「三十分過ぎてる」

 ドロシーは席を立った。

 ボブは何も言わない。

「ごちそうさま。今夜もいい夢を見るわ。あんたもそうしたら」後ろ髪を引かれたが、ドロシーは部屋へ引き揚げることにした。

 残された男は、ダイニングの椅子にへばりついたまま、遠くを見る目をしていた。

 暗い自室へ戻ったドロシーは、闇を追い払うために、すぐに灯りを点けた。 

 肝の据わったことを言ったくせに、ニルヴァーナがもし願望が紡いだ個人の妄想にすぎないなら、ドロシーは耐えられない。

 上流の娘たちが集う私立女子校に、幼稚園キンダーからドロシーは通っていた。そこでは、彼女の周りに、ドーナツのような空気の輪がいつもあった。肌に色の付いていないお嬢さまたちは、巧みに輪の外から接してくれた。こちらがしばらく気づかなかったくらい上品に。ドーナツの柵の中で独り遊びをしていたと気づいたとき、彼女は屈辱に躰が燃えあがるようだった。

 家出する――ママを脅して、小学校エレメンタリーの途中で公立パブリックに替わった。ガラが悪いとママが反対する公立パブリックに。

 そこには、ドーナツの輪なんて上品なものはなかった。私立プライベートから転入してきたナマイキなヤツへのイジメは、ダイレクトにで来た。イジメられたドロシーはニヤリと笑った。なら。ケンカなら負けない!

 ハデな肉弾戦になり、関わった男女数名の生徒は父兄付きで校長室に呼ばれた。

 ママは嘆き、神に祈り、そして娘が嫌がるイヤミを言った。「血は争えないわね」

 乱闘した子供たちとは、その後、大人になるまで長い友人になった――

 他者が居て、交流してこその〈世界〉じゃないか。ドーナツに閉じ込められた一人芝居なんか、まっぴらだ。一人きりで億の年を暮らすなんて――恐怖に叫び出しそうだ。

 崩れ落ちる心を繋ぎ留めようと拳を握った。パパもママもに居る。たとえ98%が労働に駆り出されているにしても、2%でもきっと居る。わたしは一人じゃない!

 確かめようがないことは――不可知論は、救いなのか苦痛なのか。

 隣室から、ボクシングを観戦する脳天気な声が聞こえる。

 その夜、彼女は灯りを点けたままで眠った。


               *


 日が経ち、ポーレは産卵した。三個の卵が孵化を待っている。

 地球人オリジナルたちは美しい風景の中を散策したり、カードやスカッシュなど危険を削ぎ落とした〈争い〉に興じて暮らした。交代制の食事当番は現地食材の扱いに慣れ、メニューの数は増えていく。それとは逆に、ボブ専用の地球産保存食は着実に残数を減らしていった。

 そんな彼らに特別な関心も示さず、惑星子ほしのこの生活は秩序立って流れていた。

 〈花祭り〉というイベントが近い。〈長老〉を中心に作られた惑星中の集落すべてで、それは同時に催される。舞う花びらの下、輪になって歌い踊るのだ。

 惑星子ほしのこの平坦な日常は、祭りに向けて高揚するように、微熱を帯びていた──

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