09 弥勒
*
〈宇宙の種子〉についての議論が、翌日のミーティングで交わされた。
コンピュータの連想検索が拾い上げたデータは、ディスプレイを埋め尽くしている。
「ミロクボサツ」デレクは呟く。
「56億7千万年後に現れて人々を救済する――と予言された未来仏。弥勒菩薩。マキルの言う年数に該当する」マイケルが言った。
「56億年先とは、ずいぶんな約束だ。
「宇宙の余命についてはいろんな計算がなされていて、導かれる数字もさまざまだ。基点とする定理が異なるからな。ただ、近い数字がある――」AIが選択した論文が開く。「2010年にカリフォルニア大学で発表された古い研究だ。宇宙の終わりは平均値で53億年後と計算された」
「平均値とは?」デレクが訊く。
「確率分布だ」ディスプレイの確率密度曲線を示す。「56億7千万年後が事実なら、僅か6%台の誤差でしかない」
「それまでにニルヴァーナが〈種子〉を創り出せれば、ビッグクランチで宇宙が極小点に収縮したとき、新たな爆心になれる。〈種子〉はビッグバンで次の宇宙を産む……わたしたちの
「〈種子〉が弥勒菩薩としてイメージされたわけか。菩薩の掌で、再び輪廻が廻り始める」壮大さに、デレクは圧倒されるようだ。「古代の東洋の賢者には、はるか未来の〈種子〉が〈仏〉に見えた。時空を越えた遠隔透視なのか? 信じられない」
アトラクションの巨大迷路へ入場した客は、曲がるたびに現れる壁で先も後もわからなくなる。だが、高所から見下ろす監視員には、その道筋も構造も一目瞭然だ。そんなふうに、過去から未来へ巡る壮大な時空パノラマを、高次元から俯瞰できる者たちが存在するのか? 集合的無意識が人類の意識の底にだけ横たわるのでなく、あまねく宇宙の知性と通底し、そこにアクセスすれば
参照されるデータに対して、コンピュータは次々と関連データの枝を拡げる。
二十世紀後期に撮られたTVの取材映像が再生される。
サハラ砂漠に棲む少数民族――ドゴン族は、天文学が発達する以前から宇宙に関する知識を有していた。土星に輪があることや木星に衛星があること、シリウスを廻る星の周期を知っていた。先祖から伝えられた知識は洞窟の壁画に
ドゴンの長老は語る。「〈無〉に、突然〈宇宙の種子〉ができ、爆発して四方へとび散った。そして〈空間〉ができた」
宇宙の始まりについての伝承だ。アインシュタイン方程式がビッグバン理論を導くより、遥か昔から語り継がれた言葉だ。
はじめに〈精神〉があり、それが〈物質〉を創った。旧約聖書やインドの聖典〈ヴェーダ〉をはじめ、多くの神話はそう語っている。
旧約の神が意志を言葉にした瞬間、世界は産まれた。すなわち「光あれ」と。
〈ヴェーダ〉にある〈
ノーベル賞物理学者ジョセフソンは、「空間と時間は、精神から創り出された」と語った。それこそが、物理法則が立ち往生する〈はじまりの特異点〉問題を解決するものだと。
有機物でできた脳細胞という〈物質〉が〈精神〉を生む――そんな当たり前に信じていた事実が、覆されかけている。科学の盤石の基盤となる唯物論が揺らぐ。
コンピュータが連想提示するデータは、ことごとくマキルの言葉を裏付ける。〈精神〉が〈物質〉を生む――唯心論こそが基盤だと。
「ロマンチックなことだ。四年後におれはいないし、関係ないね」ボブが、固まった空気をほぐそうとするが、声はカラカラに渇いている。
「あんたも居るかもよ、〈種子〉の中に。NYの地下鉄みたいにギュウギュウに詰め込まれて。あんたみたいな悪たれも宇宙いっぱいに拡がるの。まあ、多様性は必要だからね」
ボブは、ヘッ、と笑った。「気に入らないな」決まりごとのように異を唱える。「思念って魂だろ。いい夢見せて、おれたちをおびき寄せて、ガブリと魂を喰うつもりだ。ニルヴァーナの腹の中で、おれたちは花火の火薬に加工されるんだ」
「だったらどうするの?」ドロシーは肩をすくめる。「舞台裏なんか見るもんじゃない。役者さんは化粧を落としているだろうし、せっかくのお芝居が興ざめよ」
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