待っていたようだった。礼をすると言われて家へ招待された。

 途中の店でケーキを選び、アパートの部屋で向かい合って食べた。彼女の卑猥なジョークに、おれは笑った。食べ終わると服を脱がされ、手を曳かれてベッドへ行った。

 おれは自分より弱い奴としかケンカしない。娼婦の息子と嘲られても、相手が強ければ言い返しもしない。

 戦い方はいくらでもある。正面から行くだけが能じゃない。

 おれは、時間をかけて、校内悪童グループのボスに取り入った。低脳ゴリラ。単純で扱いやすい。ロージーを拝み倒し、ゴリラをにしてもらった。下品な言い方をするなら、ゴリラとおれはになったわけだ。

 ゴリラはロージーに夢中になった。どうやって金を都合するのか、二回目から有料になっても通っていた。愛されてるおれはずっと無料ただだが、もちろん秘密にした。

 ボスが目をかけるは、ガキどもの間で無敵になった。娼婦の息子と呼んだ奴らは相対的に弱くなり、抵抗もせずおれに殴られた。そいつらをボロ雑巾にしてやると、以後、ナメた口をきく奴は誰もいなくなった――

 オフクロを軽蔑したことなんて一度もない。。夜中に、酒のグラスを握って泣いているのを見たことがある。

 昼はスーパーのオフィスに勤め、午後からをとる。夜はレストランで遅くまで働く。そうやって稼いだ金で、おれを大学まで上げてくれた。

 大学へ入学した直後に、オフクロが再婚すると言ったとき、おれは心から祝福した。相手の男の連れ子が弟になった。不安気におれを見る八つ下のそいつを、嬉しくて抱きしめたっけ。

 おれは、まともな恋愛をしたことがない。欲情すると横道へ行った。ロージーは引退したけれど、別の女たちが立っていた。金しか信用しない、正直な女たちが。


 ガクンと首が折れて我に返る。眠りの淵に落ちかけた。

 ボブは首を振る。もうちょっと起きていたい。夢なんかごめんだ。あんなホームドラマめいた偽善の筋書ストーリー

 昔を思うと、きまって大きな夕陽が浮かぶ。街のむこうに沈む夕陽が、その日の終わりを告げる。

 オフクロの命も、おれの命も、いつか終わる日が来るんだ――初めてそのことに気づいて、夕陽に染まって泣いた日を思い出した。

 夕陽が黄金色こがねいろに塗り替えた街のはずれに、小さな我が家がもの哀しく立っていた。

 思い出は黄金色こがねいろ……唇が笑う。

 またグラスに酒を足す。

 ロージー。真赤な口紅。たっぷりした躰に巻き付く網タイツ。あんた、最高だったぜ。

 ボブはバーボンを舐めながら黄金色こがねいろの回想の中をたゆたっている――気でいた。だが、いつの間にか、睡魔にさらわれて境界を越えていた――ニルヴァーナへと。

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